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小泉義之『生殖の哲学』の一節「生殖の未来」で挙げられている作品で、ネット上で読むことができるものをクリップ。
■メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』
古典、すね。でも、「古典」であることの常として、ちゃんと読んだことがある人は案外少ないんじゃないか。おれは、あらすじを読んだだけで泣けてきた(やや誇張あり)。この作品おける「科学者フランケンシュタイン」の間違えについて、小泉氏の語るところは次の通り。
結局のところ、科学者フランケンシュタインはどこが間違っているのか。科学者フランケンシュタインの罪はどこにあるのか。私は、〈生物を人為的に作ろうとすることが間違いである〉とは考えない。そうではなく、〈正真正銘の生物を作ろうとしないから間違える〉と、〈生物を人為的に作りたいという欲望を諦めるから間違える〉と考えたい。
ちなみに、翻訳はこれ。他にも、各種エディションあり。
■サミュエル・バトラー『エレホン』
これも読まれてないだろうなあ。というか、サミュエル・バトラー自体、読んでいる人がいるのかいないのか。ただ、この書の中にある「もう一つの書」である『機械の書』はどうも必読くさい。たとえば、次のような一節。
人間の生命と機械の生命の違いは、種差がないわけではないが、種差というよりもむしろ程度の差である。
ただ、バトラーはここから、人間が機械の寄生物になる恐れがあるゆえに「機械の全面廃棄」を主張する。
翻訳はこれ。
■H.G.ウェルズ『モロー博士の島』
これは有名ですね。映画にもなってるし。しかも、数回(三回、かな?)。おれ一番最近(と言ってもかなり前)の邦題『D.N.A.』を公開当時に劇場に観に行ってるんだけど……って、関係ない話になってきちゃったな。えーと、で、これも「生物作成もの」ですね。翻訳はこちら。
■ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」
これ、これです。誇大妄想ともトンデモとも受け取られかねない、「サイボーグ・フェミニズム」。ただ、これはフェミニズムだの何だのといったこととは関わりなく、単純に題名通りのものとして読むべきだ。それが、フェミニズム的な観点から見ても有益だということは、結果に過ぎない。
現代世界は『悪』を仮想したい狂躁にかられるあまり、すべてを核の灰塵に帰してしまうような週末を迎えるかもしれない。けれども、だからこそわたしは期待するのである。サイボーグならば、そのような黙示的プロセスじたいを破壊できるのではないか、と。
翻訳はこれに所収。
今はそうは思ってはいませんし、まあ大分昔のことですが、この体が死んでも自分の脳だけ入れられる器があって、ハカイダーのような十分な運動はできなくてもいいから、あちこち見るためにそこそこ動き回る機能だけあって、それで、この世の行く末をいつまでも見つめられたら面白いだろうなと。
ちょうど、自分が「観念論的発想」から脱皮する過渡期でしたね。
自分に脳の知識が増えた分、脳を体から完全に分離するのは絶対に無理だとは思いますし、しかし、いまでも、ちょっとやってみたい願望なのかもしれませんね。(笑)
僕は、そんな人間ですから、別に、子供なんて、試験管を、プルプルと振り回してそれで簡単にできてしまうのなら、それに越したことはないだろうと思います。
ハカイダーの身体が、キカイダーより強いくらいだから、あくまで、本気で世界征服を目指し、つまりファシズムの頂点を極めようとし、そして、どこか、悲しさを漂わせるから、それはそれで、私の子供心に魅力的なキャラだったのでしょうが、ハカイダーと、私の言っている「あちこち見るためにそこそこ動き回る機能をもつ脳」 とは似て非なるもの。
指が自分の意思の通りに動く、手が自分の意思の奴隷のごとく動くという感覚を得るのが、精神>肉体 という発想を持ってしまう人間の弱さの根源だと論じたのは、ニーチェです。
ウヨクの人が、身体をやたらマッチョにしたがるのは、それは、肉体を精神の命令通りに動かせるのがこの上ない至福の快感だからです。
私が、かつてなりたかったのは、「あちこち見るためにそこそこ動き回る機能をもつ脳」です。
と、それはともかく、「脳を体から完全に分離するのは絶対に無理だ」とおれは考えません。十二分にその可能性はあると思います。ただ、その実現時期というのはおれらが死んじゃってから、とかかもしれませんが。
それはそうと、その理由付けはともかく(別に、原作たそがれ清兵衛さんが言っていることに異を唱えるというわけではなく、単純におれは、実際右翼にはマッチョ志向が多いのか、そして、その理由付けはかくなるものなのか、ということについて、判断するデータに書いているがゆえ「ともかく」、ということです)、印象としては確かに、右翼ってのは何か「マッチョ」っぽいイメージはありますね。反面、左翼は部屋に閉じこもりっきりで青白い感じがする(だから、あのヘルメットにゲバ棒というのが、一種異様ないでたちとして現れるのではないか、と思います)。別に、左翼だってジム通いとかしてムキムキになってもいいのにねえ(あ、おれはいやですよ。メンドイ)。
脳を完全分離するのは、将来「無理」ではないかもしれません。しかし、完全分離すると、それはもう自分の(あるいは人の)脳でなくなるかもしれない。しかし、それも面白いかもしれませんね。
なぜ、それも面白いかもしれませんと思うかというと、実は、極論して、自分には、精神も肉体もどうでもよくて、それで、欲しいのは結局「思考」なんだと思います。
多分、脳を肉体から分離すれば、別の思考を有する脳が生まれる、それも、経験してみたいなとちょっと思いました。
「生そのものを愛する」とは、「生殖や、生の再生産を愛するもの」とは似て非なるもの。しかし、私が言っている「思考を愛する」は決して、「知を愛する(=哲学の語源)」と同じような意味でもないと自分でも思うのです。それは、ちょっとというかかなり「生そのものを愛する」に近いような気がします。そこには、別に、ポリシーもなければ、特段、強い主張もない。しかし、自分を決して、世界の中心に据えずに「あれや、これやと 思考してみる」というそういうような感じの世界です。
キカイダーやハカイダーのような強靱な鉄の体が欲しいというよりも、精神>肉体という感じの人が近づいてきたら、スルスルと逃げてしまえる容器が欲しいですね。
私の脳が、ちょうど宇宙戦艦ヤマトに出てくるアナライザーくらいの容器に入っていて、それが、すーっと、変態的なやつが近づいてきたら、瞬時に高速で移動できる ってそんな感じがいいです。
精神>肉体という感じの人がきたら、戦うのは、メンドイし、やっぱ、さっと逃げちゃうのがいいです。ちょっと、発想が浅田彰しているかな?w
別に、壊すという失礼なことをしなければ、神秘の中に自分の思考の人口の巨塔がそびえたっても良いのではないかという感じです。
そこでは、自分にとっては、「主体」や「自由」もおそらくどうでもよくなる。
「主体」や「自由」をめぐる堂々巡りの思考、これを、人は、何百年もやってきました。
しかし、「脳」を「肉体」から開放したとき、この問題の終止符が打たれるのではないかという気が少ししてきましたね。
僕も、キメラ造りは賛成です。ただし、自然を壊すという失礼なことをしなければという条件がつきますが。そして、キメラの本当の正体は、「思考」なんだと思います。自然と人工の合体ではなくて。
何を言っているか、意味不明ですか?
実は、自分での、ちょっと意味不明だなとも思うのですが。(爆)
で、脳をそれだけ自立させた生命体を前提にすると、精神/身体、主体、自由、そして経験という諸概念はどういう影響を蒙り、そこからそれら諸概念について何が言えるのか、ということはちょっと色々考えるべきことがあり、今ちょっとべらぼうに時間がないのであとで少しでも時間ができたときにレスします。申し訳ありません。
オンライン読書会のたそがれさんの話を拝見して、「感覚の束」というのはいかにもヒューム的なんですけど、アルチュセールでいくと「ある」というのは「なる」だとすると「分節的統合」である、脳で言えば脳単体の機能ではなくあらゆる身体的感覚の束、一種のフィードバックループだと考えた方がいいんじゃないかと思ったりします。ほとんど妄想なので知のギマーンっていうのはしばしご容赦。
で、ハカイダーには感圧センサー、加速度センサー、温度センサーやジャイロが無数に付いている、目の代わりにCCD(じゃ応答遅いか)とか、その信号をいきなり脳幹にぶっ込むわけにはいかないから、バッファかまして信号レベルを調整、遅延させたりフィルターでマイクの特性を人間の耳に..いや、その前にまずエミュレーター通して脳が理解できるコードに変換しなくちゃいけない、だったらI/0だけでCPU一個持たせるか、いや一個じゃ無理か、そうすっと応答性からリアルタイムOSってことでLinuxやWinは問題外やっぱTRONかな、とあれこれ妄想したりするんですが、妙に楽しいです。
ほとんどの臓器移植が非常に困難極めるのは、「他人の臓器が体内に組み込まれただけで」それで、異物の進入と脳が認知してしまい、その臓器を脳が攻撃しちゃうからみたいですね。ちょっと、知識が不確かで恐縮ですが。
それほど、脳とは自分の身体のデータをしっかりと覚えてしまっているというか、密接な関係を持つ臓器なんだと思います。
だから、脳は、身体を完全に分離すると「本当に発狂してしまう」と思うのです。精神的な病とは、何の関係もない意味で。
ここで、書かしていただいていた内容は、完全に私の妄想の世界です。
でも、いや、それなりのマシンの体も(というか「を」)持たない脳だけの人間って発想を私は、考えたこともなかったです。しかし、それも、とてもとてもおもしろそうですね。
できれば、やってみたい。(笑) こちらなら、発狂しなくて済むかも?って、思いました。
ドゥルーズの思想が喜びに満ちていると、少なくとも、なぜはやしさんと私は感じてしまうのか、そこは、是非、今度お会いしたときにでもお話ししてみたい内容ですね。
確かに今の脳科学だと人体実験まがいの事をしなくても、行動、思考、感情の遷移と脳の部位毎の血流密度の相関を非接触でスキャンし解析できる、「脳のはたらきが解明されつつある」と言われています。大森さんは死んじゃったけど生きていたら「そういうのは『はたらきがわかった』とは言わないんだ」とおっしゃるんじゃないかと。もちろんそこを哲学の「最後のアジール」にしようという気はありませんが。(笑)大森さんの弟子?でもある廣松渉が『新哲学入門』で「近代的主体なるものは『脳内』で世界が映ったモニターを見ている「小人(こびと)のようなものだ」みたいな事を言っていたと思いますが、そこまで言うと易きに流れすぎという気もします。
近代が成立する前(ざっくり言って、デカルト、ニュートンの時代以前)も、自分と他人との区別という認識は、誰も彼もが持っていたはずです。人間より低次元の脳を持つ犬や猫でも、自らと、他の犬、他の猫とは違うのだってのは、認識していると思います。
さて、近代になって、急に論じられだした「主体」なんですが、これ、一体 なにぞや?
私流の解釈ですが、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ を あえて論じなければならない 私 です。(単なる「私」という感覚は、人なら、何千年、何万年も前から持ち合わせていたと思います。)
まず、ヒトが(近代、近代以前に拘わらずに)他人とは違う「私」という感覚を、脳を持つことによって生じているのは、まず、間違いない。
次に、「私」に、近代において、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ を勝手に論じだしてか、論じる必要が生じたのか分かりませんが、それで発生したのが「主体」です。
自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ を論じる必要が生じたのは、「神の消滅」に関係しているのでしょうし、また、その「神の消滅」度合いの進捗に従って、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ を論じる度合いが、どんどん大きくなったって思います。しかし、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ を論じる必要が発生した 理由が、神の消滅だけなのかというと、それだけでは決してなく、かなり複合的要因があると思えるのですが、しかし、まだ、私の頭の中で全く整理がついていません。
近代以前から、人の脳は 自/他の区別を持っていたのだから、自/他の区別が無いと認識する一元論、あるいは、哲学的に思弁を通じて自/他の区別が無い結論付ける一元論ってのは、全くのナンセンス ってのが、私の発想の根源にあります。
脳で考える「人」には、二元論(あるいは、あと多元論)しか、ありえないと思っているのですが、これって「ト」なんでしょうか?
東洋系の発想によくあるパタンだと思っているのですが、思弁的に一元論を導入して、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ から人を解放しようとするものがあると思いますが、これは、本末転倒だと思います。自/他の区別ってのは、大古の時代からあったのだから、成立しえない一元論を思弁的に導入して 自由 とか 責任 とか 社会における位置 から 人が開放されるとするのは、おかしい。
自分で突っ込みますが、この発想は、近代以前、それも紀元前からあったんですね。すると、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけ を論じる必要は紀元前の人も感じていたということになる。それじゃ、なんで、西洋人はデカルト、ニュートンの時代の頃から、主体を論じる必要が生じたのかというと、それは、それ以前は、キリスト教が思考をあまりにも支配していて論じることが、一般ピープルには許されなかっただけなのでは?って思っています。ただし、仕事が思弁的に神を論じることだった神学者は、自由 とか 責任 とか 社会における位置づけを十分、意識していたんだと思います。)
だから、強烈に「主体」を認識する、あるいは、意識する というのは、倒錯じみてはいるとは思いますが、結局は、自/他の区別が存在する以上、思考はなにがしかの「主体の臭いのする発想」からは逃れ得ない。
で、また、人は、「主体」が、「自由」が 「責任」が 「社会における位置づけ」が・・・と人は延々と論じるわけです。そして、逃れ得ない「主体の臭いのする発想」をどんどん強化すると、どんどん「「自由」が 「責任」が 「社会における位置づけ」が・・・」って議論が強化され、またそれが「主体の臭いのする発想」をどんどん強化していく、ってのが近代特有の倒錯だったのだと思います。
僕が、ドゥルーズが好きなのは、その悪循環から、どこか開放する何かを語った人だったて感じがするからなのです。(勿論、ドゥルーズをいくらよんでも、自/他の区別がなくなりはしません。もし、無くなったと言われる方がいたら、私は、病院に行くことをお勧めいたします。)
で、人間から脳だけ分離して、それを何らかのかたちで外界との聯関を保てているものを「人間」と呼べるか、というと、ぼくとしては、別にそう呼びたければ呼んでもいいけど、さらには、とりたててそう呼んだり、それを「人間」として捉える必要はないのではないか、と思っています(もっとも、脳だけを分離し、それへ各器官の対応機器をアタッチして、以前の「人間」であったときのフィールを維持する、というのも課題としてはありでしょう)。
また、原作たそがれ清兵衛さんの「脳とは自分の身体のデータをしっかりと覚えてしまっている」というのは、ユクスキュル的な言い方をすると、「身体込みの認識」というのは、その身体を通じて「環境世界」を受け取っているわけで、その「環境世界」を保ったまま脳だけ分離、ということになると何重かの工夫が必要になると思います。
何にせよ、脳がらみのあれこれに関しては「分かってきた」程度であって、「分かった」ではなく、色んなパラメータの相関なども不確かなので、まだまだ科学者にもやることはあるし(当たり前)、逆に、哲学的な文脈に話を持ち込む場合は、最低限の実験データとの整合を取りつつ(ここが重要)、こちらもまだまだ面白い展開ができるはずなので、両者ともがんばれがんばれ!ですね。
みんな、「主体」「主体性」って、何気なく言っているけど、ほんと、この概念って、厄介というか、すくなくとも、ちゃんと哲学勉強したことない私にとっては、本当に、どこから発生して、いまいち何を指しているか、はっきりと分からないってのが、実感なんです。はやしさんが、ずっと哲学を勉強されてきた中で、「主体」「主体性」って何かを簡単にでも、ご解説頂ければ、とてもとてもありがたいです。「主語」ではない、「主体」って何をさしているのか、教えていただければありがたいです。それから、「主体」って発想は、本当にデカルト以降しか存在しないのか、その辺りも教えていただければ幸いです。
なにか怒られているようなので、この場をお借りして。
渡辺哲夫を引っ張ったのは色々文脈があって(逃げ腰)、渡辺さんの言っているのは「過去」でしょう。大森さんで言えば過去とは言語的な「過去物語」でしかない。たとえば「わたしーはー昨日ーステーキーをー食べた」ということで、それをいくら繰り返しても「口の中には味のない唾が湧くだけだ」、記憶というのはハードディスクにあるデーターをジオメトリ情報を介して読み出すのは違う。「この今、只今、まっ最中」において過去を想起することであり、「今ならぬもの」との差異として立ち現れるものだと思います。つまり渡辺さんの論は「生成が生成する」といった循環論法(が全部ダメと言ったらそれこそ論理の否定になりますが)で全然「説明」になってない、ハイデガーを読んでるみたいですが、あれではじぇんじぇん駄目だと思います。で、わたくし的は「却下、次!」で終りです。当然たそがれさんの書いておられることを読めば、ベルグソンやニーチェに行くわけですが、いかんせん私は半齧りで物申すような知見はないのです。で、ほとんど他力本願で渡辺問題は置いて(笑)はやく本題にいかないかな、と思っております。すいません。
(そういえばニーチェと言えば食い付く人は...って呼んでいるわけではありませんのでお間違いなく)
はやしさん
大森さんも「思考実験」と断っています、なにせ「無能論」なので。大森さんに憑依したのはその前に別のものに憑依していたから...って理由にもなりませんが。
ニーチェを全部逆さまに読んでいる人へのバルタン星人さんの突っ込み、大変楽しく読ませていただいています。
あの私の読書会の自分のコーナーなんですが、あれは「自分がそのときそのとき思ったことをメモ代わりに書きとめているもの」で、別に、本気で議論しようとかそんな内容でもないです。しかし、何らからのコメントを頂いたら、そりゃ、礼儀として、それなりのお返事は書かせていただきますが。
まあ、そんなもんです。所詮は。
それで、ここで、「バルタン星人さん、はやしさん・・・」って書いたあの件は、本当の本当に、一度爆撃して欲しかったんです。というか、ほんと、私は哲学かじっただけでの、「もぐり」なんです。まあ、ニーチェを(ニーチェ自身が、「ほとんどの人は俺を逆さまに読む」と言って死んでいった言葉の通り)全部逆さまに読んでいる人よりは、少しはましだろうとは思ってますが。
渡辺哲夫ですが、こりゃ、まあ、ほんと、あきれ返るほど無責任でいい加減な医者だと思います。しかし、こんなおっさん以外にも、フロイト色ゼロでも、「吉」医者には、いい加減なのが仰山いるし、凄い、金儲け主義者も仰山いる訳で、そいつら、まとめて、「世に問う」というのが、将来、私のやりたい夢の一つなんです。
「世に問う」には、ネットでくちゃくちゃやっていても、何の効果もないわけで、というか、ネットでくちゃくちゃやっているのは、ほんと、マスターベーションで、世間に何の影響もないですよ。
しかし、世間とは、社会的に認知された人の意見には、それなりに耳を傾けます。しかし、叩かれ出したら半端で済まないですがね。
世間はネットの意見に耳なんかぜーんぜん傾けてくれないですよ。
だから、ニーチェを全部逆さまに読んでいる人が何といおうと、「それなりの社会的ポジションを確保する」ってことには、僕は、興味があります。
しかし、それは現時点でできるかどうかは、全く不明ですが、ちょっとした明かりがさしてきました。それは、僕と共同戦線組んでいる「もうひとりの吉」が、本当に、世に出る可能性がなきにしもあらずという実績をあげだしたからなんです。
「主体」「差異」の話なんですが、ニーチェを全部逆さまに読んでいる人から、「出来事」「出来事」って耳にタコができるほど聞いたけど、「差異」って、ほんと聞いたことないなあ って思って、一度時間があったら、「差異」について、はやしさんとバルタン星人さんと、ゆっくり話しをしてみたいな ってふと思っただけのことです。「差異」って何って問うて、今すぐ、はやしさんや、バルタン星人さんと、対等に議論ができるとは思っていません。なにせ、ここ数年哲学書はおろか、極端に読書量が少ないんです。いそがしいので。
しかし、これはカイシャやめることができたら、本当に、じっくり考えて、やってみたい議論の一つであります。
これを唯物論という日本語にすると、<物質的な豊かさ>の影で<精神的な貧困>ってな具合に、文系的でジャーナリスティックな話題となる。しかし、物理主義と解釈すれば、網膜からの画一な光学的刺激(原因)が、なぜ脳によって豊穣な解釈(結果)をほどこされるのかとゆ〜謎になる。
よくわかんらんのですが…勝手に推測すると…わが国の哲学系統では、行動主義・実証主義的な考え方(観念論ですね…)と物理主義的な考え方(実在論に親近性)が、同居するケースがあり、分析哲学系とマルクス主義が案外共同したりした気がする。
オイラの感想では、政治的・マルクス主義的な<物質主義>と、現代科学の<物理主義>は、まったくことなったカテゴリーだと思うので、次元の異なった唯物論の整理がまずは必要だと思う。そして、次にくるのが実在論とは何か>とゆ〜問題なのでは?
ほいで、「差異」について、ですが……これは下手に語りだすと、おれの「真性ポモ厨」っぷりが発揮されてしまうので……ちょっと手が空いたら『ベルクソニスム』の読書を復活させたいと思うので(おれは、時間はかかってもやりぬく性質ですよ!)、またそのときにでも。
それはそうと、確かに「物質的な豊かさ」の対になるものとして「精神的な貧困」ということがクリシェ的に言われもしますが、なぜこれらの命題が双対として言われるのか、実はよく分かりません。これらの命題は必ずしも排反的なものだとは思えないのですが(というか、むしろ、物質的な豊かさと精神的なそれとは、ある意味正比例の関係にあるとさえ思う)。
ところが、物理主義とゆ〜観点にたつと、原子とか分子なんかの史的展開は…理解しがたい。確かに分子崩壊や核融合や分裂はありますが…。クワインの唯物論やポパーが「唯物論の自己超越」という場合は、こちらの意味ですね。
さて、オイラがマルクス主義系の人達に、もっと丁寧に解説して欲しいのは、唯物論vs観念論という図式です。おそらく、この図式ってレーニンのマッハ批判に端を発してると思うのですが、まともな解説をしたヤツをオイラは知らない。知らないどころか、「おまえ本当に理解してるのか!」といったレベルが多いのでは…。レーニンを直接解読したほうがいいだろうか?
科学哲学的な文脈でいえば、マッハはなによりも(制度としての)科学哲学の創始者であり、西洋哲学史的な文脈では、中世普遍論争における唯名論サイドの現代バージョンなので、実在論との対比として理解できる。個人的に、オイラが整理しきれてないのは、同じマッハを批判するサイドである、マルクス主義的唯物論と科学哲学でいう実在論との関係なんですね。
それで、マルクス系論客のマッハ論としては、おれは廣松渉のそれぐらいしか知りませんが、あれはどんなもんでしょう? 何となく、それなりにまとまだったかなあ、という覚えはありますが……要再読。あと、マッハを批判する科学哲学的実在論とマルクス主義的唯物論の関係、これは「実在論」と「唯物論」というその内包だけを見た限り、あんまり共闘できそうもないだけに、この両者がどういう関係に立っているのか、というのはなかなか興味深い問題です。何か解説論文とかありそうだけど……ないんですかね?
お初で失礼します。
アルチュセールが晩年にカントを引張って「『哲学という戦場』では観念論、唯物論はお互いにその陣地に敵の領野を持つ」みたいなことを書いていますし、レーニンも「洗練された観念論は出来の悪い唯物論に勝るんだ」と言ってますが端的に言ってヘーゲルだと思います。「帝国主義論」の執筆の為に「大論理学」読んでますし。
観念論と唯物論がはやしさんの言うクリシェ的になりうるのか、エラソーに言えば問題構成に対するカント的な吟味が必要じゃないか、「マルクス護教」という非難をあえて引受けると「政治的な唯物論」ってのはフランス唯物論=社会主義みたいなやつで「経哲」「ドイデ」を見るとマルクスは「幼稚である」「粗野な共産主義」とか結構バカにしています。マルクスのいう「物」というのはそれこそ即自ではなくへーゲル経由の対自、あるいは即かつ対として捉え返されたある意味で「観念論的」なものだと思います。
「唯物論と経験批判論」については訓詁派内部でも侃々諤々、当時のマッハ的マルクス主義=プレハーノフへの対抗的言説、
多数派工作の宣伝ビラといった事情も忖度せねばならず非常に六ケ敷い。などと御指摘のマッハ/廣松刷込み丸出しの戯言でお茶を濁しておきます。
たそがれさん
上記の話を引継ぐとポストモダン的文脈だとヘーゲルを抜いてマルクスを読んでいいんだ、みたいなのがあるんじゃないか。もちろん当時だとその辺は物凄い緊張感があって言ってたと思うんですが、その辺の由来が忘れ去られて「ニーチェ的なマルクス読解」なんて物凄くトリッキーな話が前提なしでポンと出てくると私のような訓詁派は「なの、ありかよー」って違和感消えませんです。
弁証法というのは使い始めると実に便利なものでやめられなくなる、それこそたそがれさんのおっしゃるように全部否定すると論理自体の否定になっちゃう。「なんで差異の話が出ないんだ」に関して言えば「マルクス、マルクスと言いながらなぜヘーゲルの話が出ないんだ」、それだけじゃねーぞというのは承知の上で「差異」「生成」はまず即自的にアンチ・ヘーゲルじゃないかと思うんですが。この辺は完全に思い込みの世界ですが、たそがれさんの「後期ドゥルーズ」への違和感と多少なりとも重なる話か全く違うのか、個人的に興味があります。
バルタン聖人さん、これは、「弁証法に対する大きな侮辱である」とは思わないでください。
あくまで、「非弁証法家」を自認されている「弁証法家」「らしき」人に その支離滅裂さに気づいていただくための比喩として言っているだけですので。
って言っても、「主体」の話を見てもらったら分かるように、私も、その御仁とは、50歩100歩、目糞鼻糞を語るの世界であります。
実は、自分を「もぐり」「哲学を語る資格がない」といつも言いつづけているのは、これは、カントも、へーゲルも、マルクスも、ほんとかじった程度で、はっきり言って何も勉強してないんです。私のカント、ヘーゲル、マルクスの理解なんて、ちょうど、「非弁証法家」を自認されている「弁証法家」「らしき」人が、数学のお話をされるみたいなもので、極めてトンチンカンだと思います。従って、カント、ヘーゲル、マルクスに関しては、一切語る資格なしであります。ゆえに、基本的に、いつも皆さんの議論に耳を傾けるだけで、勉強させていただいております。
私は、結局、ニューアカかぶれした、本当に「哲学を消費した」人の典型であります。
しかし、実践というか、実用の面で、ニーチェや、ドゥルーズが、自分をへこませずに支えてくれたのは間違いなく、つまり、はやしさんがニーチェやドゥルーズを哲学書として読んだなら、私は、おそらく思想書(一種のアジテーションの書)として読んだのだと思われます。アジテーションに喜んで、また、きっちりした理解、議論を放棄しているのは、これまた、「弁証法家」「らしき」人そっくりであります。
だからこそ、バルタン星人さん、はやしさんに、私の先の書き込みに対して一度爆撃してもらうのをお願いしたわけです。
後期のドゥルーズへの違和感は、弁証法どうのこうのとういう話でなく、藤崎さんや、はやしさんが、フランス哲学全体に「数学や、物理をわざわざ使って、ごにょごにょ言うのは、やめよう」というのに似ています。
ドゥルーズには「生成」「差異」といった視点から、「生物の未来」を見据えた視点が、前期から溢れかえっていて、それを「生の喜びの思想」と私は読んだわけですが、後期になると、ちょっと、やりすぎだよ、前期での書き方くらいでいいのじゃないの? って感じです。しかし、前期の著作読んで、このおっさん、頭いいなあ、ちょっと先ですごく脚光を浴びるまだほとんど無名のテリトリーを読みきって書いてたんだと、それは、感心させられています。
明示的におれはあんまり「クリシェ的」にこれらの概念を纏めてはいないはずですが(「クリシェ的」と言ったのはあくまでそれらに関する、しかも藤崎さんの言う「ジャーナリスティック」に捉えられた場合のごく一部分についてであり、さらに、これがどれぐらい正鵠を射ているかどうかはまた別の話であることは論を俟ちません)、しかし、いったんは「クリシェ的」に纏める必要がある、とは思っています。というのも、たしかにイデアリズムにせよマテリアリズムにせよ、各論者の言い分はそれぞれでしょうが、そうした論者たちの言う「微妙な差異」に拘っていてはほとんど泥沼な平行線が続くだけでしょう。もちろん、「神は細部に宿る」で、そうしたイズムの要諦は、まさにそうした微細な部分にある、ということも分かるのですが、そうしたことを議論するためにも、まずは「戦場」の地ならしをするべきではないでしょうか?
ヘーゲル〜マルクス系の哲学話は、構造主義(含ポスト)の理解と同様、20年以上も前に挫折しているのですが、45歳になった昨年あたりからもう一度オイラなりに、なぜ理解できなかったのか?を考えています。
…で、やっぱマルクス(主義)的唯物論の問題は、<オマエサンのいうモノとは何かをはっきりせい!>とゆ〜ことだと思います。ここで<即自的><対自的>なモノって言われると…オイラはまったく理解不可能になってしまいます。少なくとも英語(あうんじっひ!ではなく…)では、どういう意味か知りたいわけです。
無理やり頭脳を回転させて、眼前に広がる常識的な物体を<即自的>なモノと解釈しちゃうと、<対自的>なモノって具体的に何?と質問したくなります。
ここで、<対自的>なモノは、直接経験では知覚できないので、<具体的な対応物>の提示を要求するオイラが、文章読解力とないアホとゆ〜ことになります。このグレーゾーンが、明晰性を要求するオイラとは対照的に…わけわかんない文芸評論家とかが活躍する場となるのでしょうかねえ?
しかしながら、科学哲学/史の分野では、<対自的>だったモノが<即自的>に変貌した事例が存在します。それが<原子>の存在です。原子の存在を、直接経験の不可能性(つまり、原子は即自的ではない!)から徹底的に批判したのがマッハでした。ところが、ボルツマンは分子運動論から、原子の存在を間接的に実証しました。これぞ<対自的>なモノの典型例ではないでしょうか?
それでは、その後どうなったか?といえば、さらに原子構造の詳細な研究で、素粒子とかなんやかんやで…物質概念はどんどん塗り替えられていったわけです。
ここで、哲学的にどんな対応が可能かとゆ〜と。一つは、なん〜だ物質の基礎って何もないんだ!という観念論のニューバージョンです。この辺りが、相対主義なんかと結びついたのかなと思っています。
オイラはポパー派なので、この種の進化は、<認識の深化>でもあって…ワレワレの常識である唯物論が自らの理論を進化/深化させたと解釈するわけです。これ…まさに認識のアウフヘ〜ベンです。
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