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最近フーコーの講義録をぽつぽつ読んでいることは、このブログを定点観測している方は夙にご存知だろうが、どの講義録(と言っても、フーコーの講義録の内おれが今現在所有しているのは、1976年度の『「社会を守らなければいけない」』、1978年度の『保安、領土、人口』、1979年度の『生政治の誕生』、そして1982年度の『主体の解釈学』のみ)を読んでも強く思うことは内容に関わることではなく、「えらい読みやすいなあ」という形式面に関わることだ。
よく知られるように、(『性の歴史』以前の)フーコーの文体というのは、たとえて言うと、粘液質ではない液体を分泌するナメクジが、扱う事象の上をのったらのったらのたくりまわり、そうしてそれら事象に付着した液体がじわじわとそうした事象を「文」に分解していく……といった体のものだった(余談だが……某浅田彰は島田雅彦との対談の中で、「こういうと嫌味になるかもしれないけど、フーコーは原文じゃなきゃ読めない」と言っていて、それ以外にも件の本には「嫌味」っぽい発言がてんこ盛りなのだが……それについてはまた今度)。だから、決して「読みにくい」というものではないにせよ、どこか読み手を選んでしまうようなところがあるように思える。それが、これら講義録に見られる明快さ、簡潔さ、ストレートさはどうだ。
もちろんそれらが、様々に異なるバックグラウンドを有す聴衆に向けて(これら講義が行われたコレージュ・ド・フランスは、聴講に際して聴講者の選別試験等はなく、原則だれでも聴講できるというものである……が、これは人から聞いただけの話なので、実際の参加手続きについて詳しいことは知らない)口頭で述べられたものの記録、という事情も、そうした「一般的に言ってリーダブル」な文体に寄与するところ大、ということもあるだろう。しかし、1970年に行われたコレージュ・ド・フランス教授職への就任講義『ディスクールの秩序』は、ほとんど「まんまフーコー節」なので、それに続く何年かの講義も、ある程度「書かれたもの」の文体を引きずった感じであったであろうことが推測される。
これまたよく言われることなのだが、「講義録」という「話されたこと」のみならず、「書かれたこと」である著作についても、『性の歴史』以前とそれ以後では、こちらが受け取る印象が大分違う。それは、モデル論的に言えば取るに足らぬことであり、「どういう風に」言われようと、その「言われること」は変わらないのだから、どうでもいいこと、とも思うのだけど、やはり気になる、というか、「なんでかなあ」と思う。
その「なんでかなあ」という部分を、フーコーの「内面」といったものに頼ることも、それらが書かれ、話された「状況」といったものに頼ることもなく、あくまでその形式面に着目し、ある程度定量的に「ね? 違うっしょ」と言ったことを示してみたいなあ、と思うのだが……。
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