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やばい。色々やることあんのに。
つか、風邪ひいた云々以前に、ブログなんて更新してる場合ではないんだけどな。ま、それはそれ。にしてもダルイ、というか、喉が痛い、というか、咳が出る、というか、首筋から盆の窪を通って頭の芯に至るまで、ウレタンが詰め込まれたような感じ。一言で言えば、頭が重い。関節も痛い。切れ切れの思考。自動筆記状態。ってのは嘘だな。十二分にコントロールされ、「それ風」に見えるよう、装ってる。いや、そんなことないか。とはいえ、自分ではある程度その運筆に気を配っているつもりでも、そこをすり抜ける何か、ってのはあるしね。それは、調子が悪いとか何とかってこととは別に。でも、体調が優れないときってのは、「思考の弁」の開け閉めってのが妙な感じになったりする。たとえば、ファインマンによれば(と、とりあえず人の体験談ということにしておこう)、草吸ったときって、何だか何もかも混乱して、何も出来ないような感じになるけど、実際に色々やってみると一つとして出来ないことはない、って具合らしいけど、ちょうどそれの逆、みたいな感じ。主観的には全然普段と一緒、みたいに思ってるんだけど、その実、微細なところが決定的に狂ってる、というような。ま、それもどーだっていいんだけどさ。要は、研究計画なんだよね、研究計画。ほんと、どーしたもんかなあ、と。やりたいことが何もない、ってわけじゃないんだよ。むしろ、その逆。色々とやりたいこと、気になることが目白押しで、それを包み隠さず「あれもこれもやりたいんです!」って宣言すべきか、それとも、とりあえず一所に焦点を合わせて、「これ一本です!」と一途なところを見せるか、って、そういう問題。まあ、そもそも、「これ一本!」ってパターンは苦しいかな、ってこともあるんだけど。つーのも、ほら、おれ別に今までCSプロパーじゃなかったわけで、それほど1つのトピックを深く掘り下げていくっていう付き合い方はしてこなかったんだよね。おい、お前、研究するのにそれじゃあダメじゃん、って言われるかも知れず、そして、そう言われるのもむべなるかな、でもあるんだけど、楽天的に考えれば、「部外者だからこそ出来ること」ってのもあるはずなんだよね。たとえばおれは、今までどっちかって言うと、というか、もっぱら思弁色が強いことをやってきたわけだ。ということは、裏を返せば、実装とかとの関わりってのはあんまないわけで、そういう工学的な限界とかはよく分からない。それゆえ、理論的にけっこう無責任なこととか考えられちゃって、それは場合に拠れば、ほんっと端からムリなことであって、それこそ「考えるだけムダ」ってことかもしれないけど、翻って考えれば、科学なんてのはそういう「ムダ」の上に築き上げられてきたわけで……いかんいかん、いくら何でも話が脱線しすぎな方に向かっちゃったな。それで、そういう「無責任」な考えの一端として、たとえば、量子コンピューティングと人工知能、ってお題はどうよ?って、さっき苦し紛れに考えたりもしてたんだけど……どうかな? いや、「どうかな?」だなんて聞かれても、どーもこーもないだろうけど。とにかく、そういう「量子計算と人工知能」ということに関連して、それほど「トンデモ」っぽくない進み方で言えば、量子計算ってのは今までの計算と比べると、ほんと「桁違い」のパワーがあるんだよね。たとえば、詳細は忘れちゃったけど、500桁の数字を素因数分解するのに、古典的計算だと大体50億年ぐらい平均でかかるんだけど、これが量子計算だと2秒で終わる。そういう、箆棒な計算力を総動員して、解の探査空間とかも「がっ」と拡げて……って風にすれば、今までのパラダイムをそっくり量子計算風に焼き直すだけで、かなりのとこまで行くんじゃないか、って気がするんだよね。ま、問題は、そういうコーディングをどうするか、とか、安定性はどうなるんだ、とか色々あると思うけど……。で、それよりも「トンデモ」度が高い、量子計算と人工知能の関わり方ってのは、その考えの骨子だけを素描すれば、人間の脳ってのも畢竟量子的過程に則って動いてるわけで、その「脳で起こってる量子的過程」ってのを、外部に持ち出して、量子コンピュータ上に実装すればいい、という感じ。まあ、自分で言っといて何だけど、穴が多いよね。まず、確かに脳は極微レヴェルでは量子的過程に則ってるかもしれないけど、それを言ったら、ミミズだってオケラだっての世界なわけで。だから、脳にとってその「量子的過程」がどれほど諸々の認知機構に関与しているのか、ということを、まず示さなきゃならない。これだけで一仕事。しかも、これってあんまCS固有の領域ではない……。でも、それこそ「インターディシプリナリ」っつーんですか? そういう学際的なプロジェクトとかで、神経科学とか認知科学とか諸々巻き込んで、ってことでもいいわけだし……。まずは、CSの方で、ありうべきモデルを提唱して、それを神経科学の方で検査してもらうってんでもいいし……って、書いてて「やっぱ飛びすぎ」って気がしてきた。うーむ。ま、CS系の人とちょっと相談してみます。
つか、それよりずーっと手前の話として、明日の予習をしなければならん。それでは。
っても、風邪ひいてない時のはやしさんの文体を知ってる(と思ってる)から、それとの対比でそう認識するんだろうけど。
読んでると、風邪ひいた時のだるさとか、熱っぽさとか、節々の硬直とか、各種感覚が微妙に狂ってる感じとかが甦ってくる。
あかん、ウツりそう。退散っ(笑)
無茶苦茶笑わせてもらいました。その強烈なユーモアに。
一旦妄想的なレベルのことを考えて、でも、そこから妄想的なことに対して、色んな角度から、突っ込みをいれて「こりゃ、ウソっぽい」とか「こりゃ、無理だ」とか「これは、もっと詳細に検討しなくてはいけない」と分析を入れるのが、なんともはやしさんらしいのですが、でも、風邪のせいか妄想のレベルが、
>量子コンピューティングと人工知能
といって、果ての果てまで、飛んでいるのが、強烈に笑えましたね。
そういう意味で、はやり、
>微細なところが決定的に狂ってる
状態なのでしょうか。?
でも、偉大な発見、発明の類は、偶然なくしては、ほとんど、なされていないという事実を鑑みるに、2005年10月1日に、はやしさんが風邪を引いたという偶然は、実は人類史上非常に大きな出来事だったりして、って思うと、ますます笑えてきました。
しかし、理論的にはまあ完成していても、工学的問題がネックで、実用化されていない量子コンピュータが本当に登場したあとの人工知能の世界を今から予想や考案して、それを将来登場する量子コンピューで検証してみて、実際のところことごとく的中しているあるいは実装されてしまったら、とてもいい気味ですね。
本当に、はやしさんが
>量子コンピューティングと人工知能
というテーマで膨大な研究論文書いて、
>量子コンピューティングと人工知能
って聞いただけで、笑ったサイエンティスト、全員引っ張り出してきて「お前らみたいに、頭が固くて、保守的な人間が、サイエンスの進歩を妨げているんだぞ」って言い放ってやりましょう。!!(笑)
でも、マジで、工学的知識のハンディを、思弁的思考のアドバンテージで、はやしさんなら簡単に凌駕できそうに思いますよ。
実は、僕もシンクロしたのか風邪ひいて、
>微細なところが決定的に狂って
います。
で、「テクノロジーの発達」、とくにその「人との係わり合い」という側面に関しては、いい面だけではなく、その悪い面すらをも実装できて始めて「本物」だと思うのですね。だから、ネットワークを介して本当に風邪がうつるようにでもなれば、及第点、だと思います。
というか、風邪、全然治ってません。
ただ、おれが出願しようとしている大学院は、いまだにCSの表玄関とも言える学科に"Artificial Intelligence"の旗印を掲げてもい、かつ量子コンピューティングに関する研究センターを持ってもいるので、斯様な考えをぶつけてもそれほど引かれないかな、とは思っています。
が、にしても、これをそのまま研究課題にするかどうかは分からない、すなわち、まだまだ煮詰めていない、という点では、いまだ「妄想」と言ってもいいかも知れません。
>実は、僕もシンクロしたのか風邪ひいて、微細なところが決定的に狂って
るんだと思うのですが、
でも、このテーマー、僕にすれば、本当に「やれやれ、どんどん、やれ」って感じであり、単に、面白おかしく煽っただけのつもりですよ。
それも、はやしさんにしか、きっと無理であろうという意味で。
それで、そう、原作たそがれ清兵衛さんもどうも風邪をひかれてしまったようですが、件の文章の「風邪ひいた」という文言を読む以前から、というか、書き出しをちょっと読んだ時点で、「あれ、何かいつもの原作たそがれ清兵衛さんの文章とは、ちょい趣が違うぞ」と思ったことでした。具体的に言うと、普段平生の原作たそがれ清兵衛さんの文章は、どちらかというと一文の息が長いのに、件の「微妙なところが決定的に狂ってる」投稿では、どちらかと言うと刻みの細かい文章になっている。
とはいえ、あくまでそれは表面上のことであり、内容が「微妙なところが決定的に狂ってる」とは思いませんでした。
量子コンピューティングからの連想だけど
もし、俺たちが不老不死になったらどうだろ?
それは、その、老いも死にもしない存在は、俺のままだろうか?
それらは「人間」と、まだ呼んでいい代物だろうか?
・・・
「人間」の知ってる事、出来る事、が、こんなに変わってきてるのに、いまだにヒューマニズムとか人権とか言ってていいんだろうか?
俺たちゃほんとに人間なのか?
ただ、「そういう意味では」と断ったのは、「人間」が変わるなら、それに合わせて「人権」やら何やらの概念を変えるべきだ、という含意命題を否定しているだけであって、この命題の後件、つまり「人権やら何やらの概念を変えるべき(もしくは、棄て去るべき)」ということについては、前件はどうあれ、一考を要することだと思うから。
「ヒューマニズム」にしても、「人権」にしても、それなりに最近の「発明品」であって、万古の昔からずーっとあった「普遍命題」では全くない。しかも、それらの概念を精査すると、色んな意味でおかしなところが一杯ある。だいたい、「ヒューマニズム」なんてのは、「あるべき人間像」というものを想定し、それからずれた「人間」は別に殺してもかまわない、いやむしろそうするべきだ、ってものだものね。
ま、ともあれ、不老不死にはなりたくないけど、人体改造は是非ともしてみたい。
それはそうと、「量子コンピューティング」からの連想で、どうして「不老不死」が出てくるね? ほんと、風邪ひくまでもなく「飛んでるね」。もしや、「クオンタム・リープ」ってやつ?
ただ、思考実験として、「人間とほとんど同一の思考、そして感情を持つ機械(人工物)をどう扱うか」という問題は、無意味ではないし、おれとしてもすごく興味深い問題。
(たそがれさんのがうつってきたかなこりゃ…)
坂田利夫氏が、アホの原因が実はウィルスであること突き止めその遺伝子構造を解明しノーベル生医学賞を受賞したのは2019年。
彼が、「これで、アホワクチンの開発される日は近い。世界からアホは天然痘のごとく撲滅されます」と高らかに宣言した瞬間、勿論Dr.アヤシは狂喜した。
しかし何たるこの自分の無様なこと。確かに、嫌な予感はあった。完成目前のANKKは自然界のウィルスを感染させるのだ。
アホに感染したと気づいた瞬間、それはドゥルージアンが故に決して許さることのなかった怨恨の情を、Dr.アヤシが抱いた初めての瞬間なのであった。
しかし、まだ、1減ったとは言うものの、10000あったIQの9999が残っているDr.アヤシはその時思った。「怨恨は発明の母だ。一つ、一つじわりじわりと真綿で首を絞めるがごとく減っていく俺のIQと引き換えに、まず心をコンピュータに宿らせてみせる。前人未踏のチューリング賞2度目の受賞は当たり前だのクラッカー。いかん、いかん。また1減った。俺には世界征服という壮大な野望があるんだ。」彼は、かくして、白衣のマッドサイエンティストへの道を疾走しだしたのであった。
しかし10000と9999の差異は、まさに「桁違い」に大きかった。この差異は、大きな悲劇以外のなにものでもなかった。Dr.アヤシは、ANKKが 自然界のウィルスを感染させても、決してコンピュータのもつ心を 人に「感染」させる保障などどこにもないことにまだ気づいていないのであった。(続く)
追伸 スターリン閣下殿、復活第一弾を、宮本さんと僕で書きはじめた「白衣のマッドサイエンティストDr.アヤシ」の「ツァラツゥストラ」パロディーバージョンで宜しくお願いいたします。
続きは、みんなで書いて、はやしさんを本当にマッドサイエンティストにしちゃいましょう!!(こりゃ、凄い。集団連続ブログ荒らしなんて見たことないぞ!!)
それから、この話はフィクションであり、登場人物は、一切実在する人物には関係ありませんので、悪しからず。 システムの件は、また後ほど。
で、お得意の「ネタにマジレス」なんだけど、おれ別に「機械に心を宿らせよう」とか、そういう考えはないんだよね、少なくとも研究課題としては。ただ、個人的な感じとして、機械にも心があるように思えてしょうがない瞬間があることは確かで、そうした感慨が、陰に陽に、研究の方向性をドライヴさせる可能性は否定できないけど。
つか、もしやおれのこと言ってるのかな?
続く。
かくして、不老不死の人工知能「Dr.M」が
この宇宙全体を支配することになった。
マッドアヤシの運命やいかに……
続く…
アヤシに向けられた手にはフレッチャー。
「やあ、相変わらずだね。凝り性のアーティスト。これからあんたをクライアントんとこに連れて行く。おとなしくついてくりゃ、コレはひっこめる。
「人工知能」の件でね、あんたに話があるそうだ」
たとえ罠だとしても、面白そうだ。
アヤシは、θと名乗る女に頷き、研究室を後にした。
女に近づくと・・・正確には、ドラァグだった。
カナガワの森を抜け、向かった先は、
ありとあらゆる人種と仕事と欲望の渦巻く
ナイト・シティ「サイタマ」
白い二つの月の光が、二人の姿を照らし出した。
続く・・・
(影響されやすいもんで・・・)
で、そうだそうだ、『ニューロマンサー』を読むにあたって一つ注意というかサジェスチョンがあるんだけど、ほら、多分気付いていると思うけど、ミョーに「……」が多用されてるでしょ? あれってね、実は原文では「?」か「!」の部分で、何と訳者の黒丸さんが全部置き換えちゃってる!
それってどうなのよ?と正直思わないでもないんだけど、今となっては、そういう三点リーダの多用が齎す、何とも言えない感じがはまってるかな、とも思う。
……って、そんなことは先刻ご承知、だったかな?(おれは、高校生になって、「いっちょ原文で読んでみるか!」と思い立って読んだとき、はじめて気付いたのだった……)
確かに「……」は多用されてる。
で、はやしさん原文持ってるんだ……。
私が、気になったのは、一等最初に登場する《茶壷》ってBar名称のルビが《チャツボ》になってるんだけど、ひょっとして原文では、《Cya hu=チャーフー》やないやろかって。Tea canisterと Tea potは別物と、重箱の隅をつつくような事ですが。
で、さっき久方にちらちら読んでたんだけど、やっぱり翻訳と雰囲気違うわあ。おれは相当翻訳が身に染み込んでるんで、原文だと、違和感、とまではいかないけど、「何かおれの知ってる『ニューロマンサー』と違うぞ……」と少し思う。
で、翻訳と原文のズレ、ってのは、翻訳はけっこう「淡々」というか、静謐で、どこか気だるい感じがページに立ち込めてるけど、原文だともうちょっとアッパーっていうか、カラッとした感じ。ただ、まあそれは、おれの英語読解能力の然らしむることかもしれず……。
あ、あのドラァグのイメージはヘドウィグからだったんだ! おれ、あの映画けっこう好きだなあ。んでもって、劇中歌もかなりいい! 何てったって、おれ、サントラまで買っちゃったもん。
で、独り言みたいなコメント、大いにけっこうですよー。つか、それ以前に、全然「独り言みたい」じゃないから、ダイジョブ。
で、原文と翻訳の違いって、どのようなズレなんだろ。
先のSFでドラァグを登場させたのは、フニャコ板の連想スレで「ギブソン」から映画の「Hedowig and the angry inch」が浮かんで、さらに浩樹ブログの「男でも女でもない」というフレーズからHedowigがボーダーを越えて「愛のかたわれ」を捜し求める存在というのに繋がり…。
そして、この映画の挿入歌「Origin of love」を訳してて、原文と日本語の「愛の起源」とでは、浮かんでくるイメージのズレというもんがあるなあ、と感じてたとこに、はやしさんの「ニューロマンサー」の原文と翻訳って発言に又、繋がったのであります。
この「ズレ」って、審美的見地から見て興味深いです。…と独り言みたいなコメントでゴメンネ。
免疫ってのは細菌とかウィルスが侵入しただけでは働かないそうですね。異質なものが自己と同一化し、非自己化した自己を攻撃するのが免疫の機序だとか。
あの日、私ははやしさんの風邪ひきカキコを読んで、平常時のカキコとの差を面白がっていた。熱に浮かされたような独り問答、段落のない言葉のだるい流れ、けど論理を追って読んでしまう。すると自分が風邪を引いたときの状態が呼び起こされる‥。
読むことは多かれ少なかれ、他者を自分の中に取り入れること、すなわち非自己化することだ。その非自己化した自己に免疫機構が作動した。もちろん読んでも「ふうん、こんな考えの人もいるのね」って、くしゃみで吹っ飛ばして終わりってのもある。けど興味を引かれたり、何か衝撃を受けたり、え、それどういうことって、理解しようとして引き込まれるように読んでる時、自己はない。他者との仕切りはないように思う。
ということは‥、風邪症状を呈する文章を読んで、非自己化した<わたし>に対して免疫機構が発動し、風邪症状を発現させた。それは擬似的なものなんだけど、空気中にはいろんな細菌やウィルスがいるし、作動した免疫システムが逆に攻撃対象を求めて取り込むことだってあるかもしれない。
私は身体の変調を感じて早々に退散したから症状は治まったけど、じっくり読んで大笑いした原作たそがれ清兵衛さんはほんとに発病している。
>僕もシンクロしたのか風邪ひいて、
それって、まさしく感染、したんじゃないの?
もしかしてANKK「アヤシいネットワーク感染工学」、もう完成してるんじゃないの? ‥疑惑。
具体的に言えば、けいこさんが言っているように、免疫系の働きってのが、どうも「精神的コンディション」ってのに左右される部分がある。たとえば、「笑う」ことは免疫力を高める、だとかね。
だから、普通に言えば、今回の「アヤシいネットワーク感染工学」疑惑は、「ま、風邪が流行ってたんでしょ」ってことなんだけど、もうちょっと「精神のコンディション」という線に乗っかって言えば、その「精神のコンディション」を、風邪を受け入れやすい、という状態まで持ってく、ってことは、そんなに箆棒でもないことなわけです。ほら、身近に風邪っぴきがいると、それだけで何だか具合が悪くなってくるような感じを覚えることって、あるでしょ? たとえ、疫学的に言って、風邪ウィルスに少しも感染していないにしても。
閑話休題。
「自己と非自己」というもの、おれはもっぱらその「物質的側面」を除いて言えば、そういう区分けを認めていない、というか、実感が湧かない。
確かに、普通の意味で「自己」と呼びうるものが暫定的に名指されうることもあるだろうけど、そうした「自己」にしたって、その形成過程を考慮すれば、もともとは「非自己」だったわけです。要するに、たまさか「自己」と呼ばれてしまう、何だかよく分からないものは、言ってみれば「非自己の織物」なわけで、そう考えると、「自己」だの「非自己」だのという区分けは、何がしかの実践的な意味は持ちうるかもしれないけど、それが何らかの規定的/基底的な役割を担いうるか、と言えば、甚だ怪しい。
というわけで、よしんばぼくの文章が引き金になって風邪と思しき症状が発現したにしても、まあ何でもないことです。
とすると、<私>というよくわからないものは、恒常的なものではなくて、変化するものなんだけど、その刹那刹那には成立している、っていうことなのかな。
ある刹那の<私>と次の刹那の違う<私>を繋いで、<同じ私>と認識するものは何だろう?認識じゃないのかな、そのように成立させているものは何だろう?
別に何でもいいや、とも思うけど、実に不思議なことではあります。この話はATLS行きにします。
ただ、その場合でも、「記憶って、何よ?」という問いは生じうるし、また、脳科学の方でも、この「記憶」ってやつはなかなか問題含みなんだけど……。
で、「全ての可能な出来事とその間の相互の関係の総体」ってのが「マジックワード」となりつつある今日この頃……という感じなんだけど、こういう風に「自己」を「定義」することで、何がどうなのか、よく分からん。毎度のことながら。別にそうでもかまわないけど、そうでなくとも全然どーってことない、と思う。
それと、「はたらき」が「もの」じゃないって、どうしてそう言い切れる?
>ある刹那の<私>と次の刹那の違う<私>を繋いで<同じ私>を成立させている
その「はたらき」は、出来事と出来事を関係付けているそのはたらきであり、「もの」じゃない。
実は俺も「風邪ひいた」んだ!
><同じ私>を成立させているもの
って言ってるから、彼女はその「自己同一性」を素朴に信じてるんだろう。その彼女が、その「はたらき」が「もの」だって思い込めば、彼女はその「もの」に従属し、その「もの」を崇拝し、信仰せざるをえなくなる。それは避けたい。だから緊急メッセージを発したのさ。
何でも言い切るぜ!
毎度のことながら宮本さんは、いつも自分だけはそうした「批判対象」から身をかわせているように言いつつも、その実、そうした「批判対象」にどっぷりということに気がついていない。
あと、「もの」を崇拝し、信仰するのはダメだけど、「はたらき」だったら崇拝したり、信仰したりしてもいいの? そのもっと手前で、何で「もの」を崇拝したり、信仰したりするのを避けるのか? 一般に、その対象が何であれ、「崇拝したり信仰したりする」ことを避ける、ってんなら、話は分かんないでもないけど。
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