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「特権的な面白さ」コメント欄における原作たそがれ清兵衛さんとのやりとりを通して、そういや「感情」というものを脳科学的な見地から解き明かした(とされる)The Emotional Brain (邦訳『エモーショナルブレイン』)って本があったな、と思い出し、注文したのが昨日届いていたので、さっき息抜きにちょっとぱらぱらと流し読みしてみた。
で、その感想、というか、こんな感じの本らしいですよー、という報告。
われわれは「脳」と聞くと、なぜだかその理知的な働きをもっぱら思い浮かべてしまい、それが「感情」にも関わる器官なのだ、ということを忘れがちなように思う。恐れを感じたり、嬉しく思ったり、というのも、確かに脳の働きなのに。
……今、「恐れを感じたり、嬉しく思ったり」と書いたが、実は「恐れ」や「嬉しさ」という感情emotionは、それをそれとして意識する前に、脳内で生じているのだ。著者ルドゥーは、それとして認知された感情を「情感feeling」と呼んで、意識されざる「感情」と区別する。
このことは、「感情」というものがそもそも、生物として当然に持つべき一機能である、ということを考え合わせれば、それほど奇異なことではない。たとえば、何かのっぴきならない危険に出くわしたとき、いちいちその「感情」を意識に上せて感じてたりしたら、命がいくつあっても足りないだろう(だから、よく問われる「人間以外の動物に感情はあるのか?」という問いに対する応えは、yesということになる。ただし、人間以外の動物が、それを「意識」に上せて「情感」を感じているか、ということになると、畢竟「人間以外の動物は意識を持つか?」という問いを問うていることとなり、「それは分からん」ということになるのだが……)。
ゆえに、このことから、ときとして「情感」というものが抑え難い、という事態が生じるのも、納得がいくだろう。なにしろ、それは動物としての本能に根ざすものであり、「情感を抑えろ」というのは、焼け火箸を押し当てられて「熱がるな」と言われるに等しいのだから。
また、「感情」というものは必ずしもそれが「情感」として意識されずに、表出されざる「感情」のまま脳に溜め込まれる、ということもままあり、そして、これが質的・量的に見て、脳の臨界を越えると、精神疾患として発現することにもなる(これがいわゆるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)というやつで、だから、俗に「トラウマ」と名指されているようなものは、実は大抵「トラウマ」でもなんでもなく、ちょっと程度の強い「情感」である、というに過ぎない)。当然、PTSD以外の精神疾患も、その多くが「感情障害」である(とルドゥーは言う)ことを鑑みれば、「感情」のこうした脳科学的研究は、それら精神疾患にもいく条かの光を投げかけるものであるだろう。
まとめると要点は、1)「感情」の起源は、動物としての本能にある、2)そうした「感情」は、必ずしも意識に上るとは限らないが、意識に上った場合、それは「情感」と呼ばれ、本能の顕れとしての「感情」と区別される、3)意識されざる「感情」は、脳内に確実に蓄積され、ときとしてそれが「病」として発現することもある、4)蓄積された「感情」によって齎される「病」以外にも、「感情」と「情感」を結ぶプロセスに問題があり、それが「病」として発現する場合もある、といった感じ。
こんな具合に、「感情」を通して脳科学というものが、多くの興味深い例を通して分かりやすく、かつ面白く書かれた本なので、オススメです(って、まだちゃんと全部は読んでないんだけどね)。
そしてこの図式の同化によってのみ、主観的状態を対象化すること、言い表しがたい印象を言い表す事、分節されぬ経験を体系へと統合する事が出来るのである。
ーC.L.ストロースー
脳の中で起こってる出来事っていうのは
社会に直接に繋がってるんだよな。
>「情感を抑えろ」というのは、焼け火箸を押し当てられて「熱がるな」と言われるに等しい
ってのは、僕自身本当によく感じる事実ですね。
ただ、「超人」を目指すなら、ここで、これを克服してなんとか、「人格者であり完全犯罪者」のレベルまで行かないといけない。この情感の問題を何とかしないといけないのでしょうね。
「超人」は、決して、暴れて大衆からつまみ出されるようなことはしない。
「晴れ着を着た、そこいらの市民と見間違われる」のですからね。
密かに、大衆の中に潜伏するのですよ。みなに ばれないように。
でも、それは、どんな人にも無理なことかもしれません。
ところで、当たり前みたいな話を、結構みないつも見落としてしているのですが、文化、社会体制、国家権力、そして時代の如何にかかわらず、あらゆる「吉」って、どこもかしこにも一定の比率で、きっちり存在するんですね。
どうして、「吉」を語るに、「社会」を必要以上に引っ張りだしてきて論じたがる人が多いのか不思議です。これこそ、「吉」に対する差別の根源以外の何物でもないのですが。
まあ、そういう人って、自分のイデオロギーの正当化に「吉」を酒の肴にしているわけで、ほんと迷惑極まりないですね。差別に反対のふりして、しっかり差別の先頭にたって旗振っているのだから。
「痔」のつらさと「吉」のつらさって違うけど、俺も一度「痔」を社会に関連づけて書いてみようかな。ネタとして。
「社会的関係において、人は座ることを余儀なくされる。特に、PCの出現は、座るという束縛を強化し、ゆえに「痔」を強化する。これは、抑圧以外の何物でもない」って感じで。(笑)
実は、この本、とても興味をもちました。
感情や情感と「吉」の話は、僕にとって、もっと勉強すべき問題であるし避けて通れない問題です。
是非、読ませていただきます。
ご紹介いただきまして、ありがとうございました。
で、まだ該当の「感情」と「精神障害」の関係を詳しく扱った箇所を読んでいないので、エントリに書いた以上のことを書くのは欺瞞でもあるんですが、これまで読んだ部分から言えること、という前提で、この本を紹介した手前、著者のルドゥーを擁護する方向で答えさせてもらいます。
まず、絶対に押さえておかなければならないのは、原作たそがれ清兵衛さんが言っている「感情」は、ルドゥーの言葉で言えば「情感」であって、そういう意味では、「精神障害=情感障害」とは一言も言っていない、ということです。
ルドゥーの言う「感情」とは、あくまで「潜在的」なものであり、そうした「感情」が「顕在的」になった「情感」とははっきりと区別すべきもの、とされています(そして、ついでに言えば、原作たそがれ清兵衛さんが挙げている例の「知能」というのは、この「情感」と同じカテゴリーに括られます。なぜって、どちらも意識上のことがらですから)。
これは、ある「感情」が脳内で起こっても、それが必ずしも「情感」として顕在化するとは限らないことを示しており、この「感情→情感」という変性がいかにしてなされるのか、というのも興味深い点なのですが、どうもルドゥーは、多くの(あくまで「多くの」であって、「全ての」ではありません)精神疾患は、この変性ルーチンの不具合に起因する、あるいは、「感情」を司る脳内部位での疾患だ、と考えているようです。
とはいえ、何にせよ、繰り返しになりますが、上記のことどもも、「ちょっとぱらぱらと流し読みしてみた」なかで得られた知見であり、厳密さや、その明証さには程遠いので、ちゃんと読んだらまた報告します。
精神疾患というものが、「脳」という物質的器官の変調に由来する病であることがほぼ確定した今日、そうした精神疾患を、文化であれ、社会であれ、そして国家であれ、イデオロギッシュな産物に結びつけて語るのは、「間違い」を通りこして滑稽ですらあります。
もちろん、その進化の過程で、文化なり社会なり国家なりというのが脳に与える影響というのもあるのかもしれませんが……とはいえ、器質的/機能的に示差的な変化なんてのは、どんなに少なく見積もっても何百年以上というオーダでしか生じないわけで、仮にそうしたイデオロギッシュなものが脳の進化に与えた影響があったにしても、測定不能なものだし、また、程度的にもネグリジブルでしょう。
まあ、ここいらの「社会構築主義的」な口吻というのは、もとを正せば(誤って、というか、ご都合主義的に解釈された)フーコーの影響なんでしょうが……これは、翻って言えば、当のフーコーにとっても不幸なことであります。んなこと、フーコーは言ってないのに。
さて、この『エモーショナルブレイン』、エントリにも書きましたが、非常に分かりやすく書かれている本なので、是非お読みください。
ただ、と急いで付け加えますが、1)「専門書」というよりも「一般向け科学啓蒙書」という感じなので、当然そうした制約がもたらす限界があること、2)翻訳本は、若干その日本語に問題があるらしいこと、というネガティヴポイントがあります。まあ、後者、つまり翻訳の問題に関しては、疑問に思うところがあればおれに聞いてくれれば氷解する類の問題なので、どうぞお気軽に。
エモーショナル・ブレインに書かれている「意識されざる感情」がなぜ喚起されるかといえば、やっぱり何かの刺激に反応して、ということでしょう。「差異の消えたのっぺりした世界」が仮にずっと続いていれば、「意識されざる感情」が溜まっていって、カオスとでもいうような状態が生じるのでしょうか。あまり「よくない」ことなのかもしれません。人間が秩序を形成しようとするところからみると。私はあの世界を体験してから、そのことが何かストレートに腑に落ちるように気がします。「人間」になるっていうことの意味、言語と関係性の網の目に、自らを組みこもうとすることが。
以前、共同体とか社会というものは、共に生きるためにつくったに違いない、と書きましたが、それは意志的、意識的にそうしたという意味ではありません。生命現象として「一つ」であるのに、なぜか個々バラバラの個体として現われ、決して他者にはなれない自己という、魂の孤独とでもいうようなもの抱える「人間」という在りようであるからこそ、何かを共同で創りあげようとする、その営みが、共同体や社会の構成原理ではないでしょうか。
そうしてつくりあげた共同体や社会に、自己を同一化させようとするのは自然な働きであるのに、結局、「本当は」同一化できないことだけが顕わになるというか(エヴァンゲリオンの世界ですが)。
共同体の崩壊、価値観の崩壊、という社会学的な意味でいう共同体は壊れても、それをつくりだす法則というか、構成原理は壊れませんね。「差異の消えたのっぺり世界」から戻った「わたし」は、ここが間違いなく「共同体」であることがわかります。認識の仕方を同じくする共同体、とでも言えばいいでしょうか。
だからその意味で、精神障害、精神異常があると識別される人から抽出する何らかの差異が、「意識されざる感情」から「顕在化した情動」への変換の「不具合」によって生じるのだとすれば、この、現在成立している共同体の構成原理と深く関わっている、と言うこともできると思います。異常とは正常でないこと、正常とは異常でないことでしかないのだろうし、この世界をつくるための「標準的な認識の仕方」との差異、ということでしょうから。
「感情→情感」という変性プロセスは、確かに「何らかの刺戟」に反応して、ということもあるでしょうが、その「刺戟に反応」というのは第一義的には「感情」の発生に関わる部分であり、「感情→情感」という変性プロセスにとってみれば、マイナーなポイントだと思います。もちろん、「風が吹けば」式に因果の数珠繋ぎを辿っていけば、その「感情→情感」という変性プロセスも何らかの「因」という「刺戟」に対する反応と言ってもいいと思いますが、それよりもオートマティックなプロセス、と捉えた方が、現状に近いと思います。
人間の脳というのは、「言語」というものを操るようになった結果、あるいは、「言語」を操れる程度まで脳の分節化を推し進めさせた何らかの出来事と、そうして操れるようになった「言語」というものの間のフィードバックで、それ自体の組成をも分節化、つまり、右脳と左脳という風に機能的な分担をなすように進化してきました。
そういう意味で、人間のことを「言語共同体」と呼んでもいいかも知れませんが……このように人間を呼びかえることで、何か有益な、あるいは新しい視点が開けますか? おれには、そうは思えない。
それは、ひたすら受動的に与えられるだけの「環境」であり、その環境に人間が、意図的にであれ何であれ、働きかけることは出来ないものです。
だから、確かに言語運用の結果、あるいはその原因としての脳機能の分節というものが、「感情」と「情感」の含蓄的絡み合いに寄与していることは論を俟たないことですが、そこからそれ以上のこと、たとえば、そうした「言語共同体」に属するがゆえに(この「ゆえ」という結果を示す接続辞を用いるのは、如上の理由からほんとはまずいんですが)、延いてはそうした左右機能の連結の不具合としての「精神疾患」は、より小さいレベルの共同体、つまり、「社会」やら「国家」やらとも、相関的である、と論ずることはできない。「言語共同体」と、その他の歴史的共同体では、色んな意味で位相が違いすぎます。
だから、もし、けいこさんが最近発言している部落差別と比較して、「部落/それ以外」という分節を作り出す「社会(共同体)」とのアナロジーで、「精神的正常/精神的異常」という分節を作り出す共同体、というスキームを思い描いているのであれば、それはきわめて危険、というか、精神に変調を来たしている人間からすればきわめて迷惑な話だし(というのも、その「正常/異常」という分節は、その共同体の変化により消失する、というインプリケーションがありますから。でも、そんな事態、つまり共同体の変節があろうとなかろうと、「正常/異常」の分節は無くならないのです)、上に述べた理由から言っても間違っている、と思うのです。
何にせよ、もし言語共同体であれ社会であれ国家であれ、そうしたものが精神疾患に関わりを持っているにしても、まず問題にされるべきは病としての、それも「脳」という器質的な部位の病としての精神疾患であって、そうした器質的なものへのアプローチをすっ飛ばして、社会なり国家なりといったイデオロギッシュなものとの関わりで精神疾患を語っちゃうってのは、ちょっと呑気過ぎる、というのがおれの主張です。
このことについては多分、原作たそがれ清兵衛さんからもコメントがあると思います。
特に自らを「吉」と位置づけ、そこから「ト」との距離を恣意的に設定する事で誰にも犯されない空間を確保し、その安全地帯から他者を名指す事無く攻撃出来る。まあ、女の腐ったようなずる賢いやり方で面白くも何ともないネタを繰り出す「原作たそがれ清兵衛」さんのような本物の「精神障害者」の相手は専門家に任せた方がいいでしょう。
「精神疾患」を医師ならざる学者が取り上げるのは、もちろん興味本位ではなく、
自ら設計したわけではなく、その作動原理が明らかでないような機械、例えばヒトの脳を理解しようとする場合、それが故障した時、それがうまく作動しなくなった時にそれが何故起こったのか?うまく作動しないという事はどういう事か?
じゃあ、うまくいってるってのはどういう事なのか?
こんな感じで物事の理解を深めるために、それを深く知る為に為されてる「調査」だと考えてます。
で、その「釣り方」こそ、「面白くも何ともない」し、「医者と学者」っていう腑分けも不鮮明だし(宮本さんの言い方だと、脳について、いや、何であれ何についてでも妄言を垂れ流してオッケー、思える。あ、つか、これ、自己擁護か)、まあ、ごくろうさま、ってとこかな。
わからないよ、ほんとに。
でも、俺はあんまり「釣り」ってのはやらない。
だいたい全部マジだよ。
買いかぶられても困るけど、不適当にバカにされるのもヤダ。
医者はこの場合精神科医。無資格で他人を診断するのは医師法違反になるぜ。
「著者ルドゥー」さんは専門医じゃなくて学者だろ?
彼のいう感情から情感への変成ルーチンに「集団の文化の中に浮動する特定の図式」に合体するかどうかっていう社会的な基準がはたらいて、それがうまくいかない場合に情感として意識されない「感情」が水位を超えてあふれだす事によって「脳」の機能が破綻する。
っていう筋書きが思い浮かんだからコメントを付けた。
精神疾患がどうこうってのは思い過ごしだよ。
何にしても、人間とこの世界に関わる理解できないいろんな現象が、脳の解明によって原理的に明らかにされていくことに対して、大いに関心を持って見ています。
明らかに私のかねがね書いてきたことに対しての反論らしきこと?を宮本さんがはやしさんのブログでお書きになられて、それで、宮本さんとも話したくもないなら、あんな書き方にならざるを得ないというのも できればご承知おきいただければ幸いであります。
自らのブログや、掲示版でお書きになるのは自由であると思いますので、できればそちらでお願いいたします。私は、そちらにまで、わざわざ、書きにいきませんので。ただ、ああいう書き方となった理由は、はやしさんのブログに書いていただいたことに対して、それに私が何のコメントもしないとなればそれは、第三者がご覧になって、私が、宮本さんに賛成した、あるいは、沈黙したと取られるのがいやだから以上でも以下でもありません。私も、はやしさんのところに居候状態でなければ、いちいちあのコメントもつけていないと思います。
とはいえ、宮本さんの今回のお怒りの理由を十分理解できます。
しかし、繰り返しますが基本的に私は宮本さんと会話する気は全くありません。
私は、はやしさんほど、人が出来ていませんから。
両親が分裂病経験者の場合、その子供が発病する確率は、30%以上あるそうです。これは、どんな国でものことです。これが、すべてを物語っていると思います。
(と、言ったら、宮本さんがどう突っ込むかは目にみえていますが、宮本さんに取り合うつもりは、私は一切ありませんから悪しからず。)
今、病因について分かっていることは、遺伝的要素がかなりからんでいるということくらいで、というかほとんどで、今でもその発症の理由やメカニズムはよく分からないのです。
(ただ、治療法は、結構整ってはきています。「吉」の多くは実は治療可能です。ただし、癌と同じで、早期にきっちり手当てしないとしんどい。)
ただ、はやしさんや、私が常常言っているように、ほとんどが器質的原因であるのは間違いありません。
だから「「吉」の原因としての社会性」なんて、「痔の原因としての社会性」なんて追及しても意味がないのと同じなんです。ただ、「痔の原因としての社会性」って書いたら、誰もがジョークだとわかりますが、「「吉」の原因としての社会性」って書いて、勿論はやしさんや私は、ジョークとしても読めますが、ほとんどの人がジョークとしてとらえられないところに本当の危なさがあります。
「吉」は、差別問題の中でも特異な分野であります、というのは、ある程度差別する合理的理由が、無きにしもあらざるとも思える事象だからです。(ただ、ほとんどは合理的根拠がない。)そこは、差別する合理的根拠がだれが考えてもない部落差別とは決して違う大きな相違点です。
そして、「吉問題」におけるは、「差別」の部分なんて、氷山の一角で、実は「吉」を社会的に議論するなら、「差別」以外のところをしっかり議論しなければならない。
「吉」の原因を社会的にとらえたのは、フロイト、ラカンで、こいつらが、有害無益な言説をばら撒いたから、その後の「吉」がどれだけ迷惑しているかは、本当に計り知れないです。
フロイト、ラカンは文学的には、面白いのですが、それは、あくまで、文学みたいなものでしたね。
これだけ、原因が器質的問題だと判明していても、いまでも、「社会に発祥理由を求めて議論したがる人」ってのは、そこには、一昔前の、なつかしいけどカビの生えた、藤崎さんに言わせれば単なる小学生程度の大学自治会の系統を引きずった日本流マルクスみたいなものが見え隠れしますし、また、その思想系統に、のった人が、こういう議論をやりたがる傾向があるみたいです。昔なつかしの日本流マルクス主義とは、非常に観念的であり、また、ノスタルジックでもあるとともに、また、言葉の遊びに終始してお仕舞いだったような気がしてなりません。また、文学的にあまりにも言葉の遊びをやりすぎたから、あまりにも無力だったのでしょう。
マルクス主義でなくても、中村雄二郎訳の「知の考古学」の珍訳をみて分かるように、昔の日本の文系の知識人ってのは、みんな、どこか、文学的なんですよ。それは、決して、日本人の文系の知の発展に寄与はしないどころか、結果的に、足を ひっぱったのです。
荒井さんのところに、「日活ロマンポルノ」の再評価運動について、ちょっと、くだらないリンクを貼りましたが、そういうことをしてしまうたびに、私は、どこか自分の中にも、昔なつかしの日本流マルクス主義の残滓みたいなものがあるなあと自分で笑ってしまいます。私は、元々マルクスには縁遠い人であったにもかかわらずにです。
これは、私だけでなく、多分、荒井さんにも、そして、その対極の権現みたいな藤崎さんにしてもそれはあると思いますよ。(で、なきゃ、こんなところに藤崎さんみたいな人がわざわざ書くわけないですよ。)
ただ、もう、はやしさんの世代になると、それが全く消えちゃうのですね。 休止閑話
「吉」問題解決の第一歩は、明らかに、国家の法律や予算をなんとかしないといけない。
実は、家族に見捨てられた病人というのは、閉鎖病棟の中で、人権を完全に奪われていますし、また、国家の法律や予算体系が、家族が病人を病院に見捨てるようにもっていく強烈な引力を 持つように設計されています。塀の中は、すごく飢えているし、また、結構な暴行もあります。そういう意味で、結構刑務所なみともいえます。罪なんて何もないのに。
ただ、僕は、その塀の中の世界から、どういう訳か結構奇跡的にシャバに帰還できましたが、まだ、塀の内外を行き来する家族がいる、つまり、体制側に人質をとられている状態なので、今、まだ、核心的なことが言えないのです。
まあ、宮本さんなんかは、私のそのへんが 歯がゆく思えるのでしょうが、そうのこうの話とは別に、僕は宮本さんとは話す気が一切ありません。
勿論、けいこさんや、他の方とはお話させていただくことにはやぶさかではありませんよ。
勿論、今言えることと言えないことってのはありますがね。
精神病のこととか詳しくないので、みなさんの議論にはついていけないのですが、器質的原因っていうとどうしてもロボトミーとか電気ショックなんていうおどろおどろしいものを思い出しちゃうんですが、それとは別の話なのですよね?
について、コメントを書いたつもりはないのですが。
精神障害と一口に言っても、種類があまりにも多いです。風邪ひき程度の軽度の鬱と分裂病を一緒に語ることは無理があるように思います。たとえば私自身、過去に精神的ショックが「原因」だと思いますが、不眠や情緒不安定が異常に昂じて精神科の治療(投薬程度ですが)を受けたことがあります。ちゃんと病名もつけられ、ファイリングされましたが、それは脳の器質的な原因ではないでしょう。
このエントリのコメントには不適当だと思いますが、「精神障害者を創り出す『原因』としての社会性」も確かにあると思います。たとえば、その人が異常であるかどうかを「判定」する精神科医の診断です。日本は人口比で世界最多の精神病患者がいるそうですが、医療制度や病床数の「異常な」多さと無関係ではないでしょう。
(余談ですが先日、喫煙者を「病気」と位置付け、積極治療が必要だとする医学会の診療指針が発表されました。)
残念かもしれませんが、これは明らかに脳の器質の問題で、遺伝的になければ、欝すら発病しません。確かに、環境が、引き金になっているのは認めますが、残念ながら、精神医療において、社会環境的原因の追究とその原因の解消は何の解決にもなりませんし、はやり、一番は薬物治療です。本当によかったですね。悪くならなくて。
フロイト・ラカン流に自分の過去や周りを分析することは、悲惨な結末をひき起すことが結構あるのであまりしないほうがいいですよ。精神衛生上。
「欝はこころの風邪」という分かったような分からないようなキャッチコピーが、医者へ行く敷居を下げた効用は、確かに私も高いと認めます。
それから、病気でない人と、そうである人の線を引いているのは確かに医者です。
ただし、藪医者だと、何でも欝にしてしまう癖があって、ちゃんと診断すらできないという日本の結構特殊事情は注意しなければなりません。
つまり、欝でない人も欝にされ、欝の人も欝でないと診断されている可能性は多分にあります。
日本の精神科医は、本当に藪医者ばかりでこまります。
それは、医療現場が極めて不透明状態で、医者の無責任がまかり通り、放任されているからで、この辺は、日本のかなりの特殊事情だと思います。
ちょっと、市場原理でも何でもいいからメスを入れたいですね。
その腐り方のひどさたるや大学の教授なんて、まだまだ、可愛いものですよ。
しかし、本当に腕のいい医者は、ちゃんと、病気かどうか診断できます。
それから、脳の代謝が分かるペットスキャンをかければ、かなりのところ、本当に「吉」(・・欝も「吉」に入ります)かどうかはほとんど判別がつきます。ただし、これも、藪医者でないのが前提です。それから、日本の「吉」病院には、このペットスキャンもないところが結構多いですね。
>日本は人口比で世界最多の精神病患者がいるそうですが、医療制度や病床数の「異常な」多さと無関係ではないでしょう。
そんなことはないでしょう。
確かに、最近の医者は、内科でも軽い投薬ならできますし、実際、精神安定剤の服用経験者って、実は人口の50%超えているとも言われています。理由は簡単。例えば。「胃が痛くて・・・」って言っただけで、すぐに、精神安定剤を日本の医者は投薬します。だから、投薬ベースで統計を取ったりしたら、日本はかなりの数字になります。
それから、民族によって、遺伝子的に、発病因子が多い少ないってのは、明らかにありあます。
私がどこもかしこにも一定に存在するといっているのは、そういう幅を十分容認しての話です。
けいこさんのベースにあるアノロジーを使うと、戦争や内乱と状態なら、結構精神病の人が増えるとなりますが、実は、数字は、少なめらしいです。確かに統計は、取り方によりますが。
どちらかというと、心身の危機がなくて、妄言をたれていても死ぬことがないという幸せな状態の社会のほうが、発病数は多いみたいです。
繰り返しになりますが、遺伝的に、器質的に要因のない人は、発症しません。
遺伝的に、器質的に要因のある人は、発病する可能性があります。
蛇足ながら、欝と分裂って、結構敷居が低かったりします。
私は、はじめ鬱で、その後分裂になったみたいです。
本当かどうかは、定かではありませんが。
変に、自分の過去の整理はしないほうがいいですよ。
社会性から問う人を私が批判するのは、意味がないだけでなく、病人にそういう風潮が有害無益だからです。
それは、過剰反応だと思われますかもしれません。しかし、部落差別で「葬式の塩を出す話」なんか、本当の直接的な部分では、差別の本質には関係ないはずですが、そういう極めて傍系の問題まで、きっちりするまで、部落の問題は解決に向わなかったことを思い出してください。
特段部落に差別意識もなく、また、普通にしている人にとって、「清め →→→ 穢れ →→→ ・・・・ 」というアノロジーは、はたらいていませんが、でも、そこまで、徹底する必要があったことを思い出してください。
繰り返しになりますが、フロイト、ラカンの残した土壌とは、患者を分析する、それも、環境や社会性に交えてということであり、実は、それは、発病した人間には有害無益なことです。
故に、精神病者は、フロイト、ラカンはもちろん、自分を分析してしまう方には、哲学書や心理学の本は、読まないに限ります。必ず、人生を不幸にします。
実は、凄く爽やかないい人がいて、僕もはやしさんも、とても敬愛した人なのですが、その人は現役の「吉」でありました。
僕は、哲学書や心理学の本は、ほとんど毒薬に近いと言ってあげたのですが、だめでした
。哲学書や心理学の本が原因かどうかは定かでありませんが、やはり、具合が悪そうで、私もはやしさんも、とても心配している次第です。
精神科の扱う病気として「吉」「中毒」「痴呆」「人格障害」てのがあります。
故に、精神科の扱う病気=「吉」ではありません。
ゆえに、「中毒」に属する「タバコ」の話は、「吉」と無関係です。
「中毒」って、よく知りませんが、藤崎さんのコーナーで時々登場するジョージ・ソロスなんか、大麻の使用を積極的に、たばこ並みに容認しろという論者で、結構過激でもあります。
彼は、多少の大麻ごときで、本当の中毒にはならないと言っていたような、いないような記憶があります。定かではありませんが。
無知がゆえに私に、中毒を語る資格はありませんが、タバコは迷惑という認識の広まりにつれて、タバコ中毒=病気説は、発生したみたいですね。
しかし、分煙の定着とともに、別に、非喫煙者である私も、迷惑に思うことも少なくなりました。
別に、病気扱いしなくてもいいと思います。
「世代」に過剰反応する???ブログ主のいぬ間に洗濯を。
荒井さん、僕たちの世代って、本当に夢の中に生きていたし、また生きているのではないかって思うことよくありましたし、ありますね。
それは、もうはやしさん辺りからすれば、なんで、そんなに女々しくとか、あるいは、ユートピアみたいな文学の世界にいられるのだろうって感じで、滑稽にすら思われると思います。
でもなんか、どこか、ロマンポルノでなくて、ロマンチックな世界ってありましたよね。
それも、男女の中でも。
エロオヤジ化した、今となってはうらやましい限りですが、はやしさんあたりの世代って、1回目のデートで、エッチホテルに行きたいと言っても、女の子に失礼にあたらないとか。
荒井さんや僕の世代で、そんなこと言えば、それでもう あきれられておしまいでしたね。
2回目のデートは絶対にありえない。
でも、それこそ、恋のロマンチックな世界で、僕たちのほうが幸せだった気がします。
ちょっとだけ上の世代の???けいこさんのおっしゃる、
>差異が消えたのっぺりした世界
ってのも、僕は分かります。ちょっと、病気チックではありますがね。
好きか嫌いかといわれると、ドゥルーズ読むまでは好きでした。白状しますが。
荒井さんも、この
>差異が消えたのっぺりした世界
って、分かるんじゃないですか? でも、荒井さんは、僕やけいこさんみたいに、病気チックではないから、分からないかな? どうですか? 荒井さん。
ちなみに、大学生のとき、結構ガンダムだけは、しっかり見ていたりして。これも白状します。
浅田彰 読んで ガンダム見ていたというのも、確かになんか訳が分かるような分からんような世界で、多分、はやしさんに聞くと ?????・・・アホちゃうの? って感じだと思いますが、でも、荒井さん、このビミョーな幸せな感覚って分かりますよね。きっと。 どうですか?
でも、あの時代って、なんか、不思議な夢みたいなものがありましたね。
その上で、「人間の認識」ということについて云々するのに、あまり脳というものを持ち出さないほうがいいんじゃないか、というか、そうする必要もあまりないと思う。
というのも、確かに脳の基本機能というのはかなり強固なものであり、それこそここ1万年くらいはあまり変わっていないぐらいなんだけど、表面に現れる認識様態というのは、ある程度variableでもある。こういうアナロジーは本当はまずいのかもしれないけど、あえて言えば、ハードは固定的だけどそこに乗っかるOSはハード的制約を満たした上で可変、と捉えてもいい(ただ、OS間の相違より、認識間の相違のほうがよっぽど固定的だけど)。
だから、「社会」と「それに規定される認識」ということであれば、大いに議論すべき、と思うけど、それでもやっぱり、そうした議論の枠組みを「もの的」なところ、つまり脳に持ってくるのはムリがある、というか、これまでの多くの事例によって、そうした議論(社会的に構成されたものとしての脳)は「完膚なきまで」と言ってもいいぐらい反駁されている(たとえば、「電車の中で化粧するのは云々」とか「ゲーム脳」とかの事例を想起)。
あと、けいこさんが言っている、「制度的に規定されたものとしての、精神的正常/異常」のことだけど、それはあまり意味のない議論だと思う。精神病であれ何であれ、先進国では諸々の病の率は高くはじき出されるのは常識であって、そこから医療制度の正当性について疑義を呈するには、相当の距離があると思う。
確かに、けいこさんが言うような、誤った診断によって不当に「精神異常者」に仕立て上げられてしまった不幸な例が全くないとは言わない。それでも大抵は妥当な判断が下されているはずで(おれはある程度、そうした医療の現場を知っているので、この「はず」というのはそれほどいい加減な言い切りではない)、むしろ問題とすべきは、けいこさんの言とは全く反対に、さらなる医療体制の充実と健全化、またそれに対応した社会保障の組み直しを行うこと、だと思う。また、こうした水準でしか、「精神病」と「社会」というのは、論ずる価値がないと思う。
で、フロイトとラカン、ですけど、医者としてはほんと「藪医者」以外の何ものでもないですよね。フロイトに至っては、抱えた患者に全部逃げられてるわけで、精神病について「治る」という表現は今のところ不適切なんですが、あえて「治療率」という言葉を使えば、0%というこれ以上ない低さ。というか、フロイトのせいで悪化した、という事例がけっこうありそうですから、もしかしてマイナスの数値になるかも。
ラカンに関しては……この間お会いしたときにもちょっと話しましたけど、「文藝作品」としては最高に面白いんですよ。相当の書き手と言ってもいい。ただ、精神医学的にはもとより、思想的には……ノーコメントです。でも、「症例エメ」とか、ぎりぎり「二人であることの病」ぐらいまでは、ちょっとはまともだし、何より普通に読めます。
「哲学書や心理学の本は、ほとんど毒薬」とのことですが、ある程度発症しちゃってたら、何だって「毒薬」になるんじゃないですかね。自分自身の経験から言っても、「あらゆるところに陥穽あり」で、1分1秒がほんと油断ならない。だから、相対的には哲学書や心理学の本は、重度な症状への誘発率は高いのかもしれませんが、それでも、何かと比べて箆棒と言えるまでのものではないと思います。
それと関連して、実はおれ、原作たそがれ清兵衛さんが折に触れ言ってる、「哲学書は劇薬」って言うのからして、よく分からなかったりするんですよ。こう言ってはなんですが、「たかが哲学書じゃねえか」と思います。まあ、それに続けて、「されど哲学書」とこられたら、返す言葉もないんですが。
荒井さんや原作たそがれ清兵衛さんの世代は夢の中に生きていたし、今も生きている(かも知れない)……って、これ、もう一つ上の世代の、大学闘争でゲバ棒振ってた世代のほうが、よっぽどそうなんじゃないですか? そういう世代の「夢の中」、「ユートピアみたいな文学の世界」ってのは何となく分かるんですが、原作たそがれ清兵衛さんや荒井さんの世代の、そういう特質って、よく分かんないですね。たとえば、具体的にどういう点、どういう思考様式に、それが現れていますか?
そして、そういう世代に関連することかどうかはともかくとして、「差異が消えたのっぺりした世界」、これ、もともと言い出したのはけいこさんではなくおれなんですけど、このコメント欄でも言ったとおり、おれにとってはひたすら忌々しいもの、としてあります。だから、そういう意味でも、ドゥルーズってのは本当に恐ろしい思想家なんですよ。そういう「差異が消えたのっぺりした世界」を耐えろ、って言ってるんですから、その忌々しさを百も承知した上で。
で、おれには聞いてないよ、ってことかも知れませんけど、話に出てるのでしゃしゃり出てくと、ガンダム、おれダメでしたねえ。第1シリーズが確か、幼稚園ぐらいのときに放映だったと思うんですけど、子供心に何か説教臭いというか、暑苦しいなあ、と思ってました。でも、プラモデル、いわゆる「ガンプラ」は相当好きでよく作ってましたけどね。
あと、ついでに言えば、おれも大麻解放論者です。
タイプミスかなあ、とも思うんですが、けっこうその「間違った形」が頻出するので、もしかすると実際にそうと認識しちゃってるかもしれないのかな、という前提のもと申し上げるのですが、「はやり→やはり(矢張り)」、「アノロジー→アナロジー」、です。
「差異が消えたのっぺりした世界」っていうのは、つまりいわゆる「砂漠」みたいなことですか? それとも病の人じゃないと実感できないようなコト? ……だとしたら僕にはちょっとわからないです。
僕はあまり繊細じゃないので、心の病とは(たぶん)無縁でして、アーティストとしてはちょっと病の世界には憧れる面もあるのですが(そういう病んだ芸術家多いですからね)、それは脱線なんであって、やはり本来アートは健康を追求しなくてはね。
あと、ガンダムは僕もだめでした。まわりの友達はガンダムだのイデオンだのでしたが。僕の場合、松本零士でアニメは終わり。
まず、議論でも何でも、発話が行われている空間のフレームを読み取る能力に欠けている。
この点については、おれ、若干「わざとかな?」と思っていたんだけど、そうではなく、どうも天然っぽいな、と思うようになってきた。よしんば「わざと」にしても、基本を踏まえた「外し」には思えない。だから、以前原作たそがれ清兵衛さんやら藤崎さんやらからも批判があったけど、「仲良しグループ」にしか通じない発言になっちゃってる(そして、頭の悪さ云々とは別の批判として、宮本さんは最近こうした「まわりの好意」に甘えているんじゃないか、とも思う)。
次に、そうした発言が、仮にフレームに合致していると仮定しても、その発言内で筋の通ったものになっていない。
この点に関しても、第一の点と同様の批判が当てはまる。つまり、そこで言われてることから遡及的にあるタームを逆措定したり、論理のギャップを埋めることを読み手に一任し、そしてのみならず、「理解されて当然」と思っているのではないか。
そして、最後に、これが一番「頭悪い」という評言に繋がることだけど、斯様な批判が前々から繰り返されているにもかかわらず、それを反省する、ということがない。
反省した上で、「うん、やっぱりおれはこの行き方でいいんだ」と得心がいったのなら構わない、とも言えるけど、その場合でもやはり、なぜ現状維持で得心が行くのか、ということを、公示するべきだ。
だから、「不適当にバカにしてる」わけでもなんでもなく、そうであることを「そうだ」と言ってるだけ。
「医者と学者」については、おれは端的に「学者が脳について語ること」を禁じているわけではなく、その「学者」というものの持ち分や、過去の遺産について、慎重にならなくてはいけない、と言っている。つまり、一言で言えば、「知の欺瞞」は犯すな、という、当たり前のことを言っているに過ぎない。
その上で、宮本さんが言っている、「感情から情感へ、という変性ルーチンが、集団の文化の中に浮動する特定の図式に合致するかどうかによって、その変性が堰き止められ、感情が情感へ変性せずに、その水位があふれ出すのではないか」という論点は、おれはそうである可能性はあまりないとは思うけど、そうではない、と端的に言い切れるものではないので、その正否については留保するけれども、仮にそれが正しかろうと、二義的な意味しか持ちえない論点だな、とも思う。
「精神疾患がどうこうってのは思い過ごし」って、確かに、おれはこのコメント欄においてはもっぱら精神疾患との関わりにおいて脳を語っちゃってるから、その点では度し難い偏向をしていることは認めるけど、宮本さんだってそのフレームに乗っかって、その上で斯様な発言をしたんじゃないの? まあ、本人が「違う」と言ってるんだから、そうと受け取るしかないけど。
えっと、この間の議論で、精神疾患の原因は脳の器質的機能的なものであり、社会的要因の影響があるにせよ、それを強調することは間違っているということはよくわかりました。
>残念かもしれませんが、これは明らかに脳の器質の問題で、遺伝的になければ、欝すら発病しません。(原作たそがれ清兵衛さん)
ちっとも残念じゃないですよ。そうか、比較的軽度の精神障害は社会的ストレスが原因(で脳にも影響を与える)と思ってたんで、その認識は改めます。たとえばC型肝炎で言えば、ウィルスのキャリアが必ずしも発病するわけではないけれど、発病した人は必ずC型肝炎ウィルスを持っている、ということと同じですね。
で、考えていたのは「精神疾患と社会」ではなく、「感情→情感のメカニズムと社会」なので、「病」に対するこういう認識を、ついつい自己とか社会とのアナロジーで考えてしまいます。
「この社会」がこうであるのは「人間の認識原理」に起因するが、「人間の認識原理」が必ずしも「この社会」を成立させているわけじゃない、とか。
さて、で、「病んだ芸術家」ですけど、ほんとに「あっちの世界」に行っちゃったら、何らかの創造行為になんて携わってらんないですよ。もちろん、「あっちの世界」に行っちゃったにもかかわらず、素晴らしい創造活動をし続けた例も稀にはありますけど、それはほんと「例外」であって、基本的に「病」と「クリエイティヴィティ」ってのは全然関係ないと思います。
これって、たとえば精神に問題がある人が犯罪を起こしたときに、「だからキチガイは……」と言われるのの「ポジティヴヴァージョン」みたいなもんで、統計的に言えば、犯罪を犯すのも、そしてクリエイティヴィティを発揮するのも、いわゆる「健常者」のほうが断然多いのです。
だから、荒井さんがそうしたアーティストを「脱線」と捉えているのは全く正しい。ただ、「本来アートは健康を追求しなくては」というところはよく分かりません。むしろ、アートは「何かを追求」したり、ということではなく、その「自体性」で勝負をかけるものではないかなあ、と思います。
ゴッホやアルトーにさかのぼるまでもなく、芸術家は社会の周縁にいて、狂気とは関係が深いわけです。が、それをひっくり返して、ちょっとおかしくないと芸術として箔がつかない、みたいな感じで異常性を芸術家が「売り」にしだすことが少なからずあると思われます。僕自身も若い頃を思い出すとそうだったよなあ………って思ったりで。
今、僕自身は芸術家とは言えないでしょうが、もちろんこれは芸術家に限ったことではないですね。すべての人間に言いうるわけです。そこで、そういった病的な感受性の醸しだす繊細さ、感じやすさみたいなのに対して、あえて朗らかな健康さで勝負したいな、というのが僕の方向性ですね。(実際病んでいる人はつらく苦しいわけですしね)
まあそういうわけで、若々しく朗らかな健康さで、日々何かを勢いよく飛ばしまくってるわけです………っていうオチまでつけてみましたが………ダメですか?
『社会生物学』(E.O.ウィルソン、新思索社)
『進化と人間行動』(長谷川寿一・長谷川真理子、東大出版会)
前者は1,341ページという弩級本で、しかもお値段21,000円という「なんじゃそりゃ!」具合だから、後者のほうがよろしいかと。
ただ、こうした社会生物学も、「優生学」などに繋がり、ナチスがその考えを利用した、という「暗い過去」があることも、忘れてはならない。
何だかんだ、基底的な部分、つまり、「脳」やら「進化」やら、そういう「おれらには如何ともしがたいよ」という部分を考慮するにつけ、「何か、どうしようもないのかも」という絶望的な気分になることもしばしば。
でも、そういう「絶望」を乗り越えて、一歩踏み出すためにも、押さえておかなきゃな、というポイント。
ただ、いみじくも荒井さんが言うように、そうした「藝術と狂気」の関わりというのが、いわばマーケティング的な要素として機能しちゃうこともまた事実で、ひどい例になると、そういう「狂気」を装ったり、ということまでする。
そこまで行くと、ほんと、藝術にとっても、そして何より「狂気」にとっても、いいことなんてこれっぽっちもない。荒井さんの言うとおり、狂気に襲われると言うのは、大体においてつらく苦しいものなんですから。
繰り返しになりますが、ほんと、健康が一番です。
というわけで、これからも荒井さんのさわやかで朗らかな健康っぷりに注目だ! でも、ほどほどに!
長谷川寿一・真理子さんですが、私が以前勤めていた会社の撮影班が、アフリカのチンパンジーの調査に同行取材したことがあります。何ヶ月か、結構長期でしたが、カメラマンはマラリアに罹り、衰弱して杖をつきながら帰ってきました。そのカメラマンはもう亡くなりましたが、長谷川先生は凄い人だ、とよく言ってました。何が凄いのか、ちゃんと聞いとけばよかった。
本、読んでみます。次の一歩を踏み出したいから。
宮本さんのカキコは、俳句のように“感じる”。言葉と言葉、文と文の間の何もないところに意味が生じるというか(誤読も多々あるでしょうが…)。私は宮本さんのカキコでいろんなことに気づかせてもらいました。
以上、読み手の勝手な感想でした。脳から外れてばかりでごめん m(__)m
そいで、けいこさんから過分な言葉を賜っちゃってるけど、ほんとのことを言えば、おれはまだまだだなあ、とやっぱり思う。「難しい事柄を、分かりやすい言葉で、きちんと述べる」には、その「難しい事柄」をちゃんと理解して、しかるのちに語らなければ、そうしたことを「分かりやすい言葉で、きちんと述べる」ことなんてできるはずもないんだけど、おれの場合、若干「見切り発車」しちゃってるしね。
あと、これは随分前にも言ったことがあるけど、こういう風に「難しい事柄を、分かりやすい言葉で、きちんと述べる」ことを称揚したからといって、そもそも「語りえないもの」を低く見ている、とは思わないで欲しい。藤崎さんも言っていたように、「正しく使われる言葉と論理によって」伝えられることなんて、全事象の1%にも満たない。それでも、というか、だからこそ、その1%にも満たないようなことを、「正しく使われる言葉と論理によって」伝えなければならないし、また、たとえ全体から見ればごく微少なことしか「正しく使われる言葉と論理によって」伝えられないにしても、そうした「正しく使われる言葉と論理によって」伝えられることを低く見るべきではない、とも思う。
宮本さんのアプローチに関しては、やっぱりおれ、やや「選択的」だと思うな。そういう「選択的」であることを狙ってるのかもしれないけど、それならそれで、その点についても肯んぜないし……。
この前、宮本さんと会ったとき、この「伝わる/伝わらない」って話をちょっとして、宮本さんは、「あんまりにも伝わるように、つまり理解しやすいように物事を語っちゃうと、カルト的なものを誘発しちゃう」って言ってたんだけど、おれにはむしろ、宮本さんのようなやり方のほうが「カルト的なものを誘発」するように思えて、未だ釈然としないんだけど、これは、正月に会ったときにでも、またじっくりと、だな。
で、長谷川さんの「凄い人」っぷり、おれも聞きたかったなあ。何となく、本当に「何となく」、その「凄さ」はその書いたものを読んでいるときに、そこに流れる「空気」を通じて、感じることができるけど。
それはともかく、「藤崎さんもの」がチャートの6位までを独占するには、まずもっておれが藤崎さんをネタにエントリ書かなきゃいけないわけで……。
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相場の世界のプチ中沢新一って、結構います。
そいつらに、砲撃を浴びせるのが、藤崎さん、はやしさん、原作たそがれ清兵衛のしたいことなのかもしれません。
>哲学書や心理学の本は、ほとんど毒薬
>哲学書は劇薬
について
心理学の本がダメっていうのは、結局、フロイト、ラカン流に「過去(と現在)の自分との気持ちの整理」に奔走して、自分の殻に閉じこもり、過去(と現在)に恨みつらみを延々と並べたてて、結果自分がこれから将来に向って歩き出して、自分なりの生き方をすることを忘れてしまうからです。
以前書かせていただきましたが、治癒の基準は、陽性症状たる、幻聴、幻覚、妄想といったことが無くなることでは決してなく、「普通の対人関係を普通にこなせるか」なのです。
少なくとも、専門的な医学の世界ではそういう考えが支配的になってきたと思いますし、私もそう考えます。
対人関係をこなすことについて、上手い下手というのは、結構生まれもっているものだとは思いますが、傾向として精神病にかかる人は、生まれつき もともと下手な人が多い。
「普通の対人関係を普通にこなせる」ようになるには、まず、普通の対人関係に慣れないといけない。これが、結構というか強烈に病気の人には苦痛なんですね。それで、心理学の本や、社会的原因論でその逃げ道を正当化して、普通の対人関係をもつことから結構逃げまくるのですね。
この普通の対人関係を持つというのは、脳神経のリハビリみたいなもので、例えば、野球の長島茂雄さんが、体のリハビリを行われたように結構つらいものなのです。
結局、心理学や、社会的原因説ってのは、そのつらいリハビリに向う自分の意識を簡単に削いでしまい、「こんなことするのは辛いし嫌だ」という単なる「逃げ」を正当化し、精神病者の自立を妨げてちゃうのです。
哲学書なのですが、これは思弁色が強くて、ゆえに精・神・病・患・者・が・読・ん・で・い・る・と、「自分」の外ではあるものの「自分と隣接している、今そこにある社会」を「自分」から、すっ飛ばしてしまうのです。
故に、リハビリ自体を馬鹿にして行わなくなる。待っているのは、おそらく症状のさらなる悪化です。
但し、ニーチェとドゥルーズは、私・の・場・合、良いほうに効きました。「死」や「病」という非「生」、非「健康」なんて、わざわざ措定しなくとも、「生」や「健康」について十分語ることができるという特異な哲学であり、「生」や「健康」こそが喜びであると言い切っている?哲学だから、読んだら、病人もリハビリをしない事がいかに馬鹿なことかを理解できますから。
だから、哲学書は思弁的だから、という理由はちょっと当たらないかなあ、と思います。それを言ったら数学書はどうなる、とか。まあ、ある意味、数学書もヤバイかもしれないですけど。
この部分ですが、誤解をまねきかねないので、ちょっと注釈を。
実は、脳に器質的異常が起こると、その部位自体が、元に復元されるには50年くらいかかるとかいわれているようです。
すると、結局、50年も待っていられないから、その代替機能を、普通に機能している脳神経を使って 開発しないといけない。
その機能の 開発には かなり前頭葉が関与しているようなのですが、対人関係をこなすのに非常に重要な役割をになう前頭葉自体が、脳のどこかほんの一部で器質的異常が発生した時点で、かなり柔軟性を欠くようになっている。
(ちなみに、「吉」の大半は、人格障害とは無縁です。この前頭葉に障害が発生すると、人格障害になるとかならないとかそんな話があります。)
故に、対人関係をこなすのは、「吉」を発病すると、本人にとって、かなり苦しい試練となります。
これから、逃げると代替機能が開発されないのですね。
そんで、なぜか、代替機能が開発されたころ、ちょうど前頭葉が柔軟に戻っているから、それで、治癒の基準が「普通の対人関係を普通にこなせるか」になるのであって、破損した箇所が生んでいる幻聴、幻覚、妄想は、消えても消えなくても、どうでもいいということです。
先週、内科の医者で風邪薬をもらったんですが、その中にポララミンなる薬が。一応効用としては、鼻水アレルギーに効くとなっていますが、実は、この薬、精神安定剤系の薬。
平日は、眠くなると困るので、飲むのを避けていたのですが、昨日飲んだら、悪夢でうなされるし、まだ眠いわ、それに抑鬱状態になって、はやしさんが、僕に振ってくださった?「差異と反復」ネタのコメントも思い浮かばない有様です。
10年以上前は、結構、「吉」医者にこの薬を処方されていたんですが、結構、私とは相性の良い薬でした。
「吉」の皆さん、過ぎたるは及ばざるがごとしといいますが、かつて自分に相性が良かった薬でも、病状の回復とともに、毒になることもあります。
ひどい話だと思いますが、結局、「吉」患者にも、「薬」の量をどうするか、(そして、薬の種類をどうするかを医者とネゴするという)「自己責任」が求められます。要は、薬の量や種類を合わせられない医者が多いということです。
私や、私の「吉」家族が、そこで採用したのは、「場帖」でも「GANNチャート」でもなくて、「お薬帖」でした。
内容は、飲んだ薬の種類と量を、きっちり服用した日時まで書いてつけて、あと、そのときの気分や、体調を書いていくというものです。
そして、状態が悪くなったら、薬の服用量が悪いのか、また種類が悪いのか、服用時間が悪いのか といった分析にテータとして使うんです。
って、まあ、この手法を、「吉」の 皆さんにお勧めするわけではありませんが、藪医者にしか恵まれなかった私と、私の家族が実際やってみて、それなりに成功を収めた方法として、あくまで「自己責任」で、ご参考にしてください。
で、「お薬帖」、それはけっこうマメじゃないとできませんね。おれにはちょっとムリっぽいです。
>脳と免疫系と肌は、胚細胞の同じところが分化してできる
って、ことも。
それにしても、この業界、やっぱ藪医者多すぎですよ。医者が書いた形跡があまりにも無いってのは、不思議。
普通スレッドがたてば、その業界の人らしき人も絡んでくるはずなのです。
やっぱ、藪ばかりで、何もかけないんじゃないですか。この業界は。
で、また持論を書いて申し訳ないですが、医者が藪である以上、求められるは、患者の自己責任って、ところですか。酷い話ですがね。
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