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この間チャットでご一緒した永遠小僧さんが、「きちんとした哲学事典」の話をしていて(もっとも、「きちんとした哲学事典」のことを、永遠小僧さんは主題的に語っているわけではないのだけど)、それを読んで、「そもそも、きちんとした哲学事典、というものは、存在しうるのか」と、ちょっと考えてしまった。
「きちんとした哲学事典」という表現の、「きちんとした」という修飾辞は、その内容の網羅性、真正性、不偏性、といったものを指示するのであろうが、これらいずれの点をとっても、なかなか難しい問題を孕んでいる。
まず、網羅性、ということで言えば、その事典が扱っている領域が、地域的・時代的に網羅的、であることが要求されるが、この意味で「きちんとした」ものは、ほとんど不可能に近い。たとえば、地域的に網羅すると言っても、大きく「東洋」と「西洋」に分けられるわけで、このいずれかの領域内だけでも「網羅的」であることは難しい。さらに、話を「西洋」に限り、さらに時代も「現代」に限ったにしても、いわゆる大陸系のそれと英米系のそれを「きちんと網羅」するのも困難と言える。
さらに、真正性、ということになると、事態はさらに紛糾する。そもそも、扱う事柄の「真正性」に決定的な決着がついていないから、未だ「哲学」という営みが続けられているのであって、ここには原理的な難しさがある。
その場合、ある事柄について言われている/言われたことを、偏りなく、つまり不偏に集めることが、「きちんとした哲学事典」に要求されるわけだが、これを「網羅的」に実行しようとすると、えらいことになる。そこまで極端に走らずとも、哲学界である事柄について出されている「代表的見解」を網羅していればいいではないか、と言われそうだが、この「代表的見解」を定める時点で、血を血で洗う闘いが繰り広げられることは、目に見えている……。
だから、如上の意味でストリクトに「きちんとした哲学事典」というものは、ちょっと存在しそうにないけど、ある領域、ある時代、そしてある人物に特化したものでは、それなりに「きちんとした」と言える事典はいくつかある。そういうわけで、おれが所有しているもののなかから、いくつか紹介してみよう。
まず、永遠小僧さんの記事でも触れられている『現代思想を読む事典』を含む、講談社現代新書「哲学思想事典三部作」。
『現代思想を読む事典』は、永遠小僧さんも言っている通り、上記の「きちんとした」という基準のいずれにも当てはまらないが、書名にも謳っているように、「読む」分には面白い。守備範囲としては、現代大陸哲学、といった感じで、それらのことが「不偏」どころか、偏りまくった筆致で綴られる。
『現代哲学事典』は『読む事典』よりもオーセンティックなもので、上記の三条件がそれなりに満たされている。扱う領域も、西洋に限らず東洋思想にも触れられているし、書名では「現代」と名乗っているが、実質「全時代」を扱っている。
それでも、上の二つはどちらとも、いわゆる「分析哲学」の扱いが薄い。というか、ほとんど無きに等しい。そうした瑕疵を埋めるのが『現代科学思想事典』だ。書名は「科学思想」だけれども、うるさいことを言わなければ似たようなもの。現在「品切れ重版未定」だけど、ここんとこちょろっと「科哲ブーム」めいてるんで、リイシューもありかもしれません。
上のような新書タイプのものでは不満、物足りない、という向きには、今現在日本で一番「きちんとした哲学事典」に近い(でも、「今現在」、「日本で」という制約を取っ払えば、まだまだ「きちんとした哲学事典」には遠い)『岩波哲学・思想事典』しかないだろう。
編者を見ると、その時点で「ちょっと偏向してるなあ」という感じがするのだが、それを差し置いても、時代・地域・領域のいずれを見ても、まあ網羅的だし、比較的不偏で真正なのではないかと。
しかし、それでもまだまだ「分析系」の扱いが薄い……そう感じたのであれば、紙ベースのものではないが、残されるはStanford Encyclopedia of Philosophy だ。
これは、「分析系」というに留まらず、あらゆる意味で「きちんとした哲学事典」に近いものだと、個人的には思う。内容の充実度は言うに及ばず、リファレンスもしっかりしているのがありがたい。
今まで挙げてきたものは、いずれも「項目主体」だったが、人物区切り・時代区切りの哲学事典としては、次のようなものがある。
紹介しといてこう言うのもなんだけど、内容的には可もなく不可もなく、といった感じ。
ここらでちょっと眼を「哲学大国」フランスに向けると、Dictionnaire de philosophie が面白い。この事典は、大学入学資格試験の対策本みたいなもんで、日本で言うと「高校生向け」になるんだけど、なかなかどうして、西洋限定だけどそこそこ網羅的だし、内容も「無難」という意味で真正だし、何より、各項目に、そのことを論じた哲学者の言葉が引用されていて、そこを拾い読むだけでも時間が潰せる。
人物別事典では、Ellipses社のVocabulaire deシリーズが、それぞれ100ページにも満たないけれど、簡潔でいい。ドゥルーズ、デリダなんていう「それっぽい」ラインナップのみならず、フレーゲ、クワインなんかもあり。
英語ものでは不思議にdictionaryとかencyclopediaとか銘打った哲学事典はあまりない。あっても、「うーん、ちょっとイマイチかなあ」というものが多い(くぉーんなのはあるけど……個人所蔵向けじゃないな。もちろん、おれも持ってない)。
かと言って、哲学事典に類するようなものが全然ないわけじゃなくって、そういう「哲学事典」としての役目を果たすのがいわゆる「コンパニオン」もの。有名どころではCambridgeとBlackwellなんかが、種類も豊富で、内容も粒揃い。
こうしたコンパニオンものは、事典での区切りよりももうちょっとまとまりを持った項目が連なる感じで、言うなれば、「全編大項目ばかりの事典」という趣だけど、インデクスを使えば、十分普通に事典として機能する。
で、Cambridgeは人物中心に編纂しているものが多く、Blackwellは主題中心に編纂しているものが多い、という感じだけど、とくにオススメしたいのが後者のBlackwellのシリーズで、なかでもメタフィジクスとエピステモロジーの巻はmust readと言える。おれの趣味でいくと、当然ロジックの巻だけど……ちなみに、同じBlackwellの哲学アンソロジーシリーズも、最高(話題がややずれてきた……)。
あと、ドイツ語ものでは……って、もういいか。大体、あんまよく知らないし。
って、こんな感じで、どれも「一長一短」なんで、一冊に全てを求める、というより、何冊か手元に揃えておく、ってのが、今のところの「正解」でしょうね。
「きちんとした事典」というのは「網羅性」「真正性」「不偏性」の側面から規定しておられるのは、まったくその通りだと思います。もっともわたしが「きちんとした事典」と書いたときは、あまりそんなことも考えずに書いていたのですが。あと個人的には、「人名」の説明よりは「概念」「主題」の説明、とりわけ歴史的変移に記述の重点を置いているのが好みなので、Blackwellにはちょいと手を出してみたい気がします。『哲学思想の50人』は読んだことありますが、これも伝記的事実がたま〜におもしろい「読み物」としてはまあまあだと思うのですが、はやしさんの言うように「可もなく不可もなく」という感じを受けました(「調べる」という用途にはあまり向かないような……)。
で、『現代用語の基礎知識』とか『知恵蔵』とか『imidas』とか、年末になるとなぜだかそろって刊行されるこの手のやつ、けっこう思想哲学の項目に紙幅割いてたりしますよねえ。何なんだろ、そういうのって。しかも、別段「基礎知識でも何でもねーじゃん」ってことなんだよな、載ってるのが……って、批判はともかくとして、おれも今現在、そういうものの思想哲学の項目がどういうことになってるのか、寡聞にして知らないんで、今年は一つ、ちゃんとチェックしてみようと思います。
って、「思想哲学」の項目自体、きれいさっぱりなくなってたりして!
で、事典でも、そして辞典でも同じなんですけど、それらが何を扱ったものであるかに関わらず、「きちんとした」ってものを作るのは、原理的な困難を抱えてると思うんですよ、哲学事典に限らず。ただ、その中でも、哲学はその学が扱っている事柄に起因する困難というのもあり……大変ですね、哲学事典編纂者は。
ブラックウェルのコンパニオンシリーズ、おれもシリーズ全部に眼を通したわけではないので大したことも言えませんが、おれが読んだことがあるやつに限って言えばどれも「当たり」だったので、是非。
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