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久方に『デュシャンは語る』を読み返していて、改めて「デュシャン、いいわあ」と、また、きわめて向こう見ずな言い方をすれば「あ、おれだ」と思った。
で、そういう箇所を、文脈とかはまるっきり無視してクリッピン。
生活のために働くというのは、経済的な観点から見ても、少しばかげたことだと思います。
実を言えば、私は芸術家の創造的機能などというものは信じません。
社会的な目的はありません。それがとりわけ重要なことです。
この時代にあなたを動かしていたのはどんな感情なのでしょうか。
人並みはずれた好奇心ですよ。
あなたは抽象的であったことは一度もない?
言葉の現実的な意味で、ありません。『花嫁』のようなタブローが抽象的なのは、そこに形象化がないからです。しかしそれは狭い意味での抽象ではありません。それはお望みならば、内蔵化と言ってもいいものです。
食べるために絵を描くことと、絵を描くために絵を描くこととは別なことです。一方が他方を損ねることなく、同時にこの二つをどちらもうまくやることができます。
あなたの人生のうちのかなり多くの出来事について、あなたはただ、ひとの頼みに答えることだけに甘んじている、という印象がありますが?
普通、ただそれだけです。自分からひとに頼んで何かをする、いわゆる野心家では、私はないのです。そうするのは好きではない。第一に、疲れますし、次には、一般的にそれは何の役にもたちません。私は何も期待していないし、何も必要としていないのです。
何を信じていらっしゃるのですか?
なんにも! 《信じる》という言葉は、間違いです。
あー、キリがないんで、ここいらで止め!
是非、現物を読まれることをオススメします。
でもイイコト言ってるな。ほんと好奇心無くなったら終り、と思う。「信じる」の代わりに何があるか?って考えたのだけど、単純に言うなら「好き!」かな。今まで、ン十年間「好奇心」と「好き」をガソリンに動いてきたようなもんだもの。
ところで、別件の新しい事、とりあえず、はやしさんが、横浜までこれたらフニャコと相談ってどうですか?見せたい場所もあるし。東京の方がいい?
このデュシャン本ってひょっとしてエピステーメー選書だかから出てたやつですか? だとすると僕も読んだはずなんだけど、こんなこと言ってたんですね。
若い頃デュシャンの画集は面白いなあと思いながらよく眺めてましたよ。「大ガラス」はもちろん、異色のキュビズムとも言える「階段を降りる……」なんかも。
デュシャンの作品見てて一番感じたのは、脱力した知性こそが大きなことを成し遂げる………みたいなことですかねえ。今絵は描かなくなっちゃったわけですが、その理由の半分ぐらいはデュシャンの作品や生き方に触発されて、みたいなとこありますからね。
ただ、個人的な趣味で言えば、たとえばピカソの中に感じる知性のほうがピンとくるというか、親しみを感じます。なんていうか、もし僕が女だったら、ピカソとは愛し合いたいけどデュシャンとはつきあわないだろうなあ、なんて思いますね(笑)。
この本かどうかわからないですが、ただ一つデュシャンの言葉で覚えてるのは、『最近の画家は20代で個展なんかを開きたがる……個展を開けばいいと思ってるんだ。」なんて苦言を呈してるとこ。ちょうど23歳のとき僕は個展を開いたので、「何言ってやがんだ!」って思ったのを覚えてますよ(笑)。
それにしても、昔読んだはずの芸術家の言葉、もう一度読み返してみたいですねえ。当時と全然違う読み方ができそうなんで………。でもなかなかじっくり読む時間が取れないのが残念だ!
はやしさん、サイトの件は、フニャコの帰り待ちって事で、又連絡します。
上野っていえば今、都美館で「アール・デコ展」やってて、1930年代オタクとしましては、こじんまりとした展示ではあったけど、面白かった。この時代の工藝って創り手が、素材を楽しんで使ってて、日本の漆とか何でこういうの今、作んないのよ!って感じ。
ピカソもね、1920年代の゛Harlequin with Folded Hands" とかの方が、シンタも好き。
しかし、ピカソと愛し合うって・・・。ちょっと濃すぎる。フォアグラ丼は、美味しいか?みたいな。
スミマセン、変な例えで。
荒井さん、はじめまして。
個展なさったって、差し支えなければ、どんな個展かお教え下さい。
おれね、確か上野だったと思うけど、観に行ってんですよ、デュシャン。で、それまでほとんど「観念的に」捉えていたデュシャンが、生々しく迫ってきた衝撃、というのがデカイですねえ。だからおれにとってデュシャンってのは、「記号」というよりも、ごく普通の意味での「画家」って感じですね。
「信じる」って言葉に関して、ほんとつねづね「間違ってる!」というか、そんな言葉は存在するべきじゃない、って思ってたんですよ。というのも、「信じる」ってことは、何らかのものの「非在」を前提とした言葉ですよね。「それが在るのだかどうだかよく分からんけど、在ると『信じる』」って具合に。それって、まあ「麗しい」心の機微、なのかもしれないけど、態度として半端じゃないですか。おれ、「在るものは徹底的非妥協的に『在る』し、無いものは無い!」って押し切っちゃいますから(って、啖呵切っちゃったけど、実際どうだろ?)。
で、横浜でも、ちょっと東京よりのとこでも、どこでもいいですよ。フニャコさんはどこ住んでんでしたっけ?
そう、おれが記事に挙げた『デュシャンは語る』は、その昔エピステーメー叢書で『デュシャンの世界』というタイトルで出ていたものです。
「脱力した知性」って、ほんとデュシャンってそうですよね。それも、「がっくり脱力」ってんじゃなく、「肩の力が抜けた」(ただし、普通とは比べ物にならないぐらい)っていう脱力具合。「普通」であることを徹底すると、とんでもなくへんてこりんになってしまうという実例というか。
ピカソもいいですよねえ。おれ、キュビスムにいっちゃう直前辺りの頃のピカソが好きです。何てことのないデッサンとかでも、線の迷いのなさが尋常じゃない。
でも、「愛し合いたい相手」として、ピカソとデュシャンを比べるのは酷でしょー。とはいえ、ピカソはピカソで大変そうな気も……。
私の個展に関しては、私のブログの目次の中から”ギャラリー”ってとこをクリックしていただければ見ていただくことができます。
ピカソはやはり情熱の国の人ですからね。でもその濃さがいいんですよ(笑)。想像するにデュシャンはあっちの方は淡白なんじゃないかって気がす………失礼しました(汗)。
荒井さん、ちょっとオヤジが入っていますよ。朱に交われば赤くなるって言います。赤くなった僕と、今日交わりすぎて、荒井さんも、ちょっと吉本脳の前兆が・・・。危険ですから、吉本脳を構成している私のような人は避けてください。
でも、はやしさんって、凄いなあ。僕の吉本脳を一切引っ張り出さずに3カ月経ちましたね。 本当に超人かもって思ってしまします。
はやしさん、お願いですから、僕の吉本脳を早く完全に除去してください。
そういえばやってますねえ、アール・デコ展。これ、レンピッカも来てるんですよね。
で、素材を楽しむ、というか、素材に溺れる、というか、こういうことって造形藝術に限らず、重要なことですよね。まあ、それが昂じて「素材に飲まれ」ちゃったら元も子もないっつー感じでもありますが、音楽とかでも「音そのもの」に対するフェティッシュな姿勢というものがないと、つまんないものになっちゃう、という気がしてます。
新サイトの件、フニャコさんの都合がつき次第、メール下さい。
ピカソはやっぱり「濃さ」がいいですかあ。まあ、濃い薄いはともかく、普通一般の意味で「暖かい」感じはしますよね。ただ、それを考え合わせてもぼく個人としては、デュシャンの方が付き合いやすそうかなあ、と思ったり。
……って、話はどんどんあらぬ方向へ。それもまた、おかし。
吉本脳、ってのは、「隆明」のことではなく、「新喜劇」の方、ですよね? そういう要素が脳内に胚胎しているはしているで、おもしろいじゃないですか! とはいえ、本人としては、それを好ましからざるもの、として認知しているのであれば、無邪気にオモロがってちゃダメか。
私の先の発言、全然、深い意味はないですから安心してください。(笑)
はやしさんのコメント読んで大笑いしただけのことです。
吉本さんの場合同じアホとボケ でも、大阪で使うアホとボケとの意味の差異は大きいですね。昔、浅田彰が吉本さんの確か「非知へ」っ本に「ボケへ」って ルビをふっていたのですが、この人、こういうルビの才能だけは抜きん出ているなって思いました。
まあ、浅田彰が表出した意味合いぐらいに受け止めておいてください。
でも、大阪「吉本」は恐ろしい。昨日寝る前に気がついたのですが、これは哲学的に非常に大きな問題をはらんでいますね。「差異を生まない反復は無い」というのが私の(そしてドゥルーズの?)立場なのですが、宇宙で唯一の例外ですね。(笑)
昨日、それを考えると恐くて寝られなくなりまして。
これで、また私は、病院行きでしょう。(笑)・・・冗談ですけど。
でも、東京系インテリの 気をふれさせるデモーニッシュな何かがあるってことは確かです。
んんん、僕言っていることが矛盾しているなあ。
デモーニッシュな何かがあるっていえば、なんか「吉本」に差異を認めたことになる。
よっしゃ、こうします。私、原作たそがれ清兵衛の独断と偏見で「吉本」からは差異が生まれないと認定します。
荒井さんのところで書いた「吉本」のR指定は、僕本気で言っています。
ありゃ、青少年に見せちゃだめですよ。ほんと、ほんと。
吉本新喜劇をはじめとする吉本文化に幼少期から成人するまで毎日長時間(朝から晩まで)ふれることにより形成される特殊な脳。
まず、同じワンパタンのギャグ的刺激に対して、これまた無批判にワンパタンな笑いで反応する。
こらが、延々と強烈な反復をもって繰り返されるため、一種の洗脳性をもつ。
従って、異なる人物でも、極めて同じパタンの単純思考しかできなくなる。
当然、論理的思考は不可能。感性的笑いのみを是とする。
当然、読書なるものはしない。
そこで、自由な思考は一切奪われ、体制迎合的性格を形成し、変革意識ゼロ。
「惰性的現在が、延々と続くことが、快感となる。」
「ニヒリズム的永遠回帰が、快感以外のなにものでもない。」
カイシャに帰属すると仕事より、「儀式」に快感を覚え、酒にカラオケ浸り。
無職なら、朝から晩まで「どうやったら勝てるかすら、まじめに思考することなく」パチンコ台へ向う。
こういう脳のことです。
ほとんで、ヤク中と同じです。
じゃあ、朝から晩まで毎日テレビをみている人とどこがちがうのか?
「同じことの強烈な反復が、極めて強い洗脳性をもつ。」これが、大きなポイントで、「ニヒリズム的状態の永劫回帰が快感となる」ことです。
ニヒリズム的永劫回帰からどうやって抜け出すかに悩んで知る皆様、「ニヒリズム的状態の永劫回帰が快感となる」って信じられますか?
私は、考えただけで背筋が凍ります。
いや、心配、というか、単純にぼくが文脈を読めなかったので、どうなんだろ?という感じで、逆にお手数掛けちゃってすみません。あの流れだと、「ボケ」てるのは多分ぼくだろうけど、ただそれだとセットになってる「アホ」という言葉もぼくに向けられていることになり、そういうことをいきなり原作たそがれ清兵衛さん言い出すだろうか?とか、まあ下手な考えを巡らせちゃったわけですが、ともかく、関東的、というか、東京的なものと、関西的、というか、大阪的なものというのは、色々違うんでしょうね。
ぼくは関西には、というか、東京近郊から出たことが(旅行などの一時的なものですら)ほとんどなく、本当に通俗的イメージ以下のものしか大阪的なるものに持っていませんが(道頓堀、食い倒れ、吉本……)、どうなんでしょう、それほど違いますかね? いや、これは「違わないでしょ?」と言っているわけではなく、本当にその判断材料を持たないので、こういう疑問形になるしかないのです。
こと「お笑い」というジャンルに関して言えば、西の笑いは自らを低めて笑わせ、東の笑いは相手(客)をいじることで笑わせる、という区別(?)も耳にしたことがありますが、今日ではこうした基準もほとんど無効でしょう(って、そもそも「お笑い」に詳しくないので、これまたなんとも言い難し、なんですが)。
ただ、どうでしょう、「吉本」は確かに「ワンパターン」なのかもしれませんが、大衆の娯楽というものは、東も西もなく、概ね「既知なるものに対する反応」なんじゃないでしょうか。何らかの新奇なものに感応する、というのではなく、見たことがある(ような感慨を催さしめる)ものに対する「安心感」、そういうものが底流にあるような気がします。
翻って、「ワンパターン」なものに対する接し方の問題、ということもあると思います。たとえば、これは多分ドゥルーズなんかもどっかで挙げていた例だと思うんですが、時計の針が動く音、というのは、これはもう、それ自体としては疑う余地なく「ワンパターン」です。しかし、それを感応する側から見れば、その音の聞こえ方は、一音一音、根本的に違った聞こえ方をするはずです。何となれば、「チクタク」のn音目を聞くときには、n-1音目までの「記憶」があるわけですから……。
まあ、こうしたことと、「吉本新喜劇」の捉え方というものを同列に考えることは「無茶」なのかもしれませんが、図式的に言うと同じことです。しかしやはり、「新奇」なものは単に「新奇」なのであって、ドゥルーズ的差異の真骨頂は、一見「既知」なるもののうちに、何ものにも還元されない絶対的差異を見出すこと、そういうものに在するように思います。
そう考えると、日本のいわゆる伝統藝能ってのは、けっこうな「反復の中の絶対的差異」ってものが現出する場なんじゃないか、って思ったりもするんで、そこからの連想で「吉本的なるもの」にも若干甘い評価を下したような感じですが……ごめんなさい、実際のところ、吉本新喜劇って見たことありません。
ちなみに、「お笑い」ということではぼくはモンティ・パイソンがかなり好きで、ビデオを全巻購入して、全巻購入特典の壁掛け時計を貰ったものの、それに同封されていたチラシに「DVDの発売が決定しました!」とあり、ガックリしたクチです。
そのモンティのスケッチは、ドイツで放映された"Monty Python's Fliegender Zirkus"第2弾の中の国際サッカー試合「ドイツ近代哲学チーム対ギリシア古代哲学チーム」スケッチで、ビデオだと"Monty Python Live at the Hollywood Bowl"とか、あとベスト版(名前忘れた)なんかで見ることが出来ます。
で、両チームの面子は、ドイツ陣がニーチェ、マルクス、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ギリシア陣がソクラテス、プラトン、アリストテレス、アルキメデス(アルキメデスが入ってるのがちょっと「?」という感じだけど、まあスケッチの流れ的にムリヤリ入れた、ということかな)ってな具合で、審判が何と孔子(!)。それで、試合開始の笛が鳴るや、みなそれぞれに思索を巡らしたり、自らの教えを説いていたり……という感じなんだけど、突然アルキメデスが「Eureka!」と叫び……ってな、屈指の名スケッチです。
というわけで、当初の質問に戻ると、観たことありますよ!
時計の話まで思い浮かべていましたね。(爆)
吉本に限らず大衆芸能のすべてに、はやしさんのおっしゃるとおり、何ものにも還元されない絶対的差異を見出すことができると思います。
ただ、吉本と他の大衆芸能の違いを論ずるのは、東京と大阪の「アホ」や「ぼける」の違いを論じるぐらい難題です。
東京と大阪な「アホ」や「ぼける」の違いを論じるのは、東京のそれと大阪のそれを両方知っている人の間でしか無理なのではないかって思ってしまいます。
吉本と他の大衆芸能の違いもそうでしょうね。きっと。
ただ、東京で、お笑いの寡占化という状態は発生して無いと思いますが、大阪はほぼ吉本の独占状態です。
で、大人も子供も吉本しか知らないから、日常までが、吉本的発想や言説で満ち溢れています。
昔は、土日になると朝から晩までどこかのチャンネルで必ず、吉本が放映されていました。
最近は、そういう現象は消えましたが、逆に言えば吉本興業にとって、大阪での独占は今や絶対的なので、そうする必要もないとの判断があるのだと思います。
吉本が、ヒトラーのラジオ並みに、いまさら自らを喧伝することなくとも、もう完全に根づいちゃったんだと思います。
だから、もう吉本イデオロギーとも言えるものは、勝手に親から子へと受け継がれるまでの状態ですね。
ここが、大阪の偉大なる問題点なんですよ。
吉本的思考と言説しかない町。それはやはりおそろしいですね。
普通のOLしている女性でも、日常的に「ボケとつっこみ」をやっているのですから。
オヤジ同士の会話なんて「ボケとつっこみ」がないと成立しないところまできています。
吉本=「ボケとつっこみ」では決してないのですが、でも、吉本的「エグイ」発想と言説ばかりしかないんですね。今の大阪って。
すると、インテリは本当に、その発想がついていかないというか、もう日常の世界では言論の自由を奪われた状態です。
インテリと他者とのコミュニケーションが全く成立しない。
生きていくには、少しだけでも「吉本脳」を胚胎させるしかない。
でも、こういう世界って、なにか映画の「エイリアン」に似ていませんか?
とても気持ちわるいですね。
僕は、大阪に来るまでは、自らのことをインテリだなんて一度も思ったことなかったです。
でも、周りの人みていると、ああ、俺ってインテリなんだなあと思ってしまいます。
思考することなく、「ニヒリズム的状態の永劫回帰が快感となる」これって、ニチェーも想定外の人なんじゃないですか?
そう考えるとますます恐ろしいです。
で、荒井さんのところで書いた福知山線の脱線事故の話ですが、あの宴会、ボウリング、ゴルフの話、雨後の筍のごとく次から次へと出るわ出るわでしたね。
福知山線の事故について、なぜ、「宴会、ボウリング、ゴルフ」を中止しなかったのかという論調はあります。しかしなぜ「宴会、ボウリング、ゴルフ」がこんなに「同時多発的に行われていたか」ということを論ずることなく、今回の事故の背景は見えてこないと私は思います。
もう、大阪では、ファシズムの素地ともいえるものが、フーコーのいうように「下から」来ている気がします。そのファシズムの素地を論じるにあたり、吉本の問題は避けて通れないと思います。
おや、Sintaさん、タイ語できるんですか? ひょっとして旅行とかに行ったことあります? ナーラック マーク なんて普通の人じゃなかなか出てこないぞ。とにかくコップン マーク ナ クラップ!
原作たそがれ清兵衛さん、私がオヤジであることは間違いないです。でも私はエロオヤジですが、原作たそがれ清兵衛さんはなんだか酔っぱらいオヤジって感じですよ……(笑)。
アール・デコ展のレンピッカは一点だけ。流れを追ってポイント抽出って感じの展示でした。
もっと大規模な展示ならデューセンバーグ(車の方、ギターじゃなくて)の実物とか持ってきて欲しいな。
ところで、モンティ・パイソンですが、以前フニャコが板で、モンティ・パイソンの「哲学者サッカーW杯決勝ドイツ対ギリシャ」って話題にしていたんですが、観たことあります?これ絶対観たい!
キックオフの途端に皆、選手が考えこんじゃって動かないって、最高!
パワーがある作品ですね。見る側のイマジネーションを膨らます余地が、画面にありつつ媚び諂いが、一切ないというとこが良かったです。実物を拝見していなくて生意気なようですが、正直な感想。
作品の製作をやめられたようですが、「芸術とは「行為」であると、つまり芸術とは生きることそのものだというのです。」という言葉には共感します。女友達の1人に立体ですが作品を作ってる友達がいます。とびきりイイ女なんですが、キッパリと男らしい。(笑)
これ、上述の「媚び」に通じるのだけど、作品でも生き方でも「わかってくれよ〜」とか「わかれよ!」とかのスタンスが見えちゃうと こっちがすごく照れてしまう。究極的には、センスかなとも思います。
あと、一休さんヘアーのシンジ君「ナーラック マーク カ〜!」
「吉本的なるもの」については、ほんとぼくにはそれについての絶対的経験が欠如しているので、何を言っても的外れの感は否めませんが、原作たそがれ清兵衛さんが仰るスキームに乗っかるかたちで話を進めます。
「あらゆることが定型化してしまっている」というのは、多分大阪も東京もそれほど変わらない減少だと思われますが、そういう定型化の内実を考えると、「吉本的なるもの」がどういう点において思考や行動を強制するのか(バルトも言っているように、「何かを言わせまい/やらせまい」とする点にではなく、「何かをムリヤリ言わせられる/やらせられる」という点に、ファシズムのメルクマールがあるとぼくも思います)、それがちょっとぼくにはまだ見えにくいかなあ、という感じです。
そうした「吉本的なるもの」それ自体、というよりも、原作たそがれ清兵衛さんがその発現と捉えられている、なぜ「宴会、ボウリング、ゴルフ」がこんなに「同時多発的に行われていたか」、ということに関しては、ほんと「言われてみりゃそうだよなあ」と思います。
そう考えると、「吉本的なるもの」ってのは、均質的な欲望を止め処なくワンパターンに強制するもの、といったところでしょうか?
はやしさん、当たりです。!!!
わたしが、常々感じていることを、感情的でなく、論理的にほぼ完全な形で書くとはやしさんに書いていただいた内容になると思います。
ひとによれば、私の書いた内容を、「それは単に資本主義のありきたりの本質を言っているだけではないか? ファシズムの素地には関係無い」と思われるかと思います。
何が恐いかというと、権力的地位の頂点にいるものが指示するまでもなく、「下において」、自然と「何かをムリヤリ言わせられる/やらせられる」という行為が行われ、それがごくごく自然に容認されているところです。
均質的な欲望を止め処なくワンパターンに強制する吉本的なるものが、単に資本主義という枠にとどまらず、ファシズムの素地になりうるのは、「宴会、ボウリング、ゴルフ」を強制し、しないものを徹底的に「下」で弾圧する素地の形成に大きな一役をかっているところです。
(「宴会、ボウリング、ゴルフ」を 拒否するものに対して行われる、仕事での「下における」陰湿な制裁って、大阪では凄いのですよ。皆さん!!)
荒井さん、すいません。僕酔っ払って、荒井さんにからみでもしましたか?
大阪独特の悪いのりが出ていたかもしれないと思います。
(一度、ネット上で、からんだつもりがまったくないのに、そういわれたことがありました。)
もし、そうお感じになっていたなら、素直に謝罪いたします。
おれって、もう、十分大阪人なんだなと、また感じてしまいました。涙涙。
でも、ドゥルーズについて語る酔っぱらいオヤジなんて滅多にいないし、デュシャンについて語るエロオヤジもそうそういませんから、私たちプライドをもって行きましょう!
荒井さん、本当だ。俺の書き込みって、ずっと読み直してみたら確かに酔っ払い以外のなにものでもない!! 笑わせていただきましたよ。 どう考えても本当だもんなあ荒井さんの言っていること。確かに、確かに。
ははは、これで哲学の世界は、荒井さんと原作たそがれ清兵衛のものだ!!
ドゥルーズ+ガタリのコンビに代わって、エロオヤジ+酔っ払いオヤジの登場だ。
哲学界の「亀有ブラザーズ」の結成だ。!!
「ヒッパレー、ヒッパレー、ドゥルーズをヒッパレー♪♪♪、ヒッパレー、ヒッパレー、ガタリを、ヒッパレー♪♪♪、ヒッパレー、ヒッパレー、デュシャンをヒッパレー♪♪♪、ヒッパレー、ヒッパレーみんなで、ヒッ・パ・レーーーー♪♪♪」
荒井さん、「冗談じゃナ・イ・ヨ」って?
(このネタ、荒井さんや、はやしさんや、はやしさんのブログの読者の中に理解できる人がいるのか、ちょっと心配。(^_^;))
って、ことで、今回もまた、酔っ払いオヤジの書き込みとなりました。 m(_ _)m。
で、荒井さん=エロオヤジ、原作たそがれ清兵衛さん=酔っ払いオヤジ、とのことですが、そうかなあ、おれには両者ともそうは思えませんが……ただ、「見る人が見れば」というやつなのかな?(と、考えようによっては失礼な発言をしてみる)
「ヒッパレー」は、すぎやまこういちさんがディレクターをしていた「ザ・ヒットパレード」のテーマ曲、ですよね? おれはもちろんリアルタイムで見てたわけではないんですが(何せ、まだ生まれてない!)、あの洋楽を日本語にムリヤリ置き換えて歌うあの手法には……って、何かおれ、外してるような気が。
このネタの内容をちゃんと理解しておられてあえてボケておられるのか否か?
んんん「替え歌」であるというツボはついておられますので、どちらか判別がつきません。(笑)
実はビートたけしがやっていた「北野ファンクラブ」を見ていたら誰でも分かる簡単なネタです。東京ローカルの番組です。大阪方面では、場所にもよるのですが、数週間遅れで放映されていた番組ですが、私は「本当にこの番組が大好きだった」んです。
私の知る限り、私の会社でこの番組を観ていたのは、大学の先生に転職した私の大学以来の連れと、僕と話があう28歳の後輩以外にいません。(・・・こいつ、中学生で見ていたらしいです。凄いマセ餓鬼だな(笑))
でも、お下劣そのものとは言うものの、「大阪には絶対にない」とても味のある、お下劣さでしたね。
「冗談じゃないよ」っていうのは、北野クラブの「亀有ブラザーズ」のコーナーで、たけしが作り上げたキャラクター「鬼瓦権三」の口癖です。(正確には、鬼瓦権三の初登場は「おれたちひょうきん族」ですが・・・)
年齢的に、はやしさんが、もしご存知なら、確かに相当のませガキになりますね。(笑)
荒井さんは、ご存知では? でも、娯楽産業や映像産業に否定的ですので、見ておられないかもしれませんね。
キーワードで検索をかけてもあの「北野ファンクラブ」の真の姿、差異に満ち溢れた姿を表している記事には出会えませんでした。
わかりやすい、リンクを貼りたかったのですが、残念です。
というわけで、仕方なしにインテリ系エロオヤジの荒井さん向けに、私が毎朝早起きしてみているCNBCの美人?キャスターの絵でも貼っておきます。(同時多発テロのときの、この お姉さん(というかおばさん?)のNY証券取引所からの中継は格好良かったですよ。本当に。)
<a href="http
写真は真を表さないって言いますが、このお姉さん、「山田優」を濃くしたって感じの人です。
こんなことわざわざするから、やっぱり酔っ払いなんですね。私って(笑)
アリャリャリャ………。なんか相方がブログを荒らしてしまって、ホンマ、えらいすんまへん………って誰が相方やねん!
はっ! ひとりボケツッコミしてる……。まさか僕の脳はやっぱり吉……(汗)。
それと原作たそがれ清兵衛さん、このニュースキャスターのお姉さんは、ちょっと僕の趣味じゃないなあ。もうちょっとかわいい系がいいですねえ。
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