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ぼくはナショナリズムについてとりたてて思うところはないけれど、それでも、たとえば日本人が日本人であるというだけでスポーツなどで日本人を応援するという心性はまったく理解できないし、さらに、国家単位で争われる「代理戦争」としてのスポーツの大会などはそれがテレビに映っているだけで苦痛を覚えてしまう。その一方、反ナショナリズムを標榜する人たち(あるいは、標榜まではせずとも、反ナショナリズムに親和性を示すような人たち)が代理戦争としてのスポーツ大会をよろこんで観戦し、あまつさえ自国のチームを応援したりしている。その、理論的なけじめはどうなっているのか、ちょっと気になるところだ。
【追記】誤解をあたえるおそれがあるかもしれないので絮言しておきますが、誰かが理念として国家主義(あるいは反国家主義)を掲げようが、国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしもうが、さらには、理念として反国家主義を掲げつつ国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしもうが、そんなことは個人の勝手だと思っています。つまり、それらの理念や趣味にかんする一般的な価値判断、言い換えれば、「どちらかの立場こそが正しく、他の立場はまちがっている」という判断はここではなされていないし(そもそも、いっぱんに、趣味判断を「正しい/まちがっている」という価値判断の俎上に上せるには、かなりの前提が必要です)、ゆえに、理念として国家主義(あるいは反国家主義)、国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと、さらには理念として反国家主義を掲げつつ趣味として国家単位で争われるスポーツの大会をたのしむことがここで批判されているわけではないのです(いや、「理念として反国家主義を掲げつつ国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと」にかんしては、じゃっかん批判的なまなざしが向けられているかも、ですが)。ただ、「理念として反国家主義」と「国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと」はひじょうに食い合わせがわるいように思われるので、もしそれらひじょうに食い合わせがわるいと思われるふたつの立場を統合する立場が存在するとすれば、それはどのようなものかが理論的な興味としてちょっと気になった(そして、やや少しそれらの立場を統合する立場を考えてみて、「これはなかなかの難問だぞ」と思った)だけの話です。
【さらに追記】そもそもぼくがこのようなエントリを書こうと思ったのは、ある人が「趣味的には好きだけど理念としては認められない」というものをすべて処分したということを知り、「それはりっぱなもんだ。でも、おれにはとてもできないな」と思ったからで、つまり、理念と趣味とのあいだでの相克に面したときの身の振り方ということが主題としてあり、そして、そういう相克があった場合、「理念を捨てて趣味を取る」というのも、それはそれでひとつの判断だと思ういっぽう、理念と趣味が軋みをあげてもそのことにはほうかむりして両方を保持するというのは「なんかずるくない?」と思ったからなのだった。
【追記】誤解をあたえるおそれがあるかもしれないので絮言しておきますが、誰かが理念として国家主義(あるいは反国家主義)を掲げようが、国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしもうが、さらには、理念として反国家主義を掲げつつ国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしもうが、そんなことは個人の勝手だと思っています。つまり、それらの理念や趣味にかんする一般的な価値判断、言い換えれば、「どちらかの立場こそが正しく、他の立場はまちがっている」という判断はここではなされていないし(そもそも、いっぱんに、趣味判断を「正しい/まちがっている」という価値判断の俎上に上せるには、かなりの前提が必要です)、ゆえに、理念として国家主義(あるいは反国家主義)、国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと、さらには理念として反国家主義を掲げつつ趣味として国家単位で争われるスポーツの大会をたのしむことがここで批判されているわけではないのです(いや、「理念として反国家主義を掲げつつ国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと」にかんしては、じゃっかん批判的なまなざしが向けられているかも、ですが)。ただ、「理念として反国家主義」と「国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと」はひじょうに食い合わせがわるいように思われるので、もしそれらひじょうに食い合わせがわるいと思われるふたつの立場を統合する立場が存在するとすれば、それはどのようなものかが理論的な興味としてちょっと気になった(そして、やや少しそれらの立場を統合する立場を考えてみて、「これはなかなかの難問だぞ」と思った)だけの話です。
【さらに追記】そもそもぼくがこのようなエントリを書こうと思ったのは、ある人が「趣味的には好きだけど理念としては認められない」というものをすべて処分したということを知り、「それはりっぱなもんだ。でも、おれにはとてもできないな」と思ったからで、つまり、理念と趣味とのあいだでの相克に面したときの身の振り方ということが主題としてあり、そして、そういう相克があった場合、「理念を捨てて趣味を取る」というのも、それはそれでひとつの判断だと思ういっぽう、理念と趣味が軋みをあげてもそのことにはほうかむりして両方を保持するというのは「なんかずるくない?」と思ったからなのだった。
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ぼくは現在、日本に住んでおらず、さらには日本語を(おもには)話していないので、「日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実」は共有していませんが(そういう意味で、物理的にも心理的にも「孤立している」と言えるのかもしれませんが、その「孤立してあること」は、ただたんに「そういうもの」というだけのことで、そこに一切の趣味判断を超えた、理念にかかわる価値判断を認めることはぼくにはできません。趣味判断を超えた、理念にかかわるある価値判断をそこに認めることができると羽賀さんは考えるのであれば、どのような点で、なぜ、「孤立してあること」がそのような価値判断に寄与しうるのか、言い換えれば、ここでの文脈で「孤立している」ということがどのような意味を持ちうるのか、ご説明ねがえますでしょうか?)、あくまで一般的に、「日本人が日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実」を共有しているという前提で言えば、ただそういう現実があるというだけのことで、どう理解するも何もないと思います。ぎゃくに、羽賀さんは「日本人が日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実」をどう理解されているのですか? そして、このような質問をされた意図がよく分からないので、その意図を説明ねがえますでしょうか?(誤解されているかもしれませんので、ぼくがこのエントリで書いたことをやや敷衍しつつ繰り返せば、ここで問題にされているのは、ナショナリスティックな思想をもつことや、あるいは国家単位で争われるスポーツの大会を観戦することの一般的是非ではなく(誰かが理念として国家主義掲げようが、あるいは、国家単位で争われるスポーツの大会を観戦しようが、ぼくにとってはどうでもいいことです)、ごく限定的に、「反ナショナリズムの人が国家単位で争われるスポーツをたのしんでしまうのは、その『反ナショナリズム』という旗印をあやうくするぐらいのことだと思うのだけど、反ナショナリズムを掲げつつ、国家単位で争われるスポーツの大会を観戦をたのしんでいる人はけっこういるような気がする。そういう人たちがじっさいに存在するとして、そういう人たちは、そこら辺のバランスをどうとっているのか」ということです)
先のお返事をあらためて読み返したところ、ご質問への答え、およびこちらからの質問がひどく弁別しにくいと感じられましたので、以下にじゃっかんの補足を加えつつ executive summary を掲げます。
【ご質問にたいする答え】
質問 はやしさんは、心理的に、孤立した人なのですか?
答え ご質問にある「孤立」が何からの孤立を指しているのかいまひとつよく分かりませんが、文脈から、「日本(的風土。ここで「風土」とは、心性を含むそれとする)からの孤立」と捉えると、physical な意味でも metaphysical な意味でも答えは yes であると思われます。(また、別解釈として、ご質問にある「孤立」を「何らかの共同体からの孤立」と広い意味で捉えることもできるので、そういう観点から考えると、「学校のクラス」というごく狭い共同体においてすらその一員としてふるまうのは「うっとうしいなあ」と思っておりましたので、この解釈を採っても答えは yes となりましょう。もっとも、個人的にはそうした事態を「孤立している」とはみじんも捉えておりませんでしたが)
質問 日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実を、どう理解しているのですか?
答え 主語に「日本人」を補ってお答えすれば、ただ「そういう現実が存在する」とだけ理解しております。(つまり、そういう現実にかんして、とりたてたる感慨はない)
【こちらからの質問】
1.なぜぼくが「心理的に、孤立した人」かどうかを聞かれたのでしょうか?
2.日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実を、どう理解しているのでしょうか?
3.1 で問うたこととあるいは重複するかもしれませんが、羽賀さんがなされた質問とぼくがこの記事で扱った話題とはどのように関係してくるのでしょうか?
以上三点、お答えいただければさいわいです。
【ご質問にたいする答え】
質問 はやしさんは、心理的に、孤立した人なのですか?
答え ご質問にある「孤立」が何からの孤立を指しているのかいまひとつよく分かりませんが、文脈から、「日本(的風土。ここで「風土」とは、心性を含むそれとする)からの孤立」と捉えると、physical な意味でも metaphysical な意味でも答えは yes であると思われます。(また、別解釈として、ご質問にある「孤立」を「何らかの共同体からの孤立」と広い意味で捉えることもできるので、そういう観点から考えると、「学校のクラス」というごく狭い共同体においてすらその一員としてふるまうのは「うっとうしいなあ」と思っておりましたので、この解釈を採っても答えは yes となりましょう。もっとも、個人的にはそうした事態を「孤立している」とはみじんも捉えておりませんでしたが)
質問 日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実を、どう理解しているのですか?
答え 主語に「日本人」を補ってお答えすれば、ただ「そういう現実が存在する」とだけ理解しております。(つまり、そういう現実にかんして、とりたてたる感慨はない)
【こちらからの質問】
1.なぜぼくが「心理的に、孤立した人」かどうかを聞かれたのでしょうか?
2.日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実を、どう理解しているのでしょうか?
3.1 で問うたこととあるいは重複するかもしれませんが、羽賀さんがなされた質問とぼくがこの記事で扱った話題とはどのように関係してくるのでしょうか?
以上三点、お答えいただければさいわいです。
そんなに深い意味での質問ではなかったのですが、返答させていただきます。
1.なぜぼくが「心理的に、孤立した人」かどうかを聞かれたのでしょうか?
共同体への肯定的な応援心理を、否定的にとらえるのはなぜだろう?
と、疑問を感じたときに、はやし様が周囲の方と積極的に関わろうとはしないタイプの方なのかな?
と推測したからです。
2.日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実を、どう理解しているのでしょうか?
日本に住む国民一人一人が、上記のような共同体の、一員であるという認識です。
3.1 で問うたこととあるいは重複するかもしれませんが、羽賀さんがなされた質問とぼくがこの記事で扱った話題とはどのように関係してくるのでしょうか?
反ナショナリズムがどのような立場で、どのような行動をしなければいけないのか、明確な定義はないと思います、
日本の立場が絶対正義で、それを他国(人)に強要するような行為をする人を、ナショナリストというのなら、きわめて限定された狭い解釈によるものと思います、
単純に、反ナショナリズムに共感する人々と言えども、日本の共同体の一員としてのシンパシー共有して、スポーツを見ることは、
特殊なことでも、ナショナリズムに該当する行為でも無いのではないか?、と考えましたので、
はやし様の考えを確認する意味で、質問をさせていただきました。
1.なぜぼくが「心理的に、孤立した人」かどうかを聞かれたのでしょうか?
共同体への肯定的な応援心理を、否定的にとらえるのはなぜだろう?
と、疑問を感じたときに、はやし様が周囲の方と積極的に関わろうとはしないタイプの方なのかな?
と推測したからです。
2.日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしているという現実を、どう理解しているのでしょうか?
日本に住む国民一人一人が、上記のような共同体の、一員であるという認識です。
3.1 で問うたこととあるいは重複するかもしれませんが、羽賀さんがなされた質問とぼくがこの記事で扱った話題とはどのように関係してくるのでしょうか?
反ナショナリズムがどのような立場で、どのような行動をしなければいけないのか、明確な定義はないと思います、
日本の立場が絶対正義で、それを他国(人)に強要するような行為をする人を、ナショナリストというのなら、きわめて限定された狭い解釈によるものと思います、
単純に、反ナショナリズムに共感する人々と言えども、日本の共同体の一員としてのシンパシー共有して、スポーツを見ることは、
特殊なことでも、ナショナリズムに該当する行為でも無いのではないか?、と考えましたので、
はやし様の考えを確認する意味で、質問をさせていただきました。
お答えありがとうございます。
ぼくがした質問1へのご回答にかんして(以下、ぼくがした質問にかんして、「ぼくがした」という修飾辞ははぶきます)、「共同体への肯定的な応援心理を、否定的にとらえる」とありますが、追記等でも書いたとおり、「共同体への肯定的な応援心理」を否定的には捉えておりません。ただ、自分のなかには「自分がある共同体の一員だからといって、その共同体のすることに無条件で与しよう」という発想はまったくないなという、それだけのことです(ただ、ぼくの文章をあらためて読み返してみて、そういう発想の「皆無さ」を強調しようとするあまり、書き方として「否定的に捉えている」と解釈されてもしようがない部分もあるように思われましたので、その点については確認の手間を取らせてしまったことをお詫びします。ごめんなさい)。そして、ぼくが「周囲の方と積極的に関わろうとはしないタイプ」というのは、その通りです。
質問2へのご回答にかんして、さらに質問をかさねて恐縮ですが、「上記のような共同体」の「上記のような」というのはどういうことでしょうか?
質問3へのご回答にかんして、「ナショナリズム」というものが多義的である以上、それへのアンチもまた多義的たらざるをえないというのはその通りですが、「日本の共同体の一員としてのシンパシーの共有」というのは、そこにある種の反省が含まれていなければ(つまり、「日本の共同体の一員としてのシンパシーを共有するということ」が、「日本人だから、日本人の一員として、日本人の行うことにシンパシーを感じる」という同語反復的なそれとして現れるのであれば)、ぼくにとってそれはきわめてナショナリスティックなものと映ります(ある国家の一員であるということが、(国家から要求されるのではなくする、という意味での)積極的行為の理由になっているので)。ただ、スポーツなどの趣味娯楽的なことにかんしては、そのような「シンパシーの発露」が現れても、それは大目に見るべきではないかとも思わないでもないですが(つまり、主義理念のレベルと趣味娯楽のレベルを分けて考える。ただ、そうしたふたつのレベルがはたして劃然と分けうるものかどうか、考えを詰めていないので分かりません)、しかし、たとえばスポーツにかんして、「自国を応援する」というのはなるほど「特殊なこと」ではないにせよ、「特殊ではない」、つまり「多くに共有されている」ということは、その「共有されているもの」それ自体ついて何も語りません。(「日本の共同体の一員として同胞にシンパシーを感じること」は、それが「多くに共有されている」という意味で「自然」かもしれませんが、それは「日本の共同体の一員として同胞にシンパシーを感じること」それ自体の自然さについて何も語らない。そして、思想的には、「日本の共同体の一員として同胞にシンパシーを感じることは果たして自然か」ということこそ問われるべきと思います)ゆえに、「日本の共同体の一員としてのシンパシー共有して、スポーツを見ること」が「特殊ではない」ことは、ここでの話の流れに寄与するところは何らないと思われますが、ともあれ、ぼくの捉える意味でのナショナリズム(ある国家の一員であるということが、国家から要求されるのではなく何かをなすという意味での積極的行為の理由になる)を基軸に据え、それにたいするアンチを考えると、それはそれでひじょうに息苦しいものになると思われるので(ぼく個人は「日本の共同体の一員としてのシンパシー共有して、スポーツを見ること」はまったくしないにせよ、第三者のそうした行為を批難したり、さらには禁ずべきとはぜんぜん思わない)、ある種の共同体主義を温存しつつ、外部への開けをも保証するという立場がいちばんよいのではないかと思えど、細部を詰めるのはなかなかむずかしそうです。
ぼくがした質問1へのご回答にかんして(以下、ぼくがした質問にかんして、「ぼくがした」という修飾辞ははぶきます)、「共同体への肯定的な応援心理を、否定的にとらえる」とありますが、追記等でも書いたとおり、「共同体への肯定的な応援心理」を否定的には捉えておりません。ただ、自分のなかには「自分がある共同体の一員だからといって、その共同体のすることに無条件で与しよう」という発想はまったくないなという、それだけのことです(ただ、ぼくの文章をあらためて読み返してみて、そういう発想の「皆無さ」を強調しようとするあまり、書き方として「否定的に捉えている」と解釈されてもしようがない部分もあるように思われましたので、その点については確認の手間を取らせてしまったことをお詫びします。ごめんなさい)。そして、ぼくが「周囲の方と積極的に関わろうとはしないタイプ」というのは、その通りです。
質問2へのご回答にかんして、さらに質問をかさねて恐縮ですが、「上記のような共同体」の「上記のような」というのはどういうことでしょうか?
質問3へのご回答にかんして、「ナショナリズム」というものが多義的である以上、それへのアンチもまた多義的たらざるをえないというのはその通りですが、「日本の共同体の一員としてのシンパシーの共有」というのは、そこにある種の反省が含まれていなければ(つまり、「日本の共同体の一員としてのシンパシーを共有するということ」が、「日本人だから、日本人の一員として、日本人の行うことにシンパシーを感じる」という同語反復的なそれとして現れるのであれば)、ぼくにとってそれはきわめてナショナリスティックなものと映ります(ある国家の一員であるということが、(国家から要求されるのではなくする、という意味での)積極的行為の理由になっているので)。ただ、スポーツなどの趣味娯楽的なことにかんしては、そのような「シンパシーの発露」が現れても、それは大目に見るべきではないかとも思わないでもないですが(つまり、主義理念のレベルと趣味娯楽のレベルを分けて考える。ただ、そうしたふたつのレベルがはたして劃然と分けうるものかどうか、考えを詰めていないので分かりません)、しかし、たとえばスポーツにかんして、「自国を応援する」というのはなるほど「特殊なこと」ではないにせよ、「特殊ではない」、つまり「多くに共有されている」ということは、その「共有されているもの」それ自体ついて何も語りません。(「日本の共同体の一員として同胞にシンパシーを感じること」は、それが「多くに共有されている」という意味で「自然」かもしれませんが、それは「日本の共同体の一員として同胞にシンパシーを感じること」それ自体の自然さについて何も語らない。そして、思想的には、「日本の共同体の一員として同胞にシンパシーを感じることは果たして自然か」ということこそ問われるべきと思います)ゆえに、「日本の共同体の一員としてのシンパシー共有して、スポーツを見ること」が「特殊ではない」ことは、ここでの話の流れに寄与するところは何らないと思われますが、ともあれ、ぼくの捉える意味でのナショナリズム(ある国家の一員であるということが、国家から要求されるのではなく何かをなすという意味での積極的行為の理由になる)を基軸に据え、それにたいするアンチを考えると、それはそれでひじょうに息苦しいものになると思われるので(ぼく個人は「日本の共同体の一員としてのシンパシー共有して、スポーツを見ること」はまったくしないにせよ、第三者のそうした行為を批難したり、さらには禁ずべきとはぜんぜん思わない)、ある種の共同体主義を温存しつつ、外部への開けをも保証するという立場がいちばんよいのではないかと思えど、細部を詰めるのはなかなかむずかしそうです。
質問2の返答にある上記とは、文字通り上の行に有る、
日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしている = 共同体 ではないか、ということを書きたかったのです、お手数を取らせてしまいました、すいません。
追記
何気ない質問のつもりでしたが、
真摯な回答に恐縮しました、
お時間をとらせてしまったようで、申し訳ありませんでした。
日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしている = 共同体 ではないか、ということを書きたかったのです、お手数を取らせてしまいました、すいません。
追記
何気ない質問のつもりでしたが、
真摯な回答に恐縮しました、
お時間をとらせてしまったようで、申し訳ありませんでした。
最後に、質問3について、
動物が、より身近なものに愛着を持つのは、
主義主張・理屈ではなくて、本能によるものではないかな? と、思います、
そのような感情の発露を、良い悪いで判断する事が妥当なのか?
これも、難しい問題だと思います。
動物が、より身近なものに愛着を持つのは、
主義主張・理屈ではなくて、本能によるものではないかな? と、思います、
そのような感情の発露を、良い悪いで判断する事が妥当なのか?
これも、難しい問題だと思います。
ぼくは文章の読解に難があるので、羽賀さんの仰られていることを少しでも誤解なく理解するために、ぼくの文章読解力に難がなかったら必要でないような(つまり、おおかたにおいて「それは自明ではないか」と思われるような)質問を重ねてしまい、こちらこそ恐縮しております。
さて、「上記のような共同体」とは、羽賀さんがお答えくださったように「日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしている = 共同体」と取るのがいちばん妥当と思われはしたのですが、それだとやや同語反復的で、つまり、答えとして「AをAと思っている」というトートロジー(あるいは、「独身者はみな結婚していない」というたぐいの分析的同値命題)ということになり、だとすると、ぼくの捉え方とあまり変わらないように思えたので、「そんなはずはない」とあえて借問させていただきました。
いずれにしましても、ぼくの面倒な(しょうじきなところ、おそらくは「うっとうしいなあ」と思われたにちがいない)質問にていねいにお答えくださり、とても感謝しております。どうもありがとうございました。
さて、「上記のような共同体」とは、羽賀さんがお答えくださったように「日本人が、日本という場所で、日本語を話し、生活を共にしている = 共同体」と取るのがいちばん妥当と思われはしたのですが、それだとやや同語反復的で、つまり、答えとして「AをAと思っている」というトートロジー(あるいは、「独身者はみな結婚していない」というたぐいの分析的同値命題)ということになり、だとすると、ぼくの捉え方とあまり変わらないように思えたので、「そんなはずはない」とあえて借問させていただきました。
いずれにしましても、ぼくの面倒な(しょうじきなところ、おそらくは「うっとうしいなあ」と思われたにちがいない)質問にていねいにお答えくださり、とても感謝しております。どうもありがとうございました。
羽賀さんの仰られる通り、感情と言うのはそれこそ「自然」なもので(ただ、そうした「自然」と思われる感情が、じつは積年の水路づけによる、つまりは「人工的なもの」に他ならない可能性も考えられるので、ここでいう「感情の自然さ」とはとりあえず「傾向としての自然さ」としておきます)、それについて端的な「いい/わるい」という判断を下すのはあまり妥当ではないようにぼくには思われますが、人間の、そういう「自然な(刺戟にたいする反応に近しいものとしての)感情」を有する面と、「国家」という人工的な制度を有する面の相克というのは、あらゆるレベルで存在し、そして、それについては「よりよい生」(ここで、「生」というこなれない言い回しをしたのは、「社会のなかのひとりの生き方のよさ」ということではなく、あくまで「社会を捨象しても残りうるひとりの人間が生きる生き方のよさ」ということを言いたかったがゆえです。そして、その「よさ」の内実は、いまはまだとくに詰めて考えていませんが、このことを考えるうえでは、きちんと詰めて考えるべきであると思います)を目指すべく、自然さと、そして不自然さの調整をはかっていくべき、と思われます(そして、蛇足になりますが、「国家」というものは果たして端的に「不自然か」という問いも、問われなければなりません。「国家」というものを、動物の「群れ」の発展特殊形態と捉えれば、それほど「不自然」なわけでもないとも考えられもするゆえに)。
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