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前のエントリからの連想で。
ここで画像を掲げてある本、表紙が何か変な感じでしょ? これね、ちょっと凝った造りになっていて、折り込んである(plier)のよ。で、広げるとちゃんとした写真になるという……まあ、でも、だから何だ、って感じもするよね。それより、やっぱり爪すごいねえ、という感想が中心にくるよな、装丁が凝ってるとかそんなことよりも。中身は、「出来事」「感じること」「成ること」「(複数の)線」「(複数の)逃走線」ってなドゥルージアンにはおなじみのテーマが14設定されてて、それぞれのテーマに沿って、ドゥルーズの著作がひたすら引用されているという、それだけの本。上のリンク先で全文読めるし、買うまでもないんじゃないかな。ま、買いたい人はamazon.frかフランス図書へ。
で、ドゥルーズはねえ、前のエントリでも書いたけど、うん、ある一時期はそれこそ貪るように一生懸命読んださ。でも、その一生懸命読んでる最中からしてね、何か食わせ物くさいなあ、とどこかで思いながら読んでたんだよね。日本語のドゥルーズがらみのものとかだとその食わせ物くささ倍増で、"multiplicité"を「多数多様体」と訳し、"puissance"には「この単語には"力"という意味以外にも"累乗"という意味があって……」という講釈が付く始末で、何だってそんなに数学に引き寄せてドゥルーズを読みたいのかねえ、と嘆息したものだった。
それで、類は友を呼ぶ、じゃないけど、おれの周りに卒論のテーマにドゥルーズを選んだ奴が2、3人いてさ。そん中の1人がすごくって、「ここは波動関数が……」とか大真面目に語っちゃってるのよ。で、量子力学についてどんなもん読んでのかと思えば、ブルーバックスだったりしてさ。や、別に全然ブルーバックス自体はいいのよ。素晴らしいと言ってもいい(物によっては)。でも、たとえドゥルーズ自身がそういう自然科学的な意味や含みを込めていることと、ほんとのほんとにそういう概念が、ドゥルーズが言っているような状況に適当か、ってのは全然別なことでしょ? おまけに、その頃はすでにsokal affairの情報とかもめちゃくちゃ入ってきてて(でも、『知の欺瞞』は日本語版はまだで、フランス語版が出てすぐ、ぐらいなタイミングだったかな)、だから、頭ごなしに否!ってなることもないけど、ドゥルーズ(に限らず、その手の自然科学のアヤシゲな応用に精を出していた、フランスの思想家たち)を読んでいてそういう概念に出くわしたら、もうちと懐疑的になってもいいんじゃないか、おめでてぇなぁ、おい、って思いもした。
じゃあ、お前、卒論何書いたんだよ?って聞かれると、ドゥルーズに負けず劣らず「ちのぎまーん」なものなので、弱いんだけど。とはいえ、うまく誤魔化しはしましたけどね。
まあ、ドゥルーズと私、ってなことで言うと、そんな感じです。
トップページから飛んできました。
私も以前少しだけ分からないなりに読んだことがあります。
千のプラトーとかだったかな。
フロイトを面白おかしくからかってる部分と、犬を飼ってるやつはアホだ、てとこと、ていうかフランス語も哲学の素養もない人間の読む本じゃないなということは少なくとも分かりました。というわけでなんだか不思議な本でした。
フロイトを面白おかしくからかってる部分とか、犬を飼ってるやつはアホだとか、そうそう、そういうところを楽しむのが健全な楽しみ方、ってやつですよ。いや、ほんと。フランス語ができたり、哲学の教養があったりする人ほど、逆に地雷を踏んづけちゃったりしてるもの。私の狭い知見の及ぶ(でも、ドゥルージアン人口、というか「おフランス思想」を専攻している人間は滅法多い)範囲では。ところで、どういった経緯でドゥルーズを読むという仕儀に至ったのですか? ちょっと、気になる。
それより、スターリン閣下(何か呼び捨てみたいだけど、「閣下」が敬称、ということで了解願います)、閣下のページのカテゴリーの「ウンコ」、いいですなあ。今、確実に世の中は「ウンコ」がきてますよ。私もクリスマスプレゼントにウンコのふにゃふにゃした置物をもらいましたもん。隊長のプロデュースしたネトゲー「ひかり町」でもウンコは重要なアイテム(なのかな? よく知らないけど)だし。
ではでは! こっち(東京の多摩川沿い地区)は雪が降ってます! 何か、非日常だ!
健全な楽しみ方、だったんですかね。理解できたとこだけはニヤっとしたりして自分なりに楽しんでました。
それでどうして千のプラトーなどを手に取ったかというと大学時代の一般教養の時期に、哲学やら倫理学関係のレポートを作るに当たって、参考図書などを探すため大学図書館とかを物色する機会が何度かあって、それでそういう時に、タイトルとかわりと綺麗で目立つ感じの表装?ていうんでしょうかそのようなものに魅かれて手にとって軽くめくってみたところ面白いかも!みたいな感じで読み始めたのがきっかけです。結局レポートの材料としては使えなかったですけど。
それ以来何度か借りたり返したりを繰り返して読んだりしてました。あとドゥルーズだと「ニーチェ」とかも読みました。こっちだとわりと自分でも読めた感じです。
あと私は神経症などを昔から患っていて、それで高校ぐらいの時からフロイトの講演スタイルのフロイト入門みたいな本も読んでたので、ドゥルーズはその辺も言及してる箇所もあったので、そういう感じだったと思います。
カテゴリーの「ウンコ」 褒められるとは思って無かったです。わざわざ自分のブログとかも呼んでくださって、ありがとうございますです。
雪、こっちなどは既に降ってますよ!ていうか積もったりなどもしてて道路ツルツルだったりして、雪かきなども率先してやってますが、これが結構重労働で、小一時間ほど時間も労力もとられたりしちゃって、まあ運動不足の解消にはなるかぐらいの気持ちでやってるのであまり気にはしてないですけど。
というわけで長々と大変失礼致しました。
ニートの件については、後々コメントさせていただきたいかと思います。それでは。
閣下の千のプラトーとの馴れ初めは、そういうことでしたか。確かに、綺麗な表紙でしたよね。内容も、序と結論以外はどう読んでもいい、という気楽さだし、私も「いくつかの記号の体制について」など、そのデタラメさにしびれたものです。
で、そう、閣下のブログを一通り読ませてもらって、ご自身の病い、と言うのは何かそぐわないんで、資質、と敢えて言い換えさせてもらいますが、とにかくそういうことも関係しているのかな、と無責任には思ってました。
カテゴリー「ウンコ」、サイコーでしょー。出来うべくんば、もっとウンコエントリーを増やして欲しい、と思うのは、私だけだろうが。それにしても、閣下のブログ、ほんと、お世辞抜きで面白かったです。フロイトの名前が出たついで、って感じになっちゃいますが、フロイトのような、真面目で深刻なことを語りつつ、飄々とふざけた感じでもある、という印象を受けました。
あー、そちらは、雪、けっこう降ってますか。こっちは普段あんまり(というか全然)雪が降らないんで、ちょっと降っただけでも大事、って感じで騒いじゃいます。
時間が出来次第、閣下の書かれたニート記事にコメントなんぞを付けさせてもらおう、とおもいます。
ではまた。
そういうのが面白かったです。ていうかまた読みたくなってきた。
カテゴリー「ウンコ」 よく考えてみれば私のサイトなんかは自ら「ネットのゴミ」であると認識してるので、全てのエントリーがウンコといえばウンコです。中でも出来の良い?ウンコというか臭すぎるのをウンコカテゴリーに指定しようかと思ってます。
フロイト、講演式の本などあって(ブックオフとかだと百円ぐらいでありますよね、こういうの)、最近少しずつ読み返しているのですが、結構面白いですよ。
今でこそバカにされたりもしますが、当時は最先端にいた人物であり、その気負いとかプライドとか熱情とかとか、そのようなものが訳語を通してもビシビシ伝わってくる感じでよいです。影響などもあるかもしれません。
あと当ブログをお褒め頂き、大変ありがとうございます。
照れちゃいます。照り焼き無職の完成でございます。
とかなんとか今年も残るところ1日となりましたが、はやしさんも良いお年をお過ごしくださいませ。それでは。
「ウンコ」はねえ、ほんといいですよ。あそこにエントリされるのは、じゃあ、UNKO OF UNKOSってわけですな。これからも、楽しみにしてます。あ、もちろん、フツーのエントリも。
フロイトは、私が卒論に選んだテーマ、というか人が、フロイトに縁浅からぬお方だったので、人文書院から出ている著作集には一応すべて目を通しています。フロイトは機知論とか文化論とかも面白いんですよね。むしろおれはそっちのほうを読むことに時間をかけたかもしれない。
あ、ほとんど私語りで長くなっちゃった。申し訳ない。
閣下も、雪かきをしていてスッテンコロリンなんてことのないよう(つか、もうすべっちゃったんですっけ?)、くれぐれもお気をつけください。
それじゃ、よいお年を!
私は、表の仕事は普通のサラリーマン、裏の家業で相場師をしております「中村主水」と申します。
私が、大学生のとき、あの浅田●ブームというのがありまして、ドゥルーズを知りました。
結局、浅田●は、ドゥルーズに何の関係もなかったと、90年代にドゥルーズの翻訳が出たのを読んで知ったという世代です。
そのせいか、特に、今でもガタリとの共著は哲学書としてはあまり興味がありません。単なる読み物としては面白いと思いますが。
「襞」のお話は、胡散臭いですね。
実際、翻訳が出る前に、中沢新×が、そのままパクって、「チベッ▲のモーツアルト」という本を書いて、そのあと、西部○を仲良くして、究極が、あのオウム擁護でしたから。
ドゥルーズの胡散臭さは、西洋人にはいいのかもしれませんが、東洋人には、ちょっと手に余るものが確かにありますね。
ドゥルーズの作品は、やはり初期が好きですね。「ニーチェと哲学」は、とてもきっちり書いてますし、「差異と反復」は超難解ですが、でも、あの着想だけは、やはり天才性を感じます。
ドゥルーズの初期の作品から、相場師という結構困難な裏の家業を遂行するにあたり、自分にとって、かなり思考面、精神面でアドバンテージを得ているのは間違いないです。
ドゥルーズは、哲学はどう実際は使うが重要だと説いた人でした。
そういう意味では、私は、最もドゥルーズに忠実な人なのかもしれませんね。(笑)
ああ、胡散臭い、胡散臭い・・・・・相場師なんて。(笑)
やっぱり浅田・ニューアカって感じですよねえ、日本でのドゥルーズ受容ルートって言うと。それも、ドゥルーズ単品で、というよりも、ガタリとセットで、という感じ。あの頃、どっかの役所もそのブームに乗せられて、白書か何かに「リゾーム」なる言葉も見られませんでしたっけ?
で、胡散臭いものを胡散臭いものとして見られればいいんですけど、そうじゃない人って案外いるもんなんですよね。『襞』はぼくも翻訳が出る前に友だちと読んだりしてましたけど、完全にネタでしたもん。「緑」ってのは「黄色」を「青」で微分したものだってよ! ぎゃはははは!って感じで。
初期の著作はどれもかなり真っ当ですよね(『差異と反復』はちょっと危なげかな、ってところがありますけど)。だから、「ガタリがドゥルーズをダメにした」ってな発言も聞かれたりするわけですけど。ぼくはけっこう好きですけどね、ガタリ自体も。
で、なるほど、相場師という稼業をするにあたっては、ドゥルーズはけっこうなものを与えてくれていますか。それは思ってもみなかった切り込み方だ。
や、なんか「相場師の哲学」とか、そういうの読みたいですね。書いてみませんか?
ガタリとの共著について、私は少し負の面について強調しすぎたかもしれません。
思考の自由をまず確保するというドゥルーズの生涯通じたスタイルからは、当然、ああいう脱線気味のがあってもいいと思っています。
相場師としてのアドバンテージとは、かいつまんで言うと、ドゥルーズを読んだおかげで非弁証法系の唯物論に、かなり思考面でのなじみが出来た点です。
まず、唯物論者が観念論者より有利なのは、相場が「あの世でなくこの世のお金を貪る」という行為であるということを考えれば当然です。
それから、非弁証法的思考になじんでいることが役立つのは、弁証法という「偉大なる後講釈」で相場を理解しようとすると、すぐに身包みを剥される危険を察知できることでしょうか。
あと、ドゥルーズの影響は、たとえ自分がどんなに今儲かる手法(=相場の世界では、システムとか、勝ちパタンとかと呼ばれています)を見つけても、絶対に聖杯(=永遠に儲けられる手法)だとは思えないところでしょうか。
差異が反復し、反復が差異を生む限り、相場に永遠に通用する聖杯などないはずです。
・・・・・そんな事、ドゥルーズを読んでいないアホの中学生でも分るよ ってお思いでしょう。ところが、相場という業の深いことを一度始めてしまうと、ドゥルーズでも読んでいないと、本当にこんな簡単なことが、私も含めて皆見えなくなるみたいです。(笑)
「相場師」って、本当にパチプロや競馬師とならんで、サイテーの職業です。
ですから、「相場師の、哲学」って、言葉の並びが「たこ八郎の、相対性理論」って感じで、書きようが無いのです。(笑)
最近、トレーダーという言葉が流行して、相場人口が激増しました。あちこちで、それは、売春を援助交際といって、実態を言葉で隠蔽しているのとかわり無いって、つい口が滑ってしまうので、結構、相場師の中では、私は嫌われていると思いますよ。(笑)
なるほど、非弁証法的唯物論ですか。確かに、相場師に限らず、人間というものはパターンなきところにパターンを見出しがちなものですからね。たまに本屋に行くと『これであなたも株で勝てる!』とか『テクニカル分析大全』とかいう本をひやかしで見たりするのですが、みなさん、パターンなきところに一生懸命パターンを読み込もうとしている(本当は、今はわれわれが感知できていないような「パターン」があるのかもしれませんが)。
そういった意味で、ドゥルーズがうまい弁の役割を果たしている、ということですかね。バランスをとる、というか。実際、前期から『差異と反復』ぐらいまでのドゥルーズというのは、そうした「パターン」化可能なものと不可能なものの微妙な絡み合い、というのが主題といえば主題ですから、けっこうぼくとしては「ああ、なるほど」と納得いっちゃったりします。いや、相場師の方々の内実とか何も知らんので、「なるほど」もくそもないかもしれませんが。
「たこ八郎の、相対性理論」。それはそれで面白いじゃありませんか! でも「相場師の、哲学」って、下手すると「波動が、カオスが」みたいな感じに、真似しちゃいけない方の後期ドゥルーズ風味になっちゃうかもしれませんね。
コメント、ありがとうございました。
実は「相場師の哲学」がテーマとしか思えないブログのご紹介まで。
読まれると分かると思いますが、内容は完全に「た●●●の相対性理論」です。
リンクはあえて貼りません。向こうは、30万ないし50万円程度で魂を売った弟子なる手勢が100乃至200名はいる模様で、リンク元を察知されると、はやしさんにご迷惑がかかるといけませんので。
私は、時々、この御仁にジャレに行きますが別名で書いています。非常に不遜な名前で。ド●●―ズ・●ー●ェ という、はやしさんに首を絞められそうな名前で。(笑)
このド●●―ズ・●ー●ェという名前もこちらでは声に出さないようにお願いいたします。
向こうは権力を形成していて、こっちにからまれると数の面で、はやしさんにご面倒をおかけしてしまいますから。
はやしさんが読まれると思わず、この天下の暴論を跡形なく破壊してやろういう衝動にかられると思います。
でも、手出しは無用です。もし、されるなら、「はやし」というお名前は伏せてされたほうが良いと思います。勿論、トラックバックのリンクを貼るのもご法度でしょう。
ド●●―ズねたもされないほうが良いでしょうね。そもそも、ド●●―ズを使わなくても、破壊できるレベルですし。
なにせ、相手は、一大勢力、権力ですからね。
アナーキストが数人、はやしさんのブログに篭城して応戦しても、数の上で歯が立たないと思いますから。
それに、アナーキストの連合なんて、何の統制もなくて、そのうち敵前で、内ゲバでも始めそうですしね。(笑)
そのブログは、?利 ?優 ?加 を数字の順にならべ変えて、その女性的な三文字の名前をグーグルで検索すると最初に出てきます。
繰り返しになりますが、くれくれも手を出されませんように。あくまで、「た●●●の相対性理論」が実際存在するのでそれのご紹介をさせて頂いたまでです。
支離滅裂な内容を文章表現だけでカバーするのは上手いですが、でも、この30年ほど、科学や学問について、全く関心が無かったのは、明々白々だと思います。勿論その知識は皆無です。
できれば、はやしさんのご感想をお聞かせいただければ幸いです。
読みましたよー、仰ってたブログ。
最初は何か、「字ぃちっちぇーなあ」とか、「何だってフォントの種類をこうも変えてるんだろ?」とか、内容ではなくその形式ばっかが気になっちゃったんだけど、内容は、と言えば、「出た! 波動!」、「出た! 量子力学!」ってな感じで、こういう人(と一括りにとりあえずしちゃいます)にありがちな、「科学というものを否定しつつ、裏口から、ときには(って、こっちの方が多いかな?)臆面もなく、『科学的』タームをトンデモない用法やコンテクストに持ち込む」っていう手法ですよねえ。
こういうのって、何なんでしょうね?
思うに、ルサンチマン、というか、たとえば中学高校時代、いわゆる「理系科目」の出来が芳しゅうなかったが、「何やら高尚なもの」という憧憬めいた思いは「科学」というものに対して抱いてる、という、愛憎半ばする感情の発露なのかなあ、と。
ってな訳で、「よっしゃ、総攻撃だ!」ってなことはし出しませんので、ご安心(?)を。
それにしても、原作たそがれ清兵衛さん、食いついてますねえ。何よりも、それがおもろかったです。
てなかんじで!
トンデモ哲学をご堪能いただけましたでしょうか。(笑)
私も自分のこと、き○が○だと思いますが、あの人だけには絶対勝てないですね。
自分が き○が○かつ、本当の あ○であるという認識がゼロですからね。
完全に、彼岸にトリップしてますしね。今年度、哲学ブログ部門の「ラジー賞」をあげたいですよ。
あれで、本当に相場が張れるのか不思議です。なんか、損ばかりしてるのに、ブラスとマイナスの認識がちゃんとできてないとか。?かなり重症でしょう。
まあ、新興宗教まがいの詐欺だと思い、哲学をかじったものの「使命」(・・・このカビの生えた言葉、あの人のまねして使ってしまった。はっはっは。)と思い?????、ちょっとちゃちゃを入れて見ましたが、相手の「キョウジンな精神」に参って、もうやめました。
でも、いい詐欺ですね。50万×200人で、しめて、領収書がいらないアングラ収入が1億。マトリクスの、続きよりを作るよりボロイ商売ですよ。これって。(笑)
すいません、大事なこと書かせていただくのを忘れていました。
はやしさん、本当によく勉強されてますね。ネットの向こうとはいえ、はやしさんの学問に対する熱意は、私に「もっと勉強しないと」という意欲をわかせてくれます。
昔は、私も数学は強かったですし(出身は経済学部ですが、そもそも始めは工学部に行く気でした)、また月10冊のペースで本を読んでいたのですが、本当に、今は「なりの果て」という感じです。
どんどん、頭が悪くなっていくのが実感できますからね。
昔は、本を読んだり、数学を勉強をしていて、自分の意識の奥に沈み込んで行くような深い思考ができたのですが、いまでは、会社のくだらない仕事と、裏の稼業に追い回されてあくせくあくせくして、いつも頭がボーといています。
自分を変容させるには、もっと、活字と数字にふれて、断続的な深い思考が必要だと痛感しつつも、このテイタラク。情けない限りです。
以下の話は、はやしさんには関係ありません。自分がニートであると、お悩みに人向けのお話です。
あの、外資系金融機関に19年勤めたという輝かしい経歴をお持ちなのに、学問のいろはも分からずにラジー賞もののブログを作っておられる主、そして、このなりの果ての私を見て、「ニート」というもののポジティブな面も、そして、「社会人」というものの非常にネガティブな面も、ニートの皆さんにちゃんと見ていただきたいということです。
あのブログの主は「強靭な精神」がお好きですから、ニートの皆さんを多分見下すような思想の持ち主だと思います。
ただ、人として、どちらが価値あるものかを、冷静に見つめてほしいということです。
なんか、とりとめのない話になって、申し訳ありませんでした。
あのブログの管理者の方、「哲学」ってものを、何かを簡明に、解明し説明するもの、としてもっぱら捉えてるのも気になりますよねえ、しかも、何か「哲学的」に語ると、天の彼方からかどっかからか相応の「権威」が授けられるかのように。
いや、ぼくもときにはそういう「哲学的」言辞を吐いちゃうことがあって、人様のことをあーだこーだ難詰する資格もないんですが、それを棚上げしても、あの方に限らず、哲学のそうした「実利的」な見方というものには、「ちょっと違うんでないの?」と思わざるを得ませんね。
何かが「明確」であり「訳が分かる」ことを以って善しとし、またそのことは常に可能である、とするというのは、啓蒙の理念であり、近代のディスクールです。もちろん、何かを「明確」にしたり、「訳が分かる」ことはそれだけでは取り立てて論いの対象にするようなことではありません。ただ、何かを解明eclaircissment(白日の下に晒す)し、説明explication(内奥のものを引きずり出す)したからといって、何かが「明確」になったり「訳が分かる」ものになったりする、というのは、ちとおめでたいんでないかい?と疑義を呈するのが哲学の本務であるのではないか、と思います。この意味で、「哲学というのは何かを説明することではなく、かえって訳を分からなくさせるものなのだ」と言ったハイデガーと、この上なく明快でありながら、その明快さの果てに何か恐ろしいもの、怪物的なものを現出させたドゥルーズというのは、極めて近しい位置にいる、と思われます(のに、ハイデガーとドゥルーズの関係というものを、中心的に取り扱った研究がないのは残念なことです。おれがやるか?)。
……って、「トンデモ哲学」を肴に滔々と語ってしまいましたが、要は好きなんですよ、こういうことが。
何か分からないことが明確になったり、腑に落ちたり、というのはもちろんとても気持ちのいいものです。しかし逆に、分かっていたこと、当たり前だと思っていたことが、全然そうではないんだ、さっぱり訳の分からんものなんだ、と思い至るというのも、爽快で痛快な経験です。
だから、そういう「知ること」と「訳を分からなくすること」ってのが、ぼくの中で車輪の両輪になって「勉強すること」を駆動させているのでしょうが、勉強って言ったって、何、よく言われるようなことだけど遊んでいるようなもんです。
とはいえ、500ページもあるような本を、関連領域も視野に入れながら読み込んだりということは、なかなか骨の折れる作業であることも確かです。
原作たそがれ清兵衛さんも、本業、そして「裏」の稼業とお忙しいでしょうが、何とか暇を見て、この楽しい(しかしある面で辛く、そして危険ですらある)この遊びに参加できればいいなあ、と思います。
だから、まあ、「勉強への誘い」っていうより、近所の悪ガキが「遊ぼうぜ!」って、世間的には好ましからざる遊び(たとえば、近所の気に食わない人んちを襲撃しに行く、とか)を誘ってる、と読んでいただければ幸いです。
いやあ、すげえ長く書いちゃった!
非常にエキサイティングなお話、本当にありがとうございます。!!!
久しぶりに、爽快な血が騒ぎましたよ。
以下、私の過去の経験をはやしさんに投影して、はやしさんの今を推定しているだけですので、もしかすれば全くの見当違いかもしれませんが、悪しからず。m(_ _)m
はやしさんの感じておられる思考の醍醐味を一度知ってしまうと病み付きになるのですよね。本当に狂ったように考えて、そして突き詰めていくとついに理解できたと思って結構自信満々になる。でも、ちょっと違う事柄に接すると、オヤ? 俺(だけ!!!!)が理解しえたと思っていたことは実は、とんでもない虚妄の上の妄想ではなかったのかと、とても不安になる。そして、また、狂ったように考えて・・・・・。
(そして、時には、「やっぱ、俺には分からないわ・・・」って、妙に納得が行って安心することもありますね。)
この繰り返しって、最高の快楽なのですね。どういうわけか。
多分、経験の無い人には、全く理解しえない変態さんの世界のように見えると思うのですが・・・。
(で、今のはやしさんやかつての私のように、そうこう「思考の天界みたいなところ」をあっちへ行ったりこっちへ来たりしているうちはいいのですが、そのうち、俺は全部が分かったのだと宣言する本当に狂った奴が突如出てくる。そのとき、そういう愚劣者に対して、頭をハンマーで殴ってやる。これが哲学の存在する意義だと思います。)
確かに極めて単純なことは、絶対に(というと、言いすぎかもしれませんが(笑))分かります。あのブログ主が好きな、初歩的なニュートン力学なら、普通の学識があれば、だれにでも分かります。
ただ、結構学術的な本というのは、本当に刺激的なもので、読んでみると、以前から分からなかったことに対する糸口がつかめることもあれば、逆に、俺が分かったつもりになっていたことって、実は全然何も分かっていなかったのだと萎えるくらいに、頭を、がーんと殴られたりもする。
思考の本丸みたいな本は、本当に時間と根気が必要なのですが、冒険をしているような気にもさせられますね。
そして、自分なりの問いの設定と、それの答えの追求が延々と続くのですが、それは、決して弁証法的過程を経て直線的に展開されるのではなくて、あらゆる問いと答えが複雑に絡み、消えては浮かび、浮かんでは消え、遠くから眺めるとどれが問いの属性を持ち、どれが答えの属性も持っているかも判別がつかないほど、本当にぐちゃぐちゃに絡んでいる。
私は、はやしさんと同床異夢の人なのでしょうか、それとも、同じ夢を見させていただいている(・・・最近、稼業に追われて頭が腐り気味ですから、正確には「かつて見させてもらった」(笑))本当の幸せものなのでしょうか?
本当に、急にわくわくしてきましたね。
十歳、急に若くなった気分ですよ。
前回のぼくのコメントでは、「考えることの面白さ」っていう側面ばかりを前面に押し出してましたが、ときに「業」のようなものを感じることもありますよね。「何でこんな益体もないことに取り憑かれてんだ……」っていうような。でも、やっぱり、考えることや知ることのもたらす快感ってのは、何ものにも替えがたいですよねえ。
で、そう、危険なのはまさに原作たそがれ清兵衛さんが仰ってるように、「俺は全部が分かった」って思っちゃうってことですよね。そして、哲学ってものは、そうした「早分かり」や「分かったつもり」を粉砕するもの、としてあるはずのものです。
そう考えてくと、いわゆる「自然科学」ってのは、哲学が破壊したところから出発する、というか、その「分からない」ということを受けて、再び「世界を知る」ことに向かっていく、というような趣があるように思われます。だから、哲学と科学、というものは、相反したりいがみ合ったりするような間柄ではなく、よきライヴァルとして併走すべき「同志」なんじゃないかな、と思ったり……。
何にせよ、原作たそがれ清兵衛さん、もう騒いだ血は大人しくはなりませんよ! って、脅すような、イケナイ遊びに誘うようなことを言ったりして。
アブナイ知的遊戯へのお誘いありがとうございます。
まず、なんとか本を読んで深く思考する癖を戻さないと・・・とあせってはいますが、何せ稼業にあくせくする身。
ちゃんと思考しようとすると、結構まとまった、断続的と言うよりほとんど連続して思考できる時間の確保が必要です。
なんとか頭のボルテージを上げるために、創意工夫してまとまった時間の確保できる手段はないものかと真剣に考えています。
NYが冬時間の間は、裏の稼業が結構しんどくて今ちょうど疲れがピークの時期です。
NYが冬時間の間は、本当に極度に睡眠時間が減ってしまうのです。
その理由はまた別の機会に書かせていただくとして、4月になれば夏時間になりますから、知的遊戯にはもってこいの時期になります。
これからも、私に知的刺激を与え続けてくださいますよう宜しくお願い申し上げます。
今とても、わくわくしてますよ。(笑)
無責任に知的遊戯に誘っているわりに、何ら実のある返事や記事を書けなくって、何だか申し訳ない気もしますが、まあ、それはそれ、幾許なりとも刺激を感じ取っていただけているようで光栄です。
表のお仕事であれ、裏の稼業であれ、大変なときは仕方ないですよね、やっぱり。ただ、原作たそがれ清兵衛さんは、そういう忙しい最中でも、知的遊戯の面白さ、甘味さというものは忘れずにしっかりと胸に留めているので、そういう人のもとには「思考」が向こうからやってきてくれる、と思います。
それで、ちょっと思い出したんですけど、フーコーもやっぱり「考えること」というか「学問」の危険さってことを言ってますよね。何よりもまず、みんながみんな「考えること」や「学問」に現を抜かし始めたら、それこそ社会体制は崩壊する、と。だからこそ、「考えること」や「学問」というものをなるだけ「詰まらなさそうなもの」、「難しくて近寄りがたいもの」として社会は提示しなくてはならない。それほどまでに、「考えること」、「学問」というのは甘味なことなのだ……っていう感じだったと思いますが、いいですよねえ、みんなが「考えること」や「学問」に精を出して社会が崩壊したりなんかしたら。学問による無血革命……。
いやあ、今から4月が楽しみですね!
無血革命を起こすべく、そして、固苦しい社会の頭をハンマーで殴ってやるため、はやしさんのご友人の閣下殿下にも、勝手ながら私なりのお誘いの言葉を書かせていただきました。
本当に私は、知識の水準では、絶対にはやしさんの傍にも寄れないようなレベルだと思いますが、色々学問し、そして自由に思考しようと思います。たとえ、スタートがはやしさんの百分の一の知識で、そして、これからかけることができる時間が十分の一でも。
なんか、本当に無血革命に賭けてみたくなってきました。
「知識(の量)」というものはもちろん大切だし否定し去る気もさらさらないんですが、それよりも大切なのは、「知識」といっても「学問」といっても「考えること」といってもいいんですが、そうしたことに対する気構え、姿勢だと思います。
そう考えると、原作たそがれ清兵衛さんはぼくなんかを遥かに凌駕するぐらいの底力を持っているんではないか、と思ったりもしますが、翻って純粋に知識量だけ考えてみても、なあにぼくの知識量なんかはっきり言って大したことはありません。
それこそ昔は身不相応にあくせくと知識の吸収に躍起になっているときもありましたが、「おれ程度のもんが鼻の頭に汗をかきかき知識をかき集めたってしようがねえよなあ」ってなことも感じ、それ以来はのんべんだらりと風の吹くまま気の向くまま、好き勝手やっています。とはいえ、気になる!ってことにはけっこう情熱を傾けてあれやこれやの情報を集めちゃったり、ということも今だありますが。
閣下も非常に稀有なる感性を持っている方なので、ぼくとしても期待をかけちゃう、というか、何かおもろいもんが出てくるだろうな、という風に思います。って、こんなこと言われても閣下としては迷惑かもしれないけど。
てな感じで、お互い「無血革命」に向けて歩みを進めていきましょう! って、ほんと、こんなオモロイことがあんのに、それを知らずに死んじゃうなんてもったいないよなあ、って思う。
表の副業、裏の本業に「確定申告」なるものが加わり、今、三重苦の状態です。
お尻に火がつくとは、このことかって感じです。
はやしさんは、雑誌なら「数学セミナー」ですか。私は、「大学への数学」(東京出版)からやり直さないと・・・・って状態です。
何年か前に、英語のセンター試験を解いたら、まあまあできて、なんだ、思ったほど頭腐ってないなと思いきや、実は、その年だけ平均点が高かったとか。
そんなで、思考する前の最低限の学力といった次元の、基礎の基礎ががたがたの状態です。
表のアルバイト?代わりの会社の仕事は、本当にやめようかと思うようになりました。
ちゃんと、思考力を取り返せたら、大学受験生の、数学、英語、物理の家庭教師はできると思いますし。
ちょうど、大学のゼミも、会社も同じだった連れが、上手くやって、大学の先生に転職しました。
会社の拘束時間は、余りにも長すぎます。
早く、収入源を、家庭教師+相場師 の体勢に切り替えるように持っていって、なんとか、思考する時間を作るようにしたいと思います。
社会人も長くやりすぎると、本当に頭が腐ってきますね。
家庭教師の時間当たりの収入って、20年前より、格段跳ね上がっているって、聞きましたし。
やっぱ、どっかで、近い将来で会社やめます。それでないと深い思考をするための連続した時間がとれないですから。
従順な奴隷として生は、思考の甘味を知るものには、余りにもニヒリズムすぎますからね。(笑)
また、4月になったら書かせていただきます。ありがとうございました。
『大学への数学』、ぼくも「大学入試良問」特集号みたいなのは未だによく目を通してますねえ。もちろん、受験生のときにもお世話になっていました! で、極めてお節介なことですが、高校数学がある程度すっぽ抜けていても、大学レヴェルの代数学にいきなり手を出してしまう、というのも手だと思います。一つ一つのステップをゆるがせにしない形式的思考とはどんなものか、というのが、適度な具象感とともに学べると思います。佐武一郎さんの『代数学への誘い』なんかが、薄くて、それほど瑣末な感じでもなく、よいと思います。
お仕事のこと、部外者ががたがた言うことではないと言うのは百も承知ですが、原作たそがれ清兵衛さんが仰ってる方向でことが進めばいいですね。やっぱり、何だかんだ言って、普通一般の会社は「無駄に」拘束時間が長いことは否めませんもんねえ。
最近、原作たそがれ清兵衛さんと閣下のやりとりに触発されて、ドゥルーズの『ニーチェ』を再読しました。いやあ、ほんと「極めて明快」とはこのことですねえ。ただ、あの薄さだし、想定読者が「哲学を志す学部生」という感じなので、若干図式的過ぎるきらいがあるますけど、それでも凡百のニーチェ本はかる〜く凌駕してますね。今、『ニーチェと哲学』に手を出そうかどうしようかと思ってるところです。
あ、そうそう、返事なんて書けるときに書いてくれればいいですよ。
それではまた4月にでも!
柄谷行人の著作を読まれたことはございますか?
柄谷行人が派手にやってきた「日本の江戸から戦前までの思想家斬り」についてです。
あれって、日本人がドゥルーズを読むにあたり抱えてしまう問題を端的に表していると思うのです。
ドゥルーズを頭から完全に忘れ去って読めば、結構彼なりに緻密に文献に当たり、日本の思想界が抱える構造的問題点を突いているように思えます。ただ、ドゥルーズを思い出すと、日本人のかかえる構造的無責任さに対する批判が、どうも中期後期のドゥルーズに向けられているような気がしてならないのです。
実際、柄谷行人は、恐らく明らかにスピノザ好きのライプニッツ嫌いでしょうし、初期のドゥルーズもそうでしたね。
ここで、問題になるのはやはり「襞」なのです。
なぜ、初期に批判したライプニッツの復権ともとれる「襞」を晩年にドゥルーズが書いたのかは、実は本当に未だに私にとってドゥルーズ最大の謎なのです。
「襞」の内容ですが、オウム擁護者の中沢新一が書いた「雪片曲線論」にそっくりに思えてなりません。(あくまで私の推定ですが、「雪片曲線論」は「襞」のパクリではないかと思います。)
「雪片曲線論」を読めば中沢がオウム擁護に走った理由は簡単に理解できます。中沢を名指しで攻撃しなくとも、柄谷のやった日本の思想界攻撃が、中沢風によく展開される日本の思想界独特の論法に向っていたのは明らかです。
一方、当の柄谷行人も、責任論が行き過ぎて一周くるりと回って「単なるキリスト教的責任論者」に帰ってしまった気がします。最後に読んだ「倫理21」の内容は、特にひどいと思いました。
僕が、どうも初期のドゥルーズがとても好きで、中期後期を安易に肯定できづらい事情はこの辺にあります。
といって、決して中期後期のドゥルーズが嫌いなわけではなく好きなのですが、でも、読むたびに「柄谷と中沢の亡霊」に脅かされるのは事実です。
何か、亡霊退治の良い解決法は無いものでしょうか。
もしかすれば、はやしさんなら、亡霊退治ができる思考をお持ちではないかと思い長文になりましたが、書かせていただきました。本当に申し訳ございません。
原作たそがれ清兵衛さんの問題意識、というか、感じ方をぼくがどこまで摑み切れているか、甚だ心許ないのですが、何とか応答してみます。
柄谷行人の著作、高校生の頃非常に好んでよく読んでいました。ただ、その頃からその「外へ向かおう」とする姿勢にはいくらかの疑義、というか、違和感を覚えていたことも確かです。
単純に言うと、柄谷行人の姿勢というのは、「日本に閉じこもっていないで世界に飛び出せ!」という、けっこうしょーもないというか、泥臭いアメリカンドリーム的なものなんですよね。
確かに日本人は自閉しがちな傾向があり、ある意味では柄谷行人の言うことももっともなんですが、何らかの言説がユニヴァーサルであるために、身体的に「世界」に飛び出さずともいいはずです。
翻ってドゥルーズのことを考えると、身体的にはとことん「自閉」の人でした。もちろん彼の場合、特に晩年は人工呼吸器に繋がれたりという身体的制約制約もでかかったでしょうが、それにしても「外」に出なかった。あまり詳しくは知りませんが、海外に行ったことも数えるほどしかないのではないのではないでしょうか。
そう考えるとドゥルーズとライプニッツ、特にモナドというものはそれほど唐突な結びつきではなく、思考的な部分でよりもむしろ身体的な側面において高い親和性を有していると思います。モナドには扉も窓もない、にもかかわらず、というよりそのゆえに、無限に外に開かれている……。
中沢新一は……ぼくは特に彼について語る言葉を持っていないのですが、柄谷行人との類比で言うと、「日本人も世界的にプレイできるんだ」という、陰に陽にのその姿勢が、堪らなく日本的、とは思います。そういえば中沢新一もチベットやら何やら、やたらと「外」に行きたがる人でしたよね。ちなみに『雪片曲線論』は1984年の刊行で、『襞』は1990年なので、パクりということはクロニクルにはないでしょうが、自己相似が齎す差異、直線から作られる曲線、という主題は、言ってみれば時代的に「旬」のものなので……ということでしょうか?
まとめると、柄谷行人にしても中沢新一にしても、その「外」を目指す姿勢は間違いなく「ルサンチマン」のそれで、多分原作たそがれ清兵衛さんはそこの部分に「腐臭」を嗅ぎつけているのでしょうが、中後期、というか、一貫してドゥルーズはそのようなルサンチマンとは無縁でした。
「内に閉じこもらず外に出ろ、だって? 大きなお世話だよ。おれは家にいるのが好きなんだ」
そんなドゥルーズの声が聞こえてきそうです。
この件のお返事ですが、頭の中をしっかりまとめてから、かかせてもらおうと思います。
さすがはやしさん、コメントを何度も読ませていただいて、色々自分なりに考えてみると「亡霊退治」の糸口がつかめた気がします。
とりあえず、今日も、また、柄谷が批判して、中沢が賞賛しそう?な「意志決定がどこでなされていて、その意思決定の責任を誰がとるのか全く不明な日本の会社」へ、行って参ります。
では、また、まとまった時間を見つけて、考えをまとめてお返事を書かせていただきます。では。では。
一番重要な「責任論」がぼくの応答からはものの見事にすっぽ抜けちゃってました。これじゃあ、何の応答をしたことにもならないですね。
原作たそがれ清兵衛さんの抱いている問題意識というのは、勝手にまとめると、柄谷は中沢(そしてある時期以降のドゥルーズ)を「無責任」として批判するが、中沢が無責任を称揚するというのはとりあえず措いておいても、それと同根な無責任さを称揚するものとしての批判の射程はドゥルーズにまで届くのだろうか?というものでしょうか。
確かに、中後期以降、特に『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』に見られるドゥルーズの思想が、それこそ浅田彰などによって「軽やかな思想」という形容をもって「無責任さ」を称揚するものとして受容されがちであった、と言うことはできると思います。
ただ、やはり難しいのは、その「責任」というものをどう捉えるか、ということです。そして、責任を考える上で付随して出てくる問題として考えざるを得ないのは、「主体の同一性」の問題です。
……とこう考えてくると、問題が問題を生み……という、まさに考えることの醍醐味が展開されるわけですが、ここいらは今拙速に応答するよりも、じっくり考えてみる必要がありそうですね。
問題に対する解答、というものがもしかりそめのものとしてではあれ存在するとすれば、それは「人がこう言っていたから」というものではなく、自らのうちから零れ落ちたものとしてこそあるはずです。そんな感じでぼくも、原作たそがれ清兵衛さんにとっての、プラトン=ソクラテス風に言えば「知の産婆」として、精神分析風に言えば「最後の言葉を引き出す分析医」として、有効に機能すればいいな、と思います。
さすがはやしさん。図星で当たりです。これこそ、僕が脅かされる「柄谷と中沢の亡霊」なのです。
きのう、はやしさんのコメントを何度も読ませていただいて、当たり前のことなのですが僕が完全に見落としていた事実に思いが行きました。
初期のドゥルーズですが、彼のやったことは「思考の開放」より「過去の思考の洗い直し」に向っていたと思います。勿論それは単なる整理的な洗い直しではなく、誰もかつて扱え切れなかった差異と反復のような西洋哲学の核心的部分に一気に踏み込んでいく、物凄いものなのですが。
柄谷の「日本の思想家斬り」も、そう意味では、この初期のドゥルーズのやった作業にそれなりに似ていると思うのです。彼の結論の是非は別にして。
その後について、わかりやすく書くため、批判が飛んでくるのを覚悟で書かせていただくと、ドゥルーズは思考の解放にどんどん向ったのに対して、柄谷は逆で強烈な責任論に向ったんですね。
ここで忘れちゃいけないことは非常に単純で「ドゥルーズは西洋人で、柄谷は東洋人」ってことなのだと思います。
構造主義の中心的な考え方に「人は、自分の浸っている文化と使っている言語の束縛から逃れて思考することは、ほぼ不可能である」というのがあったと思います。構造主義は好きではありませんが、でもこれは、私的には結構、的を射た考えだと思っています。
柄谷の批判は、あの「ネーション・ステート理論」をもってデリダには本当に、矛先を向けたと思います。(ただ、デリダについて、私は極めて不勉強ですので、これは私の完全な誤解かもしれません。)
一方、中期後期のドゥルーズに対しては、非常に曖昧です。私は、その矛先が向った気がしましたが、でも、デリダのように名指しで 柄谷がドゥルーズを批判したことは一度も無かったと思います。
すると、柄谷自身は、ドゥルーズと自分は文化も言語も違うことを十分認識していて、東洋人である柄谷が日本語で思考してドゥルーズを批判しても、それは批判したことにすらならない、あるいは、彼の展開した責任論はドゥルーズの展開した「責任からの開放論」とは、何の接触点も無いし、そのことを十分認識していたのかもしれません。
にもかかわらず、中沢のやった大チョンボに私はどうしても目が行きすぎて、柄谷のそういうスタンスに気がつかずに勝手に、ドゥルーズと柄谷の関係を必要以上に考え込んでしまったのかもしれませんね。
中沢のやった大チョンボとは、西洋の旬な内容を安易に東洋思想の中で語ってしまうということです。
あのライプニッツ嫌いのドゥルーズが「襞」でライプニッツを突如賞賛したのは確かに私にとっては驚きです。
しかし、ドゥルーズが生涯言い続けた「俺はニーチェだけは緻密にに読んでいて一切変則的読解をしていないが、それ以外の思想家は、変則的読解をやっているよ」ということを頭において「襞」を読めば、初期の「スピノザ」も後期の「ライプニッツ」も、ドゥルーズが表現したいことをいいあらわすことに使った変則的表現だったのかもしれませんね。すると、そこにはドゥルーズ自身の思想には何の矛盾もないことになる。実際フロイトに対する語り方もある日突然変わりましたしね。
僕がつかめた糸口というのは、こういうことです。
しかし、この問題は、はやしさんも感じておられように、決して一筋縄ではいかないと思います。
考えれば考えるほど問題が問題を、呼ぶでしょう。
時間をかけてしっかり考えて行きたいと思います。
はやしさん、また、僕の思考を助けてくださいね。ありがとうございます。(^_^)
ドゥルーズと責任論、やはり難しいテーマですね。この前のコメントでも書いたとおり、日本では世間的には「ドゥルーズの思想は無責任を称揚するもの」という受取りが(少なくともかつては)あったように思うのですが、翻って、正面から「ドゥルーズと責任論」を取り上げた論考というのは(これはぼくが不勉強で単に知らないだけなのかもしれませんが)不思議なほど見当たらない。
さらに、この「ドゥルーズと責任」ということに柄谷行人を絡ませるとなると、『探求』、『マルクスとその可能性の中心』、『隠喩としての建築』といった辺りしかまともに読んでいないぼくは、何かを語れるという気がしません(もちろん、批評空間の各座談には目を通したりはしてましたが、『トランスクリティーク』についてはほとんど持っているだけ、という状態)。
ただ、ごく素朴な観点から、1)柄谷行人のデリダ批判は、それこそ「ルサンチマン」のなせる業なのではないか、2)ごく最近に至るまで柄谷はドゥルーズを肯定的に評価している(確か、批評空間の座談上ででしたが、『差異と反復』を妙に持ち上げていたのを読んだ覚えがあります)、という感じです。
という訳で、このことについてのありうべきロードマップとしては、1)責任概念の洗い直し、2)ドゥルーズと責任論の関係の検証、3)柄谷行人の責任論とその射程の測定、となるでしょうが……どれ一つとっても「うむむ」となっちゃうようなものですよねえ。
何にせよ、ゆっくりと時間をかけて考えていくしかないでしょうね。
はやしさんのコメントを読ませていただいて、一つ昔から不思議に思っていたことのそれなりの答えが思い浮かびました。
「なぜドゥルーズとデリダは何も会話をしようとしなかったか」についてです。
構造主義が扱ったの「差異」とドゥルーズ流の「差異」より、デリダの「差延」とドゥルーズ流の「差異」の方が遥かに近似性が感じられるのに、なぜ、お互い避けあったかです。
ドゥルーズという人は、哲学者の中で極めて異色で、「社会」を大それた形で扱うのが多分自分の趣味ではなかったのですね。以前、はやしさんが「デリダには大儀を感じて暗澹たる気持ちになることがある」って書いておられましたがデリダは「個人」より「社会」を扱いたかった人なのかもしれませんね。デリダは「社会」という「大儀」を扱うのが趣味だったのかもしれませんね。(繰り返しで恐縮ですが私はデリダについて極めて勉強不足ですので、完全な誤解かもしれません。)
ドゥルーズはまたマルクスを扱わなかったのでも有名ですね。マルクスも非常に「社会」を扱うのが好きな人でした。
以前から思っていたのですが、ドゥルーズの思想は最貧国へ行って飢えている人々に説いても何の役にも立ちません。この思想は強い「個人」が確立されている状態でしか通用しない。強い「個人」は、せめて衣食住には困らない程度の豊かさと、政治的にある程度の自由が保障されている世界でしか成り立ちません。
柄谷も「社会」を扱うのが趣味な人なのでしょう。なにせ、色を変え、形を変えはするものの、一生マルクス、マルクスと連呼してきた人ですしね。
哲学を「個人」派と、「社会」派に分類するなんて、「観念論」派と、「唯物論」派に分類するより遥かに遥かに馬鹿げていると思いますが、でも、デリダと柄谷の土俵が結構似ていて、ドゥルーズのそれとはかなりずれていたのは間違いないのでしょうね。
だから、そこで言う「責任」も全く違った意味で「問い」として立てられてるような気がしてきて、はやり、柄谷とドゥルーズには、そもそもの接点が無い気がしてきました。
だた、完全に「社会」を排除した「個人」を 措定すると「無菌室の実験」になる(・・・ただし、この実験はとても意味があると思います。)、「個人」と「社会」を結ぶつけて論じすぎると「個人」である私が生きているのが嫌になってしまうというのが私の率直な感想です。
以下、書き込みというより、完全な落書きで恐縮です。
「人の死」ですが、現在判明している範囲での科学的な見地においては完全に「猫や犬や鳥や魚の死」と同じ。
つまり、?病気や事故等で身体が破壊されるか、?テロメアが無くなって自然死か。
(生物には、?がなくて、細胞分裂を繰り返し、偶然に病気や事故に出くわさないなら、死が無いといえそうなものも存在する。)
??ともに、「猫や犬や鳥や魚」には無い「私」が存在する大脳には、全く関係ないところで起きている。
「人の生」ですが、現在判明している範囲での科学的な意味においても完全に「猫や犬や鳥や魚の生」と同じ。
つまり、種の多様性を維持するために遺伝子を配合し、次世代に伝えて、種を保存するための存在。(遺伝子ビークル)
誰も科学者はそうだとはあえて言わないだろうがこれを演繹すると、強姦まがいにムードンコもつけずに不特定多数のメスと「思考など一切せずに、やりまくる無責任男」こそ、科学的にすばらしい。勿論、強姦は種の保存という見地からは、何ら問題ない。となる。
(マルクスは、それを実感していたのか、やりまくって私生児をつくって、その面倒を金持ちのエンゲルスに見させたとか。)
僕の知識って、一応、現在判明している科学の知識の範囲内では、正解の部類でしょうか?
最近、科学にについて勉強不足ですので、採点お願いいたします。
申し訳ありません。
私は、哲学とは、科学的事実に基づいても、その良きライバルとして時として「正反対の答えを出す」ところが好きですね。
残念ながら(?)、原作たそがれ清兵衛さんの言うような「ひたすら子孫を残す方向で行動する」というのは、種にとっても、そして遺伝子にとっても最良の生き残り戦略とは言えないのではないか、と思います。
たしかこれはドーキンスの本にも書いてあったと思うのですが、あまりに特定種が増えすぎても厄介なことになる。ゆえに、生き残り戦術に長け、外敵も少ない種ほど、1単位辺りが残す子の数は少なくなる……ということからも、「なぜそうなのか?」という「内的理由」はさて措いても、外的証拠からそういうデータが出ています。
たとえば、人間以外の動物は、とりあえず「人間的思考」はないわけですから、それこそ「ひたすら子孫を残す」という方向で生殖活動をしてもいいわけです。しかし、実際はのべつ幕なし発情し交尾ばっかりしている(このような事例が当てはまるのは、ただニンゲンという種だけでしょう)、ということはなく、絶妙なバランスの上生殖活動を営み、多少の誤差はありますが、諸々の外的環境に適した数の子孫を残すわけです。
……といったところで答えになってるでしょうか?
誤:外的証拠からそういうデータが出ています。
正:外的証拠からそういうことを示すデータが出ているので、「子孫をひたすら残す」という行動は認められません。
うーん、こう置換しても乱れてるっちゃ乱れてるな……。ま、しゃーない。ご寛恕ください。
ということは、私が勝手に演繹した話は不正解でも、遺伝子ビークルの話までは、現在の科学から見て一応正解に属する類の話なのでしょうか?
(自然界の摂理を、大脳で思考する人間の世界に持ち込んで(先の私みたいに(笑))トンデモ系の演繹を始める癖がある東洋思想と、後期のドゥルーズの距離はとても気になります。
その距離の検証のベースとして、科学の最新の知識は結構役に立つ気がしています。)
そうそう、あと「テロメア寿命起因説」も、現在では「何となくそうっぽい」という感じで、「確実な定説」というにはちょっと遠いかな、という具合です。
で、「トンデモ系の演繹を始める癖がある東洋思想と、後期のドゥルーズの距離」、そうですねえ……これに関しては宮本さんのほうが何かしら意見があるんじゃないかな?
はやしさんを某トビで発見しました。僕がテロメアのことなんか聞いている場合ではないですね。どうも色々と失礼いたしました。
でも、すげえ世界見たなって感じです。ああ、こわーーーって感じで。
僕には、あそこに書く実力(というか腕力というか気力)は無いですね。(笑)
ということで、あいもかわらず、はやしさんと閣下のブログにパラサイトしますので、今後ともよろしく。(笑)
確かに、どっかしらには書込んだりしてますけど、少なくとも主観的には「すげえ世界見たなって感じです。ああ、こわーーーって感じ」というところには書込んでいないつもりなんですが……。
もしよろしければ、それがいずこであるのか教えていただけませんか? 別に、どこに書込んでいるか、ということは、誰に知られても構わないことなので。
実は僕の友人にIQ200という奴が本当にいます。本当に頭の回転はびっくりするほど速い速いです。また、人がごにょごにょ言ったことも瞬時に整理して理解してしまいます。それも、知識が全然無いような分野のことでも。でも、僕の友人にはどうしてもできないことがあるらしく、それは、より全体の大きなフレームワークで自分の思考(あるいは、実践していること)を検証してみるということで、結局、山に篭ったり、ヤマギ●に走りかけたりで、僕が言う哲学的言説だけは絶対に理解できないみたいなのです。なんで、こんなに頭にいい奴がって本当に思いますが。
はやしさんを見ていると、僕の友人を簡単に超えている聡明さを感じます。
回転の速さ、そして、瞬時に相手の言っていることを整理できる能力、そして、より大きなフレームワークで自分の思考(あるいは、実践していること)を検証してみること、全部備えておられると思います。
これ、マジで僕が抱いているはやしさんにたいする感想です。お世辞じゃなくて。(笑)
と言って、また低次元な話で恐縮です。ほとんど、恥かきのついでの世界です。
僕は、「数」っていうのはすべて、人間の脳の外に実際にあり、それを大脳が感知しているのだと思っています。
発見される「数」はすべて存在する。と。
数学は、あれは、宇宙の一部が数学的秩序を持っていて、それを「数学者」という頭の良い連中が自分の大脳で感知して「発見」しているものだと。
だから、発見されている数学はすべて、将来、宇宙に存在する物理現象の表記に適用されるであろうと。
勿論、数学で表記できる現象なんて宇宙の現象のほんの、ほんの一部でしょうが。
そして、「ほんの一部」以上のことを人間が理解できるのは、進化でもして「大脳」の上に「大大脳」でもできないと無理であると。
真剣にそう思っているのですが、これって、トンデモですか?(笑)
(一応、数学の哲学界とか、そこいらでしか流通していない言葉かもしれませんから、用語解説を付しておきます。もしご存知でしたら、ここは読み飛ばしてください。さて、「実在論」と呼ばれるものは、伝統的哲学の用語で言えば「観念論」のことであり、「プラトニズム」と呼ばれることもありますが、普通「抽象的」なものと捉えられているものも、われわれの「外部」に「本当に在る、実在する」という立場です。それでは、その実在論の反対物である「反実在論」は、伝統的な哲学の言葉遣いで言えば、「唯物論」もしくは「唯名論」なのか、というと、これがなかなか微妙なのですが……。とにかく、原作たそがれ清兵衛さんが仰っている立場は、「数学的実在論」です)
これは生半なことでは答えが出るような問題でもないし、そもそも答えが出るようなことがどうか定かではないのですが、とりあえずぼく自身の立ち位置表明というか、そんな感じのことを一つ。
ぼくが考えている「数学的対象」の存在様式というのは、数学的反実在論、もうちょっと精確に言うと構成主義constructivismのそれです。構成主義というのは、数学的対象というのはある公理系(いくつかの公理+推論規則)から「構成」されるものが全てで、その他の、未だ構成されざる対象は「存在しない」とする立場です(だから、たとえば「円周率の10進展開中に、1から9が、この順序を保って現れる」という命題は、実在論的には「今現在、その真偽をわれわれは知らないが、決定されてはいる」というものであり、反実在論的には「そのような命題の真理値は、未だ有限の手続きを以って真偽が決されていないので、われわれが知ろうと知るまいと、決定されてはいない」というものになります)。
それではなぜ、ぼくはこの構成主義的な見方に立つか、と言うと、昔ながらの「オッカムの剃刀」(無駄な概念は増やすな)を支持しているから、ということよりも、その構成主義のアナーキーさに惹かれている、というのがでかいですね(構成主義は何と排中律を認めない! それでいて、解析の大部分を「構成」してしまっている)。
そして、そうした「数と物理世界の一致」を感受しているのが、この「われわれ」だ、というのも、数学的実在論に与するのを躊躇させる理由かもしれません。カント的に、われわれが感受しているこの世界は、われわれのカテゴリーによって逆規定されている、とまでは思いませんが、「われわれが現に見ているこの世界」は、何らかの形で「このわれわれ」の作用を受けているには相違ありません。だから、この世界がわれわれの外部で「本当はどうなのか」を問うことは、なかなか難しい問題でもあり、最終的に「外部世界がどうあれ、われわれが数と世界の一致を勝手にそこに見ているだけではないか?」という疑念を払拭するには、実在論の議論は未だ至っていない、と思われます。もちろん、反実在論のほうも、端的な実在論の否定には至っていないのですが。
とはいえ、現場の数学者はナイーヴな意味では、ほぼ全員(というのは、何がなんぼでも言い過ぎかな?)プラトニストのように思われます。ほら、数学者って、何らかの定理を証明したとき、「定理を発明」ではなく、「発見」って言うじゃありませんか。
というわけで、原作たそがれ清兵衛さんのような実在論的立場は、そこからの論の展開如何ではありますが、それだけでは「トンデモ」と切り捨てることの出来るものではないのは確かです。
何だか長くなっちゃいましたが、こんなもんで。
あのトビは、はやしさんの実力でこそ簡単に、たち回れるのでしょうが、私の実力というか頭の回転のスピードではとてもとても。
そういう意味で「ああ、こわーーー」でした。
僕なんか迷い込んだら、皆さんにボコボコにやられそうです。(笑)
話について行くのだけで苦労しましたよ。結構ね。
目をクルクルして、いい勉強させていただきましたって所でしょうか。ははは。
でも、不思議とはやしさんの書き込みだけは、読み返すこともなく一度読めば理解できましたね。
はやしさんのブログを読ませていただいて、ずっと思っていたのですが、はやしさんのコメントの凄いところは、他人のコメントの一部をほとんど引用することなく(・・・・引用するのは、結局一部に対してのコメントしかできていないことが多い・・・・以前「たこ八郎の相対性理論」と私が揶揄したひとのコメントは、ほとんどこれに該当。)、全体の論旨を汲み取り、それに対してちゃんとコメントをつけられるところだと思いました。
はやしさんがお持ちの、(私を含め)他の人の論点を綺麗に整理して議論できる能力には、本当に脱帽しています。
確かに、あそこは何とはなしに「鬼面人を驚かす」感じがぱっと見漂っていますけど、かなり和気藹々というか、その「和気藹々」という言葉から感じられるものから「馴合い」の風味をマイナスしたようなところで……だから、そんなに排他的なところでも、ましてやおっかないところでもないんで、原作たそがれ清兵衛さんも是非!って、誘うな!って感じですか? 何にせよ、ぼくの見るところ、あそこはそんなに「議論の勝ち負け」ってことは問題にされていないと思います。
で、コメントの引用というか、「>」で人のコメントを引っ張ってくるのって、単純にぼくが慣れていないというか、ちょっと自分のスタイルではないなあ、という感じで……まあ、何にせよ、相手の言っていることを自分の言葉(ってほど大仰なもんではないですが)でパラフレーズして、「おれの理解ではこんな感じだけど、ほんとそれでいい?」って念を押しつつ、密かに自分の議論の水路に引き寄せる……という、まあ汚い遣り口ですよ、見ようによっては。とはいえ、そんな「汚い」ことを念頭に置いているということはほとんどないですが。
まず驚いたのは 「離散的」という言葉が実は数学のタームで、そしてちゃんとした定義が存在することを今まで知らなかったことです。・・・はっきり言ってアホだなと思いました。
それから哲学の世界で濫用されてきた「ゲーデル」話に胡散臭さを感じて、ゲーデルをなめていたのですが、この人結構凄い数学者だったのですね。
あと、数学的絶対神(=無限を完全に内包する連続体)の証明に走ってそれができずになやんだのでしょうか?
カントールや、ゲーデルが頭の線が切れちゃったと知って、「真善美」を問うて、昔切れちゃった自分を何か思い出しました。
集合論の公理系って、本当に沢山あるのですね。確かに「一つの公理系の中には、真偽判定が不可能な命題が必ず存在する」のでしょうが、数学者は、「真偽判定が不可能」なんてどうでも良いことみたいで、とりあえず「矛盾していない」なら、何でもやっちゃえって感じみたいですね。
そうこう考えているうちに、先の私の実在論は、ドゥルージアンにあるまじき発想であると分かってきました。
連続体の存在は、矛盾さえなければ何でもありの「数学」の世界なら、将来「数学的」にその存在が証明されることもあるかもしれないですが(今のところ「真偽判定不可能」みたいですが・・・・)、それがまた、物理的に存在するかどうかとは別問題だというのもよく分かりました。
私は、余りにも数学的表記が、物理の世界に通用するのを見て昨日まで結構短絡的に実在論を支持してしまっていたようですね。
そういえば、「差異と反復」だったと思いますが、数学的表記が使えるところにだけに適用しているのだから物理に数学の表記が使えるのは当たり前って、確か書いてあったと思います。
ああ、このことを指していたのかと今日やっと理解できました。
それから数学の最先端の集合論って、ドゥルーズが(多分?)嫌った「形式論理学」に結構よく似ているなという感じを受けました。
で、また繰り返しになって恐縮ですが、色々といつも教えて頂きまして本当にありがとうございます。
(申し訳ありませんが、もし誤りがあれば、ご指摘して頂ければ幸いです。
すいません。m(_ _)m )
先に話題に上がっていた「啓示板」の常連、Sintaです。
一応「♀」です。HNで「ガッテン。シンタ!」って間違われていたので初めての方には、キャプションつけといた方がいいかなって。
(ちなみにSintaはラーマーヤナの「シータ」)
で、はやしさんも書かれていたように、啓示板、恐くないですよ、大丈夫。優しくボコにされちゃうのは(笑)、間違って上から物言ってくるような輩とかだけですし、常連同士でも「それちゃうよ」ってdiscussするし、言われても後くされないしね。
他で登場したフニャコの板とかも行き来してるし、ネットのいいとこは、境界がないってとこで、「橋が架かる」ってことかなって思います。
なので、いつでもwelcome! 気が向かれたらどうぞ。
はやしさん、ドゥルーズってまだ読んだ事なくて、はやしさんの「名訳」で初めて「読んだ」のだわ。楽しみにしてます。
まあ「数学」といっても、ここいらの数理論理学がらみのことは、「数学の鬼っ子」みたいなもんですから、何ともあれなんですが、とはいえ、数学特有の「待ったなしの厳密さ」というものどうしたって要求されますから、そういう意味では「鬼っ子」であろうと何であろうと同じことなんですが、いいですよね、こういうの。何というか、サウナに入っているような、暑いに日さらにムリして汗をかいているような爽快感がありますよね。もっとも、サウナって入ったことありませんが。
さて、確かに日本においてゲーデルというのは、称揚されるにしても貶められるにしても、納得のできないような仕方でしかそうされていない節はありますよね。彼の業績を真正面から受け取り、褒めるべきは褒め、貶すべきは貶す、という、ごく当たり前のことが、俗耳に入りやすいノイズにかき消されてしまっている。これは、ゲーデルにとっても、もちろんわれわれにとっても不幸なことです。
ゲーデルの業績で飛びぬけて有名なのは、言うまでもなく「不完全性定理」の証明です。この定理は、これまた言うまでもありませんが、*完全に*形式化された、算術を含む程度に複雑な体系は、その内部にその真偽が決定できない命題が存在し、しかもそれを*実際に*構成することができる。そして、そういう「真偽が決められない」命題の一つに、「その体系が完全である(つまり、証明できる命題のクラスと、あるモデルによって「真」と判断される命題のクラスが一致する、ということ)」というものが含まれる、ということを主張するものです。
この定理の与えたインパクト等々は省略しますが、ゲーデルはそもそも、「ある体系が完全であることが、その当の体系の内部で示せる」ことを目指していたので、全く逆の結果を導き出してしまった心中や如何、です。ですから、「数学的絶対神」の証明を目指していたことはある意味そうなのですが、それは「無限を完全に内包する連続体」云々とはとりあえず無関係です(むしろ、このことは彼の集合論がらみの業績に関係することです)。カントールの「狂気」に関しては、彼の研究内容云々というより、その研究成果が当時の数学界ではまともに取り上げられなかった怨恨、というのがでかいのではないか、と思っています。そもそもおかしかったのだ、という話を聞いたことがあるような気も。
ここからはやや雑談、というか、原作たそがれ清兵衛さんの出された話題に寄り添いながら、軽い情報提供、という感じで。
集合論に限らず、論理学の公理系自体たくさんありますね。「矛盾がなければなんでもオッケー!」とありますが、それどころか、「矛盾を許す公理系」というのも存在し、それなりの成果を挙げていたりします。あと、英語等で"Mathematical Logic"と言った場合、その表現には「集合論」というものが含まれますので、似ている、というよりも、論理学のサブジャンルの一つが集合論、という認識です。
それで、「なぜこうもうまく数学が物理世界を記述できるのか」についてのドゥルーズの言ですが、それはそうだと思いますね。逆に言えば、数学的フォーミュレーションに馴染まない事象だって、思い起こしてみるとたくさんあるわけです。証明可能性と充足可能性という論理学の言葉を流用して言えば、その両者の可能性がイクォールで結ばれることはないでしょうから、その意味で「完全」ではないわけです。
……ってな感じで、何だか勝手なおしゃべりを繰り広げちゃいましたが、他にも疑問点等ありましたら仰ってください。
な、な、何と、♀だったとですか! いや、別に翻って、「男なんだろうなあ」とか、そう考えていたということではなく、こういうネットでのやりとりでも何でもそうなんですが、男だの女だのということは気にしない、というか、自分が♂なので、そういう自分の性別を投影しちゃうところはありますねえ。ま、ほんと、どーでもいーことですけど。
「優しくボコ」って、それすらもあんまないじゃないですか? や、ぼく自体が新参者なんで、過去の色々は詳らかではないんですが(唯一思い浮かぶそれに近い場面は、「一輪の花」さんが出てきたときの……って、その粗暴ものはおれじゃん!ってぐらいです)。それに、そう、基本的に「不和(というか何というか)を以って尊しとなす」ですよね。難癖付けて何ぼ、の世界。
あ、でも、宮本さんのあのちょっとシアトリカルな感じに気おされちゃうってのはあるのかなあ。とはいえ、ああ見えてもいいお父さんですから、って何にも知らないくせによく言うぜ!
ほいで、あのドゥルーズの訳ねえ、ああ見えてけっこう厳密な訳なんですよー。ちょっと「超訳」っぽいふうに受け取られるかもしれないけど、そういうことはしていない。というか、おれの耳にはああいうふうにしか響いてこないんだな。だから、しゃーない(って、別に文句も付けられとらんだろう……って、いや、「名訳」ってクォートしてあったからさ)。
シンタさん、はじめまして。
私は、かつて、頭の線が切れて「黄昏の人」になりかけたことがありますから、「たそがれ」さんで、結構ですよ。(笑)
「原作たそがれ清兵衛」の由来ですが、原作にあるたそがれ清兵衛は、映画で駱駝のごとく重荷を背負ったたそがれ清兵衛とは対極で、結構能天気とも思える自由気ままさを持ちながらも家族を大切にしたやさしい人で、そういう人をイメージしてのことです。
あああ、宮本さん(はじめまして!!!)も、また、あっちで「数学」コーナーなんか、始められて、はやしさんもシンタさんもグルで、このオヤジをあっちにおびき寄せようって魂胆ですね。 オヤジは、だいたい女性に弱いですからね。はああ。
行くべきか、行かないべきか同じ年のオヤジ(失礼!!すいません!!)の荒井さんにでも相談してみましょうか。はああ。
迷迷迷迷迷。
それで、「啓示板」の数学コーナー、あれ、原作たそがれ清兵衛さんに返事を書いている時点では知らなかったんですよ。だから、おれと宮本さんが共謀で…… ということはないですが、それはさて措いても、ほんとそんなに躊躇するようなことでもないですよ。別に学問的厳密性を求めているわけでも何でもないですし。「おれにとって数学は、こんな感じのとこが素敵なんだよね〜」ということを、「んだんだ」とか、「え〜そお〜?」というふうにしゃべくろうぜ!ってことですから。少なくともおれは。で、その過程で、思わぬ発見や拾い物があったら、それはそれで「得したじゃん!」ってことで。
それはさて措いても、宮本さんが誘いたがっている「数学屋のメガネ」さん、ちょっと前に荒井さんとやりとりをしていたと思うので、その線で引き込めねえかなあ、とよからぬことは考えていますが。ま、おれが単身、「ちょっとちょっと!」って誘いに行ってもいいんですけどね。
そんな感じで、迷いや恐れは無用、と思います。何か感じるところがあったら、書込んでもらえるとおれとしてもオモロイですし。
私の頭ん中には数学のすの字もないんですが、どこでやってるんですか? その『啓示板』って? 「数学屋」さんですけど私が声かけましょうか? 「数学や」さん自身の考え方はなんかカチンとくるんですけど、(いいのかなこんなこと書いちゃって……汗)その道のプロみたいですからねえ。私でよければやってみますが?
それと 原作たそがれ清兵衛さん、何をためらってるんですか? 行っちゃえ!行っちゃえ!
それで、荒井さんから「数学屋のメガネ」さんに声をかけていただくだなんて、そんなお手間を取らせるわけにはいきませんよ。ただ、「数学屋のメガネ」を知ったのが、荒井さんとの議論を見てだ、ということで、荒井さんのお名前は出させてもらうかもしれません(ほんとのことですしね)。
「啓示板」というのは、ぼくのところにもよく書込みをしてくれている宮本浩樹さんが主宰している掲示板で、ぼくは新参者の癖してかなり言いたい放題やらかさせてもらってるところです。何も「数学」ネタばかりというところでは全くないので、荒井さんもちょっと覗かれてみるとオモロイとおもいます。で、何か書込む際も、手加減は無用、「なーに言ってんだお前はーっ!」ぐらいの勢いは許されるところなので(って、おれがそう思ってるだけ?)、気兼ねなく。って、おれが言うことじゃないな。でも、そうだよね、宮本さん?
で、啓示板、下記のアドレスです。
<a href="http
あと、話は変わりますけど、荒井さんの「内田批判」、いいですねえ。ぼくも彼に対しては思うことは色々あるので、いつ参入しようか参入しようかと思いつつも果たせずにいるんですが、荒井さんの活躍には内心快哉を叫んでおります。
で、「数学屋」さん、カチンと来るだなんて、そんな爆弾発言を……。
ま、口を滑らせたついでに言っちゃうと、内田さんのことはともかく、「数学屋」さんがよく「誤読」ってことを話題にしてて、それ読んでるとなんか僕の心の奥にカチンってひっかかるんですね。その理由はボンヤリとつかんではいるんですが、いずれまた議論する機会があると思うんで、ちょっと僕の方も考えをまとめて準備しておこうかなと………。
秀さん、もし読んでたら、すいません。失礼しました。また議論しましょう!
たそがれさんとはいつか以前に挨拶してます。あらいけんさんは初めマシて。数学屋さんとは一度だけやり取りしてます。
で、はやしさんには昨日メールおくってます。
明日横浜方面に出張するから昼飯でも如何?ってヤツだけど、ついてますか?
うちの啓示板は基本的に誰が何カキコしようと自由です。
気に入らなければ消しますから、「書かせて、消す。」管理人に出来るのはこれだけです。
ブログのコメント欄よりもちょっとだけ刺激的かもしれないってことで。「革命」「ニーチェ」なんかにこだわりのある方は是非おいでください。
ついさっき啓示板に書込みしてたとこだよ。で、メールは言われて今見た。
明日横浜? とりあえずどれくらいの時間にどこどこで、ということを、再度メールしてもらえれば、のこのこ出向いてくんで、よろしく。
そうですよねえ、本業に裏の稼業にと、お忙しい身ですもんねえ。ブログの書込みでも、掲示板の書込みでも、第一義的には「愉しみ」のためになすことなので、それが翻って重荷になってしまっては本末転倒です。何でも、ヨユーをもって楽しみましょう!
あと、年の話ですが、そんなー、関係ないじゃないですか! それに、もし年の差に起因する、何やかんやの違いが本当にあるのだとすれば、それはそれで(年をとっている、若輩者である、のいずれかに関わらす)他者の言説に耳を傾けるべき重要なファクターである、と思います。
……と、啓示板を見ると原作たそがれ清兵衛さんの書込みが! おお! 今日帰ってきたら早速リプライします。
今日は、不覚にも、終業後の「儀式」にまきこまれ、レヴィストロースのごとく数時間「儀式」を観察していまして、それでとても疲れました。まあ、それはさておき、躊躇する理由は一つだけでありまして、いい年したオヤジが、若いひとたちについていけるかというその疑問だけであります。
皆さんと議論をしてみたいのは、やまやまなのですが、裏と表の稼業に加え、はやしさんとスターリン閣下のところに書かせていただいていて、その上、宮本さんの掲示版まで書かせてもらうと、多分体力が持たないであろうということです。
最近、はやしさんのブログに勝手に勝手に沢山書かせていただきましたが、それは、裏の稼業が暇だったという幸運に恵まれたせいもあります。
裏表フル稼働状態だと、平日4時間睡眠を確保するだけでも大変です。
ほとんど、徹夜状態で会社へ行ったりもしますが、JRの中でつり革を持ったまま寝ることはあっても、JRの車両を運転したりすることはありませんから皆様ご安心くださいませ。
って、実は、そんな、しょーもない理由でありまして、皆さんにいらぬご心配をおかけしてまことに申し訳なく思っておるところでありますが、なんか年寄りをいたわっていただけそうですので、宮本さんのところにも、体を潰さない範囲で書かせていただこうかと思いました。
身体に がたが来そうなら、話の途中でも勝手に一方的に退出させていただきますし、それでも、ぶつぶつと、はやしさんや閣下のところには勝手に書いているという状態もあるかもしれません。それは、皆様に失礼にあたるかな? 当たらないよね!。うんきっと当たらない!! という 勝手な公理を追加して、皆様、宮本様、書かせていただきますのでよろしくお願いいたします。
楽しんできてください。(・・・と声かけても、もう家出られたでしょうね。(笑))
秘密会議にせずに是非「宮本語録」の開示をお願いいたします。
宮本さん、「はやし語録」の開示お願いいたします。
宮本さんと会ってきましたよー。で、会議は白熱の度を高め、ついには殴り合いにまで発展……とかだとあれなんですが、宮本さんはきわめて紳士的な方だったので、そういう兆候も全くありませんでした。それに比べてぼくは、ヴァーバルレベル的にもこのブログまんまで、粗暴なやつだな、と思われてることと思います。
で、秘密会議の内容、というか、「宮本語録」ですが、色々と機密事項に関わることもあり、公開は、うーん、どうでしょう。とりあえず、一つだけ昨日発せられた「宮本語録」の中から紹介すると、「はやしさん、自分のこと『天才』だと思ってるでしょ?」という問いかけが、虚を衝かれた、というか、勝手な思い込みかもしれませんが、傲岸不遜とかそういうレベルを超えて、のっぴきならない問題提起をしているな、と思ったことです。
翻ってぼくは、ここ何日かあまり寝ていなかったせいもあり、日頃はかなりマシンガントークなのですが、あまり未のあるリプライを昨日は返せず、宮本さんとして物足りない思いを抱いてること、と察します。なので、おれの「語録」というのは、公開したとしても、あんまオモロイもんじゃないでしょうね。
という感じでした。って、どんなじゃ。
天才ですか。いやあ、実は私は10年ほど前、自分の事を勝手にそう思っていた時期がありましてね。(爆笑)
ちょうど、おつむの病気が急に劇的に良くなりだしたころで、出来なかったことが突然どんどん出来だしたもので。(笑)
で、当時回りにいた女性の何人かは本当にそう思っていたようです。(・・・これこそ、ニーチェがルーサメロに抱いたアホな妄想そのもの!!)(爆笑)
ははは、そんな私の頭を「あんたは、おめでたいだけじゃないの?」って、ハンマーでぶったたいたのが今の家内です。
私は、この生まれながらの非弁手法系唯物論者に本当に感謝しています。
あの時、ぶったたいてくれたおかげで、私はアブナクならずに済みました。
ドゥルーズやニーチェを本格的に読み始めたのは、そのあとです。
会議の内容は、結構シリアスでしたでしょうね。だいたい、なんとなく雰囲気は想像できます。
はやしさんの実像は、天才秀才ということなんかどうでもよくて、ニーチェの著作に出てくる「人格者にして完全犯罪者」って、感じかなって、勝手にこれまた妄想しています。
ドゥルージアンが目指す、超人って、別に「天才秀才」の類には、なーーんにも関係ない概念ですしね。
失礼いたしました。(笑)
昨日たまたまゼミの先輩のHPを見つけてしまいまして。
この先輩、大学当時「天才」で有名だったのですが、完全に今では「凡人」をしておられました。勿論、実名と所在入りのHPですので、書きたいことも書けないのかもしれませんが。
人の人生は、天才度をはかるIQなんかで決してきまるものでなく、僕は結構、「物事の捉え方、考え方」で変わってしまうと思っています。
幸いにも「凡人」の私は、家内との出会いという偶然の出来事により、先に紹介させていただきましたIQ200の(自他ともに認める)天才の友人より面白い人生を歩ませてもらっていると思います。
はやしさんのブログって、粗暴とは全くの対極にありますよ。
はやしさんって、きっと礼節をわきまえた破天荒な人なのだろうなって勝手に想像しています。
とはいえ、原作たそがれ清兵衛さんも言われている通り、自らを「超人」と称したり、本当に「超人」であるにせよ、それは「天才」などの言葉が含意するような「優劣」というものを微塵も示唆しませんしね。数多の超人がそれぞれのシンギュラリティを持って併走している、という情景。これは、宮本さんが啓示板で引いている、宮澤賢治の「おくのきょしょうが……」と同様な事態でしょう。
で、礼節を弁えた破天荒な人間……まあ、それはあらまほしき姿なんですけど、どうでしょうねえ。破天荒かどうかは別として、何でかよくシャブ中と間違われますけど……おれ、シャブどころか、酒も飲まないのに。
それで、啓示板の「数学美」スレッドなんですが、ちょっと所用があり、ぼくが書込みできるにしても今日の夜以降という感じになってしまいますので、気にせずに進めちゃってください。大体、主が不在なんで、主の帰還まで待つ、というのも手かとも。
3日間ない頭をひねってたんだけど。
はっきり言う。不可能。
彼はそんなタマじゃない。
彼はおれと同じ天才なんだし、おれと同じく超人を目指してて、
俺と違って、まだそうなりきれてない。
俺と、・・・
で、原作たそがれ清兵衛さん、冗談も何も、宮本さんは100%本気ですよ。明らかにplayfulな発言は別として。
いやあ驚きました。宮本さんこそ、私の知る限りでは、人類初の超人ですね。すごーーい。
とは、言いながら、「(流血)革命」と「ニーチェ」がどう結びつくのか?(もしかして、ヒトラー風?)、「死を生に投射して、生を賞賛する」(・・・これって、ニーチェが批判したショーペンハウアそのものだという気もしますしね)という発想がどうして「超人」に結びつくのか 疑問の残るところでありますが、いやいや、人類初の超人のご誕生、おめでとうございます。
ところで宮本さん、ここの、やりとり見てもらったら分かると思うのですが、私も はやしさんも、最も好きな思想家「ドゥルーズ」にすら、それなりの批判や、疑義を持って読んでいます。
私は、ネグリのこと良く分かんないですけど、「ネグリ」に対する批判や疑義の一つも、たまには、お聞かせ下さーーーい。(「おしゃっていても、私がアホで理解できていないだけかもしれませんが・・・」)
原作たそがれ清兵衛さんの、ともすればplayfulな発言にマジに対応するようであれですが(まあ、洒落の分かんねえ、無粋なやつだ、と受け流してください)、「超人」であるかこと、ってのは、別段そんな大したことでないとも言えるような気がするんですよね。というのも、ガキは超人なわけですから、ニーチェの言を真に受けると、人類は誰しも「超人」としてその生をこの世に受けるわけです。ただ、難しい、というか、微妙なのは、自らを「超人」と自己認識したり自己規定したりすることは、果たして「超人的」か、ということ、つまり、気付きと無意識のあわいに身を置くことの難しさ、だと思います。
洒落が分からんのは私のほうですよ。(笑)
実は僕のイメージでは、超人はガキのごとく見えるって感じで、世のガキを見ていて超人のイメージはあまりわきません。
まあ、それにしても、ガキって色々いて、おもろいガキって、本当におもろいですけどね。
「シリアス」とも言えることをあえて茶化しもせずに「真顔」で言ってみせる、これも、とり方によれば、究極のユーモアであるわけで、超人的な行為ですね。
駱駝の中にも超人はあるし、ライオンの中にも駱駝がいるし・・・・・って感じが本当のところだと思います。
駱駝やライオンから完全に独立した超人、こりゃ、実際問題として、存在すれば、ニーチェ同様とても「はた迷惑な人」でしょう。
宮本さんって、結構重荷を背負わざるをえない運命の人のようですし、まあ、僕も、人が聞いたら絶句するような重荷(・・・これは、自分の患った病気には何も関係ない事象です・・・あの病気は当時は真剣に死のうと思うほどしんどいものでしたが、この重荷に比べれば屁みたいなものです)を20年背負ってきたし、これからも背負うのでしょうが、まあ、私はあたう限り能天気に楽しくやっていきたいと思います。
それが、私流の「超人を目指す」って所でしょうか。
まあそれにしても、重荷を軽くするためにだけのためにやっている相場という何の価値も生まない、気だけが滅入るものからは、早く足を洗いたいものです。
っていう三態の変化についてなら、
> 駱駝の中にも超人はあるし、ライオンの中にも駱駝がいるし・・・・・って感じが本当のところだと思います。
これは受け入れられません。
「人間らしさ」という価値をすべて投げ捨てなければ「進化」はありえないでしょう。
人間は、サルらしくなかったはずです。
で、当時の全てのサルにとって「はた迷惑」な存在だったはずです。
「なんだあいつらは、近頃の若いもんはまったくサルらしくない・・・。」
たそがれさん、僕は「よく分かんない」ヒトに誰かの批判や疑義を語って聞かせるほどのヒマがないんです。
ネグリ氏はここで発言できないんですから、たそがれさんがなんらかの彼に対する読み、意見なんかを述べられたらそれについて「批判や疑義」を語らせてもらいます。
はやしさんが
「気付きと無意識のあわいに身を置く」なんて言ってますが、「無頓着さ」「軽み」「ほどほどの無関心」なんかに通じる「知識人」とはいえないもんな。
>「人間らしさ」という価値をすべて投げ捨てなければ「進化」はありえないでしょう。
人間は、サルらしくなかったはずです。
で、当時の全てのサルにとって「はた迷惑」な存在だったはずです。
「なんだあいつらは、近頃の若いもんはまったくサルらしくない・・・。」
あのう、申し訳ないのですが、私も(多分はやしさんも)ダーウィン主義的発想には全く興味はありません。「成り上がりの奴隷」を作りだすだけですので。
ちなみに、10年前の私も、この宮本さんと全く同じ件のことを言っていました。(笑)
今では、せめて、世界征服はオースティンパワーズに出てくる「ドクターイーブルさ」を持ってやらなきゃねって思います。
それから「私はダーウィン主義的発想についての批判や疑義を語って聞かせるほどのヒマがないんです。」と先にお断りしてきます。
>俺と、・・・
のあとは、「一緒に革命をやったら超人になれる」の件が続くのだと思いますが、はやしさんは、振っても叩いても、宮本さんのいう「革命」から最も縁遠い人ですので、スカウトするのは時間の無駄ですからやめておいたほうがいいと思いますよ。
それでは、さようなら。
「超人」問題ってのは、ちょっと微妙、というか、ニーチェの書きっぷりから言うと色んなアスペクトが抽出されちゃいますからねえ。だから、「おれの読みの方が」、「いや、おれの方が」という問答は、畢竟その人がどういう人であり、何を目指すのか、という鏡にはなれど、「唯一の正しい訓詁学的解釈の循環」に入ってしまうと、無駄、とまでは言いませんけど実りのあるものではないでしょう。
ただ、さは言えど、ぼくは「解釈は人それぞれ」という相対主義的な立場も採りません。何だかんだ、やはり「自分の解釈が『正しい』」と思ってテクストは読むわけですし(ここいらの言い回し、うまく言えないんで「正しい」とクォートして逃げちゃいました)、さりとて他者の読みも気にかけないわけでもなく、というような……。何らかのテクストの解釈であれ何であれ、相対主義に陥ってはどうしようもないし、かといって独断的なものも避けたいわけです。
それで、「駱駝の中にも超人はあるし、ライオンの中にも駱駝がいるし……」ってのは、まあそれはそうなんですよね。とくに、ドゥルーズのちっちゃい方のニーチェ本の劈頭の言葉は、そんな感じでした。とはいえ、宮本さんと同じ視点からではないにせよ、ぼくもそのような、下手をすれば「進化史観」に陥ってしまうような解釈は避けたい、と思います(念のために付言しておけば、原作たそがれ清兵衛さんがそのような「進化史観」を採っているとは微塵も思っておりません。またついでに言えば、宮本さんもダーウィン主義的なスタンスは、ぎりぎりのところで採っていない、と思います。だからこそ「進化」とクォートして使ってるんでしょうし。まあ、例としてサルを持ち出したりして、誤解を招きやすい言い方だ、とはぼくも思いますが)。それに、この言い方だと、「酸いも甘いも噛み分けた……」みたいな「人間的成熟」って解釈も想起しちゃうし……。ともかく、だからこそぼくは、いきなり「ガキ」の側面から「超人」の話を始めたのでした。ついでに言えば、ぼくが「ガキ」という言葉で想定しているのは、せいぜい小学校低学年ぐらいまでの人たちのことです。
で、宮本さんの「俺と、・・・」って部分、そういうことだったんですか!? いや、まあ、色々考えはしたけど、その解釈は思い浮かばなかったなあ。
あと、宮本さんの直近のコメントの最後、「はやしさんが『気付きと無意識のあわいに身を置く』なんて言ってますが」の部分、これ、おれが如上のように言うことは、「無頓着さ」「軽み」「ほどほどの無関心」なんかに通じる「知識人」にあるまじき言動だ、ってことなのかな? ちょいと文意が掴めなかったんで、借問。
最後に、宮本さんのあれやこれやに関する「批判や疑義」は、宮本さんのブログで読めます。宮本さんも意地悪せんと、教えてあげればいいのに。
ニーチェは、<力>について考えて、ぎりぎりのところで相対主義を「もののみごとにきれいに完璧に」回避していますね。
この<力>ですが、構造と<力>の、<力>に極めて近似性のある概念ですが、そこで、非常に相対主義的結論を持ってきた浅田さんと、ニーチェは決定的な違い(・・・あえて差異とは言いません)がありますね。
前に、ドゥルーズは、永遠回帰の中に反復の着想を見て、永劫回帰(=反復)こそ無際限の差異を生むと結論していると思います。って、確か閣下のところで書いたと思います。
この問題は、ひじょーーに難しく、今の頭がくたばっているアホ状態では議論できないので、また後日とさせていただきますが・・・・。
で、実は、永劫回帰の問題は、しょーもないものですら、ぐるぐる回ったら、それでも差異を生み出してしまうという結構興味深いものです。
どうせ、しょーもないものは、ぐるぐる回るから、そこを逆手にとるかどうかが「ニヒリズム」と、「生の賞賛」を分ける分岐点になるかという論調(・・・はやしさんも、この論調を取っておられるのでは・・??)が沢山見受けられるのですが 私はそうでもないと思うのです。
まあ、「超人」とは、それこそ、差異を生み出しそしてどんどん増殖させていくような人だと思いますが、「差異」を生み出す種みたいなものは、結構どこにでも散らばっていたりする。
はやしさん、この問題は、落ち着いたら、またじっくりやりましょうね。
「帝国」も「構成的権力」も革命にむけて人々の心をかきたてる為のアジビラだと思ってますから、不要な部分を捨て、必要なものを補った素案のようなものをブログで公開してます。できれば三枚くらいに縮めて完成させたいんですが、なかなか・・・。
ニーチェの「永遠回帰」についての疑義はここの「趣味の数学」エントリーの1のコメント欄から私の啓示板:哲学教室スレッドで開陳しています。
私の言う「超人」は「永遠回帰」が決定不能である場合のそれ「超人」なのであり、ニーチェの言う超人とは別物であり、ニヒリズムの強度は彼のそれを上回っています。
革命:(全人類の)運命を変え、世界を更新する。
行為に何故「流血」が必要なのか理解できません。
で、
>>「知識人」とはいえないもんな。
自分で書いといて何ですが、この一文は何かの間違いで紛れ込んだものでしょう。
原作たそがれ清兵衛さん:
ニーチェの言う<力>って、正直ぼく分かんなかったりするんですよね。もちろん、ドゥルーズによる明快な説明で「分かった気」になったりはするんだけど、それはそれで当たり前のことを言っているようにしか思えなかったりして、何かを掴み損ねているというか、六腑が熱くなるような得心の行き方ではないんですよね。それに「永劫回帰」が絡んだりするともう絶望的……という感じで。ドゥルーズの解釈にしても『差異と反復』なんかではイマージュを絡めてきたりするんだけど、この「イマージュ」ってのがまた曲者で……。これはちょっと余談、というか、宮本さん好みの言い方になるけど、ぼく「永劫回帰」っていうと、集合論で空集合の冪を取ることで作られる、ゲーデル言うところの「V」を思い浮かべちゃうんですよね。だから何だ、というわけではないんだけど……。だから、ぼくの「ニヒリズム」への関わりは、とりあえず「永劫回帰」の問題を棚上げした上で、「しゃーないもんはしゃーないんだから、うじうじしてるよりもぱーっといこうぜ!」っていう、ごく詰まらない、それこそ「アジ」みたいなもんですよ。逆手に取るというか、正面から受け止めろ、と。まあ、ラカン的な言い回しで言うと、「対象a」が決定的に失われていることを嗟嘆し鬱々とするよりも、その失われてあることを寿げ、って感じですかね。「対象aは失われている! 万歳!」って。
宮本さん:
『帝国』と『マルチテュード』に関しては、ほんと「アジビラ」って感じだけど、『構成的権力』に関してはもうちと理が勝ってるような気がおれはするなあ。ともあれ、ネグリの根底には、何を書くにせよ、アジテーションが溢れてたりする。まあ、そこんとこをドゥルーズに諌められてたりもするんだけど……まあ、諌められたからって何だ、ってわけではないな。
「永劫回帰」が決定不能、って、「回帰してんだか何だか分かんねーよ!」ってスタンスを基礎に置く、ってこと? とはいえ、その「永劫回帰」っていうエレメントは必要とされる、って感じなのかな。ちょっとよく分からんとこだけど……何にせよ、「超人」は別物なのか。ふむ。
いや、何か、何もかもあやふやっていうか、自分の中で積分し切れてない感じなので、ちょっとニーチェの原テクストを読み返してみます。
ドゥルーズのちっちゃい方のニーチェ本じゃなくて、でっかい方を読んでみてください。
ドゥルーズのニーチェ本だけは、はっきり、量と質が相関しています。
腐った頭で、私がどうのこうの言うより、はやしさんの頭で、ドゥルーズを読んでもらったほうが手っ取り早いと思いますから。
ドゥルーズのちっちゃい方のニーチェ本は、本当に肝心要なところが、すっぽり抜けています。
ドゥルーズは、名高い思想家として名が響くまでは、「ニーチェ研究家」って世間に思われていた人ですし、「俺はニーチェの変則的読解は一切していない」と明言していたみたいですしね。
(もし、このでっかい方のエッセンスが、はやしさんをもってしても分からないなら、多分僕は、「経験」で読んじゃったのだと思います。)
<力>、<力>への意思、永遠回帰、ニヒリズム、超人が、そして差異が綺麗に整理して論じられていて、そして、そして反復の問題にまで発展します。
宮本さん!!
ニーチェ論の開陳を読ませていただきましたが、僕には、東洋思想と科学の関係を論じておられるだけのように思えました。
もしかして、西洋のニヒリズム と 東洋の虚無が 結構、宮本さんの頭のなかで、ごっちゃになっているのではないのかなって気がしました。
確かにニヒリズムの和訳は虚無ですが、でも、概念として、あまりというか、ほとんどと言って良いほど共通点は無いと思いますよ。
この話とは別に、もしニヒル度というものがあるとすれば、西洋のニヒル度は、東洋のニヒル度の 何十倍もあると思います。西洋のは、救いがないほど強烈です。東洋のニヒルは、何と言っても自分が救われる感覚がありますよ。
東洋のニヒリズムは死が最期のところで救ってくれるが、西洋のそれは死んでも(死で贖っても)救われないって感じでしょうか。僕は、結構キリスト教にどっぷりで、子供のころを過ごしましたが、あのキリスト教的というか、西洋的ニヒリズムって、本当に変態趣味な世界じゃないかって思ってしまいます。
さらに話がそれて恐縮ですが、「ニルバーナ」は、実際に存在するアメリカのロックバンドの名前であるとお断りして、また、パンクロックは、イギリスで栄えたが、アメリカ人はほとんど生で経験したことがないとお断りして、さらに、渋谷陽一は、哲学的言説をよく用いる超人気のロック評論家で、わたしは、この人の評論がとてもとても好きだとさらにお断りして、
「ニルバーナの音楽は、アメリカ人が、イギリス人に遅れること10年以上にして「初経験」した「なま」のパンクロック、つまりロックの価値の崩壊であり、それはまさしくニヒリズムであった」って、渋谷陽一風にいうと、ロックの音楽評論としてはスマートで格好いいでしょうけど、宮本さんが検証したら、「なんじゃ? 全然違う事象が、ごっちゃになっている」って、感じでしょう。 (ニルバーナは勿論涅槃であることくらいは、東洋思想に疎い私でも知っています。(笑))
宮本さんと、はやしさんとのやりとりは、格好いいし、また、僕も、ああいうスタイルで語られる言説がとても好きなのですが、西洋のニヒリズム論やニーチェ論としては、渋谷陽一的な差異をすごく、あーーーんって感じで「感じすぎ」ちゃうのですね。(笑)
今一度、西洋のニヒリズムと、東洋のニヒリズムがどれくらい違うものかを徹底的に検証されることをお勧めします。
それから、もし、流血革命に全く興味がないのなら、僕は、ひどい誤解をしてしまったことになります。もしそうなら、それは素直に謝るしかないと思います。本当にすいませんでした。m(__)m
あらゆる可能な出来事の集合が、有限集合であるなら、「永劫回帰」は自明の結果です。
私は 、
U∞ の観点:あらゆる可能な出来事の集合は「可付番無限」アレフ0 の無限集合である。
という立場をとっています。
根拠は?と聞かれると困るんですが、それを決定できる最終の審級が、この宇宙そのものであるなら、それ:この宇宙が終るまで、それは決定不能だからです。
U∞ を含むこの観点:U∞^2が決定不能であるなら、永劫回帰は永劫に決定不能であり、そこでの「超人」は、U(有限)とも言える、不可解な、なにかなんです。
いや、もちろんドゥルーズの「でっかい方」のニーチェ本も読んでいて、「頭での理解」という点に関してはこれ以上ないものを与えてくれるのですが、ニーチェ自体を読んで感じる、(ちょっと誤解を与えかねない表現ですが)デモーニッシュな何かが零れ落ちちゃってる気がするんですよね、ドゥルーズからは。もちろん、ドゥルーズの本には本で、デモーニッシュというか、ある種「怪物的なもの」が蠢いてはいるのですが、やっぱりニーチェのそれとは違う。そこを掴みたいわけです。
あと、<力>のことなんですけど、フランス語だとこの「力」というのは"force"という言い方と"puissance"という言い方があって、「力への意思」という場合、"puissance"の方を使うんですが、ここいら辺の諸々が、納得いかない、ということもないのですが、要検討、との感があるんですね。
あと、ぼくの「ニヒリズム論」ということでは、たぶん「ニヒリズムと希望」というぼくのテクストを念頭に置かれているかもしれませんが、あのテクストは「ニヒリズム」にしても、「永劫回帰」にしても、そして「超人」にしても、きわめて通俗的な解釈を、それこそ意図的に採用しており、ある意味パロディっぽい代物であるともいえます。とはいえ、嘘は言っていないし、実践的な「アジ」としてはあれでいいんじゃなかろうか、とも思っていますが。
それはそうと、よもや原作たそがれ清兵衛さんのくちから渋谷陽一話が聞かれるとは!
いやあ、おれ、渋谷陽一はともかく、あの「ロキノン一派」って苦手なんですよ。何か、相対的には聡明なのかもしれないけど、印象批評をちょっとした理屈で糊塗しているだけのようなイメージなんですよね(って、最近は全然読んでないんですが)。その点、渋谷陽一は、原作たそがれ清兵衛さんは「哲学的言説をよく用いる」と書いていますが、おれはむしろ「自分の好嫌を表に出し、それをベースにストレートな批評をする人」という感じで好ましい、と思います。
それにしても、アメリカではパンクとほぼ同時期に、ブライアン・イーノがプロデュースした"No New York"でロックの息の根を止めてるじゃないですか!
最近の「ロッキング・オン」は僕も苦手で、全く昔々の原型をとどめてなくて全然面白くないですね。昔々の「ロッキング・オン」は、どこが面白かったかというと、哲学的な言説より、好き嫌いをはっきり書いたところです。(少なくとも、昔々、自らの立場や態度をはっきり表明した雑誌は、これ以外なかったでしょうね。)
渋谷の評論が本当に面白いのは、むしろラジオのDJの方だと思います。
彼は文章書かせるより、喋らせるほうがはるかに面白いです。
で、私が本当に彼を評価している点は、非常に?がつく書いたときの哲学的言説性より、むしろ、この曲は十年前のあのアーティストのこの曲とどうのこうのとか、全然思いも寄らなかったことを突然語りだす着想の「意外性」です。彼のロック史観には、賛成もし反対もします。
誤解かもしれませんが、はやしさんって、結構テクノ系の機械音が好きなのでは?
僕は、実は極めて愚直ともいえるギター派で、テクノとヒップホップが栄えたここ15年のロックは苦手です。渋谷の意見とむしろ反目しますがテクノとヒップホップの繁栄に「ギター=ロックの死」を感じてしまうほどの「温故知「故」」な人です。 一言で言うと、渋谷よりさらに年寄りで頭が固いんですよ。(笑)
それにしても、もしかして、はやしさんは、ジョン・ディビジョンを評価しても、ニューオーダーを評価していなのでは? 根拠は勘だけなのですが、なんとなくそんな気がします。
僕は、少なくとも、ニューオーダーに対する評価は渋谷のそれとは正反対です。(つまりニューオーダーこそ、私にとってのロックの暗殺者であり、私にとってのロックをつまらなくしてしまったバンドだと。)
>ドゥルーズの「でっかい方」のニーチェ本も読んでいて、「頭での理解」という点に関してはこれ以上ないものを与えてくれるのですが、ニーチェ自体を読んで感じる、(ちょっと誤解を与えかねない表現ですが)デモーニッシュな何かが零れ落ちちゃってる気がするんですよね、ドゥルーズからは。もちろん、ドゥルーズの本には本で、デモーニッシュというか、ある種「怪物的なもの」が蠢いてはいるのですが、やっぱりニーチェのそれとは違う。そこを掴みたい
全くもって同感ですよ!!!!! ただ、あの「でっかい方」のニーチェ本って、どこか、DJをするときの古き良き時代のというか若い頃の渋谷に似ているなと思ってしまうのは私だけでしょうか???(んんん・・・流石にはやしさんでも5歳にして渋谷を聞いたりはしてないでしょうから、あの古き良き日の渋谷のしゃべくりは知らないかな?)
なんか、ニーチェもドゥルーズも跨いで、渋谷話になっちゃった。(笑)
音楽批評、というか、もっと話のスコープを狭く取って商業音楽誌に載るような文章ということでいえば、その多くは変に客観性を騙るような、それでいてそういうものとして読みでがあるかといえばまるでないようなしょーもないものが過半でした。
そういうところに、「聴き手たる私」というものを前面に持ってきた「ロッキング・オン」の特異性というのは、まあ「功罪相半ばする」という感じではありますが、評価できるものだと思います。
渋谷陽一は、そう、その歴史観に賛成するにせよ反対するにせよ、真っ当な意味での「歴史性」の上に立って音楽を聴き、そしてそれにまつわる言葉を発しているところがいいんですよ。何であれ話をツェッペリンに持ってっちゃったり……。
で、彼のNHK-FMでやってたラジオですけど、実はぼく、自分の意志でではないにせよ、聞いてたんですよ。というのも、ぼくの母が「ロッキング・オン」の愛読者で、当然渋谷陽一のラジオも聞いていた、というわけです。だから、けっこうちっちゃい頃から色んなコンサートにも連れて行かれてましたね。ポリスやらボウイやら……。
それで、ぼくの音楽嗜好に関しては、このブログの「音」カテゴリに入ってる「音楽好きな人へ100の質問」(<a href="http
ジョイ・ディヴィジョンとニューオーダーに関しては、もうまさに原作たそがれ清兵衛さんの仰るとおり、断然JDの方が好きです。ただ、NOも1stとかは好きなんですが……って、ありゃあNOというよりも「イアン・カーティスのいないJD」って感じですもんねえ。NOの作品としてはNGか。
もしかして湯川れい子さんですか。お母様って?
いやあ、驚きです。ポリス、ボウイが来たのは1983年頃でしょう。
はやしさん9歳で、お母様は推定35歳として、あの時代に、流行もののロックを、35歳で観にいった人なんて、業界関係者しかいませんよ。
数学につづいて、ロックの講義も是非ともお願いいたします。いやあ、参りました。
ちなみにポリスとボウイは、カラオケでは、ほぼ全曲歌えます。
あと、全曲ほぼ、いけるのは、ストーンローゼズ と U2ですか。
私は、曲がりなりにもボノの声域を、いんちき発声法?(ちょっと、ドミンゴ風???)で全部出せるのが唯一の自慢という情けないオヤジでありました。
講義のほうは、また別の機会に是非お願いいたします。
本当に、恐れ入りました。
ドゥルーズの話から、完全に脱線して申し訳ありませんでした。
ゆえに、特段レスを書いていただく必要もありませんので、どうぞ、おきづかいなくお願いいたします。
それで、ストーン・ローズィズ、カラオケコンプリートって、そもそもそんなにストーン・ローズィズの曲が入ってるんですか?! それはともかく、ストーン・ローズィズの初来日公演、これは親に連れられて、というのではなく、自分の意志で行きましたけど、かっこよかったなあ。何より、レニのドラミングが……って、ここで縷々語ってもしゃーないですね。
で、「ロック講義」なんて、とてもとても。だいたい、対自的にはあんまり「ロック」を聴いてきた、って自覚もないんですよ。そりゃ、年端も行かない頃からそういう音源を浴びて育ったということで、何がしかの影響はあるでしょうが、自分の意志で聴いてきたものはむしろ、いわゆる「ロック」という文脈から逸脱するもののような気がします。
あと、脱線は全然OKなんで、今後も思うことがあればどんどん書込みしてください。ぼくの方でもネタがあれば、「ロック」っちいことについて書けたらな、とも思っとります。
書かないでおこうかと思ったのですが、一応情報提供ということで書かせていただきます。
>ストーン・ローズィズ、カラオケコンプリートって、そもそもそんなにストーン・ローズィズの曲が入ってるんですか?!
第一興商に「BBサイバーダム」という機種があり、これは洋楽のラインナップ数が結構すごいのはもとより、打ち込みの音が非常に良いです。
ストーン・ローズィズは確か8曲はあったと思います。
BBサイバーダムは、結構ギターの音(の打ち込み音)がこっていて、歌っていて気持ちよいですね。
ビョークが5曲くらいあって、びっくりしました。
でも、こっちは誰が歌うのか????? 本当に声楽やっているお姉さんぐらいしか・・・・。
何曲歌えるか、一度是非挑戦して見て下さい。
ストーン・ローズィズから始まって、あの時代のマンチェスターもので何があるかな、と検索していたら、ペイル・セインツと並んでペイル・ファウンテンズもあり、じゃあオレンジ・ジュースはどうよ?ってことで検索したらこれもヒット。もっとマイナーなのはどうじゃ!とフィールド・マイス(という弱小ネオアコバンドがいたのです)を検索するもさすがにこれはなし……という感じで、ややしばらく遊んじゃいました。
ビョークは確かに歌いにくそうですねえ。おれ、同じビョークでも、歌うんならシュガーキューブス時代のにしますね(って、検索してみたら、おれの好きな"Deus"がない! うーむ)。
今度カラオケに行くときには、この会社のシステムを導入しているとこに行くことにします。
察するに、今原作たそがれ清兵衛さんは表の稼業も裏の稼業も忙しくててんてこまいなので、そうした忙しさで溜め込んだ何やかんやをコメント欄で発散しているのではないか、と思っています。そして、そういう「ネタ的」なコメントからも、なかなか興味深いやりとりが来たり出づったりもしてるのですから。
というわけで、真面目に書くにせよ、「ネタ的」に書くにせよ、これからもよろしくお願いします。
藤崎さんのコーナーに、毎日のように書かせていただいたときは、表裏フル操業で、おまけに体調壊すしで、ほんと、どうしようかと思いました。
しかし、書いていて「面白い」と感じてしまうのは、本当に恐ろしいものだとも思いました。なんか、意識が朦朧としていても、藤崎さんのコーナーは、思わず必死で考えて書いてしまいましたから。
僕の書かせていただいた内容で、少しだけでも、読むに耐えることが書いてあるのは、ここと、藤崎さんのところと、あと「吉」コーナーぐらいだと思います。
それでも、本当に、今年は充実した書き込みをさせていただきました。
はやしさん、藤崎さん、ちょっと早いですが、今年1年どうもありがとうございました。
あと、今年、僕のブログ荒らしに合われた皆様、本当に申し訳ありませんでした。
来年も、適当かつ適切に荒らさせていただきますのでよろしく。w
PS、昨年僕をブログ荒らしだと断定された方、まあ、僕のカキコなんかもう読んでおられないとも思いますが、僕のこの1年のカキコを読まれて十分考えさせられるものがあったんじゃないですかね・・・って、また、一言多いなあ、相変わらず僕は。w
それより、原作たそがれ清兵衛さんを「ブログ荒らしと断定」した人って、ここに書いてた人で? まあ、でも、実際その事例においては、原作たそがれ清兵衛さんも、ちこっと「ほんとに荒らしてやろうかな」と思う部分があったんじゃないですか。って、失礼なこと言ってるか。
とにかく、ここは「コモンズ」ですので、よしそれが「適当かつ適切」ではない「荒らし」にしても、おれはそれを許容します。まあ、その流れの強度は保たせたまま、方向は微調整かけるかもしれませんが。
あ、それで、ちょっと「私信」になっちゃうんですが、今年いっぱいはいわゆる「休日」が潰れてしまっているので、「会談」は年明け、という感じでどうですか? って、メールで書いて寄こせよ、って感じですけど、実はメールを書いたりという暇もないのです。すんません。
あの、昨年、僕をブログ荒らしだと断定した株屋の彼は、今から考えると、1(ブログ主)対N(沢山の訪問者)という話し合い形式に異常にこだわっていた様子でした。本当の議論を始めると、百人百様の考えがある訳ですから、当然、N対Nという図式がどこかで、自然発生してしまうと思うのです。一方、N対Nを完全に放置すれば、また、ブログが訳が分からんようになるのは確かなのですが、そうは、ならずに済ませるのが、ブログ主の力量だと思います。
私の場合、ニューアカに若いころどっぷりだったという人なので、若いその彼(といっても、はやしさんと年は同じくらいかな?)も、そういう自由なスタイルでやりたいのかなと思ったのですが、どうも違ったみたいで、それに気づくのが遅れた私にも非があると思います。
確かに、色々なブログを見てきましたが、自由なスタイルでの議論を尊重するブログ主か、単なる、ネット上でN人と(わざわざ公開して秘匿することなく)交換日記を書いておられるのかを早く判別すべきは、カキコする側に強く求められることだと感じさせられました。
そして、ネットを見渡す限り99%の人が、ネット上で交換日記を書いておられるだけなのですね。
はやしさん、ATLSや、その周辺の皆さんとは、本当に残りの1%の稀有な方々であるのだなあと、本当に日々頭が下がります。
そもそも、こうしたある程度の人目に触れる形でこんなことをやっているのは、それこそ「N対N」のやりとりを誘発したいからで、それを「1対N」に抑えたいのであれば、本当に「交換日記」をするか、mixiにでもすっこんでいるべきです。まあ、それもこれも、「人の勝手」ではあるんですが。
半分は、よく眠りたいというのもありますが、あと、「山篭り」でもして読書しないとアホになるなあと。
「ニーチェと哲学」を久々に、半分ほど読み返しました。
「差異と反復」を読むには「ニーチェと哲学」と「ベルクソンの哲学」を先に読んでおくのが必要条件だと思いますが、また、「時・間・が・で・き・た・ら」、読書会にコーナーを作って「ニーチェと哲学」もやりたいかなとも思いました。
しかし、はやしさん、藤崎さん、バルタン星人さん に鍛えていただいた甲斐があってか、以前とは、また違った感慨をもちました。
カントがルーツの超越論的哲学と、ニーチェがルーツの系譜学的哲学は、ほんと結構溝が深いのだろうなと。
勿論、哲学の正統派は前者だと思います。そして、こちらはおそらく科学に言及する資格がある。(特に物理)
後者は、なんか哲学というよりほんと「思想」だと思いました。前期のドゥルーズを「哲学、哲学している」と私は以前評したことがありますが、今回読んでみて、前期も思いっきり「思想」しているなと感じました。それに、生命科学はともかくとして、こっちは、物理だけは、なーーんか言及する対象外にしたほうがいいのじゃないの?っと真剣に思いました。
前期のドゥルーズでもこんな感じですから、フランス哲学なるものは実は存在せずに、フランス思想しか存在しないのかなとも。
ところで、はやしさん、あの写真(・・・読書会の写真です)の「海スゲー、空スゲー」の景色ですが、見に行くのが絶望的に。免停なんですよ。(笑)
しかし、もしよろしければ週末に「山篭り」するところに、ご案内いたします。
こっちも、「海スゲー、空スゲー」ですので。こっちは自動車なしでも、すぐに行けますから。
しかし、冷蔵庫や洗濯機にも「力への意思」が一応あると認定して(・・・私は、そう読めた)、そこで、「力」を論じて、そんじゃ、人の「意思」って何なの? って 話を持っていくところが、胡散臭くもあり、また、結構徹底的な唯物論なんだろうなとも思いました。
って、実は、読書会の自分のところに書こうとしたら、書けなかったので、こっちに勝手に貼らせていただきます。w
閑話休題。
オンライン読書会、本当に不具合が続いていて、使ってくださっている皆様には平身低頭申し訳ない限りなんですが、再三繰り返している通り、「全くダメ」というわけではなく、書けたり書けなかったり、という状態なので、これにめげずに『ベルクソニスム』、『ニーチェと哲学』、そして『差異と反復』と歩みを進めてください、と無茶なすすめ。
も少ししたら時間が出来ると思うので、ぜひ「山篭り」のとこに招待してください。
ドゥルーズ解釈のニーチェ論からは、超人は「自らを肯定する」ゆえに「否」はいいますが、それは「他人を否定することが目的でも何でもなく」ゆえに「はた迷惑でも何でもない人」となるようです。あと、自分が存在するのをわざわざ形而上学的に問うのは、全くナンセンスで、そういう問いを立てること自体が生を否定したニヒリズムそのものの発想だとか。永遠回帰=反復と結論づけていますから、永遠回帰が恐いという感慨をもつ限り、ドゥルーズ流の「差異」は永遠に理解できないということになります。もう一度、通読してもう少ししっかり感想を書きたいと思います。
って、はやしさん、また、読書会にどういうわけか何回やっても貼れなかったので、失礼ながら、こちらに貼らせていただきます。ほんと申し訳ないです。いつも、いつも。
はやしさんとご一緒に山篭の場所で、ドゥルーズの話に花が咲くのを楽しみにしています。
原作たそがれ清兵衛さんが仰っている通り、ドゥルーズの基本姿勢はカント的な超越論的哲学にあることは間違いないでしょう(ドゥルーズがカントのことを「敵」と呼んでいることは周知なことです。ただ、「敵」は「敵」でも、ドゥルーズはカントのことを「手強い敵、尊重すべき敵」として遇しており、けっしてバカにした扱いはしていません)。ただ、どうでしょう、ドゥルーズ流の差異/反復ですが、それ自体としてはやはり「恐ろしいもの」としてあり、ドゥルーズ自身もそのことは否定していないように思うのですが。だから、ドゥルーズの哲学は「肯定の哲学」であることは確かなのですが、その「肯定」は「担うに重い」ものでもあり、単純な、考えなしで大声なyesとはかなりの懸隔があるように思えます。
いずれにしましても、この辺りのことも含めて、じっくり語り合いたいものです。
先の投稿で、「ドゥルーズの基本姿勢はカント的な超越論的哲学にある」とあるのは当然「ドゥルーズの基本姿勢はカント的な超越論的哲学に*抗することに*ある」の間違いです。文脈上、読み間違えることはなかろうとも思いますが、とりあえず。
例えが悪くて恐縮ですが、従来の哲学が地球で岩を背負わせるなら、ドゥルーズは、重力六文の一の月面で、自分が地球に乗って帰るべき壊れたロケットを背負わせるような感じです。「これで、なんとかすりゃ、地球に帰れるんだろぜ!!」って感じのりになってきて ほとんど、ヤケクソみたいな中で、喜びの光をみせてくれるって感じです。
差異/反復 という深遠な淵の底を覗いた途端恐ろしくもなりますが、しかし、「ほな、やったろかい!」ってなるのが、何か不思議なんです。
まあ、そういうところが能天気な思想と呼ばれる所以だと思います。
この続きは、また、「山篭り」場所ででもよろしくお願いいたします。
しかしスパムコメントにはうんざりですよ。いまだに毎日10個は書き込まれてるんですよねえ。
って、いう一面はありますが、僕の場合単なる「おしゃべりの帝王」なんです。(爆)
下のリンクの下のほうに名前の由来が書いてあります。
<a href="http
キートンが自分の死を覚悟で、Kaizer Sozeともども、船を爆破すべく、導火線に火をつけるのですが、その導火線の火を、2階からの立小便で消したことです。
これは、相当の「大物」だと思いました。
こんな感想、ネット上で書いたのは、僕が始めてだと思います。
それで、そう、導火線の火を小便で消すシーンは秀逸でしたね。おれの場合、「大物だ!」と思うより、「んなわけあるかい!」というカワイクない感想でしたが……とはいえ、その荒唐無稽なデタラメさに手を打って喜んでたわけです。
さて、さて、新HNの由来について
>売られた喧嘩は鉄の意思をもって、相手を根絶やしにするまでやる
って、はやしさんは、映画見ているから誤解はないと思いますけど、見ていない人に 誤解なきように、ちょっとだけ映画の解説を。
ソゼが、家に帰ってくると、何人かが家に押し入っていて、奥さんがレイプされていて、子供の何人かが殺されていた。それを見て、犯人を全員その場ですぐ殺すという手段にあえて出ずに、この場の記憶を持って生きつづける奥さんや子供のことを想い、ます、奥さんと子供をあえて「鉄の意思」をもって自らの手で射殺し、そして、犯人を一人だけ残してあとは殺し、その一人をあえて大ボスのところへ逃がして帰して、その後、荒らした連中を根絶やしにしたということです。
私以外を巻き込んで人質にとって卑怯な喧嘩売るやつは、今後それ位は覚悟しておけ ということです。
裏返すと文句ある人は、素直に俺に言ってくださいってことです。それなら、普通に応対させていただきますよってことでもあります。
しかし、その実態は、単なる「おしゃべりの帝王」ってことです。
ケビンを始めて映画館で観たのは「プロデューサー」です。何せ、唖然として空いた口が塞がらなかったです。
あの取調べ室から出てきて、それで、もう「こいつが、カイザーソゼだ」って、分りきってみていても、哀れを誘い、見ている側の涙を誘う、あの何とも言えない悲しげな表情だけは忘れらないですね。ほんと、演技上手いなと思いました。
ユージュアルサスペクツの難点は、音楽でしたね。あの、単調な音楽だけ何とかして欲しかったです。
はやしさん、呼び方何でもいいですよ。以前も、知らぬうちに「たそがれさん」になってましたし。気になりませんから。
でも、私は、Kaizer Sozeで行きます。
はやしさん、ところで、こういう名前はどうですか?「ドゥルージアンのKaizer Soze 」ってのは?w
形容矛盾かな?
個人的にはケヴィンの映画だと「KーPAX」が一番いいんじゃないか、最後まで「本当は宇宙人?」って謎を残して引張るのはケヴィンの力業だと思います。
って、それはさておき、けっこう「たそがれさん」って呼称、定着していましたからねえ。おれはともかく、みんなは「たそがれさん」を貫くかも分からんですね。つうかおれも、永遠小僧さんは一応公式には"Sedation"なのに、一貫して「永遠小僧さん」って呼んでるしなあ。ま、ほんと、大した問題じゃないですよね。
で、図らずもこのコメント欄が「映画トーク」のコーナーというような様相を呈してきており、なかなかに発散したいい感じだと思うんですが、ユージュアルサスペクツの音楽、単調だった、という感想どころか、思い浮かばないですね。どんなんでしたっけ?
K−PAXいいですね。大好きですよ。実は、ビヨンド・ザ・シーに次いで好きな映画です。
しかし、この映画も、本当にガラガラでしたね。
おかげで人がいなくて、気分良く観れました。w
「吉」性、 「天才」性、 「人としてのやさしさ」 この3つのうち、2つだけなら、他の役者でも表現できると思いますが、この3つを同時に主演が表現できないと、映画にならない脚本だったし、それを、やってのけた、ケビンの演技力には脱帽です。
何回観ても、目がうるうるする映画です。
はやしさん、
ユージュアルサスペクツの音楽ですが、これだけは、だれも覚えている人はいないでしょう。実は私も覚えていません。なんか、ときより、ほとんで、単調な効果音みたいの音の羅列が散発的に挿入されているだけだったような気がします。
まあ、よく言えばメタファーで埋め尽くした本ってところなのでしょうが、しかし、やっぱ「ト」でしょう。
感心したのは、集合論に関して下手にゲーデルに手を出さずにカントールで止めて、極限大の話で勝負にこずに、極限小の話で勝負にきたところか?
下手にゲーデルを簡単に語ると栗本のように、「私は集合論ちんぷんかんぷん」って、結構すぐにばればれになりますからね。
しかし、微分不可能が生成の力に満ちている(微分可能は生成の力がない)とか、意味不明なことを結構しつこく書いてある本でした。
あと、ペアノ曲線が非ユーグリッド的とかね。
それから、「襞」には、似てないですね。
まあ、ぎまーーんぽい ところは同じなのでしょうが。
一応、東洋思想(密教や竜樹)を評価しつつ、それで、西洋の知で西洋のここ50年近くの科学を評価していう点は、まあ、東洋系が好きな人には、ちょっとがっかりかも?
しかし、Dr.Mが、非常にお喜びになりそうな本であることは間違いなし!
Dr.Ayashiでなく Dr.M、どうぞ、ご一読を!
かといって、別段中沢擁護をしたいわけでもなく、分かってやっていようがいまいが、「ト」は「ト」であり、その害悪というのは計り知れない、と考えています。ただ、ぼくは何度も繰り返し言っているように、中沢自体ほとんど読んだことがなく、実際に「ト」である斯様に糾弾されるべき存在である、という判断は保留させてもらいます。とはいえ、「微分不可能性は……」っちゅーくだりだけで、かなり「黒」である疑いが濃厚ですけどね。
それで、GEB、ぼくも時間ができたら再読したい、と切に思っているのですが、なかなかそういう時間が取れません(とか言って、バディウとかは読んじゃってるんですが)。ちなみに、「しゅーごーろんボン」って、何を読まれたんですか?
>ユージュアルサスペクツの音楽
を、久しぶりに聞きました。こりゃ、次の日に忘れますよ。
ユージュアルサスペクツのDVD、ネットの中古市場で、1万数千円という、ケビンのDVDでは、かなり高額で取引されていましたが、なんと、新品がたったの1500円で再販されていて、某家電量販店で大量に陳列。条件反射で買ってしまいました。
好きな方は、この機をお見逃し無く。
買い占めようかな。10枚くらい。しかし、今回の新品放出量が、結構大量のようなので、買っても損するだけかな。
10枚、買って、また、中古市場が、一万数千円まで、回復するなら、1万5千円の投資で、10万円のぼろ儲け。
って、しょーもないことが少し頭をよぎりました。
投機は自己責任でどうぞ。
はやしさんの予想通り(ゆっくりですが、着実に、)著作権侵害狩りがグーグルの手で進んでいるようですね。
ところで、以前から、すだれ家であった論争に決着がつく証拠を発見。
ケビンスペイシーは、歌も上手い・・・・・すだれ
ケビンスペイシーのボビーダーリンは、聞けば聞くほど猿真似、あれは並々ならぬ努力だけの賜物で 天才からはほど遠い・・・家内
<a href="http
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家内の勝ちでした。餅は餅屋か。
ケヴィンスペイシーの件に関しては、ぼくは彼のボビーダーリンを聴いたことがないのでノーコメント、ということで。
マンションの中のごたごたに巻き込まれて、管理会社の馬鹿店長がやらかした何重ものミスの処理に、忙殺されて、へとへとです。
相手は、法律と管理規約を盾に、半ば意図的に?善意の第三者をつくりあげて現状は覆せないとゆずらない。
電話で交渉するとき、交渉人が相手の言っていることをメモするのではなく、先に、ネゴする材料を全部書いて、切ったカードを消していくという戦術って、かなり有効なんですね。
やってみてよく分かりました。
マンション内の誰が敵で、見方かが分からない状況で、その上実質的に人質を取られている状況でのネゴでした。人質の安全とか解放みたいものを確保しながらというのが最優先だったので結構きつかったです。真夜中を含めて5時間は、電話口でやったと思います。
最後は、相手に、彼の置かれた状況を説明してやって、「自分の利益を考えて、自分の利益にかなう行動をしなさい」と言ってました。
電話切ったあと、家内が大笑い。
「プロデューサー」と言っていることが同じだと。
言われてみれば、その通りでしたね。(笑)
しかし、つ・か・れ・た。
で、ブラジル、観れてません。
なんとか連休中に観たいですね。
あと、交渉事って時間を馬鹿食いするから、「○日後までに解答をくれ」みたいに時限を切るって大切だと思いました、「いつ解答できるか○時までに返事をくれ」でもいいんですが。少なくともその間は他の事が出来るというか。
連休中に決着しないとあと、どうしようもなくなるような案件でして、結構、バンバン期限をきってやりました。その代わり、こっちも、いつ電話が来るかわからないので、また、いつ会って話ししないといけなくなるか分からないので一切外出できませんでした。
国会答弁の繰り返しで、自己弁明に回って非を認めようとしない人に非を認めさすにはどうしたらいいか とか 味方のはずなのに、「こいつ敵じゃない?」と疑心暗鬼になるほど「やる気がない人」とかがいて、結局、なんで俺が全部やらないといけないの?って感じというか、そもそも、私が、なんでこんな、ほとんど一文の得にもならないことをしないといけないのかってのがあって、やっていて、あほくさくもなったんですが、それを私にさせたのは、はやしさんの仰せの「交渉ってやってたら面白い」ってのがありますね。確かに。
映画の交渉人ですが、バルタン星人さんの仰せのとおり、脚本全体としては、相当の無茶というか無理がありますね。
しかし、場面場面の、ケビンと、サミュエル・L・ジャクソンのやり取りには、なかなか、交渉って、どうやればいいかという示唆に富んだ部分が たくさんあると思いました。
それにしてもケビンとサミュエルみたいに、打てば響く人ならいいのですが、打っても響かない人相手の交渉で、最後は、その打っても響かない人を動かしてから、最後に、善意の第三者との時期談判でしたので、はんま、しんどかったです。
結局、勝因は、作戦の初動段階で、相手の指揮系統が分断されている間に、「サラリーマン特有の弱み」を手に入れられたので、結構、有利にことを運ぶことができたことでしょうか。
結果は、何のしこりも残すことなく、円満解決で、こっちも、ハッピーエンドでした。w
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