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先日「これは、たしかに、ひどい。」で取りあげたaurelianoさんの「ゲーデルの不完全性定理は世界は矛盾していることを証明している」というトンデモ発言について、このたびめでたく自らの解釈の非を認め、くだんのトンデモ発言に関して訂正がなされたので、この件については一件落着えがったえがった、と思う一方、訂正発言がなされたエントリ全体を見ると、何か「ほんとに反省してんのかなあ」と思ってしまう弁解がましさ、つまり、「おおすじでおれはまちがってなかったんだけど、ほんのちょぉーっとだけポカしちゃったんだよね」とでも言いたげな雰囲気がぷんぷんしており、そして、ある重要な点においていまだ勘違いをされているようなので、あえてふたたびaurelianoさんの発言を取りあげる。
まず最初にaurelianoさんは、くるるさんの
ですので、この人の議論には「ゲーデルの不完全性定理のステートメントからはそういう結論は出てこない」という反論では不十分になります。ルビンの壷、らしいですから。
という註を取りあげ、「このことについて言及し、理解を示されたのは、id:kururu_goedelが初めて」と言い、さらに、「この『ルビンの壷』の部分を抜きにしては、話が進まない」と言ってその重要性を強調するが、おれの見るところ、元のくるるさんの註は皮肉でこういうふうに言っているようにしか思えない。つまり、「ルビンの壷なんてもんを持ち出したら、何でもありじゃない。だって、あちらがAと言えば、『あ、ぼくBのほうのことを言ってたんですよ』とも言えるし、そのぎゃくもまた然りで、何を言われようと『ルビンの壷だのみ』でのらりくらりとかわせるのだから」という疑義(あるいは叱責)が、この註には込められているように読める。そういう皮肉に対して、「理解を示してくれた」と、あたかもくるるさんが「ルビンの壷」に依拠した話の進め方を認めているかのように言い募るのは、いかがなものか?
また、当人はけっこう気に入っているらしい「自分に対してなされている批判は、森進一のモノマネをしているのにお前の歌唱法は変だ、と言われているようなもので、的外れ」との「言い訳」だが*1、これもちょっと(少なくともこの場合は)通らない。というのも、aurelianoさんのゲーデル「解釈」(じっさいには解釈とも呼べないような代物なので、あえてカッコで括る)に対してなされた/なされている批判は、「森進一のモノマネ」のレトリックを引きついで言えば、「あんたそれ、森進一のモノマネだって言うけど、似てないよ」か、あるいはより精確に、「森進一じゃない人を森進一だと思い込んで、その人のマネしちゃってんじゃない?」というものである。だから、それについては「何も答えようがない」どころではなく、おおいに「答えよう」があるであろうから。
そして、いちばん致命的な思いちがいは、「パラドクス」を「矛盾」とイクォールで結んでしまっていること。おれの見るところ、このそもそもの思いちがいがあったからこそ、不完全性定理についてあんなにもとんちんかんなことを口走ってしまったのであれば、この元凶こそをあらためなければならない、と思うのだが、上に挙げたエントリ中でも(ちなみに、aurelianoさんによれば「エントリ」のような長音を省く言い方は「知性の欠如」を如実に示すものであるそうだ。とすると、大多数の工学者たちは知性を欠いている、ということになろう)「パラドックス、あるいは矛盾」と何度も繰り返しており、こちらについてはあらたまる様子がない。手短に言えば、「パラドクス」とは「真と偽が定まらぬ」というダイナミックな状態、「矛盾」とは「真と偽が一挙に、両方成り立ってしまう」という熱死に似たきわめてスタティックな状態であり、さらに、そうした矛盾からは(少なくとも論理的には)何でも導出できてしまうがゆえに、そうした矛盾があるところはすこぶる味気ない風景が広がる。そんな矛盾が「面白さ」の源泉であるとは、とてもおれには思えないのだが。
……と、またしても長くなってしまった。ほんとうは、aurelianoさんの訂正発言がなされたエントリ後半の、くるるさんの発言に関する「噛み合なさ」について書こうと思ったのだが、これについてはたぶんご本人が応答するであろうし、ここいらで筆を擱く。
註
ついでに、この「森進一のモノマネ」というレトリックが元々使われていた、「英語に圧倒的に一人勝ちする7つの言い回し、という日本語はおかしい、というやつこそ(森進一のモノマネをしているのにお前の歌唱法は変だ、という批判をする人のように)ずれている」ということについてだが、これはじっさいおかしな日本語、だろう。aurelianoさんは、この「英語に圧倒的に一人勝ちする7つの言い回し」というタイトルはもともと「英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい」というタイトルのパロディで、「英語に圧倒的に一人勝ちする7つの言い回し」の日本語がおかしいとしたらその参照元がそもそもおかしいのだから、自分に批判を言われてもお門違い、とでも言いたげだが、参照元は「英語の圧倒的一人勝ち」と(辛くも、ではあるが)日本語になっているのに対し、aurelianoさんの「英語に圧倒的一人勝ち」は、そのタイトルの下書かれている内容もあわせ考えると、あきらかにおかしい。だって、英語とたたかう話なんて、してました? それを言うなら「英語で」じゃないですか?
僕は科学的実在論を擁護したい方ですが、それにしてもあの極端な相対主義な書きっぷりだけはなんとかならんもんですかね。
最後に文化人類学まで出てきて、まあ、文系がやる 典型的パタンで笑いました。
科学を否定して、裏から科学の権威をこっそり入れて、いかにも文系的言説を権威づけているようにしか、少なくとも私には見えませんでしたが・・・・・。
人間のやることには、自ずとチョンボや限界というものはあります。それは、科学云々に限らずにです。そんな中で、科学だけが、唯一厳密なアプローチを持つ(というか持とうと日々営んでいる)と言っていいほどの手法であり、科学が相対主義的に自らを疑ってみる場合、それは、少しでもいい加減さを排除しようとしているわけでして。科学が相対主義言及をあえてやる場合とは、より確かさを追及するためにやっているんですよね。
そして、科学自身が、自らを神のような最終的な真理だなんて言ったことは一度たりともない。(・・・文系の頭はここをいつも、はき違えている。)
科学は、より包括的に説明できるより良き理論にとって変わられることを常に望んでいる。
そういう科学が持つ、オープンな態度を、神のような最終的な真理じゃないから、荒唐無稽とでも言わんばかりのあの飛躍がありすぎる口ぶりには、あきれちゃいました、少なくとも僕は。
まあ、僕は、あの人の文章を一字一句丁寧に読んでいないので、ちょっと正確性に欠いた表現になっているでしょうが。
で、くだんの「言い訳」の後半部にある「観察」をめぐる部分は、ぼくも苦笑いしながら読んだのですが、あれではまったく自分の説の擁護になっていないことが分からないんですかねえ。むしろ、逆効果というか、あらたなトンデモ発言を重ねて、さらに馬脚を現す結果となっている。こうなると、そもそもの「反省」すら、じっさいのところどうなんだろう?と疑ってしまいます。
あと、喩えで言うと、小学生向けの算数のドリルをたわむれに解いてみたら、存外(あくまで「存外」です)面白く、当初の予定よりも長くかかずらってしまった、という側面もあるかもしれません。とはいえ、あくまで「小学生向けの算数のドリル」は「小学生向けの算数のドリル」であり、そうしたものと付き合うのも長くはつづかない、というのも事実ですが。
aurelianoさんが混同しているのは「逆説であること」と「一見逆説的に見える(が逆説ではない)こと」でしょう。動的静的は関係がないと思います。(逆説的な論理に出合った時、人は動的に悩みますが。)
実際、人気ブログには、僕が読んでみても面白いものが多く、それは、玄人の人がやや素人向けを意識して書いておられるものばかりです。
そして、その手のブログは私のような素人さんへの知識の啓蒙という、ちゃんとした社会的役目を担っているわけです。
あのブログが人気な理由は、単なる素人芸を、挑発やレトリックでひきたたせているだけということすら理解できない人が多いからであり、(ネット世界じゃなくて)実世界の玄人の人たちが延々とお相手するものじゃないでしょう。
また、今日、犬の遠吠え丸出しのことを書いておられますが、更新時間を見るに、おそらく無職で他に一日何もすること無しの超暇暇暇人でしょう。はてなで注目されることだけが彼の価値のすべてであり、かつ生き甲斐って感じの人です。まあ、対戦相手付のゲームマニアみたいな人なんかなと。彼がこれからの人生、ずっとあれだけをやって生きていくであろうことを思うと哀れにすら思います。
本来なら、他にやろうことは、いくらでもあろうに。
兎に角、ネットをやっていて忘れちゃならんことは、ネットは所詮お遊びの世界であり、人が本当に切磋琢磨しなけゃいけないのは、実の世界においてである ということでしょう。
だから、僕は、ネットの世界で発見した大きな虚偽を、実の世界で糾された かがみさんを尊敬するわけです。
ですから、玄人の人は、はやしさんの言うように、ほんと算数遊びは算数遊びでやめておく というのがよろしいかと思います。
一昨日、はじめに私が書いた話に戻っちゃうのですが、かがみさんやくるるさんも ほんと 無視されるのがよろしかろうかと思います。
仮に、はやしさんやががみさんやくるるさんが、どれだけ指摘したところで、あの人は延々と暇に任せてあの手のことを書き続けると思います。
そして、はやしさんやががみさんやくるるさんが、どれだけ指摘したところで、あのブログのリーダーの人は絶対にあの記事を読むのですから、あまりにも看過できないポイントだけに絞り込んで、蹴りを入れにいかれればいいし、あの御仁を相手にしないで済む時間は、実の世界での 活動なり研究なりにまわしていただくことを切に希望します。それのほうが、社会全体の利益になると思いますから。
ですので、mandel59さんが指摘するaurelianoさんの混同部分は、mandel59さんの「逆説」を「矛盾」と置き換えて、「(確定的)矛盾に見えるが、じつはそうではない(端的に決定不能であるか、もしくは、他の部分に不具合があり矛盾が出てきてしまうだけ)」ことと「端的な矛盾」を混同することと読み替えれば、ぼくが「aurelianoさんが取りちがえている」と主張していることとそれほどのちがいはあるようには思えません。
ところで、mandel59さんのブログの最初の数ページ分を眺めさせていただいて、吉永さんの不完全性定理本を読まれたことに気づきましたが、この本は業界内でかなり評判がよろしくない(側聞するところ、どうもシンタクスとセマンティクスの区別がつけられていないらしい。不完全性定理を扱う本で、こうした瑕瑾は致命的です)ので、ご注意ください(もしかして、上のパラドクスの定義も、この本から、かな?)。
今回の件は、単にトンデモという以上に気にかかっている部分があります。詳細は追ってエントリで書きます。その点だけは、みている第三者の方々にはっきりさせたかったということです。普通のトンデモさんは普通に無視しますし、今回の件もあと一回くらいで終わりにしますので、ご心配なきよう。
「トンでも」は、派生的には確かに色々な意味がありますが、「科学数学物理のような理系の知識の誤用濫用による「自・ら・の・権・威・づ・け」」ということこそが、その第一義であろうことすらご存じないようですね。勿論ソーカル事件のソの字も知りはしない。「トンでも」がいかに、危険極まりない行為であるかという自覚が全くおありでない。
つまり、べとべとの文系文系文系。かくいう私もべとの文系なのですが、流石にあそこまでべとべと文系文系していると、なんか、臭います。僕のような「大阪のあほ」とはまた、一味違う異臭が。
今日は時間が無いので、くるるさんのエントリはゆっくり週末に読ませていただきますのでよろしく。とり急ぎ、お返事まで。
実際その通りですね。矛盾でないものを矛盾と思い込んでる、と。
これは「ルビンの壷」以前の問題かと思うわけです。
ちなみにaureliano氏がGEBの禅問答の記述だけではなく、ゲーデル数によるコーディング(13章)とか、クワイン化による自己言及文の生成(14章)とか読めば、もっと幸せになれたんですがね。実のところ、不完全性定理の文章の表面的な理解よりも、そっちのほうが、GEBの中では重要なのでw
ところで、ぼく自身がGEBを読んだのは相当昔のことなので、クワイン化による自己言及文の生成の記述があったことなぞすっかり忘れていました(ゲーデル数のところは何とはなしに覚えている、ような気がする)。こちらでの感謝祭休暇期間中にひさかたに流し読みしようと思い、本はあらたに買ってあるので、ご指摘のところを読み返してみようと思います。
これってホンマモンの素人はもとより数学者にもみられますよ。吉永氏は数学科の出身だそうですが、おそらく専攻は論理ではないでしょうね。
ぶっちゃけていえば、古典論理的な数学のセマンティクスに一致するシンタクスが構成できないというのが、ゲーデルの不完全性定理だと思うわけで、そこでセマンティクス=シンタクスと思う人にとっては、矛盾だと思えるんでしょう。
で、「いや、シンタクスとセマンティクスは違うんだ」とかいうと、「シンタクスであらわせないセマンティクスって何よ」となるわけで。
あと、通りすがりさんが最後に出された「シンタクスであらわせないセマンティクスって何よ」ですが、これは専門家/非専門家を問わず、疑問に思ってしかるべき点であるにもかかわらず、あまり広く(というのは、「その筋の人」のサークルを超えて、ということですが)語られているようにも思えないので、どうにかしたいところです。
ちなみに、不完全性定理と述語論理の完全性定理をあわせて考えると、自然数論において「矛盾が証明できる(つまりどんな命題も証明できる)」が真であるようなモデルが存在することになる。
昔は、このことがどうも納得できなかったが、それは「証明できる」という述語のモデルでの意味と、実際の証明可能性を区別していなかったからだと気づいたのはだいぶ後のことだった。
「TeXを知らなければ人に非ず」というのであれば、素人とは会話しないほうがよろしいかと存じます。
問いの答えはYesですが、その問いで、何を確認したかったのかはよく分かりません。日常言語は穢れている、という考えの持ち主なのでしょうか?私は「言語的プリッグ」と呼んでますが。
そして、確認した理由はただひとつ、通りすがりさんの言っている例がじっさいに何を指しているのか、いまひとつ定かではなかった、ということに尽きます。日常言語であれ何であれ、相手の言っていることがよく分からなければ、その言われたことを自分はちゃんと理解しているか、そのもとの言われたことをパラフレーズして確認するのは、「プリッグ」もへったくれもなく、ごくふつうのことだと思います。
残念ながらその判断は正しくありませんよ。
>通りすがりさんの言っている例がじっさいに何を指しているのか、いまひとつ定かではなかった
「いまひとつ」では、まったく定かではないですね。”パラフレーズ”しようもないですし。
自慢じゃないですが、TeXも英語も存じませんよw
「通りすがり」にしては、かなりシツコイなあ。
ええ加減にしとかんと、しまいに「通りすがりの頭の悪さについて」っちゅうエントリ、はやしさんに立てられるで。
わざわざみんなに花道、ちゃんと用意してもうとんのも分からん あほみたいやな。
どこの 大学出とんね。
灯台か、鏡台か。
まあ、そんでも、わしほどあほやないみたいやな。
いちおう、げえでる ちゅう言葉くらいは 知っとるみたいやし。
そんでも、人ちゅうのは「学」だけやないで。
雰囲気読むちゅうのは、いくらガッコ行っても教えてくれへんわなあ。
雰囲気読んで、みんなが花道つくってくれたなあと理解すんのも能力のうちやで。
なんやったら、あほさ加減、わしと勝負してみるか?
最後にひとつええこと教えといたるわな。
「>」は、将来ここで書くことがあったとしても、極力使わんほうがええで。
論旨全体に反論をかかずに、あげ足とっとるって、頭がええ人はみんなそう思うさかいにな。
乱発してる奴見てみい。お前だけやろがな。
ええな、そこの子供分かったな。
ほんま、気いつけな。どこの餓鬼か知らんけど、ママのとこに帰ってミルクでも飲んどきな。
ええな、そこの子供分かったな。
はよう、ちゃんと、ママんとこ帰るんやで、分かったな。分かったな。分かったな。
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