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カントもののペーパー2本のうち、1本(定言命法の同値性について)終了。あとは「カントの美学論」てな感じのものを書くのみ、です(って、この「のみ」が曲者、なんですが)。

と、これだけではなんなので、執筆に際して読んだ資料のひとつであるKantian Ethics (Allen W. Wood, 2008) をちろっと紹介しようと思うんですが、この本、2008年の刊行ということからも伺い知れるように、「カント倫理学の最前線」という趣きがあることもさることながら、そうした「最前線性」を度外視しても、たとえばカント倫理学を使って死刑制度や性の問題といったactualな事柄に切り込んでいて、興味深いです。

昨日のカントゼミでたまたま先生もこの本を「すごくきっちり、かつ分かりやすく書かれている」と言ってすすめていましたが、おれがそれなりに「ちゃんと読んだ」と言える定言命法についての部分も、まさに「きっちり、かつ分かりやすく」書かれていて、たしかにカント倫理学に興味がある人はmust readだな、と思います。ちなみに、定言命法についてextensiveに書かれた本では、PatonのThe Categorical Imperative も、ちょっと古いけど、いい本でした。

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コメント
倫理学、特に規範倫理学がどういう分野なのか自分の中でいまいちつかみ損ねたままでいます。規範倫理学と聞くと結論ありきでそれを正当化していくという、スコラ哲学的なイメージがあります。反本質主義のポストモダンにおいて、カントのような定言命法はいかなる有効性を持つのでしょうか?功利主義のうさんくささも一入です。

自然状態から始まってゆるやかなリベラリズムに行き着くというロールズの正義論は、方法的にも結論的にも共感できることがおおいのですが。ロールズを読んで功利主義も義務論も必要ないじゃん、とか思ったりしました。

現代思想で倫理学はどう位置づけられるのでしょう?
あっちゃまん 2008/04/02(Wed)11:02:00 編集
現代思想で倫理学はどう位置づけられるか? これは、かなり相当な「大問題」ですね。まず、「現代思想」と呼ばれるもの(そして当然、「ポストモダン」が意味するもの、その内包も問題にせざるをえなくなります。また、いわゆる「ポストモダン」という形容辞を以て呼ばれるような思想潮流が、はたしてほんとうに「反本質主義的」であった/あるのかどうか、ぼくは相当程度懐疑的です)の外延を設定するところからして問題含みなのですが、いわゆる「大陸系」と呼ばれる思想潮流においては、実質はどうあれ、モチヴェーション的には「規範学」というより「記述学」としてその歩みを進めようとしていた、という見方がひとつできると思います(これが、もし「英米系」と呼ばれる潮流をも考えに容れるのであれば、事態はもう少し複雑になるのですが)。ただ、外観的なものがどうあれ、デリダなどの例を想起するまでもなく、いわゆる大陸系の潮流も「規範的」なものに回帰してきた、もしくは、そもそもその「始源」からして多分に規範的だったのだ、という見方も可能です(ぼくはむしろ、この後者の観点にコミットします)。

次に、カントやミルなどに代表される古典的規範倫理学も、じっさいにそれらの原典に当たってみると、カント的義務論にせよ、ミル的功利主義(もしくは、もっと広く言って帰結主義)にせよ、いっぱんに流布されている「まとめ」よりも、はるかに緻密であり、そして込み入った議論がなされており、なかなか一刀両断のもと切り捨てるのはむずかしいな、という印象を持っています。そして、たとえば定言命法的な倫理規範の立て方というのは、この現代においては、じつはあっちゃんまんさんが(古典的規範倫理学の流れとは一線を劃すものとして)名前を挙げているロールズに、もっとも色濃く引かれている、と考えます(無知のヴェールをくぐって析出されるもの、それはロールズにとっての「定言命法」に他なりません。じっさいに、カントの『基礎付け』とロールズの『正義論』を併せ読むと、そのparallelsに驚かされます。ロールズ側からのカント解釈についてより詳しくは、彼の道徳哲学講義を参照。この道徳哲学講義は、ほとんど「カント講義」と言ってもいいくらいの分量がカント、とくにその『基礎付け』の検討に費やされています)。

というわけで、「現代思想における倫理学の位置づけ」に関してより深く知り、そして考えるためにも、まずはその「震源地」、つまり、カントの『基礎付け』、ミルの『功利主義』、そして余裕があればアリストテレスの『性格について』(通常『ニコマコス倫理学』の名前で知られる著作)をじっさいに読まれることをおすすめします。
はやし 2008/04/03(Thu)08:44:00 編集
すいません、勢いあまってお名前を「あっちゃんまんさん」と書いてしまいました。記して、お詫びと訂正をします。
はやし 2008/04/03(Thu)08:49:00 編集
お忙しいのにご返事ありがとうございます。

言葉足らずですいませんでした、というわけで少し僕の近代哲学→現代思想理解を書かしてください。かなりスノッビッシュかつ大味ですので、暇になったときにでも是非ご鞭撻ください。

ポスト近代哲学はニーチェ、フロイト、フッサール、マルクス(というかそれしか知らないのですが)をもって幕を開けます。無意識、神の死、現象学的還元、色々言いますがつまりは、人間が経験する現実的な事実はすべて、人間が解釈主体となる限り社会構造に内在されたイデオロギーからは自由になれない、このテーゼに集約されます。そしてこの事実を重々認識した上で、なおかつ世界のあり方を追求しようとする人たち、彼らの哲学を呼んで”反本質主義哲学”としたいのです。並んでその反本質主義哲学を直截的に継承したのが構造主義だと思っています。意味は体系中の諸要素との関係性においてのみ、意味となり得る。これが普遍的真理を否定した反本質主義でなくてなんでしょうか。

ニーチェ、フーコー、リオタール、ボードリヤールらの著作を読めば、それは「規範学」というより「記述学」としての社会学的な分析に近い記述が見受けられます。これは、望ましさや善悪の判断が相対的であるという反本質主義哲学のテーゼに従ったある種中立的なスタンスだと思います。

一方、それでも真・善を追究したいんや、という人たちがロールズをはじめとした政治哲学者(またあいまいですが、ロールズを中心としたリベラルコミュニタリアン論争にかかわった思想家・政治哲学者なんかは大体そうでないかと)なのでは、と思っています。(現象学派もここに入るのではとひそかに思ってます)前のコメントで用いた”提言名法を使う人”とはこのようないわゆる分析哲学・メタ倫理学の対照に位置するような人たちを呼んでの事です。

ロールズの自然状態観も最終的には「人間ならだれしも幸せを求めるだろう」という基礎付け主義的な直感に裏付けられています。その意味ではやはりカントの影響は色濃いといえるでしょうか。

と、ここまで書いていつの間にかロールズが批判の対象へと変貌してしまってますね。笑 自分でも混乱してきたのですが、最初に”倫理学の違和感”と言っていたものは、おそらく”「記述学」的な研究をする現代思想家は、政治学のようにコンセンサスが要求される学問(つまりそれは暫定的であれ真理に達する必要がある学問)にどのようなアプローチが可能か”という事だったように思えてきました。

論理的に物事を考えるとは大変ですね。

実は僕は仲間の中では原典を読まないスノビッシュお馬鹿さんとして有名です。最近になってようやく読むようになったのですが、サマリーにはない感動で一杯です笑
カント・ミル・アリストテレスにも是非挑戦してみたいと思います。

長文駄文失礼しました!
もといあっちゃんまん 2008/04/04(Fri)23:36:00 編集
ポストモダン、というか、大陸系の現代哲学の定式化は、「ある一面」ではあっちゃまんさんの言うとおり、と思います。つまり、そうした「大陸系の現代哲学」の震源に位置づけされるニーチェやフロイトなどは(フッサールとマルクスに関しては、あっちゃまんさんの特徴づけではカヴァーしきれない面が多々あり、ことフッサールに関しては、「大陸系現代哲学の震源」と言うよりも、「最後の近代哲学者」という位置づけのほうが適当に思います)「絶対的超越者の否定」あるいは「構造決定論」などにより、「個(≒人間)」の位階を暴落せしめた。ただ、どうでしょう、たとえば構造主義などのいわゆる相対主義的傾向が少なくないものには得てして言えることですが、それ自身の相対性には目を瞑りがちであることも、また確かだと思います。言いかえれば、構造主義的手法(たとえばソシュール的な考えや、もしくは数学的構造に拠るもの)を用いて析出されるその「系」自体は、何がしか「本質的なもの」として提示されてしまっている観がつよい。また、構造主義的「構造」(ややこしいですね)にほとんど「必然的」に随伴する、いわゆる「ゼロ記号」は、「本質」云々という位相からではないにせよ、「形而上学的」と言わざるを得ず、放逐されたはずの「超越者」が何食わぬ顔で再登場している、とも言える。こういう次第で、その有効性は(ある一定度ではあるかもしれませんが)認めるにせよ、当時当事者たちが喧伝していたほどのラジカルさはあまりないのではないか、というふうに思っております。

また、「ニーチェ、フーコー、リオタール、ボードリヤール」などの書きものの「価値中立性」について、ですが、この人たちはどちらかと言えば、相当程度「規範的」なこと、つまりSollen(ねばならぬ)を(明々白々なかたちではないにせよ)言ってるように思われる。もちろん、その時期や書かれた内容によってそこに見られる「規範性」はまちまちでしょうが(このなかでもボードリヤールは、とくにその初期作は「記述的」な風合いがつよい。ただし、後期になるにしたがって、このなかでもっとも「規範臭」のつよいものになっていった、とも思われます)、たとえばリヨタールなぞはもともとカントの(とくにその美学の)研究者だったわけで、その書きものは「価値中立」とはほど遠いし、フーコーにしても、たしかに既存の規範の「顛倒」はしたかもしれませんが、彼は「本質的」にはかなり「倫理的」な書き手だと思います。

さて、ロールズへのカントの影響について言えば、ぼくがいちばん色濃くそれを感じるのは、やはり原初状態での無知のヴェールを経て、「正義の原理」が析出されるその過程が、ほとんどカントの定言命法の正当化過程とparallelであることなのですが、しかも、ロールズの原初状態にあっては、そこでのエージェントは「自由で合理的」と言われているんですね。このようなエージェントが「無知のヴェール」というimpartialな選択肢を採らざるを得ないとすると、それはもうカントのセッティングに他ならない、とすら思えます(だからこそ、ロールズの「正義の原理」に関しては、カントの定言命法に関するものと同様、「現実離れしすぎている」という批判が存在するわけです)。

最後に、あっちゃまんさんの「倫理学への違和感」をぼくなりに忖度すると、その根源にはたぶん「真善美」という三位一体への疑義があり(これは、現代にかぎらず、じつは哲学の歴史を通じてずっと根強いものです)、そして、仮にそのような三区分を認めるにしても、本来「記述」の領域に求められるべき(そして、そこにのみ求められるべき)「真」が、何やら有耶無耶な経路を経て「規範」に(不当に)転化させられているのではないか、という、いわゆるIs-Ought問題的なところにあるのかなあ、と思いました。

ややとっ散らかったコメントになりましたが、なにとぞご寛恕を。
はやし 2008/04/05(Sat)20:37:00 編集
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