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最近、文献読みや論文執筆時にエマールの『フーガの技法』を聴くことが多いのだけど、これが、いままで聴いてきたグールドのオルガンヴァージョンや、手元にCDがないのでいまはちょっと誰の演奏か分からない弦楽ヴァージョン(たしかCD2枚組で、ジャケはじゃっかんテクノっちい感じでネウマ譜のようなものが描かれていた、ような覚えがある)のいずれともちがった味わいのものになっている。
もちろん、奏されている楽器がちがうので、その味わいがちがうのはあたりまえなんだけど、そうした楽器のちがいにとどまらぬ要因に拠るちがいがけっこうでかいような気がする。そういう「要因」とは、たとえば楽譜の解釈であったり、そして演奏の態度(もっとも、これは「楽譜の解釈」ということのコロラリーとして捉えうる)であったりするのだけれど、エマールのそれは、グールドのオルガンヴァージョンや、いまは誰の演奏だか分からない弦楽ヴァージョンに比して、ものすごくフラット、という印象を受ける。
そうした「フラットさ」がもっとも顕著に現れているのは、たぶん、コントラプンクトゥスの16番、つまり『フーガの技法』最終曲である、と思う。周知のとおり、このコントラプンクトゥス16番は自筆筆は未完となっており、ゆえに、ある奏者は補完譜を用いてこの未完の作にとりあえずの「オチ」をつけるかたちで演奏していたり、またある奏者はその「引きぎわ」にあたって「迷い」が見られたりするのだが、このエマールの場合、自筆譜そのままのかたちで「スパッ」と、何の迷いも見せずに終わる。その潔さは、「じつは未完なんじゃなくて、ほんとにこういう終わりなんじゃない?」と聴き手に思わせてしまうほどの確信に満ちている。
つまり、こういうことだ。目の前に、世で『フーガの技法』と呼びならわされている楽譜がある。だが、いまはそのような「外部情報」、たとえばそのタイトルだの、作曲者だの、成立の経緯だのといったことは、すべて忘れよう。そして、ひたすら目の前の楽譜が語りかけてくるものに耳をすまそう。楽理的に「はんぱ」に見えるところ、つまりは上記コントラプンクトゥス16番のような部分も、「そういうもの」として受けとめよう。エマール『フーガの技法』の「フラットさ」は、このような態度の結果である。そういうふうに思う。
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