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乗ってくればそれなりにたのしいんだけど、やっぱり大変だし、疲れるね。しかも、執筆言語が非母国語だったりすると、なおさら。
まあ、書いているその瞬間その瞬間で、「たのしいけど、大変」というのと、「大変だけど、たのしい」というのが、でたらめに絵柄を割当てた走馬灯のようにぱたぱたと入れ替わり立ち替わりしてるから、「大変さ一辺倒」ではないせよ、総じて言えば、きつい営みだな。
ただ、これはごく当たり前のことだけど、「論文を書く」というのは、ひじょうに勉強になる。それは、「論文を書くための仕込み」としての「お勉強」の部分だけを指すのではなく、そうしたinputを携えて、しかるのちじっさいに「書く」という段階に至ってからが、ほんとうに勉強になる部分、だと思う。
たとえば、「論文を書くための仕込み」で読んで、そのときにはよく分からなかった箇所が、いざそれについて書きはじめると「ああ、そういうことだったのね」と気づくというのはよくあることだし、筆が乗ってきたときなんかは、その筆の勢いがあまったせいなのかどうか、それまで考えもしなかったようなアイディアが筆の先からこぼれ出たりする。
そういうとき、「書きながら考える」でもなく、いわんや「考えながら書く」でもない、「書くこと」と「考えること」がほぼ厚みなしに切り結ぶような状態になり、ひいては、「自分が考える」のではなく、「『何か』が自分のなかで考えている」というラッセル的事態が実感される。
それは、論文書きにさいしてのあれやこれやのつらさをあわせ考えてもペイするような、得難く、そしておもしろい体験だ。みなさまにおかれましても、「書物をただ読む」というのではなく、それら読んだ書物について、それなりにがっつりしたものを書いてみたらどうでしょうか? もしかしたら、筆記具と手のあいだ、あるいは、キーボードと指先の接点に、ミューズが感じられるかもしれません。
こうやって文字にされると、「そうでしょうね」と思う人はいるのでしょうが、「そうですね、私もそうなります」となる人はそれほどは多くないのだろう。私がそうなのですが。
私も何かやってみるか。
の路線でってことですね。言いたいことはわかるんです。「書評」の枠で書きましょうってのとは違うかたちにならざるをえないし、それが望ましいみたいな話でしょう。
で、コメント欄や人とメッセなどで散発的に「こう読める本なんだよ」と薦めるとき、明らかに書評のようなかたちではない切り方で、ある程度論理的に再構成して提示する、という手法は私もとるのですが、でもそれは「それなりにがっつりした」量・形にならないんですよね。私からすると、この路線でなお一歩を踏み出せって話に聞こえる。
ただ、
>「論文を書くための仕込み」で読んで、そのときにはよく分からなかった箇所が、いざそれについて書きはじめると「ああ、そういうことだったのね」と気づくというのはよくある
こういうのは、ちょっと実体験からして今ひとつわからないのでありました。本の主軸がこういうかたちで表明されていたのね、とか、この素材がこうも強調されていたりするのは全体的な配置を顧みると気づくよね、みたいなことなのかな。
前者について、比喩的に言えば(ぼくの場合、あまり「比喩的に」ではないことが多いのですが、ともあれ)、ある定理の証明を読むだけでなく書き写してみること、さらには、定理のステートメントだけを見て証明を自力で書き下ろそうとすることと同様の役割を、読んだ本について何かを書くことは果たしてくれます(そして、ここで言った前者、つまり「定理の証明を読むだけではなく書き写す」ことは、通常「まとめ」と呼ばれるそれにあたります)。つまり、ある本が書かれる過程を身をもって「体験する」こと。そしてできれば、ある本(の一部)が取組むのと同じ課題を考え直してみること。こういうことを通して、その理路に賛成するか否かは別として、ある著者がどうしてそのような考えに至ったのか、まあだいたいは分かるようになります(とはいえ、「著者の言っていることを理解する」のに、たいていはここまでの手間をかけるまでもないのですが)。
重要なのは後者で、ある本を読んでいて、自分のなかに何かもやもやとした違和感を感じるとき(それは、ある議論の結論は認めるがそこに至る理路に納得できない場合と、そもそも結論そのものに疑義をいだく場合に大別できると思うのですが)、そうした「違和感」について書くとことは、ほとんど当たり前ですが、そうした「違和感」を筋道だったものに近づけます。そして、こうした「違和感」というのは、何も「仕込み」の段階である本を読んでいるときのみに生じるものではなく、「著者の言わんとすることの理解のため」にある議論を再構成する過程でも、生じます(ぼくの場合、むしろそういうことのほうが多い)。これがなぜ重要か、ということは、言うまでもないでしょう。
ともあれ、一部繰返しになりますが、「著者の考え」や「自分の考え(違和感)」を明確化するのにいつもいつも如上のような行程が必要というわけではなく、「何かを書く」ということがストレートに進むことも少なくないのですが、ただ、そうした「ストレートな何か」を書きつぐさなかにも「理解」や「発見」は潜んでいるわけで、だから、ぼくはあることに一定以上の考えをめぐらすときは、つとめて「書きながら」という方途をとることにしています。
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