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「知る」というのは基本的に、「分からないこと」を押しひろげる営みだ。「何かを知る」ということの裏にはほぼ必ず、それに付随して「分からないこと」が、ことによるとその「知った何か」以上に、潜んでいる。

たとえば、この直系12cmの光る円盤は、ある装置に入れると音が出る、ということを知ったとする。すると、どうしたってつぎには、なぜこの直系12cmの光る円盤をある装置に入れると音が出るんだろう、ということが気になる。すると、この光る円盤の表面には、ごく微小な凹凸が彫られており、そして、その凹凸にレーザーを当てることにより、その反射光をデジタル情報としてある装置が読みとり、それが音になる、ということを知る。すると、なぜ「反射光」という「光」が「音」という、素朴に考えればちがうカテゴリに属すものとして現れるのかが気になる。すると……というふうに、この系列はどこまでもつづけることができ、そして、そのとりあえずの突き当たりは、学的な分野では俗に「最先端」と呼ばれるところのものとなる。

また、上のような「自然科学」的な例が気に入らないのであれば、「記述文から規範文を導くことはできない」という、いわゆるIs-Ought Problemを考えてみよう。その場合、いきなりこの問題の真偽を問うてかかるのではなく、「そういう問題がある」ということを「知ったこと」により、それまでは何となく「知ったつもり」であった「記述文」や「規範文」が、何やら思った以上に面妖であることに気づかされるだろう。また、そういう「記述文」や「規範文」に関して、「とりあえず」けりをつけたにしても、こんどは「あるものからあるものを導く」というのはどういうことかも気になるであろうし、かりに、Is-Ought Problem自体に最終的な「けり」がついて、たとえばそれが真、つまりは「記述文から規範文を導くことはできない」が肯定的に示されたのだとすると、じゃあ、ひるがえって、「規範文」の「規範性」はどこから「来る」のか、ということが気になり……と、これもまた、好きなだけつづけていくことができる。

このように、それが「文系」と呼ばれる分野であれ、「理系」と呼ばれる分野であれ、はたまた、そういう「文理」というおしきせのカテゴリにはとてもではないが押しこみえないような分野であれ、何かを知ったそのすぐそばから、「分からないこと」が押しよせてくる。だから、たとえば、「科学というのは『未知』の領域をどんどんかき消していくので、夢のないものである」ということを言う人がいる(さすがに最近はこんな素朴な「科学観」を有している人もいないであろうので、「いた」と過去形にするべきか)。そういう人はそもそも、「科学」どころか「知る」ということそのものを「知らない」のだろう。そういう人の言う「未知」とは、せいぜいのところ「ある現象の真偽が決されていない」というだけのことで、端的に「いまだ知られていないこと」の領域のことなぞはてんで考えてはいないのだ。そういう「端的な未知」には、「知ること」でしか到達しえない。

だが、こういう問いもわきあがる。つまり、ある人は(もし知識というものが定量化できるとして)2単位量の知識を持ち、そして4単位量の未知を持つとし、またある人は4単位量の知識を持ち、16単位量の未知を持つとしたとき、さて、どちらの人が「物知り」で、どちらの人が「無知」なのだろうか? たんじゅんに知識量にだけ定位した場合、言うまでもなく4単位量の知識を持つ人のほうが、2単位量の知識を持つ人よりも「物知り」である、と言える。だが、その未知の量に定位すると、こんどは、明らかに4単位量の知識を持つ人のほうが「無知」である、と言える。また、そもそも、こういう「物知り/無知」という(定量的な)腑分けで語るのではなく、どちらのほうが「しあわせ」だの何だのという「定性的な面」からも語ることができる、かもしれない。つまり、見ようによっては、2単位量の知識と4単位量の未知しか持たぬもののほうが、4単位量の知識と16単位量の未知を持つものに比べ、「知らないこと」が存在することすら「知らない」ので、結果、自分は「知っている」という思いのほうがつよく、ゆえに、「しあわせ」かもしれない。

上のような定量的なことについては、何にせよ「分からない」。それは、「しあわせ」ということをこのような雑駁な切り分けで語ることにも問題があるし、そもそも、「知識」と「未知」という定量を媒介にしてしまっているので、そういう「数値」の2者間(一般的には他者間)比較可能性を考えないといけない。それでも、「分からない」ということは「知りうる」ということでもあり、そして、以前書いたように、知ることはたのしい。だから、ある意味、「知ること」とは「たのしみ」の尽きることのない発生装置であり、快楽の永久機関なのだ。

さあ、今日もまた何かを知ろう、もっともっと分からなくなるために。

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