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今度「懐疑論と認識論的閉包」に関するプレゼンをしなければならないことになった、と書きましたが、今日はこのいかめしい漢字だらけのテーマについて、基本的なところをさらりと。
で、まずは「懐疑論」について、なんですが、認識論における懐疑論の基本的な構成は、だいたい次のようなものになります。
- わたしは「ある命題Hが成立していない」ということを知らない。
- もしわたしが「命題Hが成立していない」ということを知らなければ、「ある命題Oが成立している」ということについても知らない。
- ゆえに、わたしは「命題Oが成立している」ということを知らない。
ここでHには「懐疑論的仮定」と呼ばれる命題が(たとえばパトナムの「培養液のなかの脳」の例で言えば「わたしは培養液のなかの脳である」というもの)、Oには「通常正しいとされている命題」(たとえば、「わたしには手がある」というもの)がそれぞれ入ります。すると上の議論は、カッコ内で用いたパトナムの例で言えば、もしわたしが培養液のなかの脳であり、あらゆる感覚をコンピュータで操作されているとしたら、わたしにはほんとうは手がないにもかかわらず、「わたしには手がある」と思ってしまうことになり、つまり、前提である「わたしは培養液のなかの脳である」(命題H)を否定できないかぎり、「わたしには手がある」(命題O)という主張もできない、というわけです。
さて、もしこの議論を反駁しようとすると、つまりパトナムの例を引きつづけると、「わたしには手がある」ということを知っていると主張しようとすると、まず思いつくのが上の1を否定すること、つまり、またもやパトナムの例でいけば、「わたしは培養液のなかの脳ではない、ということを知らない」という点を否定しにかかるということです(これには、パトナムじしんがそうである意味論的外在論的な立場からの回答もあれば、認識論的外在主義的な立場からの回答もあり、これだけでも色々おもしろいんですが、本稿の主題から外れてしまうので、この点についてはざっくり割愛します)。
もうひとつ、上の議論の1を否定しにかかるのではなく、もっとラディカルなアプローチに、上の議論の構成そのものに疑義を投げるというものがあります。つまり、上の懐疑論的議論は次の推論スキーマに則っているという点を衝き、そこを突き崩そうとするのです。
- わたしは「pである」ということを知っている。
- わたしは「pであればqである」ということを知っている。
- 上記1と2の条件を満たせば、わたしは「qである」ということを知っている。
この推論スキーマこそが「認識論的閉包」と呼ばれるもので、懐疑論者としては、pに「わたしは培養液のなかの脳ではない」ということを、qに「わたしには手がある」ということを代入し、そこから、(懐疑論者によれば)じっさいにはpは知りえないがゆえ、qも知りえない、ということを主張するわけです。
ただ、この認識論的閉包というやつを全否定すると、それはそれで厄介な自体が噴出してしまい、そこいらへんが議論のキモになってくるわけです。
てなわけで、プレゼンの仕込みはまさにその「キモ」にさしかかっており、なかなかにたいへんなことでありますよ、ということでした。
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