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前回、ゲーデルの「神の存在証明」はライプニッツの衣鉢を継ぎ、「神が存在することはありうる」ということ、および「神が存在することがありうれば、その存在は必然的である」ということの2ステップを踏むことを予告した。この稿ではまず「そも、証明とはなんぞや?」ということをかんたんに確認し、しかるのちゲーデルの証明(の「口語」ヴァージョン)の前半部分の前半部分、つまり証明全体の4分の1のところまでを見ることにしよう。
「証明」とはいっぱんに、「ある前提(群)にある推論規則(群)を適用してある結論を導くこと」を言う。このように言われた証明について、そもそもの議論の出発点、つまり「証明抜き」でただしい、あるいは妥当であると認められるものを「公理」と言う。また、推論規則はいろいろなものがあるのだが、「三段論法」(ある前提P と「P ならばQ 」からQ という結論を導く。ゲーデルの存在証明の全体構造がこの論法に依存していることは明らかであろう)や「背理法」(ある前提P を仮定して議論を進め、その議論が矛盾におちいることを示し、前提P の否定、つまり「P ではない」という結論を導く)といったところが有名どころだろう。なお、推論規則が適用される前提は、公理だけではなく、それまでに証明された結論も含むことに注意。
「証明」というものがいっぱんに上で言われたものであるからして、ゲーデルも当然「証明抜きでただしい、あるいは妥当だと思われる前提」からその証明を始める。そのような公理としてゲーデルがまず出してくるのが、つぎの「実在性positiveness の公理」だ。
公理1
ある性質、もしくはその補性質its complement のどちらか1つのみが、実在的である。
(はやし註:ある性質P について、「P ではない」と言われる性質を、その性質の補性質と言う。たとえば、性質P を「赤い」という性質だとすると、その補性質は「赤ではない」というものになる)
ここでさっそく、「何らかの性質property が実在的positive であるとはどういうことか?」という疑問が浮かぶ。そもそも、上の註で出した性質「赤い」とその補性質「赤ではない」のように、どちらか一方だけを「実在的」と呼ぶのはいかにも無理があるように思える。ただ、最大限ゲーデルに好意的に解釈すれば、たとえば「赤い」という性質について考えれば、「赤い」には「赤さ」が「実在」し、「赤ではない」には「赤さ」は「実在」しない、ということなのかもしれない。ともあれ、最初の公理からして「証明抜きでただしい、あるいは妥当であると認められる」どころの話ではないが、このエントリでなしたいことは、ゲーデルの証明の「内実を検討すること」ではなく、あくまでその紹介にあるので、先に進もう。
さて、上の公理で言われた「実在的」の反対、つまりそのcomplementは「非在的negative 」と言われる。そして、このような性質は、何かある実在的(あるいは非在的)性質に、それとはべつの性質が必然的に伴うとき、その伴う性質もまた実在的(あるいは非在的)であるとされる。それがつぎの「実在性の随伴公理」である。
公理2
ある実在的性質に必然的に伴う性質もまた実在的である。
つまり、「赤い」という性質には「色がある」という性質が必然的に伴うが、そうした場合、この「色がある」という性質もまた(「赤い」という性質が実在的だとすれば)実在的である、とされる。
これら2つの公理より、つぎの命題が証明される。
命題1
どんな実在的性質であれ、それは具体化instantiate されうる。つまり、ある性質P が実在的であれば、その性質P を持つ何かが存在しうる。
この命題を証明するために、まず性質P が実在的であることと、そして、この命題の否定、つまり「性質P を持つ何かが存在することはありえない」ことを仮定しよう。さて、「性質P を持つ何かが存在することはありえない」ということは、「すべてのものについて、それらが性質P を持たない、ということは必然的である」、つまりは「性質P を持つものがないことは必然的である」ということである。ところで、「何かが存在しない」ということは、そういう「存在しないもの」を「存在する」と仮定すると何かおかしなことになる、ということである。ここで、そういう「何かおかしなこと」を「x ≠ x 」(x に入るのは何だっていい。要は、時間を考えないセッティングで、何かがそれ自身と等しくないのはおかしい、ということ)としよう。すると、ここで「存在しない」と言われているものは「性質P を持つ何か」であるのだから、「性質P を持つものがあるとすると、x ≠ x 」ということになる。ところで、「何かおかしなこと」の反対は「しごくもっともなこと」であり、それはたとえば「x = x 」ということである(時間を考えないセッティングのもと、何かがそれ自身と等しい)。さらに、「しごくもっともなこと」、この場合で言う「x = x 」は、どういう状況下であれ成り立つ。つまり、「〜であるとすると、x = x 」の「〜」に何が入ろうが、この「〜であるとすると、x = x 」という言明はつねにただしい。「〜」は何でもよろしい、ということなので、「性質P を持つものがある」を入れることにしよう。すると、実在性の随伴公理から、「x = x 」と「x ≠ x 」とは両方とも実在的であるか、もしくは両方とも非在的であるか、のどちらかである。しかし、「x = x 」と「x ≠ x 」とはたがいにcomplementな関係なので(「x = x ではない」ということが「x ≠ x である」ということであり、「x ≠ x ではない」ということは「x = x である」ということである)、実在性の公理により、このようなことはありえない。したがって、(背理法により)前提としておいた「性質P を持つ何かが存在することはありえない」ということはありえない。ゆえに、性質P を持つ何かが存在することはありうる。そして、これが証明すべきことであった。
というわけで、ゲーデルの存在証明の、だいたい最初の4分の1程度を見てみた。次回は最初の山にして、じつは最大の問題含みなポイントである「神が存在することはありうる」という証明までを見てみよう。
この議論の流れからすると、性質Pもしくはその補性質(「補」ということばは逆って意味があるんですよね)のどちらともが神の性質であるということだから、少なくともどちらかが必ず実在し、神が存在することは具体化されうる、ってことなのでしょうか。でもそうだとしても、最初の実在性の公理で言われているのは「ある性質Pと補性質の両方が実在的ということはない」ということであって、「ある性質Pと補性質の必ずどちらかは実在する」ということではないのだから、それじゃぁなんらかの議論から実在性へと直接繋がらない。30分くらい考えてるんですけど、ぜんぜんわからないですねぇ。
で、「補〜」についてなんですが、これはあれですよ、高校でならったはずの「補集合」を思いうかべてもらえればいいです。既知だとは思いますが、繰りかえせば、ある集合領域Uがあったとして、そこでの集合Aに関して、領域Uに相対的に集合Aの補集合が定義され、集合Aと集合Aの補集合の合併がUになる、というやつですね。つまり、領域Uに関して、集合Aの補集合は、集合Aを「補うもの」になっている、ということです。
ただ、上の説明からの連想で分かるとおり、ここで考えられている集合領域、つまり性質の集合は無限であり、そうした無限領域において、何らかの「補」をどうとるか、それはそれで問題ではあります。
あと、新しい稿でも注解しましたが、ここで言われている「実在」は、かならずしもただちに「じっさいに存在する(もの)」を意味しない、んですね。そこんとこ、ご注意ください。
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