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光村図書から出ている「児童文学の冒険」誌『飛ぶ教室』2007年冬号所収のバリー・ユアグローとの対談で柴田元幸が「いわゆる『児童文学』に出てくる大人には『内なるこども』が欠落していて、そこに違和感を覚えることがある」と発言しており、おおいに頷いた。
ふつうに考えればごく当たり前のことだが、「おとな」と言い「こども」と言っても、それらのあいだに劃然たる区別があるわけではないし、それに、たとえ年齢的に「おとな」と呼ばれるにしても、その人に宿る「こども」要素が、たとえば20歳なら20歳で一切なくなってしまう、ということも考えにくい。そして、そういうごく当たり前のことが、いわゆる「児童文学」からはすっぽり抜け落ちていることがままあるように思える。
「おとな」はあくまで、「こども」の規範となるべき存在であり、「こども」と呼ばれる存在がゆくゆくはそうなるべく目指されるべきものとして「児童文学」においてはふるまわなければならない(ひどい場合、たとえ年齢的に「こども」と呼ばれるものでも、ある関係性のもとではその「こども」ですら「おとな」としてふるまうことが要求される。たとえば、『くまのプーさん』におけるクリストファー・ロビンを想起。ちなみに、おれにとって『クマのプーさん』は、老人介護施設における介護人とじゃっかん痴呆がはいった老人とのやりとりの記に読めてしようがない……)。
そして、いわゆる「児童文学」における「おとな」が、ほとんど虚偽的な「純粋性」において現れるのと相即的に、「こども」もまた、そうした「おとな」から歪んだかたちで逆照射されてしか書かれることはない。つまり、「児童文学」と呼ばれるものに現れる「こども」は、賢しらな「おとな」の「想像力」が手に負える程度の「こども」でしかないのだ。
しかしそもそも、「想像力」が「こども」に到達しうる、と考えること自体があやまりなのであって、丹生谷貴志の言うように、「こども」というものは徹頭徹尾「唯物的」である(丹生谷貴志『死者の挨拶で夜がはじまる』所収「これがせきたんやのくまさんの話です」)。「こども」の発言(そして、そこから伺い知れる思考様式)が、ときに突飛で、ほほえましくさえ思えるのは、「こども」には「こどもらしい想像力」が備わっているからなどでは断じてなく、彼ら彼女らは手持ちの駒で、下手をすれば「おとな」と呼ばれるものたちよりも厳密に、そして合理的に「思考」というゲームをプレイしているからなのだ。
いまこそ身勝手な「おとな」たちから「こども」を奪還し、そして同時に「おとな」が自らに課した「おとな」の役割から解放され、真に「こども」と「おとな」が描かれた「児童文学」が書かれるべきときである。だが、そうしたものが成就したあかつきには、「児童文学」はその役目を終え、残るのは剥き身の「文学」だけとなるのかもしれない。
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