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じつに一年以上間が空いてしまったけど、ここにドゥルーズのスピノザ講義の訳を再開する。以下は「存在するという力、あるいは行動する能力の連続的変様としてのアフェクト」と題された節の前半部分。後半部分も間を置かず、ちゃっちゃか訳すつもりなので、お付き合いいただければ幸甚。
存在するという力、あるいは行動する能力の連続的変様としてのアフェクト(上)
さっきイデーを、その客観的現実性とか、「何かを表す」というその特徴で定義したとき、アフェクトっつーのは「何かを表す」というのではない思考の在り方だ、っつって、これら二つを対置したよね。さて今度は、イデーを次のように定義してみよう。つまりイデーとは、何かについてのイデーというのみならず、それ自身「何か」である、すなわち、イデーは各々のイデーに固有な現実度、あるいは完成度を持つ。
すると今度は、イデーとアフェクトの根本的な違いを見つけねばならん、ということになる。ところで、この生のなかで具体的に起こることというのは何だろう? この生のなかでは、二つのことが起こるんだな……。そういうことを叙述する際に、スピノザが幾何学的方法を用いたというのは、興味深い。君たちも知ってると思うけど、『エチカ』ってのは、定理・証明などなど、というかたちで書かれてるんだけど、それは幾何学的方法という以上に、まさに数学、というものであり、そして、べらぼうに具体的なものなんだ。この講義で言われたこととか、イデーやアフェクトについての説明とかは、『エチカ』の第二部・第三部に負うところ大なんだけど、この『エチカ』第二部・第三部では「われわれの生」というものの、幾何学的ポートレイトとでも言うべきものが描かれていて、おれの見るところこれはすんげー説得力があるわけよ。
この幾何学的ポートレイトは、おれらの抱くイデーってのは次から次へと継起する、ということを概略教えてくれる。あるイデーは別なイデーを追い、またあるイデーは別なイデーに、たとえば一瞬で置き換わる。知覚、というのは、あとで見るように、ある種のイデーなんだ。さて、たとえば、今しがたこっちを向いていたときは部屋の隅が見えていたけど、こうして向き直すと違うイデーが生じる。また、たとえば、道を歩いていると、ばったり知り合いに出くわしたとする。おれはそのうちの一人ピエールに挨拶をする。そして、今度は違う方向に向き直し、ポールに挨拶をする。さて今度は、変化するのは事物のほうだとしよう。太陽を見ていると、太陽は次第次第に傾き、やがて自分が夜のしじまにいるのを見いだす。いずれにせよ、ここに見られるのは、イデーの継起やイデーの共存の連続である。ところで、もう一つこの生に起こることは何だろう? われわれの日ごろふつうに生きている生は、次々と継起するイデーだけからなっているのではない。スピノザは「オートマトン(自動人形)」って言い回しをしてるけど、スピノザによればおれらは精神的オートマトン、ということになる。つまりそれは、イデーを持つわれわれ、と言うより、われわれのなかに顕現するイデーと言ったほうがいいようなものなんだ。じゃあ、こうしたイデーの継起のほか、何がこの生に起こるんだろう?
当然、そうしたイデーの継起とは別なものがある。つまり、おれのなかにあって、絶えず変わりつづけるような、何か。イデーの継起それ自身とは違う、変様というものの領域があるんだ。この「変様」ってのは、おれらが為さんとすることにとってすごくお役立ちなんだけど、惜しむらくは、スピノザ自身はこの言葉を使ってないんだよねえ……。ま、それはさておき、この「変様」っつーのは、何だろ?
もっかいさっきのピエールとポールの例を取り上げよう。おれが通りを歩いているとピエールにばったり出くわすんだけど、このピエールとおれってのはどうにも馬が合わない。すれ違うとき、「やあ」とか一応挨拶はするんだけど、内心ちょっとビビってたりする。すると突然、ポールを見つける。ポールとおれとはとってもなかよしだ。おれはポールに「やあ」と言い、安心し、そして満ち足りた気持ちになる。さて、ここで起こってることは何だろう? 一方では、二つのイデー、つまりピエールのイデーとポールのイデーの継起ではあるんだけど、そうしたイデーの継起とは別な何かが起こっている。つまり、変様がおれのなかで作動していて、そしてこれは永続的なものである。ちなみに、この変様を語る部分でもスピノザの言葉づかいは正確きわまりないので、ちょっと引用しておこう。スピノザは、この変様を語るに際して《存在するという、わたしの力(の変様)》、もしくは同義語として「存在する力vis existendi 」、または「行動する能力potentia agendi 」という言葉を使っている。
それじゃあ、この「変様」なるのものは、おれが出した馬鹿げた、でもスピノザ由来のものでもある、ピエールとポールに挨拶をするという例と、どういう関係があるんだろう? おれのあまり好きではないピエールを見たときは、ピエールのイデーがおれに与えられる。おれの好きなポールを見たときは、ポールのイデーがおれに与えられる。これらのイデーはそれぞれ、おれにとって、ある現実度や完成度を持つ。さっきの例の続きで言うと、ポールのイデーはおれを満ち足りさせ、ピエールのイデーはおれに苦々しい思いを抱かせるので、ピエールのイデーよりもポールのイデーのほうがおれにとって、内的な完成度を持つ、と言える。ポールのイデーがピエールのイデーに継起するとき、存在するというおれの力や、行動するおれの能力は高まり促進される。反対に、おれを幸せな気分にさせてくれる誰かに会ったあと、おれを悲しくさせるような誰かに会った場合、行動するおれの能力は抑えられ、妨げられる。こうした観点から見るともはや、言葉づかいの慣習にいまだ則っているかどうかとか、そうした慣習とは比べ物にならないぐらいの具体性を持った何かにすでにいるのか、分かんなくなってくるよね。
さて、いくつものイデーがわれわれのなかに継起し、それぞれがそれぞれの完成度・現実度を持つに応じて、そうしたイデーを抱くおれは、ある完成度からまた別な完成度へと絶えず移行する。言いかえれば、何らかのイデーを抱く誰かの、行動する能力や存在するという力が増えたり減ったり増えたり減ったりというかたちで、連続的変様はある、ということ。
こうした骨の折れる思考実験を通して、(思考における)美が現れるさまを感じてもらえたらな。こりゃあもうかなりなもんで、存在のこうした表し方ってのは、実際に道ばたで出くわしたりする存在なわけで、スピノザがそこいらをぶらつきながら、こういう連続的変様に実際出くわしたさまが思いうかぶ、ってもんだよ。で、あるイデーが別のイデーに置き換わるとともに、おれはある完成度から別の完成度へと、たとえごくわずかであっても絶えず移り変わる。イデーとの関係においても、そして、イデーとの本性の違いという点においても、アフェクトaffectus を定義づけるのは連続的変様が奏でるこうしたメロディラインなんだ。まあ、これで満足かどうか、君たちの判断にまかせよう。
ただ、連続的変様がどういう意義を持つのかいまいちわからないなぁってのが本音ですね。そういうものがある、というのはそうなのだろうけれど、イデーの完成度が高まったり低まったりするという継続性を考える意義はなんなのか。そこからまた何か違う概念が継起するのかな、と思うので、また翻訳作業を続けていただければ嬉しいです。でも今は忙しいでしょうからお暇なときに!
お察しの通り、今はまだこちらの生活に慣れていないということもあり、日々のつまらぬことに忙殺されている状態で、翻訳に限らず諸々の活動が制限されているような状態ですが、あともう少しすれば安定してくるだろう、と甘い予断をしていますので、今後ともお付き合いいただければ。
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