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つっても、アリストテレスのあれではありません。
カテゴリー論というのはざっくり言うと、数学の一分野で(って言うと語弊があるかな)、何かと何かの関係がどうなってるか、ということを表現するもので、まあ、単品でどうこう、ってよりも、何らかの数学理論を記述するフレームワークとして使われたり、あと計算機科学では領域理論で大活躍してたりする。領域理論ってのは……ここを見てくれ。あと、カテゴリ論に関するちゃんとした説明ってことでは、ここもね。
で、昔っから、気になるんだよねえ、カテゴリー論。「何らかの数学理論を記述するフレームワーク」ってことから容易に、集合論みたいなやつか、って連想が働くと思うけど、まさにその通りで、おれ好きなんだよねえ、何かこういうメタっぽい感じのことって。あと、あのダイアグラムがいいんだよね、何か。でも、そのダイアグラムが仇になって、おいおいそれで証明かよ、って感じにもなっちゃうんだけど(ダイアグラムより自明、とかね)。
それで、カテゴリー論の聖典とも言えるMac Lane "Categories for Working Mathematician"に何度目かの挑戦してんだけど、むずかしい、というより、書いてあることは分かるんだけど腑に落ちない。そういう「腑に落ちなさ」を気にしなければ、滅法面白いんだけど、それでどうなのよ?って、それこそメタに考えちゃうと「うーん」って感じ。前に読んだPierceの"Basic Category Theory for Computer Scientists"なんかは「腑に落ちない」って思う前に、あれよあれよという間にトピックが進んで、気づくと応用の話になってたりして、非常によかったんだけど。ま、今度は半分ぐらいまでには到達したいな、と思ってる。
関連書
Saunders Mac Lane, "Categories for Working Mathematician", Springer
カテゴリー論のオリジネイター(の一人)による聖典。話がメタカテゴリーのことから始まるんだけど、これがどう効いてんのよ?と少し戸惑う。公理論的集合論を展開するために、とりあえず素朴集合論を展開しておく、っていうのと似てる? Pierceは著書のFurther Readingで「マクレーン本を10%だけしか理解できなかったとしても、その10%の理解は他のカテゴリ本を精読したことに値する」って書いてあるけど、さすがに言い過ぎなんではないだろうか?
Benjamin C. Peirce, "Basic Category Theory for Computer Scientists", MIT
短くて、手軽で、いい本。とはいえ、表示的意味論なんかの応用にも触れられていて、「で、どうなの?」で終わってしまうこともない。
Robert Goldblatt, "Topoi", Elsevier
副題は"Categorical Analysis of Logic"。コーネル大のHistorical Math Monographsのページで読めます。
Robert Geroch, "Mathematical Physics", Chicago Univ.
カテゴリー論をツールに数理物理を展開! でも、図が手書きっちくて、ちょっと気になる。
Saunders Mac Lane and Garrett Birkhoff, "Algebra", Chelsea
マクレーンと束論でおなじみのバーコフによる代数学の教科書。ハードカヴァーだし厚いしで、寝ながら読んだり持ち歩いたりには不便だけど、数ある代数学の本の中でも、好きな本。"categorical insights"に溢れてます。
Paul Taylor, "Practical Foundations of Mathematics"
計算機科学を横目でにらみながら、カテゴリー論で展開される基礎論。
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投稿者 宮本浩樹 日時 2005 年 1 月 02 日 00
(回答先
お前は、宇宙だ。
っていうことだけど、どう?
それと、物質っていうのはエネルギーがある形をとったものだから、
物質=エネルギーっていう等式が成立する。 E=MC2 っていうヤツ。
これはエネルギーが任意の値を取る事が出来ないっていうこの宇宙の性質に由来する「存在」のありかたから来る必然的なありようで、無限集合の濃度に関する「一般連続体仮説」が偽である事と結びついてる。
「一般連続体仮説」が真であるような宇宙では、エネルギーが連続した任意の値を取る事ができるために、「素粒子」という「存在」のありかたは「ありえない」ありかたになってしまう。
その宇宙では、E=MC2 は成立せず、E=E しか成立しない。
仏教用語では「ニルヴァーナ」と呼ばれる「光り輝くなにものか」でしかない世界だ。
「一般連続体仮説」の真偽は決定不能である事が証明されてるんだけど、
そんなの自分で決定すりゃいい。
ニルヴァーナかサンサーラか。
「両者のあいだには毫ほどの隙間もなく、ニルヴァーナとサンサーラはぴたりと重なり合っている。」
っていうのが禅の教えだから、どっちにしても同じ事なんだけど・・・。
は、ともにサンサーラと呼ばれるこの世界です。
ニルヴァーナ(涅槃)では、E=Eも実は成立しないと考えています。
単に E だけが成立?する世界です。おそらく。
異なる位相間に橋を架けるのは数学の醍醐味じゃないでしょうか?
E=MC^2が成り立つ世界と、一般連続体仮説が問われている世界は、その在立基盤が違うと思うんですよね。だとすると、そこにある「存在」も位相を異にしてくるはずで、問題はどうしてそのように異なる世界、存在間で、宮本さんの仰ってるようなアナロジーが成り立つのか?ということです。
とりあえず、以上の点をお考えください。
また、専門用語を額面どおりの意味で使っているのか、それともレトリカルに使っているのか、明瞭ではないとも思うので、以後そのあたりに留意していただくと、読み手としてはありがたく思います。
では。
>「おれにはこう思える」
以上のものはありません。
自然界は明らかに不連続であり、それは一般連続体仮説が偽である事を強く示唆している。エネルギーが不連続な値をとって素粒子という姿を現すのもこの事に由来する。
では、何故、仮説の真偽が決定不能なのか、それは仮説が真である世界が存在するからであり、その世界は仏教用語で涅槃と呼ばれるものである。
こんな「橋」は誰も渡れないのはわかっています。
これ以上なにかを論証する力が私には無いので、どなたか助けてくださるか、ぶっとばしてくださるか、淡い期待をしているところです。
さて、そうであれば、どうして「自然界が不連続」という前提から「一般連続体仮説が偽」という結論が導けるのでしょうか?(一般連続体仮説が成り立つとするのであれば、まだ話は分かるのですが)
ついでに言えば「自然界が不連続」ということも私には「明らか」とはとても思えません。
以上2点、どうでしょう?
偽→真
に訂正します。すみません勘違いしていました。
>>エネルギーが不連続な値をとって素粒子という姿を現す
のは何故か、という問いに対する答えが一般連続体仮説なのではないか。
という直観だけです。
自然界の不連続性については、これが我々が自然に押し付けたものなのか
自然が自然に持つ自然の性質なのか。
論議の決着はまだ着いていないと考えます。
おつきあい頂いて恐縮です。
私のブログにトラックバックをつけて頂いた御縁だけで、ご挨拶抜きで失礼しました。
自然の連続性/不連続性について言えば、それがどちらかにせよ、その性質は自然固有のものなのか、我々の何らかの認識機構に由来するものなのか、というのは未決、というか、果たして最終的な回答が出るものかどうかも分からないものです。
ご存知のようにカントはそうした認識機構がまずあって、自然という現実を切り分ける、という話の持っていき方をしておりますし、ドゥルーズなんかだと、自然は不連続である、という前提の下、じゃあどうしてそうした不連続なものが、全体としてこういう世界として立ち現れるのか、という問題系として扱っております。
かように、この問題自体は先人たちが色々と考え抜いた資産があり、こうしたものは利用しない手はないと思われるので、能うかぎり参照することをおすすめします。
私の見るところ問題は、やはり数学の世界というイデアルな世界と、自然界というフィジカルな世界をどう架橋するのか、という点に懸かっている、と思われます。この点について、直観に留まらず、是非論証に向けて思考を歩ませてください。やはり論証抜きでは賛同は得られにくい、と思います。
>フィジカルな世界をどう架橋するのか
メタフィジック ですよね、やっぱり。
「決定不能である事が証明された仮説の扱い方」
という問題でもあると思います。
ニルヴァーナを持ち出した時点で「論証」は放棄したものとみなしてください。
カテゴリ論について述べられた本文に付けたコメントとしては
明らかなカテゴリーエラーの実例っていうことで、お許しください。
でも、前提が問題含みかなあ。可能世界のとこ。あと、自然が宇宙の部分集合、というのも、この前提からだけでは出てこない。直感的にいかにもそういう感じはするけど。
それと、かのように定義された「現象」がどう効いているのかよく分からん。
で、問題はそっからですよね。たぶん。離散であったとして、どうしてそういうものが「連続」したものとして立ち現れてくるのか。もしかすっと、ここに「現象」の前提が効いてくんのかな?
現象は存在ではありません。虚構、フィクションと言っていいでしょう。
何処で?、何が?、如何様に?、と問う前に、出来事が起こっている事そのものは疑う事ができません。
全ての起こりうる出来事、可能な出来事の総体、というものを想定する事は可能です。
これを宇宙と呼ぶ事にすれば、宇宙の存在そのものは論議の対象とはなりません。
それが存在しないとするのなら、何が存在するとすればいいのか、存在という概念自体が無内容なものになってしまうからです。
全ての起こりうる出来事間の関係、を考慮に入れれば、
宇宙とは、可能な出来事の総体のベキ集合である。と言ったほうが正確でしょう。
おそらく、アレフ1です。
この私の存在を論議する事は無意味であり、それは存在が存在しうるあり方、存在という概念を無意味にしてしまう事だからです。
全ての起こりうる出来事間の関係、を考慮に入れれば、
私とは、可能な出来事の総体のベキ集合である。と言ったほうが正確でしょう。
おそらく、アレフ1です。
とはいえ、とりあえず宮本さんの議論に乗っかった形で、思い浮かんだ疑問。
1) 「私」が起こりうる出来事の全体、可能な出来事の総体である、という定義の正当性はどうか?
2) 可能な出来事はすべて起こるか?
3) 可能な出来事の総体の存在を議論することは無意味か? まずもって「可能な出来事」ということ自体が議論されるべきではないのか?
4) 可能な出来事の総体の冪集合がaleph_1だとすれば、当然可能な出来事の総体はaleph_0ということになるが、それは何故か?
つーかんじです。
事後承諾ですみません。
疑問に出来るだけお答えして以後はこちらで続きをやりたいな、なんて思ってます。
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1)定義の正当性はその後の論旨の展開いかんで左右されるものだと思います。
「私」と「宇宙」の関係については説明がまだ不足している事を認めます。
2)全体のなかで、起こらなかった事は不可能な事であったという事と同義だと思います。これも「宇宙」においては納得いく説明でも「私」においては腑に落ちない、というのはわかります。「宇宙=私」をこれから論証すべきだとおもっています。
3)「可能な出来事」を具体的に例をあげて議論する必要は感じません。
宇宙が存在するかどうかを問いに付すのは、私の記憶が全て夢だったのかどうかを問うようなもので、私には無意味と思えます。
4)可能な出来事の総体が可付番集合である事は自明だと思います。
で、どうでしょう。
背理法を用います。
まず、出来事を無限に分割する事は出来ませんから、それが可付番(不連続)であることは明らかです。
この宇宙で、「全ての可能な出来事」が有限であると仮定すれば、その各々の出来事をナンバリング(有限な自然数の数列を割り当てる)する事ができます。
宇宙が「全ての可能な出来事とそれら相互の関係の総体である。」との定義によれば、「全ての可能な出来事」の冪集合がひとつの自然数の数列で表される事になります。
これは、宇宙で「意味を持つ最大の数」に他なりません。
チューリングマシンは必ず停止し、ゴールドバッハの予想は外れ、πの展開には終わりがあり…etc、矛盾が生じます。
よって「全ての可能な出来事」が有限であるという仮定は誤りであり云々。
(ふっと思い付いて書かずにおれなくなった…。)
と、真面目に答えちゃったけど、ま、大体「一周年記念」でもあるし、ここらでカテゴリ論の文献でも何か読んでみるかね、宮本さん?
例えば、9999がπの何桁目に現れるかは既知だが9が百万桁続くのは何桁目からか?これは未知だ。
はやしさんがよくお分かりのとおり「円周率の展開」は「証明の根拠」じゃない。
エネルギーがある値をとって素粒子として現れる「出来事」はグーゴルプレックス(10の百乗の百乗)程度でナンバリング可能だと思う。
そう考えれば、
>宇宙で「意味を持つ最大の数」
は、10の百乗の百乗の、10の百乗の百乗が最大値でいいかも知れない。
その「出来事の相互関係の総体の」解釈可能性については、
「意味を持つ最大の数」の「意味を持つ最大の数」乗。
これも有限の、単なる大きな数に過ぎない。
これらは直観に著しく反する。
…「よって全ての可能な出来事は可付番無限でありアレフ0の無限集合である。」
全ての可能な出来事とそれら相互の関係の総体である「宇宙」はアレフ1であり、その「宇宙」の解釈可能性の総体=「神」はアレフ2の無限集合で表される。
宇宙は、今までの定説に反して、加速しながら膨張していて、最後は収縮なんてしなくて、サンサーラっていうのか、差異が消えたのっぺりした空間っていうのか、それは別にして、とりあえず、宇宙じゅう、星の墓場になるんだって。
次は、数学でなくて、物理を使った「ト」を期待してるから、がんばって、みやもっちゃん書いてね。これでも読んで。期待してるからね。
アクゼルの本は単なる啓蒙書としては、はやしさんのお墨付きだし、訳もGEB訳した 林一さんだし。
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それと、GEBの林一さんって、訳者としてちょっと問題ありだったような……。
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