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松岡正剛とぼくとの出会いとは、どういうものだったろう?
このエントリを書くに際して、思い出そうとするのだけど、どうしても思い出せない。
あの、ほとんど「きちがい沙汰」と言ってもいい『情報の歴史』に何かの偶然で接してのことか? それとも、ぼくが高校生の頃はまだ大きめの本屋では買えた『遊』に触れてのことか? あるいは、今は亡き安原顕が出していた書評誌『リテレール』紙上で、高山宏が尋常ならざる持ち上げ方をしているのを眼にしてのことか?
その出会いがどんなものであったにせよ、松岡正剛という人がぼくの中で決定的となったのは、この『知の編集工学』であることは間違いない。
この『知の編集工学』に出会うまで、ぼくの中で松岡正剛という人は「裏方の人」というイメージだった。
もちろん、この本以前にも単著は出しているし、そのいずれも相応の扱いを以って遇すべきものではある。
しかし、『情報の歴史』の印象があまりにも鮮烈であったこともあるし、松岡正剛が提唱する「編集工学」の姿が、『知の編集工学』以前の書ではあまり詳らかではなかったがゆえ、その「松岡正剛=編集工学」という、ぼくが勝手に打ち立てたイメージとその書が結びつかず、そのエディトリアル・ワークにばかり眼が行ってしまっていたのだ。
だが、そういう「松岡正剛=編集工学」という、ぼくの「イメージ先行型」理解も、この『知の編集工学』の出版により、実を伴ったものとなった。
あとがきで松岡正剛自身が語るように、この書は「自分の専門や自分の仕事に関して書くことを、つねにあとまわしにしてきた」というタブーを破ったものであり、それまで押しとどめられていた自身の方法論が、堰を切ったように開陳されている。
この書では「情報」、そして「編集」ということについて、原理論的なことから実践的なことまで、もうこれ以上ないというほどクリアーカットに、かつ面白く書かれており、それをわざわざ分かりにくく、細切れに、魅力を殺いだかたちで再提出するには及ばないので、ちらっとでも、ほんとうにちらっとでも気になられた向きは、是非実地に読まれたい。絶対に後悔はしないはずだ。
で、以下は2、3特に印象に残っている箇所を取り上げ、それにかこつけてぼくのぐだぐだなおしゃべりが繰り広げられるだけ。
さて、われわれが普段「編集」と呼び習わしてるものは、「編纂 compile」と「編集 edit」に分けることができ、前者は「データ data」を扱い、後者は「カプタ capta」を扱う。ここで「カプタ」と呼ばれているものは、データに比して可塑的なものであり、「いろいろに解釈できる意味情報」ということである。
そこで当然「編纂」と「編集」でその方法が違ってくるのだが、その同じ「編纂/編集」のなかでも、その扱う「データ/カプタ」によって方法が違ってくる。
「データ」を扱う「編纂」では、その方法は「収集/選択/分類/流派/系統」の5つだけなのだが、「流動的データ」と言ってもよい「カプタ」を扱う「編集」はというと、「編定(codeify)…契約・法典・条例・史書などをつくる」から始まって、「創造(creation)…以上の全ての組み合わせ以外の創造」に終わる、実に58もの方法が列挙されている。
で、この「創造(creation)…以上の全ての組み合わせ以外の創造」ってのがいいんだな。
要は、松岡正剛は「クリエイティヴ」や「オリジナリティ」ってのを、全然認めてないんだ。
私は「創造」や「創造的」であるなど、神様の仕業ならともかく、安易に自慢するものではないとおもうのだ。……もっというなら、私は「オリジナリティ」という言葉にもほとんど信用をおいていない。
……
ついでながら、私は「アイデンティティ」という見方にも与さない。アイデンティティとは自己同一性とか自己一貫性とか訳されるが、どんな意識においても変節や変容をもたないアイデンティティなど、とうていありえないとおもわれるからだ。
もう、諸手を挙げて「賛成!」って感じだね。
あー、何だかんだ、内容説明もしちゃって、思ったより書いちゃったな。
あとね、本筋とはほとんど関係ないんだけど「本当に何かをやりたかったら無償のことをせなならん」っていう稲垣足穂の言葉が紹介されていて、ぼくがブログを始めた理由、ってのも、遡ればここいらにあるなあ、って話もしようとしてたんだけど、ま、いいや。
それじゃ、〆にブックガイドなぞ。
まず最初に、やっぱり「松岡正剛の仕事、といえば、これ」となるであろう『情報の歴史』。
この本は「象形文字から人工知能まで」という副題が付いていることからも分かるように、「情報」というものを基軸に、先史から現代までの歴史を編集工学的手法を駆使して編み上げられた年表本。
いわゆる「年表本」とは全然違って、西洋/東洋の別はもちろん、あらゆる通常の仕切りをぶち破っている。
ただ、そうは言ってもこれを最初から「読め」というのは厳しいかもしれない。
そういうときの絶好の副読本が、松岡正剛自身が『情報の歴史』の読み方をレクチャーしつつ、歴史を講義してくれる『情報の歴史を読む』というもの。一気に読ませます。
あとは、「千夜千冊」のプロトタイプともいえる書評本『遊学』や、空海という怪人物の妙味をぼくにたっぷり教えてくれた『空海の夢』(残念ながら絶版)なんかもオススメです。
我々が人類という種であるのは、世界をこんな風に編集するそのやり方に依るのであり、他の種であるという在り方もそうですよね。
以前に「可能な出来事」の話しをしたときも、可能な出来事のベキをとる、というのは「編集する」というのと同義である。
と言えたかも知れないと思ったりします。
コミュニケーションというものが、編集方法(技術)の相互交換である。
という氏の指摘にもハッとした覚えがあります。
編集の「作品」である物語の交換ではなく、ですね。
そうそう、松岡さんのコミュニケーションの捉え方、おれも「すげえこと言う人がいるもんだなあ」と思った。ただ、どうだろう、最近われわれは「編集の刀」がなまくらになっていないだろうか?と思うこともあり、今一度「コミュニケーション=編集方法の相互交換」ということを自覚してコミュニケートしていきたい、と思う所存でございます。
>思う所存でございます。
>「編集の刀」がなまくらになっていないだろうか?
これは僕も自戒しつつ、生物学的にも人類学的にも、物理学的にも「編集」しつつ、「哲学」しなきゃいかんな、うん。
などと思う今日この頃。
(忙しくバイトなんかやってていいのか?)とほほ。
「編集の刀がなまくらになっていないだろうか」って、先のコメントでは主語を「われわれ」としているけど、一義的にはひたすら自分のことを考えていた訳で、それというのも、最近色んなやりとりを自分でするなり、人のやりとりを聞くなりというときに、『知の編集工学』でも例として引かれている金子郁容さんみたいな感じを覚えちゃうんだな。要は、自分の中で、自分や他の人がなしているコミュニケーションが、それとして成り立っているのかが覚束ない感じがする。
エディトリアル・モデルでのコミュニケーションの捉え方によると、意識的にであれ、無意識的にであれ、編集方式を受け取り、解析し、それにしたがってアウトプットをしなくちゃいけないんだけど、この解析ルーチンがうまく動いていないような気がする。まあ、送り手の問題なのかも知れんが……。
ま、そんな感じですわ。
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