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この本において、著者はかなり明確に自らの立場を打ち出しているが、そのことは次の意味で功を奏している。
つまり、立場が明確であるがゆえに、通常の「中立的」な書物にありがちな、理論ののっぺりとした羅列に終わることなく、きわめて生き生きと「科学哲学の営み」というものが描き出されている。そして、一般的に科学哲学において議論される「科学の方法」、たとえば「演繹」や「帰納」や「説明」と言った道具立ても、「自らの立場の擁護」という筋立ての中で、有機的に理解される。また、自らの立場に対立する論に対しても、決して頭ごなしの批判に終わることなく、かえってそうした反対意見も、その対立構造の中でこれまた生き生きと描写されることになっている。
さて、それでは著者の採る「立場」とはいったい如何なるものか?
それは「科学的実在論」と呼ばれるもので、簡単に要約すると次のようなものになる。
「科学が理解しようとしている世界は、目に見えないミクロなものも含めて、科学とは別にあらかじめ存在しているということ」、および「科学は科学と独立に存在している世界の本性についてだんだん詳しく分かってきているんだということ」の二点を主張する立場
これは、ごくごく常識的で、何の問題もないような立場に思える。
ところがどっこい、この立場を議論を通して正当化しようとすると、異常な難問であることが次第に判明してくるのだ。
詳しくは本書を読んでもらうのが一番いいので、ここで「それは何ゆえか?」というのを縷々述べたてることは控えさせてもらうが、その要諦を一言で言えば
科学的実在論の正否というのは、科学の探求するものと実在の近さにかかっているが、その実在とはまさしく科学的探求の中で理解されてくるものであり、科学的実在論を云々する以前にアプリオリな形で措定しておくことができない
ということだろう。つまり、自分で自分の体を支えているような、ブートストラップ状態になっているのだ。
こうした難問をどう切り抜けるか? この書で提出されている「とりあえず」の解答(妥協案?)は、万人にとって得心がいく、というものではないかもしれない。それでもなお、こうした困難を切り抜けんとする議論の積み重ねには、誰しも「議論する面白さ」を味わえるはずだ。
というわけで、一読をおすすめします。
関連書、およびリンク
戸田山和久『知識の哲学』(産業図書)
同じ戸田山和久による、知識の哲学についての入門書。『科学哲学の冒険』と同じく、かなり著者の旗幟が鮮明な本です。
内井惣七『科学哲学入門』(世界思想社)
かなり盛り沢山な科学哲学入門書。個人的には「科学哲学でどれか一冊」と言われたときには絶対はずせない本ながら、「死亡率」も高そう。
伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会)
「疑似科学」を軸に科学哲学を考えるという、ユニークな入門書。戸田山さんも一押しであります。
Frederick Suppe, Semantic Conception of Theories and Scientific Realism, Univ. of Illiois Pr.
「科学の意味論的捉え方」に関して挙げられていた参考図書。自分用メモ。
Ronald N. Giere, Explaining Science, Univ. of Chicago Pr.
同上。
三中信宏さんによる書評
「複雑系の認識論(4);科学と空想」、読ませていただきました。私もykenko1さんと同じように、「虚構/物語」と「事実/科学」というのはそれほど遠いものではないのでは?と思っております。というのも、ykenko1さんも仰っている通り、仮説を立てるにしても何らかのイマジネーションは必要なわけだし(そうでなかったら「A=A」という事実確認に終わり、新たな知見が得られることはないでしょう)、そも今現在の科学からしてある意味「虚構」である(たとえば、厳密にニュートンの3法則が成り立つ状況は実際には存在しない!)、と思うからです。その点では、私が「書評風」の雑文を書かせていただいた戸田山さんにしてもそういう立場に近い、と思われます。
こうしたことについて、私のエントリ「理系とか文系とか その2」のコメント欄で、それなりの長さで議論が繰り広げられていますので、よろしければご覧ください。そこでは、話の行きがかり上、私は「理系の代弁者」みたいな役どころになってしまっていますが、真意としては「理系だの文系だのって垣根こさえるより、そういう垣根をぶっ壊した方がおもしろくない?」というものです。
野家さんの『物語の哲学』、今度岩波現代文庫に入りますね(もうすでに、なのかな?)。刊行当初から気にはなっていたものの、未読なのでこれを機会に読もうと思っています。
少し話は違いますが、クオリアムーブメントって知ってますか?脳科学者の茂木健一郎氏が展開しているんですが、クオリアのテーマを中心として文系理系の壁を乗り越える試みでもあります(参照;クオリアマニフェスト<a href="http
クーンの「教育課程で受ける修練で得られた方法論に縛られる」という指摘、確かにそうなのですが、その縛られ方の是非(たとえば、縛られていることから自由になることは可能か? もし可能だとしてもその縛りから自由になることは「いい」ことなのか?)や、その縛られ方に関する諸学間の違い、といったことに関してそれほど得心がいっているわけではないので、もう少し自分なりに掘り下げてみたい、と思っております。
茂木さんのクオリア・ムーヴメント、黒木板で話題になった当初(98年くらいかな?)から知っておりますが、ご本人の著作としてはブルーバックスから出ているものぐらいしか読んだことがありません。
ただ、どうなんでしょう。というのは、このような文理融合のすすめ、のようなものって、たいてい世俗的に言う「理」の人たちからしか出てきませんよね。もうちと「文」の人たち側からの発信というのも欲しいところです。それこそ「脳」をブリッジにするのなら、言語系の人とか人材はたくさんいるはずなのですから。
前回、私は脳科学の可能性について触れましたが、追加すると複雑系の科学などにも期待しています。経済学や歴史学などにも関わってきますよね。
それで現段階で重要なのは、ただ文系理系を融合すれば良いというのではなくて、むしろお互いがお互いの専門性をもちつつ、しかも相手の領域への関心をもちつつ、対話することなのだと考えています。
「文系・理系」という区分は今となっては健全な学問の進展にとって弊害にすらなっている、と私は思っていますが、かといって「混ぜりゃいいんだろ」的なアプローチはいかにもまずかろう、とも思いますので、ykenko1さんの仰られている「お互いがお互いの専門性をもちつつ、しかも相手の領域への関心をもちつつ、対話すること」という点、全く同感です。ただ、両者とも相手方の領域に関して、最初から及び腰というか、印象嫌悪を抱いてしまうこともなきにしも、とも思いますので、やはり良好な交流ができるよう、その共通の下地というか、雰囲気は作っておくべきでしょう。
コメント、ありがとうございました。
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