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ある日、散歩にでかけるため、娘の身支度をととのえているときのこと。娘がさっきまで履いていた靴下が見当たらないので、奥さんに「靴下どこ?」と聞くと、横でジグソーパズルに夢中だった娘がやおらすっくと立ちあがり、とてとてとどこかに消えていった。ややしばらくして娘が帰ってくると、その手には探していた靴下が……! こういう展開はまったく予想していなかっただけに、ものすごくおどろいた。
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デデキントについてちょっと調べものをしていたら、『連続性と無理数』のフランス語訳が La Bibliothèque d'Ornicar? から出ていたということを知り「おおっと」と思いました。
La Bibliothèque d'Ornicar? というのはラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールがやっていた叢書で、ゆえに、基本的にその手の(というのはつまり、ラカニアンな精神分析にかかわる)本を出していたことを考えると、そういう叢書からデデキントの訳本が出ていたというのはじゃっかん奇異に映らないでもないのですが、デデキントの実数の構成法、つまりデデキントの切断を思いあわせると「ははーん」という感じもします。というのも、デデキントにとって実数(仏:nombres réels)とは「作り出されるもの」であって「あらかじめそこに実在するもの」ではないのであってみれば、これはまさにラカンの「現実界 le réel」に属するものであって、それが「切断」という象徴的操作によってわれわれの蝕知しうるところとなる、という筋書きが容易に思いうかぶからです。
ラカンによれば、「現実」とはそのままではわれわれの蝕知しうるものではなく、乱暴に言うと、ちょうどカントの「物自体」が世界全体に広がったようなもので、そうしたそのままではわれわれの蝕知しうるものではない現実をわれわれは「言語」という象徴を通じて「間接的」にだけ捉えている、そういうふうに言われます。廣松渉がよくつかう比喩で言えば、われわれにとっての「現実」とはけっして外すことのできない色眼鏡を通したそれでしかありえない。そして、デデキントにとっての実数とは(デデキントの本意にやや背いて言えば)数直線上に「可能的」に(ラカンの語彙で言えば「想像的」に?)存在(あるいは「潜在」)するものを「切断」という操作によってわれわれの意識に上ってくるものであってみれば、ラカンがデデキントの切断を「わが意を得たり」とその理論構築にあたっていただいたのもうなずけるところです。
さらに、「妄想力」をたくましくして言えば、デデキントにおいて実数とは、なるほどたしかに「作り出されるもの Schöpfungen」ではあるのですが、ひとたびそれが作られると、今度はそれが(現実界としての?)数直線に作用して切断を「作り出す hervorbringen」(ここで、やや衒学的に、ふたつの「作り出す」にドイツ語を添えたのは、ひとつめの「作り出し」において言われる "schöpfen" は、神による創造についてもつかわれる一方、ふたつめの「作り出し」における "hervorbringen" は、「神による創造 Schöpfung はすでに済んでいて、それをわれわれがここ her われわれの眼前に vor 持ってくる bringen」というちがいを鮮明ならしめたかったからです)と言われるのと相同的に、われわれにとって直接的には蝕知不能な現実を「言語」というもので切断するや否や、今度はその言語が、(直接的には蝕知できないにもかかわらず「蝕知した」と「想像」(あるいは、端的に言えば、「誤認」)された)「現実」をぎゃくに規定しにかかると(ラカン的には)言えるわけです。
……と、まあ、大略このようなことをラカンはデデキント(の切断)について言ってるのではないかなあ、と思いました。(というか、この手のことにかんして書くと、カッコが乱舞しますね(というか、ぼくはこんなものを書いていないで博論を書くべき))
La Bibliothèque d'Ornicar? というのはラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールがやっていた叢書で、ゆえに、基本的にその手の(というのはつまり、ラカニアンな精神分析にかかわる)本を出していたことを考えると、そういう叢書からデデキントの訳本が出ていたというのはじゃっかん奇異に映らないでもないのですが、デデキントの実数の構成法、つまりデデキントの切断を思いあわせると「ははーん」という感じもします。というのも、デデキントにとって実数(仏:nombres réels)とは「作り出されるもの」であって「あらかじめそこに実在するもの」ではないのであってみれば、これはまさにラカンの「現実界 le réel」に属するものであって、それが「切断」という象徴的操作によってわれわれの蝕知しうるところとなる、という筋書きが容易に思いうかぶからです。
ラカンによれば、「現実」とはそのままではわれわれの蝕知しうるものではなく、乱暴に言うと、ちょうどカントの「物自体」が世界全体に広がったようなもので、そうしたそのままではわれわれの蝕知しうるものではない現実をわれわれは「言語」という象徴を通じて「間接的」にだけ捉えている、そういうふうに言われます。廣松渉がよくつかう比喩で言えば、われわれにとっての「現実」とはけっして外すことのできない色眼鏡を通したそれでしかありえない。そして、デデキントにとっての実数とは(デデキントの本意にやや背いて言えば)数直線上に「可能的」に(ラカンの語彙で言えば「想像的」に?)存在(あるいは「潜在」)するものを「切断」という操作によってわれわれの意識に上ってくるものであってみれば、ラカンがデデキントの切断を「わが意を得たり」とその理論構築にあたっていただいたのもうなずけるところです。
さらに、「妄想力」をたくましくして言えば、デデキントにおいて実数とは、なるほどたしかに「作り出されるもの Schöpfungen」ではあるのですが、ひとたびそれが作られると、今度はそれが(現実界としての?)数直線に作用して切断を「作り出す hervorbringen」(ここで、やや衒学的に、ふたつの「作り出す」にドイツ語を添えたのは、ひとつめの「作り出し」において言われる "schöpfen" は、神による創造についてもつかわれる一方、ふたつめの「作り出し」における "hervorbringen" は、「神による創造 Schöpfung はすでに済んでいて、それをわれわれがここ her われわれの眼前に vor 持ってくる bringen」というちがいを鮮明ならしめたかったからです)と言われるのと相同的に、われわれにとって直接的には蝕知不能な現実を「言語」というもので切断するや否や、今度はその言語が、(直接的には蝕知できないにもかかわらず「蝕知した」と「想像」(あるいは、端的に言えば、「誤認」)された)「現実」をぎゃくに規定しにかかると(ラカン的には)言えるわけです。
……と、まあ、大略このようなことをラカンはデデキント(の切断)について言ってるのではないかなあ、と思いました。(というか、この手のことにかんして書くと、カッコが乱舞しますね(というか、ぼくはこんなものを書いていないで博論を書くべき))
アリストテレスの『自然学』をローブ古典文庫で読みながら「おや?」と思ったところがある。とりあえず、その「おや?」と思ったところのギリシア語原文とその英訳を引用する。
果たして、アリストテレスが「連続である」ということについて深甚なまちがいをおかしているのか、それとも、ぼくのギリシア語解釈が深甚にだめなのか。どちらもありうるだけに、悩ましい。
(ギリシア語原文)上の英訳だけを読む分には、この「連続であること」についての記述はたんに『自然学』巻頭にあらわれる "every continuum is divisible without limit" の繰り返しであって、取り立ててあれこれ言うようなものでもない。ただ、そのギリシア語原文もあわせて読むと、「もしかしてアリストテレスは『連続である』ということについて、深甚なまちがいをおかしているのではないか?」という疑惑がわいてくる。というのも、ギリシア語原文で言われているのは、英訳で言われているような「連続なものは、際限なく分割可能できる」ということではなく、その逆、つまり「際限なく分割できるものは連続である」ということで、これは、非連続である有理数にも当てはまる(任意の二つの有理数のあいだにはかならず有理数が存在し(つまり、ある有理数と有理数のあいだでかならず分割可能)、そして、この言明の任意性により、そうした「二つの有理数のあいだ」は無限に存在する(つまり、有理数の集まりは無限に分割可能))ということからも分かるとおり、端的に偽であるからだ。この解釈が妥当と思われることを示すために、「連続なものは、際限なく分割できる」と言われている『自然学』第一書の該当部分を次に示す。
τὸ εἰς ἄπειρον διαιρετὸν συνεχὲς ὄν.
(その英訳)
the continuous is that which is susceptible of division without limit.
(ギリシア語原文)上にかかげた二つのギリシア語原文 "τὸ εἰς ἄπειρον διαιρετὸν συνεχὲς ὄν" と "εἰς ἄπειρον γὰρ διαιρετὸν τὸ συνεχές" とのあいだの決定的なちがいは、定冠詞 "τὸ" の位置だ。これは、初級ギリシア語講座のごくはじめのほうで習うことがらだと思うのだけど、「…は~である」という文章において、その主語「…」を示す表現には通常(それが固有名詞である場合ですら)定冠詞が付される。たとえば、二つの形容詞 "παῖς"(「若い」)と "καλός"(「見目うるわしい」)があたえられたとき、"ὁ παῖς καλός" は「その若者は見目うるわしい」を意味し(「定冠詞+形容詞」が「(形容詞)なもの・こと」を意味するのは、英語と同じ)"παῖς ὁ καλός" は「その見目うるわしいものは若い」を意味する。つまり、このことを考えあわせると、最初にかかげたギリシア語原文において「連続である」を意味する "συνεχὲς" には定冠詞が付いておらず、ぎゃくに、「際限なく分割できる」を意味する "εἰς ἄπειρον διαιρετὸν" には定冠詞が付いていることから、この文全体は「際限なく分割できるものは連続できる」と解釈するのが妥当なように思われる。
εἰς ἄπειρον γὰρ διαιρετὸν τὸ συνεχές.
(その英訳)
every continuum is divisible without limit.
果たして、アリストテレスが「連続である」ということについて深甚なまちがいをおかしているのか、それとも、ぼくのギリシア語解釈が深甚にだめなのか。どちらもありうるだけに、悩ましい。
今年の目標として「本に書きこみができるようになること」をかかげたわけですが、このたびめでたく目標を達成しました。
もっとも、「本に書きこみができるようになった」と言っても、それは「時間がなくてまとめのインデックス・カードをつくっていられない」という外的状況のしからしむるところなんで、本への書きこみが恒久的に「できるようになった」と言えるかどうかはきわめてあやしいところですが、ともあれ、いったん書きこんでみると、これがなかなかにおもしろく、それがゆえ読書もはかどるというご利益もあって、とりあえず満足しています。
もしかして、ぼくが博論のためにラテン語やらドイツ語やら、かならずしもすらすら読めるわけではない言語で書かれた文献を読むのに時間を費やしてしまうのは、書くことから逃れるためなのではないか、とふと思った。
もちろん、英訳が存在しないもの(たとえば、中世の数学にかんする書きものとか、カントールのいくつかの論文とか)については原典にあたらなければしようがないのだけど、たとえば純理なんかは信頼できる英訳(ケンブリッジ版)が存在するわけだし(アメリカの大学で出席していたカント・ゼミの先生が、「読みにくいけど精確」と言っていた)、何もフェリックス・マイナー版なんかを引っぱり出すことはない、とも思われる。
でも読むけどね。
もちろん、英訳が存在しないもの(たとえば、中世の数学にかんする書きものとか、カントールのいくつかの論文とか)については原典にあたらなければしようがないのだけど、たとえば純理なんかは信頼できる英訳(ケンブリッジ版)が存在するわけだし(アメリカの大学で出席していたカント・ゼミの先生が、「読みにくいけど精確」と言っていた)、何もフェリックス・マイナー版なんかを引っぱり出すことはない、とも思われる。
でも読むけどね。
このシリーズ、すごく攻めてる感じがする。
中世の文献を集中的に読みこんでいたときに書いた(中世とは関係のない)書きもののある部分について指導教官から "oddly scholastic" というコメントをもらったことがあるのだけど、いまちょうどパースを集中的に読んでいるので、中世のときの事例を考えると、現在書きすすめつつある(まさにパースにかんする)書きものの文体が(現代の非英語話者の目から見ると)やや破格なパースのそれに影響されている可能性が大きい。
博士論文執筆のため、中世の数学についての書きものと、そしてパースの書きものを集中的に読みこんでいる。前者にかんしては、英訳が存在しないものについては英訳をつくったり、後者にかんしては、パース著作集の巻数とパラグラフ番号を見ただけでそれがどの書きものかだいたい分かるようになったりと、なかなかの入れこみようなのだけど、とくにパースの書きものは、こういう機会でもなければこれほどがっつり読むこともなかったであろうので、めぐりあわせというのはじつにおもしろいものだなあと思う。
むずかしい本が好きだ。それは、むずかしい本があたえてくれる、さいしょは「うお、なにこれわからん」と圧倒されるばかりだったことがあれこれ考えたすえに「なるほど、そういうことだったのか!」と腑に落ちる瞬間の気持ちよさもさることながら、「うお、なにこれわからん」というわけのわからなさそのものがもたらす酩酊感によるところが大きい。
もっとも、むずしい本は、「うお、なにこれわからん」と思ったことをあれこれ考えたすえけっきょくは「なんだ、こんなつまらんことを言いたいがためにこんなくだくだしいもの言いをしていたのか」ということが判明してただ徒労感だけが残ることも多いのだけど、それもまたそれなりに「あはれ」なことではあるので、よいこととする。
もっとも、むずしい本は、「うお、なにこれわからん」と思ったことをあれこれ考えたすえけっきょくは「なんだ、こんなつまらんことを言いたいがためにこんなくだくだしいもの言いをしていたのか」ということが判明してただ徒労感だけが残ることも多いのだけど、それもまたそれなりに「あはれ」なことではあるので、よいこととする。
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