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抽象的対象について考えている。
抽象的対象とは、たとえば、「数」などの数学的存在、「ユニコーン」などの架空的存在、「愛」などの理念的存在、そんなものが含まれるが、これらはどういう存在位相を持つのか。
1個のリンゴや2個のミカンは存在するが、1や2は、それらリンゴやミカンが存在するようには存在しない。ユニコーンは、ある物語のなかでは、あたかも「存在する、かのごとく」書かれるが、じっさいには存在しない。愛は、誰かを愛する、というような動詞として現れる他なく、「愛」そのものを見たものはいない。
しかし、これらの1や2やユニコーンや愛が、何らかの仕方で存在しないとしたら、1個のリンゴや2個のミカンや飛翔するユニコーンや胸いっぱいの愛を語ることに何の意味があるのか? どういう在り方にせよ存在しないものは、意味も有するとは考えにくい。その場合、畢竟、1個のリンゴや2個のミカンや飛翔するユニコーンや胸いっぱいの愛も、何も意味しないことになる。だが、1個のリンゴや2個のミカンや飛翔するユニコーンや胸いっぱいの愛は、じゅうぶんに有意味なものとしてわれわれの前に立ち現れる。
そもそも、存在と意味、をつなげる挙措が、雑だと言えば言える。だが、その場合でも、それではその意味の源泉は、と問うことは意味を持つだろう。現実界に対応する存在を持たない何かは、いかに意味を獲得するのか。規約によって? それとも、何らかの抽象が行われた? いずれにせよ、そうした規約や抽象の結果が、何かに適応できることの根拠は何か。よく分からない。
彼はブッダとほぼ同時代人なんだよな、うん。
ブッダのパクリじゃないか!
とも思わせるところがあるんだよな、我々には。
具体的存在などと呼べるものは考えられるか?
「誰かが誰かを愛するという現象は、愛という物語(コンテクスト)の中で現われる。」
俺は誰か具体的な個人を愛したことがあるか?
(ない。一度も無い。)
>存在と意味、をつなげる挙措が、雑だと言えば言える。
この一文はよくわからない。
>>存在と意味、をつなげる挙措が、雑だと言えば言える。
>この一文はよくわからない。
についてですが、存在と意味をつなげているのは、ほんと、「万人が万人の勝手」に近い世界だと思いますよ。宮本さん。貴殿は、そこに普遍的な何かを見出そうといつもされているようですが、それは、貴殿が「流血革命を目指していると誤解される」、(・・・あるいは「意に反して、流血革命を目指す」???・・・)遠因だと思います。
まず、
>1個のリンゴや2個のミカンや飛翔するユニコーンや胸いっぱいの愛を語る
という問いの立て方自体が雑すぎるんでしょうね。きっと。
「今、簾万月の前のテーブルにまさにある 1個のリンゴは、いかなる意味を持つか」ってくらい、問いが具体的になれば、「1個のリンゴ」の意味は問えると思いますが、それは、もう抽象性を排除した「1個のリンゴ」です。
はやしさんには、抽象的事象を議論する場合、徹底的にあらゆる角度から、「こういう問いの立て方って、本当に、いいのだろうか」って検証される態度が大いに感じられます。
宮本さんには、その微塵のかけらも感じられない。
さらに、宮本さんが、「ぶっとんでいる」と私に感じられるのは
>(抽象的な)存在と意味、をつなげる挙措
にとどまらず、
何の吟味も無く
>(抽象的な)存在
だけを問いだしたりするところです。
それも「宮本さんにとって、すだれ満月という存在は何か」って具合性を排除して
「存在とはなにか」って、そういう問いで。
>1個のリンゴや2個のミカンや飛翔するユニコーンや胸いっぱいの愛は、じゅうぶんに有意味なものとしてわれわれの前に立ち現れる。
についてですが、結局、それは、
「簾満月」の前に立ち現れる、「はやしさん」の前に立ち現れる、「宮本さん」の前に立ち現れる・・・
のであって、普遍的な「われわれ」の前に立ち現れているわけではないと思います。
そう人が往々にして感じてしまうのは、
勝手に「簾満月」が、単に「簾満月」の前に立ち現れている問題を、
>「はやしさん」の前に立ち現れる、「宮本さん」の前に立ち現れる・・・
って、万人の問題にすり変えているんじゃ、ないでしょうか。
そういう行為は、酔っ払いが花見て酒のんで話をしているようなもんで、
結構、「はやしさん」や「宮本さん」には迷惑なことなのではないでしょうか?
>(ない。一度も無い。)
穿ちすぎかもしれませんが、宮本さんって、自分に酔っているだけで、本当に誰か具体的な個人を愛した経験がなくて、その所以に、私と全く正反対とも言える発想をもたれているのではないのでしょうか。
最近の諸々の書き込みを読んで、結構そういう感じを受けております。
「存在と意味をつなげる」というのは、「何かが存在すればそれは意味を持ち、また意味を持てば存在する」ということ。これは、素朴な直感としては、そして、たいていの場合成り立つことではあるけど、厳密に言えば偽だ。ただ、この議論も、このエントリで繰り広げようとしているおれの議論とは(とりあえず)関係がない。
いずれにせよ、宮本さんが相対主義的な、それも少しも面白みがなく通俗の極みとでも言える相対主義的な議論をしている、またはしようとしているのはよく分かった。「常識を疑え」とか「常識にとらわれずに」という、たぶん宮本さんにとっての金科玉条が、いかに常識的でそれにとらわれたものであるか、ということに無自覚であることもよく分かった。
あと、宮本さんが誰か具体的な個人を愛したことがあるかどうかなんて、ほんと死ぬほどどーでもいいことなんで、そういうことはご自分のブログか掲示板で言ってください。
「存在と意味、をつなげる挙措」は我々の欲望そのものだし、
「そうした規約や抽象の結果が、何かに適応できることの根拠は」我々の生そのものだ!
いや、これじゃだめだな…。
問いのほうをたてなおそう。
(じゃあ、ほんとに明日に。)
で、問いを立て直す、って、立て直しようはないと思うけどな。いいとこ、この問い(抽象的対象の存在位相)に触発された違う問いを提出、ってとこじゃない? まあ、なるだけオモロい問いを考えといてよ、夢のなかででも。
あと、ソフトウェア工学における「抽象的概念」って、いまひとつピンとこないんだけど、何のことだろ? それと、そもそも、「概念」と言っている時点で、それは定義上「抽象的」なものという気も。
人間、というか言語の普遍性ではないでしょうか。
すだれさんが書いているように、
>存在と意味をつなげているのは、ほんと、「万人が万人の勝手」に近い世界
というのはその通りで、その「解釈」が完全に重ねあわされることはないけれど、言語と同じく、不完全であるからこそ、コミュニケーションが成立する、という意味で必要な不完全さである、と。
言語的、関係的につくりあげられているこの世界で、抽象的対象は、それをそれとして承認する、了解する、伝承する、ということを続けていくことによって、成立している。で、それをそれとして、としか言いようがないのに、承認、了解、伝承ができるということは、逆に、個々バラバラな人間に共通、共同の「何か」が「ある」という事態を示している、と言えるのではないでしょうか。
また、不完全だからコミュニケーションが成立する、というのも、ちょっとおかしな物言いではないでしょうか。これが「成立する」ではなく「必要とされる」なら話は分かるのですが、ここでの関係は、コミュニケーションのために不完全さが要求される、と関係を逆転させているように思えます。コミュニケーションのために不完全さがあるわけではありません。不完全だから、それゆえにこそ、コミュニケーションなんていうかったるいものをしなければならないのです。
最後に、簾満月さんもけいこさんも、「意味と存在」というのを実体的に捉え、そしてけいこさんの場合、それの共通性ということを問題にしていますが、ぼくの関心はじつはそこにはありません。たとえ、たった一人にしか通用しない規約や抽象であっても、そのたった一人には通用するのはなぜなのか。ぼくが問いたいのは、そういうことです。
ついつい、大阪の中でも、特に品のない柄の悪い会社に毎日通っているせいで、品のない柄の悪い書き方が多い点はそれなりには反省しています。
ただ、私のここでの先の書き込みは、今回けいこさんの書いておられるお話とは何も関係のない話だと思われます。
そういう雑なことばかりしていていいのか? と、いつも通りの突っ込みを宮本さんにしているまでのことです。
けいこさんのおっしゃることは、私が宮本さんの考えを頭から拒否している(と・と・れ・る)ことを暗に諭してくださっているものと思っています。
そのお気持ちは、ありがたく頂戴いたします。
はやしさん
>現実界に対応する存在を持たない何かは、いかに意味を獲得するのか。
ここの意味を汲み取れずに書いていました。
シータさんとのやり取りで、意を理解できたきがしました。
・・・・・って、書こうと思っていたら、はやしさんのコメントが先に入っていますね。
私のコメントを全部直すのは、時間が足りないので、これにて ごめん。
コンピューターの操作ってとこから、対象の具現化にSF的な妄想も加味してトンでもに跳んでしまった。高解像偽験構造物とか…。
ここで考えていたのは、実在はしないが「ある」かのように語られる物事の中に、今は実在しないがもしかしたら「時空」とかの超越によってあるかも知れない対象を抽象的対象に含めてしまったわけで……。
で、>現実界に対応する存在を持たない何か が意味を持つのは、人の想像力によってイメージされた対象に何がしかの役割が背負わされた時に始めて意味を持つのではないかな。
ナンセンスなコメントすまぬ!退散!
で、おれが考えているのは、時空どころか、一般に想定されているような「無矛盾空間」さえも越え出るような対象についてで、たとえばそれは、エントリ「抽象対象や非在対象……」で駆け足にふれた、「丸い四角」というようないわゆる「マイノンギアンオブジェクト」なんかがそれにあたるんだけど、「丸い四角」なんてものは実在しないのは言うまでもなし、さらには、表象すらできないような対象ではあるけど、それじゃあ、「丸い四角」という表現は無意味か、と言ったら、そう言い切るには躊躇してしまうところがある。何がそれを「無意味」と捨て去ることを躊躇させるのか? それが知りたい。だから、シータさんが言ってるような「人の想像力によってイメージされた対象に何がしかの役割が背負わされた時」というのは、もちろんそういう場合もあるけど、それはあくまで「そういう場合もある」にとどまるものだ、と思うのだ。
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