[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「理系とか文系とか」のつづき。
まずは、上記エントリの最後に触れた、「法則から事実」という道行を採ると「トンデモ科学」か?についての補足。Iwatamさんはこうした「トンデモ科学」として「ゲームは脳に悪い」「マイナスイオンは体にいい」といった珍説を唱えるものを挙げるが、これはかような「法則」(普通の言い方で言うと、仮説)を立ててから事実に当てはまるかどうか検証するという方針を採ったから「トンデモ」というわけではなく、偏にその検証方法が杜撰で、しかも検証結果の評価が恣意的だったからに過ぎない。とりあえず仮説を立てて検証してみる、ということは理系の中でも日常茶飯に行われていることだろう。
さて、持ち越された宿題たる「理系と文系の扱う対象の違いに起因する方法論的差異」だが、「そんなもん、ない!」って言い切りたい思いが強い。文系・理系、どっちに起源を持つ方法論にせよ、使えるんだったらどっちで使ったっていいではないか、とも思うし、何より「何らかの対象の観察→その観察に基づいて仮説を立てる→その仮説を検証する」という基本路線に文系も理系も変わりない、と思うからだ。
じゃあ、なんだって「文系と理系の違い」が巷間にこうも喧伝されているのか?ということで振り出しに戻る。もう一回最初から考えてみよう。
ということで、「文系と理系の扱う対象の違い」に舞い戻ると、文系の対象には「人間」という項が不可避的に参入することも曲者なのではないか、という気がしてくる(もっと早くに気付けよ、ってかんじですか?)。というのも、文系の対象がかようなものであるとすれば、観察する主体と観察される客体との積集合は空ではないわけで(極端な場合には全く重なっている)、そうすると、論証などという七面倒くさいことをせずとも「内省」するだけでOK、という誤った(と私には思える)見方が出てきかねないわけだ。それと、「人間」という項が絡んでくるのと相即的に、文系の扱う対象というものは往々にして定性的である、という面もある。確かに、「内省」にしても、定性的なものに関する推論にしても、そこには恣意的な仮定や推測がというものが入り込みやすい。だが、それはあくまで「ダメな例」として「そういうこともある」ということだし、それを以って「だから文系ってのはさあ」となるのは行き過ぎだろう。とはいえ世間的には、「文系ってのは主観的な感性や想像力に頼ってる」というふうに解釈され、それが翻って「理系は論理的で理屈っぽい」という規定になった、ということだろうか?
……と、ここまで書いて、前のエントリともども見返してみると、われながらしょーもない、というか、何が言いたいんだよ、お前は、というかんじだな。大体、「理系と文系の区分けのほんとのところ」という話と「その巷間での捉えられ方」って話についても、「対象の差異」って話と「その対象の差異に起因する方法論の差異」って話についても、構成が悲惨なぐらいグダグダだし(まあ、構成しようって気もなかったけど、やっぱり構成したほうがいいねえ)。というわけで、まとめます。
- 文系と理系とは、どちらも学問である以上、論理的であることに変わりはありません。
- ただ、文系が考究する対象領域には「人間」という項が関わってきます。
- そうすると、その方法として「内省」という手が使えてしまうこともあります。
- また、その対象領域に「人間」が関わることと相即的に、その対象は定性的な様相を呈しがちです。
- 「内省」にしても、定性的なものに関する推論にしても、「感性」や「想像力」に頼った、恣意的な仮定や推論が紛れ込む危険が多分にあります。
- 以上のことから「文系=非論理的」という、巷間に溢れるイメージが生成されます。
って、まとまってるんだろうか?
ま、いいや。オシマイ(でも、つづくかも)。
文系と理系の違いとして私があげたのはまさにこの点、内省の有無です。そして、内省は別に悪いものではありません。理系の話に間違って使わない限りは。
逆に、文系の話に内省は必須であり、これを使わないと「人それぞれ」みたいな結論しか出なくなります。
トンデモ科学は証明のしかたも悪いかもしれませんが、そもそも出発点から悪いのです。理系の科学なら、データもとる前から「ゲームは脳に悪い」といってはいけないのです。「ゲームは脳にとってどうなんだろ?」と考えて、データをとって、そのデータを見てからしか仮説はたてられないはずなのです。
確かに、「ゲームは脳に悪い」という、結論先にありきで価値中立的ではない仮説はいかがなものか、と思いもしますが、やはり致命的なのは、上のエントリでも申しましたように、検証方法の杜撰さ、検証結果の評価の恣意性、に尽きると思います。いくらトンデモな仮説を立てても、妥当な検証方法や結果評価を経てその仮説成り立ち得ないことが分かれば、その仮説は捨てさるのが科学者として当然の振る舞いでしょう。
もし「脳に悪いとは脳波にベータ波が出ないことをいうのだ」と決めてしまえば、検証方法も妥当だし結果の評価も妥当です。問題は「脳に悪い」という言葉の定義の問題です。実験のしかたの問題ではないのです。
さて、Iwatamさんの書き方だと、「脳に悪い」ということの定義さえちゃんとしていればOKということになると思いますが、どうでしょう? さらにこの例だと、仮説に仮説を重ね、しかもその重ねられている仮説の検証方法や結果評価の妥当性に問題があった、とすることもできます。
ともあれ、これ以上この具体例にこだわるのはどうか、と思われます。「仮説を立て検証」型に「トンデモ科学」があったからといって、「仮説を立て検証」型の科学的探究を十把一絡げに否定するのは、やはり行き過ぎなのではないでしょうか?
「仮説を立てて検証」が悪いと言っているのではありません。仮説の立て方が悪いと言っているのです。自然現象を観察して仮説を立てるのではなく、内省から仮説を立てるのが悪いと言っているのです。
理系の方法論を使おうとするなら、そもそも「悪い」という言葉を使ってはいけないのです。だから逆に、「脳に悪い」ということの定義を「悪い」という言葉を使わずに定義できていればOKです。すると問題は言葉の定義になり、科学の問題ではなくなります。
だから、「検証方法や結果評価の妥当性に問題があった」ということにはなりません。「それはそもそも仮説になっていない」と言っているのです。仮説になっていないものに対して検証方法や結果評価をいくら言っても無駄なのです。
また、「言葉の定義」というのは「科学の問題」ではないのでしょうか? というより、「言葉の定義」というのは文系も理系もなく、学問においては等しく重要なものではないでしょうか? さらに、もしIwatamさんが、「言葉の定義」の問題は科学の問題ではない、ということで、「言葉の定義」の問題は文系的問題だ、ということを含意しているのであれば、「学問」と呼ばれているところのものは総て「文系」的なものとなるでしょう。何となれば、私たちは何かを伝えようとすれば、最終的に「言葉」に頼らざるを得ないのですから。
「トンデモ科学」と単なる「間違った科学」は別物であると(少なくとも私は)考えています。必要ならそれについて論じますが、必要でないなら論じません。もともとトンデモ科学は本筋ではありませんから。
また、「科学の問題ではない」というのは、検証方法や結果評価の問題ではない、という意味で使いました。誤解されたようなら訂正します。
なお、この一連のコメントの本筋は、あなたが「文系の方法も理系の方法も違いはない」という意見に対して「違いはある」という反論です。それをお忘れなきようお願いします。
このコメント欄でのやりとりの本筋が「文系と理系の方法間に差異はあるのか」ということに関するものであることはもちろん承知しております。そしてその違いとは、iwatamさんの元記事によれば「文系=仮説から事実へ」と「理系=事実から仮説へ」というもので、だからこそ私はこうも執拗に食い下がっているわけです。
繰り返しになりますが私の立場は、文系であろうと理系であろうと、基本は「何らかの対象を、内省という方法であれなんであれ観察し、その観察をもとに仮説を立て、そしてその仮説を検証する」という方法だろう、というものです。そして、この「内省」というのが文系的な学問ではある意味クリティカルな役割を担っている、ということは認めますが、さりとてそこから、iwatamさんが仰っているような文系と理系の間の「法則性と事実」の双対性は導出できないし、話が別だと思います。iwatamさんはこの2つのレヴェルを混ぜて話をしてしまっている。そこが問題だと思います。
そして、自然の観察の場合には、観察して得られるものは事実です。だから事実から仮説へという流れになります。
内省の場合には、得られるものは事実ではなく考え方です。だから、仮説から事実検証へという流れになります。
2つのレベルはまったく別のものではなく、お互いに関連しあっているものですから、当然混ぜて話をするはずのものです。
まずはひとつの事実から。
<a href="http
ゲーム脳は仮説も検証方法も結論もちっとも妥当ではありませんよ。
「内に省みる」ことと、「観て察する」こと。
どちらも同じ「みる」ことであって、
自己を対象化しないことには「省みる」ことはできませんから、
内省も観察も変わらないのではありませんか?
そして、「みる」ことによって考えがinspireされます。
それが文系だろうが理系だろうが、別に変わりはありません。
落下するリンゴを見たり、
通り過ぎる汽車をぼーっと眺めてみたり、
そういう観察から珠玉の「考え方」が生まれたこともあるのですが…。
斉藤環の「ゲーム脳」の記事、私も存じ上げておりました。斉藤環について、「この人自身『ト』なんじゃないの?」という偏見を持っていたので、この記事を読んで、「お、めちゃくちゃまともなこと言ってんじゃん」と感心した覚えがあります。
それで、まあ誤解されているということもないでしょうが、念のために申し上げておくと、私も「ゲーム脳」について、何から何までグダグダのボロボロだと思っております。ただ、そういう例があるからといって「まず仮説を立てて、然るのち検証」という道行を完全に封じてしまうのは、盥の水と一緒に赤子を捨ててしまうようなもの、と思います。
さて、ここからiwatamさんへの返答、とまいります。
iwatamさんの意見では、文系的な学は「内省->仮説->検証」という道行を、理系的な学は「観察->事実->仮説->検証」という道行を採る、ということになると思いますが、だとしたら私の申し上げている「観察->仮説->検証」一元論と変わらないのではないですか? あげさんも言われているように、「内省」と「観察」はどちらも「見る」ことであり、その「見る」ことを基に仮設を立て、そしてそれを検証する、という点に、やはり私はiwatamさんが言われるほどの違いを感じることができません。
そこでの違いは、観察(内省)と仮説の間に「事実」が挟まっているか否か、ですが、私はiwatamさんの言われるように、内省の結果、すぐ仮説(=考え方? ほんとはこの等号の成立についても疑義を持ちますが、今は措いておきましょう)が導かれる、とは思えないので、やはり内省の結果から(内省の結果がそのまま、ではなく)仮説を立てる、ということになり、結局理系と文系の方法は同じ、となります。
最後に、「内省/観察」と「法則性/事実」との関連は、「内省」を「観察」とは全然別物と見るiwatamさんの見方から導出されたものであり、「内省」と「観察」をそれほど別物だとは思わない私には、その2つの間に関連があるとは思えません。ですから「混ぜて話すのが当然」というのも分かりかねるわけです。
あなたは「文系も理系も方法論は変わらない」といい、私は「文系と理系は思考のスタートが異なる」といっています。とすると、お互いに反対のことを言っているわけではありません。
私も、方法論は同じだと思っています。ただ、観察のしかたが異なるといっているだけです。
ところで、理系の代表である「物理学」と文系の代表である「哲学」を比べると、明らかに別物のような気がするのですが、これらはどちらも同じですか?
「文系と理系は、方法論は同じだけど、観察の仕方が違う」、ということであれば、私も大いに賛成です。もし、私が「観察の仕方も変わらない」と主張しているように受け取られているのであれば、ここにそうではないことを改めて表明させていただきます。
それで、個々具体的な学問を考えれば、理系の物理学、文系の哲学、ということでなく、同じ理系内でも、その方法論、観察の方法は(「観察->仮説->検証」という大筋のスキームは変わらないにしても)変わってくると思います。ただ、物理学はともかく、「哲学」っていうのは、文系の「代表」かはさておき、理系内・文系内を問わずちょっと異質な学だとおもいます。もっとも、その「哲学」というものを、大陸系のそれとして主に思い浮かべるか、英米系のそれとして思い浮かべるかで、その「違い」の度合いも変わってくるでしょうが。
ちょっと時間が取れれば、コメント欄でad hocな回答、ということではなく、諸学問間の相同と差異、そして「内省」ということについて書いてみたい、とは思います。いつ書き上げられるか、ということについては全く保証できませんが……。
という感じで、iwatamさんの提出された問いかけに十全には答えられてはいませんが、まずは一応の「意見の一致」が見られたことを喜びたいと思います。もちろん、細かいツッコミも含めて、まだまだiwatamさんからの違和の表明は歓迎いたします。
それでは、また。
ついでに細かいツッコミをしておきます。
哲学というのは、私は文系の最右翼だと思っています。あまりにも右すぎて他の普通の文系的分野からかけ離れている(=代表とはいえない)というのはその通りですが。
同様に物理学も、最近の量子論なんかを見てるとかなり普通の理系的分野からかけ離れています。という意味で、「もっとも文系な分野」と「もっとも理系な分野」として挙げたつもりです。この2つを見比べると違いがはっきりするんではないかなぁ、と思います。
ただ、最近はペンローズとか人間原理のように、物理学をつきぬけたら哲学になってしまっているみたいですが。
収束したところすみませんが、「内省の有無」や「観察のしかた」が理系型と文系型の違いである、というのは私にはわかりませんでした。
ただ、自然科学と哲学であれば、自然科学はあくまでも現象からのみ法則性を見出すのに対して、哲学は「なぜそういう法則が在るのか」という不可知のことを追求するという違いがあるように思います。
ただ、科学はそもそも哲学のトンデモな部分を排除して、観測できるところから行こうよという態度に立脚しているんじゃないかと。なので、物理学(宇宙の起源)のように、究極の法則性を追求していった結果、「なぜ」に到達したというのは、自然な流れなのではないでしょうか。
もし哲学そのものをトンデモ呼ばわりするのであれば、それは理系の思考体系以外を認めないということです。
トンデモ科学の話も少し出てきましたが、現実とか観察といった言葉を出す時点で既に理系の思考体系を仮定しているわけです。
上での私のトンデモ科学批判批判もそうで、相手の思考体系を無視して自分の思考体系の中だけで話をし、それを絶対視しているからよくないのです。
「内省の有無」という「観察の仕方」の違いが、文理の違いを一意的に特徴付けている、とはもちろん思わないです。というか、「内省の有無」という話は措いといて、細かくその「観察の違い」を見ていけば、文理どころか文系なら文系、理系なら理系内でも観察の仕方は違ってくるだろうし、また翻って「内省の有無」に焦点を当ててみると、下手すれば「哲学」と「それ以外」って区分けにもなっちゃいかねないなあ、とかも思います。
何にせよ、私が考えてる文理の区分けは根っこの部分は、Wikipediaで言われてるような、「人間」という媒介項が参与するか否か、っていうまあ妥当っちゃ妥当、面白くもないっちゃ面白くもないものになります。で、そのことがしからしむる結果として、観察の仕方にも影響ないでもないよなあ、と思ってる、ということです。その観察の仕方の違いが「内省の有無」かどうかは別として。
あ、あと、makiさんは文理の違いを「数学を使う、使わない」で分けるのがよろしかろう、ってことですが、心理学とか経済学はいかが? まあ、経済学はsocial *science*なわけで、scienceだから数学使うんだよんってことですかね。経済学そのものも「理系ワナビー」な雰囲気はしたりもするし。
で、ついでのついでに言うと、ほんとのほんとのところでは、私は「文系と理系の違いなんてそーんなにないんじゃね? つか、どだってよくね?」と思ってるクチです。
とはいえやっぱり巷間での言われようってのも気になるしなあ、っていうエントリでした。
「哲学」ってものについてちょっと思うところもあるんですが、すいません、ちょっと時間がなくって、これ以上は書けそうもないです。
そういう訳で、私は参加できないかもしれませんが、もしiwatamさんとmakiさんの間で意見交換をするのであれば、気兼ねなくご自由にこの場を使ってくださいませ。
それでは。
iwatamさん、ツッコミありがとうございます。
>哲学の「トンデモな部分」とはどこを指すのでしょう?
例えば「万物は水に由来する」とかのことです。もちろん文脈は、「科学の由来は」ということであって、現在の哲学のことではありません。
>もし哲学そのものをトンデモ呼ばわりするのであれば、それは理系の思考体系以外を認めないということです。
>トンデモ科学の話も少し出てきましたが、現実とか観察といった言葉を出す時点で既に理系の思考体系を仮定しているわけです。
>上での私のトンデモ科学批判批判もそうで、相手の思考体系を無視して自分の思考体系の中だけで話をし、それを絶対視しているからよくないのです。
まず、ここでの文脈(理系対文系)で言えば、現実や観察は文系にもあると思います。
次に、私は哲学そのものや、哲学全てをトンデモ呼ばわりしていませんし、例え哲学ひとつを否定したからといって、それ以外全ての思考体系を否定したことにはなりません。
で、私の言説が「相手の思考体系を無視」して「自分の思考体系を絶対視」というからには、相当の根拠がなければならないと思いますが、それはどこですか?
iwatamさんの書き方を借りれば、相手の文脈を無視して自分の文脈だけで話をするからよくないのです。
(この議論が途絶えても何ら困らない、という点では「つか、どだってよくね?」です)
心理学や経済学は、世間では文系だと見なされていると感じます。私のイメージは、理系=数学を[メインで]使う[とイメージされている]学部=理学部か工学部の学生と卒業生、文系=それ以外、ですが、これは世間の文理のイメージを説明するための便宜上の定義であって、文理の境界線は私の定義に何ら影響されません。
人間が関与、ということだと、人間工学や環境工学は主体が人間、かつ理系ではないかと思いますが、どうですか?
蛇足ですが、工学は人間のためという理念があるので、工学は多かれ少なかれ人間に配慮したものになっています。
「トンデモ」「なにもかもでたらめ」とひとくくりにして片付けないで、どこが正しくどこが違っているのかを考える必要があります。
というのは、makiさんへの言葉ではなく、そのさらに前の方々への言葉です。
さて、理系と文系の話ですが、「人間が関与」ではなく「人間の心(精神)が関与」と書くともっとはっきりすると思うのですが、いかがでしょうか。
科学なのかトンデモなのかを隔てるものは蓋然性です。科学では反証や再現性のある実験によって実証を重ね、蓋然性を高めます。トンデモには蓋然性がありません。基本的に「そうかもしれない、そうしたい」を「そうに違いない」と同一視するのがトンデモです。
「万物は水に由来する」の主張のトンデモな部分は、最も細かい単位(アトム)が水かどうかの蓋然性を示せないところにあります。ただし、物体はどんどん細かくしていくことができる、というようなことは物体で試してみれば簡単にわかることなので、抽象化した「万物は見た目よりももっと細かいものからできている」という原則は蓋然性を持っています。私が「トンデモな部分もあるが科学の由来」と書いたのはそういうことです。
当時どうだったかは知りえません。iwatamさんは「当時はトンデモではなかった」としていますが、当時でも「じゃあ砂はどうなんだ」というツッコミに答えられなかった可能性はあるわけです。「当時はトンデモではなかった」というのは、当時の人間の判断力が低いという思い込みの上に書かれていると思います。
「ひとくくりにして片付けないで、どこが正しくどこが違っているのかを考える」というのはもちろんその通りです。しかし例えば私は「トンデモな部分を」と書いていますが、iwatamさんは「もし哲学そのものをトンデモ呼ばわりするのであれば」と、拡大してしまっています。
これでは議論はできないと思いますね。まあブログはエンターテイメントなので、議論できなくてもよいのですが。
私は、観察のしかたは文理で同じ、かつ、哲学は科学の礎なので究極的には哲学と物理は同じ、と考えています。「現実とか観察といった言葉を出す時点で既に理系」は、iwatamさんの最初のほうの言説の繰り返しだと思いますが、例えば「万物は水に由来する」では、水という現実を観察した上で命題を立てたと解釈するのが自然だと思います。私には内省から生まれたとは思えません。もしかして内省には特別な意味があって私が理解していないとしたら申し訳ありませんが。さらに、少し前では「観察のしかたが異なるだけ」とも書いていて、これは「観察が理系」に矛盾します。
で、「精神が大きな割合を占める」かどうかが文理をわける、というのは、まあ妥当かなと思います。
……と書き始めたら、コメント欄に載せるには少し長いかな、というものになってしまったので、「理系とか文系とか コメント欄への応答」という別エントリにしました。
という訳で、そのエントリでは全く触れられなかった細かい点について応答したい、と思います。
まずはmakiさんが言われた、「そもそも文理は俗語で、対象学問の内容ではないというのが私のスタンスです。雑談として楽しんでます。つまり遊びですが、私は遊びは一生懸命やるものと考えています」という部分、概ね同意です。「概ね」というのは、私も文系・理系という区別はそれほど実効性がある区分けだとは思わないが、ゆるい意味でまあ分けられる、程度には考えているからです。(関係ないですが「遊びは一生懸命やるもの」というところ、私も常々そう考えています)
そのことを確認したうえで、私が投げた「心理学も経済学も数学を使うが、この学問の身分如何?」という質問に対するmakiさんの答えに関しても、こういう質問をしといておかしな話だ、と思われるかもしれませんが、同感です。
そもそもからして、文系・理系という学問の分け方の有効性・実効性自体、疑っている、というか、ムリがある、と思っているので、何であれ何かを文系理系どっちかに分けろ、と言われた場合、あくまで「世間的には」をつけた上で、「強いて言えばこっち」程度の分けしかできない、と思います。しかるに、makiさんの「じゃあ、人間工学とか環境工学は?」との質問に対する答えは、「やっぱ世間的には『工学』、ゆえに理系でしょ」というものになります(って、答えになってるでしょうか?)。
次にiwatamさんが言われた、「理系と文系の話ですが、『人間が関与』ではなく『人間の心(精神)が関与』と書くともっとはっきりすると思う」の部分、およびmakiさんが言われた「『精神が大きな割合を占める』かどうかが文理をわける」の部分、私も妥当である、と思います。
「『トンデモ』『なにもかもでたらめ』とひとくくりにして片付けないで、どこが正しくどこが違っているのかを考える必要があります。/というのは、makiさんへの言葉ではなく、そのさらに前の方々への言葉です。』とのことですが、これは文意からやはり、「前の方々」には私も入っているんですよね? このように言われたわけは、私が「ゲーム脳」について「何もかもグダグダ」と言ったからでしょうが、やはり「観察はかくかくしかじかだからダメ、仮説の立て方もかくかくしかじかだからダメ、検証もかくかくしかじかだからダメ」というふうに言わないとダメ、ということでしょうか?
「哲学そのものをトンデモ呼ばわりするのであれば、それは理系の思考体系以外を認めないということ」、および「現実とか観察といった言葉を出す時点で既に理系の思考体系を仮定している」ということについては、makiさんと疑義を同じくします。また「思考体系」とiwatamさんが言われる場合、それが実際のところ何を意味しているのかイマイチよく分からないのですが、この点についてはいかがでしょう?
と、何やら質問だらけになってしまいましたが(おまけに、このコメントも充分長い)、私の大筋の考えは別エントリに書いてある、ということでご寛恕ください。
1)私は、文系/理系はデジタルに1/0でわかれるものではないと思っています。両方とも何%かずつ含んでいる、という解釈がよいのではないでしょうか?
2) 「反証」や「蓋然性」は人間の精神がからんでくると非常に難しい問題で、これらを100%保証するのは実質的に不可能です。つまり、書いてあることはすべて「そうかもしれない」と読むべきであり、少なくとも「私はそうに違いないと思っている」と読むべきであり、「そうに違いない」と読んではいけないということです。
なお、「万物は水である」は、水が生命の源であり木々や動植物を育てるというところからきています(今となっては想像しかできませんが)。だから、「万物は砂である」とは違ってそれなりの理由があります。
2.5) 理系/文系で分けるなら、タレスは理系でしょう。ソクラテスは文系でしょう。未分化な当時の学問を理系と文系にわけることができるとしての話ですが。(というわけで、タレスとソクラテスを分けるはやしさんの考察はぴったりだと思います)
3) 「何もかもダメ」というのは間違いです。なぜなら、本当に何もかもダメなわけではなく、ダメではない部分もあるからです。(例えば、日本語の使い方は正しい、というような意味でです)
だから、ダメな部分を全部挙げるか、「ダメ」とだけ言って「ダメな部分を全部挙げることもできますが面倒だからやりません」と言うかのどちらかでないといけません。
(そしてついでに言えば、わざわざ全部挙げるのは労力の無駄です。ダメなものにそんなに労力を費やす必要はありません)
4)細かい話ですが、私は「もし○○であれば」と書いたのですから、○○でなければ文のそれ以降はすべて無視してかまいません。「AならばB」という文は、Aでないときについては何も言っていません。
(a)「万物は水に由来する」そのものについては、私の理解が足りませんでした。
(b)ただし「トンデモな部分」云々は大筋では間違っていなかったと考えています。
より正確に表現すれば、「科学技術はそもそも哲学の不可知な部分を排除して…」であり、「物理学が哲学に回帰するのは自然な流れ」となります。
(c)iwatam氏の(2)と(3)は意図が不明です。
そうかもしれないしそうでないかもしれない、というのは蓋然性は不要だというのと等しく、馬鹿にしているのだと解釈しておきます。
私ははやし氏の次のエントリを引き出したので満足していて、ぶっちゃけiwatam氏は頭が悪いか、意図的な誤読をしていると思っていますが、こう書いても、私がそう思っているかもしれないしそう思っていないと解釈してもらえるのではないかと思います。
まずはiwatamさんからの回答について。
1)については私も世間知的な意味合いではそう思います。「世間知的な意味合いでは」とわざわざ断ったのは、何度か申し上げているように、私はそもそも「文系/理系」という区分けを有意なもの、そして有意義なものとして受け取っていないからです。
2)については、確かに「哲学的」には「反証」、「蓋然性」、そしてさらには「因果関係」というものは問題となるところのものであり、仰ることは分かるのですが、ちょっと話のスコープを拡げすぎなのではないでしょうか? ゆえに、「分かり」はしますが、同意はできません。
3)についても2)と同様、「何もかも」という全称子のスコープを広く取りすぎているゆえに、「屁理屈」と呼んでもいいものになってしまっている、と思います。また、「何もかもダメ」と言う場合、そのダメなところをすべて挙げるか、「ダメな部分を全部挙げることもできますが面倒だからやりません」と言うか、のどちらかでないとダメとのことですが、そのように「何もかもダメ」と言われたコンテキストから充分にその「ダメさ加減」が推察可能な場合、「何もかもダメ」と言い切るのはアリなのではないでしょうか? もっとも、対話者から、「何もかもダメとは?」と借問された場合、答えられる必要があるので、「ダメな部分を全部挙げることもできますが面倒だからやりません」と言わずともそうした意味は「何もかもダメ」とだけ言う場合も含意されている、と思います。
4)で言われている"if p, then q"というimplicationの場合、もちろん前件が否定されれば、後件の真偽の如何を問わずこの命題は真となるわけですが、文脈を考えると、iwatamさんは前件も真として話を進めているわけですから「無視する」と言うわけにはいかず、ゆえにその含意が成り立つわけを訊ねているのです。また、iwatamさんが言われていた命題の対偶を取ると「理系の思考体系以外を認めるなら、哲学そのものをトンデモ呼ばわりしない」、「理系の思考体系を仮定しないのなら、現実とか観察といった言葉は出さない」となり、どちらも前件を認めても、後件の真偽については何とも言えないので、元の命題に関しても「その命題自体、おかしいのではないか?」と申し上げているわけです。
makiさんから頂いたコメントの(b)について。私は別エントリで「万物は水からなる」ということに関して、それを「トンデモ」と言うのはちと言い過ぎではないか?ということを書いたのですが、書いたあと読み返してみると「トンデモではない」と言っている論拠が論拠になっていないことに気付き、「あれーおかしいなー」状態なのですが、「万物は水からなる」はトンデモ、ということを認めるには、何かちょっと引っ掛かりがあるので、もう少し考えてみます。もちろん、念のために言っておけば、「タレスは今日的意味合いで言っても科学者だった」と言うことを言いたいわけではありません。
あと、makiさんのコメントの(c)の「バカ」についてですが、私も「ちょっとそれは屁理屈なんでないかい?」とは思うところがあれど、「バカ」は言い過ぎなのではなかろうかと……。
別エントリ「理系とか文系とか コメント欄への応答」についても、疑問点などなどありましたら、あっちのコメント欄にでも書込んでくださるとうれしいです。
それでは。
『書いてあることはすべて「そうかもしれない」と読むべき』『本当に何もかもダメなわけではなく、ダメではない部分もある』というのは私からすると「それを言っちゃあ、おしめえよ」です。
良い方向に解釈したいのはやまやまですが、iwatam氏の(4)なんて、文脈を無視してますよという指摘に対して、論理学を知らないだろうから教えてあげるよ、という応答なわけで、小馬鹿にしているという以外の解釈は困難です。なので、おつきあいしてみました。
iwatam氏は、(iwatam氏が定義するところの)理系の思考体系で行うべき議論を文系の思考体系で行うとどうなるのか、という壮大なネタを披露しているのではないかというのが、このコメント全体を通しての私の感想です。
はやし氏のように(2)と(3)をスコープの問題、(4)を命題の対偶の証明とすれば非常に明快です。クレバーですね。
わかっているつもりでもきちんとした文章を書けていないなと痛感しました。
まずお詫びしなければいけないのですが、私の前のコメントにおいて、makiさんの言葉を誤読、というか、「頭が悪い」という表現を勝手に「バカ」と脳内変換して書いてしまいました。ゆえに、makiさんとしては、私がmakiさんの「馬鹿にしている」という表現に問題を感じている、と解釈され、その点について細かく説明してくださったのですが、私もmakiさんが「馬鹿にしている」と感じている部分については問題なしとは思えず、ただ私としてはiwatamさんは「馬鹿にしている」のではなく、本当にそう考えていると思ったので、あのような泥臭いコメント、となったわけです。
ただ、勝手な「脳内変換」をしてしまったとはいえ、「頭が悪い」というような発言も、もちろん私はmakiさん流のちょっといじわるな「遊び」の発現として受け取っているのですが、そのメッセージの受け手としては、そういうplayfulな側面を捨象し、「頭が悪い」という文言そのものに「カチン」とする場合もあるので……って、別に私が気を揉むことではないか。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
音
雑
虫
技術
『スペクタクルの社会』を読む
ドゥルーズ講義録
電波
趣味の数学
趣味のゲーデル
『プリンキピア・マテマティカ』を読む
自己紹介もどき
ブログペット俳句
芸術一般
言語ヲタ
お客様
GRE CS
留学
Boing Boing
映画
ちょっといい話
かなりダメな話
魂の叫び
哲学と数学
論文
引用
「いい」とも「ダメ」とも言いがたい話
悲喜こもごも
証明論
ポエム
書物への呪詛
言わずもがななことではあるけれどときに忘れてしまうこと
何か無駄なことをしよう
日々
趣味の勉強
夢
ブログの記事
翻訳
勉強
不眠
文房具
ライフハック
育児
thayashi#ucalgary.ca
(#を@に置換してください)
このブログで紹介したことのある本をランダム表示。
このブログで紹介したことのある音をランダム表示。