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だって、メチャクチャ肯定してるもん。(このエントリは、bookloverさんのエントリ「NEETに対して肯定? 否定? おいらの立場を説明し忘れていた。」に対する応答として書かれました)
ただ、言わんとしていることは分からなくもないんだよね。その「分からなくもない」という微妙な物言いの拠って来るところを、少し。
まず、「ニート」を語るにも、その語る主体がニートである場合と非ニートである場合とでスタンスの取り方が変わってくると思うんだよね。で、語る主体が非ニートの場合、それに対しては「そんな大騒ぎするほどのことでもないし、放っとけば?」っていう「距離を置くことのススメ」をするのが妥当だと思うし、現に「ニートを肯定する」では非ニートに対してはそう使嗾している。
これが、語る主体自体がニートである場合、事情はちょっと異なってきて、あくまで自己肯定する方向で進んだほうがいいと思うんだよな。それというのも、まああんまり根拠のない言いっ放しであることは重々承知してはいるんだけれども、「そんなウジウジしてんだったら、とりあえず認めちゃえば?」という、セラピーチックな思惑が(とりあえずは)あるからでもあるし、おれの個人的興味から、「これをアウトノミアやらシチュアシオニストに繋げないかな」とあらぬ入れ知恵をしているという面もある。つか、そういう面がでかい。まあ、無責任な祭り好き、ってやつですよ。でも「責任」なんてさ、デリダ的な「責任=応答可能性 responsabilité」みたいな厄介なのを持ち出されると「うーん」ってなっちゃうけど、とりあえずはどうでもよくない? 少なくともおれは、「責任」などないかのような身振りを努めてしてきたいな。あ、全然関係ない話だな。そうでもないか。
で、以上を踏まえた上で焦点となるのは、やっぱり微視的権力に対してどう振舞うか?ってことになってくると思うんだよね。bookloverさんが言っている、「ニート」ってのは微視的権力が囲い込みをした結果だ、っていう点についてほぼ依存はないんだけど、それに対してどうするか?ってことについて、「距離を置く」だけじゃあ、どうしようもないと思うな。そういうおれも、上記のように「ニートを肯定する」で、非ニートの語る主体に対しては「距離を置く」方向で話を進めちゃってるからあんまり大きなことも言えないんだけど、微視的権力が囲い込む「ニート」であろうとなかろうと「『ニート』なんてもんはないんだ!」という方向に話をもってくのが、まあ筋ってもんでしょ。でも、おれの場合、そこまで強弁するのはなあ、ということもあるし、ここはちょっとガタリ的に攻めてった方がいいんでないかい、という想いもあって、非ニートはとりあえず「距離を置いて」見ていただいといて、当のニートたちに「ニートはニートのままでOK」ってな道筋を考えてみようよ、って促したわけなんだよね。
確かに「ニートを肯定する」には、まずもって「ニート」が存在しないことには話にならないわけで、その存在を認めかつ肯定している、ということは、その微視的権力と同じ土俵に上っちゃってるじゃんか、ってのはそうなんだけど、じゃあ放っておきゃいいのか?っつーと、それはその微視的権力をそのまま手付かずの温存しちゃうのは目に見えてるわけで、bookloverさんの他のエントリとかも併せて考えると、それでいいの?って感想を持たざるを得ないんだよな。
それと、まあこれは本質的な問題ではないんで「付け足しにちょっとお訊ね」ってかんじだけど、「距離を置く」ってことに関して出された「選挙」の話、これどうなのかなあ。というのも、「選挙に行かない」ってのは「政治に関する代表権の移譲方法や、そもそもの代表民主制に対する疑義」ということの現われであって、それとは別に「政治」というものが厳として存在することは認める、っていう「政治」に対する「距離の置き方」ってことでしょ? で、「ニート」に関して「距離を置く」ってのは、それがあくまで微視的権力が生み出したものであるから、極端な立場を採れば「『ニート』なる存在位相を認めるな!」、少なくとも「『ニート』というものに関して肯定やら否定やらの価値判断はするな!」ってことだろうけど、これ、おれの中でうまく「選挙」の話のスキームと対応関係がつけられないんだよね。だって、「選挙」の話のスキームを「ニート」に関して適応すると、「『ニート』に関する価値判断は下さない」ってのは「『ニート』なるものを囲い込みの結果として生み出す微視的権力に対する疑義」ということの現われであって、微視的権力が「ニート」として囲い込む現象が存在することは認める、ってことになると思うんだ、全体の流れから言って。でも、それって「距離は置いてる」のかもしれないけど、結局「ニート」を囲い込む「微視的権力」を認めちゃってない?って思うんだな(可能性として、微視的権力が「ニート」として囲い込む現象、ってのは形式的に呼ばれるそれであって、とりあえず微視的権力は関係ない、という読みもあるけど、それではいかにもdeus ex machinaって感じがするし)。ここのところ、どうでしょ?
あー思いのほか長くなっちゃった。「少し」でもなんでもないね。ま、長文失礼、ってことで。
私もあるblogで「ニートという社会状態」という言葉を見かけて「ニート」ってのは社会状態から洩れ落ちているもの、本質的に「社会状態」の外にある存在なんじゃないのかと思いました。はやしさんの言われる通り、「外」を「ニート」と名付けることによって、外を内に包含してしまうのが「微視的権力」の機能でしょう。既にニートを巡る言説がここまで増大したというのは、その二次的な(?)微視的権力が上手く作動していることの証拠ですよね? そうだとしたら「ニートという存在位相はない」とはもはや戦略的にでも言うのは難しいんじゃないかと思います(阿呆だと思われます)。「微視的権力が「ニート」として囲い込む現象が存在することは認める」のはもはや不可避で、むしろ確信的に「同じ土俵」に上がってウィルスでも何でも(笑)バラ撒くほうが可能性があるのではないかと私は考えています。
横槍入れてすみませんでした。
3冊併読、いいですねえ。しかも、そのラインナップがいい。おれも、人文系・社会科学系・自然科学系と3分野の本を出来るだけ併読するようにしているので、bookloverさんもそのクチか?と思った。
それじゃ、読書をお楽しみください。
ご指摘のように、「ニートという存在位相」を端的に否定し去るのは、困難でもあり、滑稽ですらあるでしょう。しかし、当エントリでも書いているように、「『ニート』なんてものはないんだ!」という方向に話をもっていくことは充分に可能である、と思われます。それに際しての手続きはいろいろ考えられますが、「ニート」を囲い込む微視的権力が拠って立つところを攻撃する、という手が常套でしょう。
「むしろ確信的に「同じ土俵」に上がってウィルスでも何でも(笑)バラ撒く」ってのはもう、まさに私が採っている手で、かような手段に伴う危険というのは重々承知しているつもりですが、何分堪え性がないもので、突進して行っちまいます。
ってなわけで、今後も何かあれば横槍を大いに入れてください。
コメント、ありがとうございました。
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