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「最低ラインの音楽」と言った場合、それは、1)「音楽」としての成立要件ギリギリのところで成り立っている音楽、2)「音楽」の評価が仮想的にではあれ序列付けできるとして、その「最低ライン」にある音楽、のいずれかを意味する、ととりあえず考えられるが、おれが今考えているのは、そのどちらでもなく、かつどちらでもあるという「最低ラインの音楽」のことだ。
音楽というものは往々にして、その楽曲の良し悪しというものがそれを演奏する技術力に比例する、つまり、良い曲を演奏するのは難しいものだったりする。だが、低い技術力でもその水準に見合った、というか、そうした低い技術力でしかなしえないような「良い楽曲」というものがあるのではないか? そういう、「低い技術力」でしか作られ得ないような「良い楽曲」を、ここでは「最低ラインの楽曲」と呼びたい。
たとえば、ディス・ヒートという、ある意味「奇跡」のようなバンド(と呼ぶのも何となく抵抗があるのだが、とりあえず)がいたのだが、こいつらは3人中1人しかまともに楽器が出来なかったはずだ。それでも、というか、それゆえに、彼らが出す音は素晴らしい。本当に、素晴らしい。
高い技術力というのは、ともすればそのこと自体に自足しがちであり、本来的な位相での「楽曲の良し悪し」というものをどこかに置き去りにしがちである。反面、低い技術力は、「演奏」ということ以外の音楽における構成要素に比重を置く。そして、その「演奏以外の構成要素」の「楽曲の良し悪し」に対する寄与というのは、下手をすれば演奏の技術力よりも多い。
確かに、そうした「低い技術力」によって作られた「良い楽曲」というのは、反語的に「良い」と評されるようなスカミックなものか、ギミックの集積であったりする。もちろん、そういうスカムミュージックやギミックの集積も、個人的には好きであり、最大限肯定的に評価もするのだが、やはりそこに留まっていては面白くない。
そうではなく、技術力が低かろうが高かろうが、「表現する」という、脅迫的と言ってもいいプライマリインスティンクトがまずあり、そして、「そうとしか出来ない」という必然で発せられる音、言うなれば音楽に化体したアール・ブリュが聴きたいのだ。
……そういう考えのもと、昔日に「楽器が弾けないこと」を唯一の要件としてバンドのメンバー募集をしたのだが、誰一人としてこのコンセプトに食いつく人はいなかった。今もなお、ちょっと実現してみたいことではある。だが、そもそも、そのメンバー募集をかましたときからして、おれは楽器が弾けてしまうのであった……。
でも同じ連続する音でも、バスの座席で後ろの席の人がガムを噛む音には不快感を感じる。単純に考えればただの「音」なのに、快、不快を瞬間に感知してしまうのは、そのイマージュから来るものなのか?
乱暴な論であるとあえて承知で書いてしまうけど「言葉による文章」も「音からなる音楽」も「色彩からなる絵画」もその構成によって表れたものの背後にあるのは「波動」(他に置き換える言葉が見つからないので、この言葉を使うけど)なのではないかなと思う。
で、楽器のみならずテクニックを要する表現において、テクニックよりも、それ以前に探ってしまうのが、その表現者の「センス」なんだけど、それが一般受けするかどうかは、センスの良し悪しとはカンケー無いのよね。
それで、「波動」(ヴァイブレーション、ってやつでさあね)とか「センス」とか、シータさんの言っていることも分かるんだけど、おれは音楽の9割9分が技術的で定量化可能の部分で決定される。もちろん、ここで言う「技術的」ってのは、その巧拙を云々するものではなく、それこそこのエントリで書いたような「技術」なんだけど。ま、その上で、そうした「おっ」と思わせるように音を配置するその手管が「センス」というものだ、ということなんだけど。
だから、おれにとってシータさんの言う「波動」や「センス」というものは、「表れたものの背後にある」のではなく、まさにその「表れたもの」の現れ方に顕在しているのです。
で、何でピアニカいやなの? いいじゃない、ピアニカ(そういや、ピアニカ前田って今どうしてるのかなあ)。
―「波動」や「センス」というものは、「表れたものの背後にある」のではなく、まさにその「表れたもの」の現れ方に顕在している。
は、そうだな……。
万年筆を見て、「青い、すらっとしたもの」を見、次に「棒のようなもの」を認め、「何かの道具らしい」と考え、「何か字を書くための物」を知り、こうした解釈の積み重ねで、最後に「本質」を掴んで「万年筆」である。「それもカッコよくてセンスがいい万年筆」といった認知の方法はとっていないね。
表裏一体だ。というか全ての作業を一瞬にして行っている。で、さらにしつこく言えば、この一瞬の認識の「伝達」に興味がそそられる。
そして「音楽」だけど、「音」って「聴く」と同時に「見る」こともしてるかなァと思う。
楽器は、ピアノはバイエルで挫折。この前、インドの空港で、ちっちゃいタブラみたいな太鼓を叩いてる人がいて、それがすごくいい音だった。なので、今度、楽器も見てくる。
ただ笑うばかりであります。
それから、太鼓は太鼓でも、小生の場合は、専門は腹づつみでありまして、結構いい音がすると自負しております。
はやしさん、先日、多忙の鬱憤晴らしに1時間だけ、家内とカラオケに行ったのですが、少なくとも「communication breakdown」は、かの、かの、かの、ロバートプラントよりも、いい感じで歌えているという評を得ました。
「俺がLed Zeppelinのボーカルだったら、不動の世界一のロックバンドになれたであろう」と言ったら、「アホ」で おしまいでしたが。
で、ボーカル兼腹づつみ ということでよろしく。
腹をぽんぽんたたいて、「あああーーーーーーーーあ」って言いながら「移民の歌」なんか歌おうものなら、こりゃ、完全に宴会芸の世界ですなあ。
で、「音」を「聴く」と同時に「視る」という視点、これは象徴主義的な見方? それとも、いわゆる「共感覚者」が感じるような、そういう感じ方が、ある場合には妥当する、ということかな? おれは限りなく無粋な人間なんで、そう聞くと、音楽を聴いている人のオシロを取って、視覚野の動きとか確かめてみたいなあ、と思ってしまうのだけれど。
つわけで、シータさんはその打楽器でジャムセッション参加、ということで。
で、おれはピアノ、「指いじめ」のハノンで止まっちまってます。
それはそうと、「聞いたことがない曲は、絶対に歌えない」って、普通そうじゃないですか?
あと、決定的弱点は、聞いたことがない曲は、絶対に歌えないことです。
それでも、SMAPよりは絶対に上手いと思いますし、また、メジャーデビューしている日本の若いお兄ちゃんがやっているバンドのほとんどのボーカルより、「まし」である自信はありますが、でもね、まだまだ、AIKOには全然勝てない、勝てない、そんなレベルです。
ところで、J−POPなるもの、なんで、男のボーカルにあれだけ音痴らしき人が多くて、女性には結構上手い人が多いのかとても不思議ですね。男と女の平均値が、これだけ違う世界もめずらしいと思います。
中島美嘉・・・たまには笑え
小柳ユキ・・・上手いのだから、早く復活してくれ! 18歳で30歳の貫禄を、また、見せてくれ(今なら、23歳で40歳の貫禄か?)
AIKO、持田香織・・・あんな無茶な発声してたから、喉つぶして、昔の歌がちゃんと歌えんだろう。
って、また文句を書いていますが、皆さんそれなりにお上手だと思います。
「やや灰色、主な色調が三つ乃至五つ、その配置がリズミックにもしくは対位法的におこなわれている―――遁走曲へのアナロジー」
といった〈共感覚〉は、よく解る。なぜかって言うと、本を読むときも頭の中では、書かれている事が、パラパラパラと三次元のイメージとして立ち上がってくるから。
言葉も読むと同時に視ている。但し、本の場合は「視易い」本と、「視難い」本がある。
日常意識=感覚が、「本質」認知の上に成り立つといった関連を考えても、その「認知」にはすごく興味がある。
それはともかく、「日常意識=感覚が、『本質』認知の上に成り立つといった関連を考えても、その『認知』にはすごく興味がある」というくだり、やや分かりづらし。俄かには認められないような前提がここに持ち込まれているように思うのだけど、如何?
にしても、「日常意識=感覚が、『本質』認知の上に成り立つといった関連を考えても、その『認知』にはすごく興味がある」という記述は「分かりづらい」ものとしておれには立ち現れてしまう。
で、その「分かりづらさ」をパラフレーズすると、1)「日常意識=感覚」がその上に成り立つ、と言われているところの「『本質』認知」というのが何なのか、分からない、2)その上で、「その『認知』」と呼ばれているものの内実がはっきりしない(言語情報から視覚情報を「連想」する、といった、そういう「認知」のこと?)、って感じで、要は、1での「『本質』認知」ってのが躓きの元、かな。
何故なら、サンボリストが作品に対して述べている「共感覚」に纏わる発言や体験というものは、特殊なこととは、捉えていなかったので、はやしさんのコメントで「共感覚者」と括られる「感覚」であることをさっき、調べて初めて知った。
つまり、分かりづらいと書かれたくだりの文章は、共感覚=日常意識=感覚を前提としてだったのだが、ちょっと今ビックリしてしまっているところなので、頭が整理されるまで、ちょっと待ってね。
さらに突っ込んで調べてみると、はやしさんが、「象徴主義的なそれ」と「共感覚者的なそれ」と何故分けたのかが、分かった。でもって、何故、「脳」を出してきたかも。
で、「『本質』認知」に関しては、井筒さんの記述を引用すると――われわれの日常意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の構造自体の中に、それの最も基礎的な部分としてそれは組み込まれている。――とある。「認知」という言葉は、「「本質」を感覚によってどのように「捉える」のかという仕組みに私は興味がある。」という意味合いであったのだけど、言葉足らずだよね。
今回ひとつ、おべんきょうになったのは、「言葉」の意味を明確に知らないと、その解釈がトンチンカンな方向に向ってしまうという事。それで、思い出したのが、この前はやしさんが、似顔絵を描こうとした時に、その人物の顔のパーツを正確に思い出そうとして、それを組み合わせようとしてた姿。(笑)
シータさんも言うように、ある解釈主体内で「言葉の意味」を明確に知っている、というセマンティカルな知識も重要だけど、ある言葉が「どう運用されるか」ということについてのプラグマティカルな知識、というか、コンセンサスも必須、だよね。たとえば、問題の「共感覚」という言葉であれば、その語感からいかにも「共通(共有)感覚」という意味合いが感じ取られてしまうわけだから。
それで、「本質認知」の話だけど、おれはまず、「日常意識(の働き)」がそうした「本質認知」の上に成り立っている、ということ自体、よく分からない。というのもそれは、「自明」と言うには程遠く、幾重かの論証を経て初めて、「そうかも」というレヴェルにやっと辿り着ける、といったものだから。それにはまず、「本質認知」の、それこそ「本質」を、そして、「そもそも本質とは何か」ということを問題とせざるを得ず……ちょっと俄かに処理できる問題とは思えない……ので、シータさんの『意識と本質』の読書メモの進捗を俟ってからの応答、ということにしましょう。
で、最後の「逸話」、なかなか皮肉なアレゴリーになっているような……あ、もちろん、シータさんが「皮肉」を言っている、ということではさらさらなく。
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