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ドゥルーズはその最晩年、『マルクスの偉大さLa grandeur de Marx 』という本を書こうとしていた/書いていた、と言われる。というか、自らディディエ・エリボンにそう語っている(Deux régimes de fous 所収のインタヴュ参照。邦訳は『狂人の二つの体制』下巻、かな。12月26日追記:何か、『狂人の二つの体制』にはこのインタヴュは収められていないようだ。で、一体おれはこの情報をどこで知ったのだろう、と調べてみると、こういうページを見つけた。『マルクスの偉大さ』についてのあれやこれやを知りたい場合、おれのこのエントリを読むより、このページを見たほうがよほどいいような気がする)。
他人の証言としてはデリダやネグリのものがあるが、一番「見てきたようなこと」を言っているのはネグリのものだ(Exil 参照。邦訳は『未来への帰還』)。そこでネグリは次のように言っている。
ドゥルーズの最後の仕事である『マルクスの偉大さ』を見れば誰しも、驚嘆すべき考えがそこでも見出されることが分かります。というのも、そこで問われているのは、「普通名詞」(これは、概念を構成する知覚の集合です)の定義によって表されるような認識論的立ち位置を、認識論的共同体の言語的構築に翻訳するものなのですから。
ここでネグリは何を言わんとしているのかは問うまい。というか、おれには何を言いたいのか、さっぱり分からない。そんなことより重要なのは、こうした証言は、ドゥルーズの『マルクスの偉大さ』を見ずにはなされないであろう、ということだ。
ただ、ネグリの言をナイーヴに信じるのはどうかな、とも思う。何しろ、おれの知る限り、その原稿を見た、と証言する、あるいは、そうしたことを匂わせるものは、今のところネグリ以外には存在しないのだから。
そういう『マルクスの偉大さ』という書物の「実在性」はとりあえず措いておいて、今おれがしたいことは、「読まずに語るメソッド」を応用して、もしドゥルーズがマルクスについて本を書いていたら、どんなものになったであろう、と妄想を逞しくすることだ(これは、松岡正剛が千夜千冊でジジェクを取り上げる際に紹介していた「編集術」に他ならない)。
そのためには、まず「準備運動」として、一般的に「マルクスの偉大さ」と言った場合、どういうものが考えられるか、ということで、暫定的な立ち位置を設定し、そうした「測地線」との重なりやズレというものにおいてドゥルーズの「言わんとしていたこと」を探るべきだろう。
が、すげー大変そうだよねえ。誰かやんない?
マルクスと、ドゥルーズを強引に結びつけて無理やり論じるのなら、カラタニさんにでも、任しておいたらどうですか? そんなこと、やるだけ、時間の無駄だと思います。少なくとも私は。
まあ、そんなところの君みたいな俗物がこんなところにしゃしゃりでてくるもんじゃない。
日経平均株価はあがってるんだから、せっせと稼いでリャいい。
いいだろ?
ただ、これは原作たそがれ清兵衛さんへのレスで詳述するつもりだけど、「最後の書物」かどうかは別として、ドゥルーズがマルクスについてそれなりの長さの書き物を執筆する予定だった、というのは、ほぼ動かし難い事実だと思う。
だから、おれもまさしく「彼(ドゥルーズ)が何をどう読んで何を言おうとしたのか、あれこれ考えてみ」ようとはしているわけだけど、これが「大変な事」じゃないだなんて、全然思わない。宮本さん、そう言うんだったら、やってみてよ。あ、念のために言っておくと、「ネグリがマルクスを……」ではなく、「ドゥルーズが……」だからね。
あと、程度の低い「煽り」はやめなよ。もしそういうことを言いたいんだったら、「〜だから、マルクスは滅んでいない」というように、ちゃんとした議論の土台を打ち立てるかたちで煽ること。まったく、小学生じゃあるまいし。
それより何よりも、宮本さん、本当に本当にどうぞ、お体ご自愛くださいませ。本当に本当に、こちらのことはとてもとても心配しておりますので。
で、はやしさん
ライプニッツについては、何も言わなかったとういうより、批判していたと思います。僕も、あの、晩年の変節には驚き、やはり、中期以降のドゥルーズに、どうもどこか繭に唾つけたくなるのは、そういうところなんです。
ところで、また、宮本さん
>>本当のところよく知りませんが・・・滅んだマルクスを・・・
>まあ、そんなところの君みたいな俗物がこんなところにしゃしゃりでてくるもんじゃない
って、部分を逆に読ませて頂く限り、宮本さんは、マルクスを十分ご存知であるということですね。
それも日本の 戦後左翼が曲解をやりまくった非常に観念論的な、亜流ルカーチ、亜流サルトルとでもいうべきインチキマルクスではない、マルクスを。
もしそうなら、ここは、宮本さんに、お譲りさせていただくのが本当に本当に正当だと思いますので、十分 はやしさんと実のある議論をしてくださいね。とてもとても期待しておりますので。
あの「吉」話でも、一昔前までは、まあ、哲学の専業分野に近いと言っても過言ではなかったと思いますが、岸田秀が何を言っても今は「脳の科学」に一蹴されて、「岸田さん、あなたは、アホです」で、おしまいです。(そして、岸田の「右」との強烈な親和性も笑えますね。・・・この人なんか、恐らくミイラになった自覚があるミイラ取りでしょう。)
でも、哲学というテリトリーは、永遠に不滅だと思います。どんどん、テリトリーは小さくなると思いますが。
人間のわかることは、どうせこの世の百分の一もないですから、藤崎さんがおっしゃっているように?形而上学は必要とされるでしょうから、哲学は存在せざるを得ないと思います。
哲学に必要なのは、他のテリトリーから、ミサイルが飛んできたら、それを謙虚に受け止めて、「哲学の言っていたことは間違っていなかったのか」と 問い直すという、ある意味節操の無さだと思います。
その節操の無いことを最初にはじめたのが、ニーチェだったのではないかと思います。
ニーチェと、そのスタイルを露骨に受け継いでいるドゥルーズについて、これは哲学でなくて、思想だという批判をする人の気持ちって、結構私は分かる気がするのですね。
家内に、よく言われるのですが、はやしさんは、ニーチェやドゥルーズを きっちり哲学書として読んでいるけど、あんたは、「まあ、自分の役に立てばこんなもんでええやろ」って感じで思想書として、読んでいるなあと。
ほんと、家内は 痛いところをついていると思います。
哲学とは、「あれや、これや」であるべきで、「絶対」を追求するものではなく、そんなのは、一昔前ならともかく今の時代、寺の坊さんにでも任せておいたらいいと思います。
(ついでですが、ニューアカというのは、あれは、まだまだ「絶対」追求の中で起こった現象で、浅田の「構造と力」の最後が「一元論に向って」だったと思うのですが、とても、あの時代を象徴していると思います。そいう意味で、浅田の「構造と力」は、国家というものを建前の部分では強烈に意識しているはずの官僚との親和性は強いですね。)
最後につきあたるのは、まさに「哲学とは何か」という、ドゥルーズの本当の遺稿のタイトルとなる訳ですが、その中身を私は未だに理解しえません。究極の「ト」なのか、哲学に新しい地平を開いた書なのか。単に、ボケたのか。本当にチンプンカンプンで。
いずれにしても、マルクスを語る資格が全く無い(・・・ルカーチなら、語る資格はあると思いますよ。それも、並みの戦後左翼の平均値以上にね。w)私がこういうのも、何なのですが、ドゥルーズ自身が、マルクスについて書いて、それが、フランス思想の「右」との本当の決別書であったら、あの世から戻ってきてでも是非とも書いて欲しかったですね。でも、あの噂話、はやしさんの言うように半ば本当の話だったら、書いてから自殺して欲しかったなあ。「俺は、マルクスを書くまで、こんな酸素テントの中で死ねるか」って感じで根性出して。
「酸素テントの中で死ねるか」って思ったからこそ、飛び降りたって?、最後は、不謹慎なネタでありました。
ドゥルーズ自身が、マルクスについて書いて、それが、フランス思想の「右」との本当の決別書、これが、僕のドゥルーズに見る夢ですね。
さて、ケインズはマルクスを古典派の支流だとみなしていたらしいけど、科学理論としてマルクスをみた場合、古典派パラダイムを乗り越える契機としてのマルクス経済学に興味がある。20世紀に主流化したのは、労働価値を効用価値で置き換えた新古典派ですが、個人的な見解では、この学派は経験科学としての実証性を喪失してしまった感があります。だから工学してデリバティブにも応用可能ですけど…。
これに対して、マルクスは労働価値を保存したまま、タイム・スケールを大きくとることで科学化を図ったと考えています。つまり数年、数十年単位ではない歴史時間における法則性です。そこには自然法則に比肩しうる何らかの法則性が存在するのでは?これが史的唯物論(=歴史・社会における自然科学方法論の展開)の発想なのではないでしょうか?
おそらく、ブローデルなんかは、この流れだと思うし、フーコーが知の考古学で言ってた、アナール派の<長い期間への着目>とゆ〜のは、統計学でいう母集団の拡大によって統計的精度を高める/あるいは構造的安定性を確認するという、しごくまっとうな科学的アプローチの表明だったのでは…。もっともフーコー自身は「オイラは<単発的ね>事件に着目する!」と宣言して科学的/構造主義アプローチを暗に拒否し、自己の方法論の画期性を強調しているのに…日本の翻訳家(自称哲学者)は誰も理解していない。
オイラの問題意識は、以上のような科学理論家としてのマルクスと、あのフォイエルバッハのなんちゃらのような「世界の解釈ではなく変革が重要だ!」というテーゼの整合性です。もしマルクスの理論が百年単位の歴史的タイムスケールを基準にしているなら、数年単位の革命運動って…戦略的にはほとんど無謀な行為だと思うし、オイラが作戦参謀だったら絶対やらない。
それに、何だかんだあの世代の人たちは、マルクスに何がしかの影響を受けていないはずはないし、大体において、『アンチ・オイディプス』と『ミル・プラトー』という書物は優れて「マルクス的」なものであったわけで(とこう言うと、あれら書物の「マルクス的」な部分は主にガタリに負うもので……と返されるかもしれませんが、ガタリ版『アンチ・オイディプス』との差分を取って類推する限り、あれら書物に見られる「マルクス的」な部分は*ほとんど*ドゥルーズ由来なのではないか、と思わさしむるところがあります)、もし本当にドゥルーズが『マルクスの偉大さ』という本を「最後に」出したとしても、「ええ!?」という感じではなく、「やっぱりそうか」と思ったでしょう。
それでは、本当にドゥルーズは『マルクスの偉大さ』という本を「執筆していた」のか? おれはこの点に関しては、ネグリはちょっと「ふかしてる」と思いますが、「最後の書物」として考えていたかどうかは別として、ドゥルーズがマルクスについて、それなりに分量のあるものを書こうとしていたことは、ほぼ疑い得ない事実である、と思われます。というのも、「マルクスについての書物を書こうとしている」ということを、時を隔てて何人かの人間に言っているわけで、法螺にしては「貫き通し」だ、と思われるからです。
さて、では、この『マルクスの偉大さ』についての世界の反応はどうだったのでしょう? これは、原作たそがれ清兵衛さんが推察されるように、多分日本とフランスだけで「大騒ぎ」しただけでしょう(そもそも、この件でフランスであれ日本であれ、「大騒ぎした」という話をおれは聞かないのですが)。というか、何であれドゥルーズについて「大騒ぎ」するのは、この二国のほか、どこにもありません。だから、これは『マルクスの偉大さ』云々の話ではなく、「ドゥルーズ」という固有名は日本とフランス以外ではきわめてマイナーだ、ということをしっかりと肝に銘じておくべきです。もちろん、マイナーであるのは『差異と反復』も含む仕事を含めてのことです。
「滅んだマルクス」については……どうなんでしょうね。この話になると、「いや、『滅んだ』のはあくまで『マルクス主義』であって、『マルクス』自体は……」という感じの話になり、一面では「それもそうだ」とおれも思い、そしてちょっとマルクスを応援したくもなるんですが、まあ、原作たそがれ清兵衛さんが「滅んだ」という言辞を述べる根拠であろうと思われる「現代の学問水準」からすると、マルクスに限らず、「コンチネンタル・フィロソフィー」の面々はみんな討ち死に、でしょう。というか、そもそも「哲学」自体が……とおれは思わないでもないんですが……それについては原作たそがれ清兵衛さんはどう思われていますか?
「彼(ネグリ)が何(ドゥルーズが書いていたとされる『マルクスの偉大さ』)をどう読んで何を言おうとしたのか、あれこれ考えてみよう。」っていう、それほど大変じゃない事で、
『未来への帰還』の当該箇所
>言語的構築に翻訳するものなのですから。
つまり、「普通名詞」の生産過程を存在論的過程へと読み換える事がくわだてられているのである。・・・それは一なるものに逆らう共同であり、・・・ユートピアが必然的に統一性を構成したり、権力の統一と主権の問題を解決するといった類のコミュニズムの考えの裏返しでさえある。・・・『マルクスの偉大さ』で構築されていたコミュニズムの概念とは、私の理解によればこのことなのである。
を見れば、ネグリが自分自身によるマルクス理解にぐぐっと引き寄せて『マルクスの偉大さ』を読んでる事は間違いないから、
ネグリが78'にパリの高等師範学校でおこなった講義録『マルクスを超えるマルクス』をちゃんと読み直してみようと思ってるんだ。
「ドゥルーズが……」は、はやしさん達にまかす!
生産力の発展に伴って生産の単位が小さくなってゆき、村落共同体から大家族、さらに核家族になって現在は、生産の単位は個人になっている。
ただ、その原理のみに則って縮小した最小限の生産単位がそのままだと社会を維持する動機付けを決定的に欠くものにならざるを得ないってのが、離婚率の上昇、晩婚少子化、ニート引き蘢り、etc…、社会の不安定化。社会の再生産の不可能性にまで至っており・・・中略・・・
実は、生産の単位は「社会」そのものじゃないか?
「個人」の能力って言ってもそれらは有形無形の先人達の「共有」の知的財産から発し、それらは「社会」の「共有財」なのじゃないか?
「コモンズ」っていうとレッシング教授みたいでヤだけど…
現行の資本制民主主義をどうしても守ろうとすれば「戦争」は不可避なのじゃないか?
ブッシュ、ネオコンが悪だからじゃなく、小泉がポチだからじゃなく…。
株価が上がる事が「国益」なのか?
一方で傭兵達に人殺しをさせながら…
『マルチチュード』を、「読まずに語る」で論じてみた。
ええやろ?
そもそも、このブログでも何度か明言していますが、ぼくにとって「哲学」とは、あくまで「趣味的」なものに留まります。ただ、「趣味的」だからといって、それを何か(たとえば科学)と引き比べて、どちらが上で……風な下らない価値判断下そうという意図は全くありません。
また、確かに、科学に分かること(原作たそがれ清兵衛さんは「人間のわかること」と書いていますが、多分「科学に分かること」ということを指すもの、と解釈します。そうでなければ、総体として「人間にわかること」が限られているわけですから、形而上学であれ何であれ、それは「空しい営み」と為らざるを得ませんから。もちろん、その「空しさ」を生き抜いていく、という立論構成なのであれば、それはそれ、です)は限られているわけですが、だからと言って「形而上学」(あるいは哲学)が登場する必然性は感じません。もちろん、個人の性向として、そういうことが気になる人は存在し、またぼくもそのクチではあるのですが、そうした「残余」に対するアプローチとして哲学を持ち出すのは、あくまでone of themに過ぎません。基本的には、科学的に分からないことは、その科学の枠内で分かるように努力をするべきです。
「右」がらみのあれやこれやについては、よく分かりません。まず、そもそも、「右」の思想というものを知らないし、ゆえに「右」に固有の思想というのも分からないし、してみれば「フランス思想の体質」として右傾化する傾向がある、ということも判断がつきかねます。ただ、フランス思想であれ何であれ、それなりに括りの大きな思想傾向に必然的に内在するかたちで「右傾化」のエレメントがある、とはとても思えません。そういうことは単純に、「人は何であれ自分の見たいものしか見ない」ということの現われなのではないでしょうか。
それはともかく、「色んな風に読める、だから『偉大』だ!」って、確かに(浅田周辺で)言われてますね。これはさすがにあんまりと言えばあんまりな物言いですが、そうした物言いの流通を許してしまうということは、裏側から「まともに読んでる奴はあまりいない」ことをバックアップするものだ、とぼくも思います。
「歴史というものはミクロなタイムスケールで見ると『破壊』の相しか見えないが、マクロなタイムスケールで見ると『創造』の相が見える」というようなことを言った人がいると思いますが、どうなんでしょう、そもそも「歴史」に「法則」があるのか?というところでぼくなんかは止まっちゃうんですけど……。
確かに、マルクスの「タイムスケールを長く取る」という戦略には、科学化の意図が多分に込められていたでしょうし、意外とマルクスは狡猾というか周到で、「煽動的」な書き物と「理論的」な書き物をかなり気を遣って分けていたと思います。ダブルスタンダードと言えば、これ以上ないぐらいダブルスタンダードなわけで、本人としてもこれら諸基準に「内的必然的」な繋がりがあると考えていたかどうか。
で、それはともかく、ネグリが「ドゥルーズの遺著」を「読んで」のコメントってのは、「自分自身によるマルクス理解にぐぐっと引き寄せて」どころか、まんま「自分自身によるマルクス理解」なんじゃなかろうか。
ネグリの……。
ただ『マルクスを超えるマルクス』も500ページ近い大著でさ、
そんなに簡単に流し読みってワケにいかないんだ。
これも結構大変だったりする……。
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