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研究・教育を市場原理にさらすな、という意見がある。その理由というのが、経済的効率性にもっぱら価値を置く市場原理は、一朝一夕には為らない研究や教育というものと馴染まない、というものや、そもそも経済的指標では「無価値」とされるような学問、たとえば文学部にあるほとんどの学科は立つ瀬がない、というものだが、この理由は少しおかしいのではないだろうか。
まず、経済的効率性と、「その果実の収穫が相当先のものになる」と見込まれる研究や教育とは、水と油だ、という意見。
少し考えれば分かるように、何も「経済的効率性」ということがすぐさま「即効性」を求める、ということになりはしない。大体、そのように「即効性」ばかり求められているとすれば、どうして市場で「長期投資」というものが成り立とう?
さらに、よしんば研究や教育というものが市場主義に触れ、その結果、市場の求めるところにより「即効性」が要求されたにしても、それに応えるということが翻って研究や教育にプラスの効果を齎さないとは言えない。そういう「市場化」云々という文脈を外せば、たとえば5年かかるPhD課程を3年で終えた、というのは、明らかに「すごい話」として喧伝されるのだから、それを自覚的・組織的・体系的に実施することの、何がいけないと言うのだろう。
次に、事に拠ったら「反市場原理主義者」が一番声を荒げるポイントであるかもしれない、市場原理の下では淘汰されてしまう学部・学科があるかもしれない、という危惧について。
きわめてドライに言うなら、そんなもんは淘汰されてしまえ、ということになるのだが、もうちと同情的に考えると、これは単に「企業努力」の放棄宣言ではないか、と思える。世の中、別段「有益・有用」でなくとも、十分に経済的利益を上げ、やっていけている業種など、いくらでもある。それと同様に、自ら「有益・有用」でないという自覚がある学部・学科は、その「無益・無用」さに正直なかたちでであれ、いつわりの「有益・有用」さをぶち上げてであれ、市場に自らを売り込めばいいだけの話ではないか。
斯様に、「市場原理」を頭ごなしに敵視し、それから逃れようとするのは、実情に合わないという以上に、研究・教育機関のある種の怠惰さを表しているように思える。確かに、研究・教育機関が市場原理と触れることにより生じる固有の弊害というものもあるだろう(「行き過ぎた成果主義」の結果としての、研究・教育成果の捏造など)。しかし、それ以上に、こうした「邂逅」を梃子として、より実りある研究・教育を目指す、という方向性に目を向けるべきである、と思われる。その上で、「市場原理」に対抗言論を出した方が、聞く耳も持たれよう、というものだ。
……以上、GREの課題小論文向けに書いたものを、翻訳の上、「小論文」というよりは「エッセイ」めいた感じに直して、掲載。「課題」に乗っかった上での書き物なので、それがどの程度、おれの「真意」を反映しているかについては、保証できません(翻訳前の英語原文は、もっとえげつなく「市場主義万歳」めいたものなのだ)。
でも、そもそも、今日びの学生ってのは、まさに「市場原理」に従って大学に入ってくるわけで、そうした事情を無視して「大学」という閉鎖空間でぎゃーぎゃー「市場原理反対!」って言っててもしゃーないよね、とはほんとに思う。
で、リンク先の中西さんの声明文、だけど、これ、大きく「大学運営を市場原理に委ねること」への対抗声明じゃなくって、あくまで個別的な、いわゆる「石原プラン」と呼ばれるものへのものでしょ? だから、一般に言って「市場原理」と呼ばれるものと、この声明文は、背反的なものではない。ゆえに、何のコメントもしようがない。だって、それはそれ、これはこれ、だもの。
とはいえ、今の大学、とくに教授陣に関しては、ちょっとだらけ過ぎというか、「フリーライダー」と呼ばれてもしようがない人たちがたくさんいることも事実で、そうした弊害を、市場原理に委ねるにせよ、あるいはそれ以外の方法でにせよ、なくしていくことは、研究にとっても、そして教育にとっても必要なことである、というのは、論を俟たないことであると思います。
大学の場合建前としては、小学生の自習ではなく、人類知性の最高峰である(らしい)教授達の自治とゆ〜錦の御旗があるので、いちおうこれまで放置状態だったけど、やっぱ少しは競争的要素を導入すべきでしょうね。問題となるのは、アホ教授を査定する外部機関あるいは定量指標の導入。
後者の場合、論文数というがあります。スラッファのように生涯に数本しか書かないやつもいますが…、そんなヤツは結果的に優秀なヤツの目に留まるので、ある大学を首にしてもOKではないでしょうか?いずれにしても、アベレージを保つには、論文数という基準は重要ですね。
こう言っちゃうと、すぐに教育を市場原理に委ねるべきでない!とゆ〜反論がでてくるのですが、これはTV局やプロ野球球団は公共的なものなので、市場原理になじまないとゆ〜現時点でのマネージメントの言い訳と同じですね。
市場メカニズムを導入する真の目的は、それが欠陥の多いメカニズムであるにもかかわらず、現時点のシステムがそれ以上に欠陥の多いシステムだからでしょう。これを市場一元論と解釈する輩は、確信犯的な現体制の支配者かアホのどちらかだと思います。ポイントは軸足をやや市場よりにずらすこと。これですね。
最近話題になる企業買収もそうです。これまであまりにも、資本主義理論上では企業の所有者であるはずの株主の権利が、経営者にまったく軽視されてきた。だから経営に対する株主に影響をもう少し高める。これが最近の流れです。
オイラは、この流れは日本が豊かになった証でもあり、一種の社会革命だ考えています。経営者vs労組とゆ〜図式が、今回は企業所有者vs経営者となったわけです。
アメリカ経営学を学んだ人はご存知でしょうが、合衆国でバーリ&ミーンズが所有と経営の分離を叫んだのは1930年代でした。これはフォードのような巨大企業の出現で、19世紀的な資本家=企業家という図式が崩壊したからです。
日本では、ナベツネさんだけでなく、多くの経営者はいまだに経営者は所有者気分ですね。しかも、もともと労働者(ブンヤ)だった人が、経営者なわけです。そんな御仁が新聞社の生涯年収から推定して、どう考えても不可能な財産を築いてらっしゃる。だから怪しい。まあ非上場の場合、仕方がありませんが、上場企業の場合、経営者のお手盛りの報酬はやっぱまずいっす。だって他人のお金だもん。
それでも、「確かに現システムは多くの不備があるが、市場原理を導入したときのコスト&リスクを考えると、現システムのほうがかくかくしかじかの点でベネフィットのほうが多い」って、具体的に提案してくれりゃいいんですが、そういう対抗言説はしも(できも)せず、ひたすら「市場原理憎し」じゃねえ……しかも、そういう具体的な抵抗言説があったにしても、よくよく読むと「自分の既得権益を守りたいだけなんじゃねえか」って感じだったりして(cf.独行法施行反対を唱えた駒場の教員の言説参照)。
そういう意味でも、(やや唐突ですが)アメリカ型の大学運営というのは、大いに参考にすべきモデル、だと思います。というか、企業においても所有と経営の分離ということが実際的なものとなってきた昨今の状況を見ると、必然的に大学もそういう流れになるでしょう。そして、こうした流れはある意味「健全」でもあり、取り立てて反対する理由もないと思います。
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