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(このエントリは「理系とか文系とか その2」のコメント欄でのやりとりに対する応答として書かれました。独立にこのエントリだけ読んでも、それほど奇異な感じは与えない、と思いますが、お暇なら是非そのコメント欄も、さらに死ぬほど暇だったらこれも読んでくれるとうれしいです)
話の流れが哲学の「トンデモ」な部分、とくに「万物は水である」という文言を巡って議論が推移しているようなので、そこに寄りかかりながら、とはいえ必ずしもぴっちり寄り添うわけではなく、という感じで介入させてもらいます。なお、これを書くに際して、最低限の文献に当たるということも(最低のことですが)ネグってしまっていますので、相当いい加減な発言も紛れ込んでいる可能性があります(それほどべらぼうな放言はない、と思ってはいますが……)。そうした場合、追々何らかのかたちで訂正は入れるつもりです。
さて、よく知られる通り、「万物は水からできている」という文言は厳密に言えば「哲学者」の言葉ではなく、「ソクラテス以前の思索者」と呼ばれる人びとの一人であるタレスによるものです。タレスに限らずソクラテス以前の思索者たちは、この世界の成り立ちの根源を解き明かそうとしました。ここで注意をしておくべきは、あくまで思索対象およびその根源と考えられていたところのものは、物的対象たる自然だった、ということです。ということはつまり、タレスたちのポジションというのは今日で言う「科学者」のそれに近く、「万物は水からできている」という命題も、間違いではあったかもしれませんが「トンデモ」というのはちと言い過ぎかも、と私も思います。「万物は水である」という文言のみが人口に膾炙し、論証抜きの断言であるように思われがちですが、実際にはタレスは論証の労も取っていますし、何よりそれは反証可能です。
まあ、タレスの「万物は水からできている」という言明がトンデモかどうかはともかく、そうした世界について「なぜ」を問うこと、つまりは根源を探求することから得られる知識は「エピステーメー epistēmē」と呼ばれ(ちなみにこの"epistēmē"と言う言葉がラテン語訳され"scientia"、つまりは"science"の語源となりました。原義は「知られたこと」、つまりは「知識」です)、次代のソクラテス・プラトンに至ると、その根源が自然界にではなく、われわれ人間が触れることも見ることもできない「イデア界」に定位され、ここに哲学が誕生するわけです。そうした動きと相即して、顕著にこの世界と切り結ぶ知識が「テクネー technē」としてエピステーメーとは違う知識として対立させられました。エピステーメーが「なぜ」を問うことによって得られる知識だとすれば、テクネーは「いかにして」を問うことによって得られる知識です。「いかにして」という問いは、「何かをする」ために問うのであり、さらにはその「何かをする」ということは往々にして「何かのために」するのであり、そして「何かのために」の「何か」は人間が関わることが多い、と言えるでしょう。
まとめると、まず知識には2つの流れ、1)「なぜ」を問うエピステーメーと、2)「いかに」を問うテクネーがあり、さらに前者は、a)その「なぜ」の根拠が自然界に置かれるものと、b) イデア界のようなわれわれにとって(自然界を相手にするのと同じような方法では)不可知な領域に置かれるもの、という2つに分けることができる、となります(ゆえに、厳密に言えば、makiさんが言われていたように「科学の由来は(トンデモ要素抜きの)哲学」というよりも、「科学も哲学も、同じ祖から由り来たっている」と言ったほうがいいかもしれません)。
そうすると、これらの組み合わせで学的知識を分けられないであろうか、と思われてきます。たとえば、一般に「理科」に分類されるところのものは1a型でしょうし、哲学は1b型のそれこそ「最右翼」でしょう。それでは数学はどうでしょう? たしかに自然界との照応関係が「事後的」に見いだされたりもしますが、あくまで事後的なので1b型、ということになりそうでもあり、「いかに」を巡って展開されることもあったりするので2型ということにもなりそうです。工学などは言うまでもなく2型でしょう。こういう感じで、下手に理系だの文系だので分けるよりすっきりしている、と私は思うのですが、いかがでしょう?
また、これは掛け値なしの放談ということになってしまいますが、プラトンがテクネーを、エピステーメーよりも価値序列上低いところに位置づけた、ということが、それこそ「何となく巷間で思われている」ような、「工科よりも理科、実験よりも理論(たとえば「実験屋」という自己卑下とも捉えることができる言い方を想起)」という風評の元になっている、ということもあるのかなあ、とぼんやり思いました。私、計算機科学の内情には疎いんですが、たとえば「表示的意味論が、ドメインが」と言ってる人たちのほうが、何かを実装したりアーキテクチャを設計したりという人たちよりもエラソーにしている、とかいうことはあったりするんでしょうか? まあ実際は1人2役ってことが多いでしょうけど。できれば今度、こうした問題についても、もう少し「実証的」に書いてみたいなあ。
とりあえずこんなところで失礼します。
(a) タレスを含め、古代の哲学者は、より妥当なモデルを追求し考証したという点で、現代の意味でも科学者だと思います。
(b) 「万物は水である」は、ざっくり検索した限りでは、反証されたという言説は見つけられなかったのですが、反証可能なのですか?
(c) 初期の哲学ではエピステーメーとテクネーが未分化で、それらが分離でき、独立して扱うことができるということがそもそも発見であったのではないかと。そういう点では前のエントリにおける私の主張につながるような気はします。
(d) 数学や物理は元々日常の役に立つこと(建築等)の延長なのでテクネー=technologyのように思えたのですが、どうなんでしょう。
でもって、今日ではむしろ形而下学=理系から発達した数学や物理などが理想を追求し、それに対して心理学など文系が人間という実存を主体にするという逆転現象が起こっている、というシナリオだと面白いと思います。
実在の理論(数学・物理)をつきつめるとエピステーメー(宇宙の起源)となり、人間の心(エピステーメー)を見つめると人間の実存(テクネー?)に行き当たる、すなわちエピステーメーとテクネーは渾然一体である。
(e) 上記のことは(私の身近な)ソフトウェア開発でも起きていて、アーキテクト(設計者、理論派)はプログラマ(実装者)を非効率的で馬鹿だと思っていて、プログラマはアーキテクトを動くものが作れないと馬鹿にしている、というような現象はあると思います。実は渾然一体なので両方知らないとうまく作れない、という結論になりますが、これは(e)が(d)の一部であるからではないかと。
(a)のmakiさんのコメントを読んで、はたと自分の「科学者」観が「科学を遂行する者」程度の、間違ってはいないだろうけど何の役にも立たないようなナイーヴものであることに気付きました。もちろん、makiさんが書かれた(b)に関してのことに関連して、ポパーの有名の「反証可能性」のことなども知らないではないのですが、もうちょっと自分なりに「科学を成り立たしめるもの」について考えてみる必要があるなあ、と思いました。
それを確認したうえで、なぜ私がタレスなどのソクラテス以前の思索者たちを「科学者」と呼ぶのを躊躇するか、といえば、それはもっぱら彼らが思弁に頼っているからであり、私の知るかぎり実験的な検証を怠っているからです(翻って言えば、私は「科学」の成立要件として「実験的検証」を要求している、ということになります)。
さて、ここでmakiさんも(b)で疑義を呈しておられる「万物は水からなる、という命題は反証可能か?」ということについてですが、「理系とか文系とか その2」の最後の方のコメントでも述べたとおり、私はこのエントリにおいて「反証可能」という言葉をいささか無反省に用いてしまっています。
「反証可能」という言葉は基本的に「*その当時の*科学や技術の水準を以ってして、その理論の当否について*有効な*検証手段を提示できること」という意味で使うべきだ、と思います。ゆえに、その時点で検証手段が与えられなくとも「もっと科学技術が発展すれば……」というスケープゴートを「トンデモ」に与えてしまうことにもところが悩ましいのですが……。
反証可能性について長々と語ってしまいましたが、このエントリでの文脈でまとめると、1) タレス等のソクラテス以前の思索者たちは、論証はしたが(実験的)検証はせず、ゆえに「科学者」とは言い難い、2) 1より、実験的検証をしていないのだから、反証可能であるとは言えない(が、再び1に戻ると、そもそも彼らは「科学者」ではないのだから、その論が反証可能でないからといって、「トンデモ科学」という形容をすることはカテゴリーミステイクである)、3) 今日の水準を以ってすれば、「万物は水である」という命題は反証可能である(組成式を調べればよい)、4) 検証手段を提供したのではないが、タレス等のソクラテス以前の思索者たちの論に対して反対論証を提供したものたちはたくさんいる(同時代だと他のエレメントを基本としたものたち、後代だとアリストテレスなど)、という感じになります。
(c)については、私の見解だと、エピステーメーとテクネーは当初は未分化、というよりも、もともと「テクネー」と呼ばれるような事物はあるにはあったが、対立物たるエピステーメーの照射により、それが「テクネー」と明示的に析出された、という受け取り方です。
数学にしても物理にしても、その動機は実践的、テクネー的なものだったことは間違いないでしょう(代数はアラビアにおいて複式簿記「のため」、幾何はバビロニアで測量「のため」、解析は力学「のため」生まれたものですからね)。それが次第にその「テクネー的側面」を削ぎ落としエピステーメー的なるものへと純化(?)していったという筋書きです。
makiさんの、テクネーから出発した(所謂)理系分野がエピステーメーを目指し、エピステーメーから出発した(所謂)文系分野がテクネーを目指す、という「逆転現象」の指摘。めちゃめちゃ面白いと思います。いや、ほんとにいい考えるヒントをもらえた。ありがとうございます。
ごめんなさい、私「プログラマ」っていう「実践者中の実践者」のことを無視しちゃってましたね。そうですよね、アーキテクトとはいえ象牙の塔でこしゃこしゃやってる、っていう印象はありますもんね。や、あくまで「印象」ですが。何にせよ、CSに限らず、色んな分野内でそのエピステーメー志向/テクネー志向には階梯がある、ってことですね。
はやし氏の実験は物質的な実験のみを指しているようですが、思考実験、およびそれに類するもの含まれるのではないかと思います。
私の中での科学は最終的に「思い込みがないという前提で、もっともらしい説明により、最も未知の部分が少なく最も信憑性の高い説を競いあい、何を信じるかを多数決で勝ち抜いていく視聴者参加型番組」みたいなイメージになりそうです。(これだと時代性はなさそう)
あとは信じるという行為が、みんなが信じれば真実という相対的なものなのかどうか(よく言われる、科学の絶対視=宗教みたいな言説)ということですが、
・知性が存在するということは事実として固定する
・極めて高い蓋然性を持つものは「そうである可能性が高い」と書くと長ったらしいので「そうである」と記述する
・間違いには随時訂正が入る
という感じの原則なのかなあと。たぶんこれこそ哲学で論考されていることなので蛇足でしょうが。
抽象的に語ると何だか偉そう、というのはありますね。モデル化すると多くのものに当てはまるので「正しい」、すなわち「大きな正しさ」だからではないかと。(正しい→少々の間違いは無視して正しさを振りかざす→偉そう、という思考連鎖かな)
抽象化して削ぎ落とされたものが実は重要だったりすることもあって、人間を総体だけで語ると細胞が語れなくて、逆に細胞から人間が語れたりもするとか。神は細部に宿るというのはそういうことかとも思っていたりして。結局総体を語るには総体に戻らざるを得ないわけで、総体寄りにはなるのですが。経営における現場主義とかもこれに含まれるかも。
エントリの話に戻ると、研究者は、偉そうというよりは、泥臭い現実と乖離しているので別世界の人々、という印象かもしれません。そういう人たちからするとPerlとRubyの違いなんて皆無なので、「非生産的」なことをやっているなあ、と考えているのではないかと。もちろん実際に生産しているのは実装者ですが。
そんなわけで、話が進歩しているのか、すなわち「生産的」なのかというと非常に疑問ですが、こんなところで。
「科学的立場とはムーブメント、つまり一種のノリである」って、何だかクーンの「パラダイム」みたいですね。で、「じゃあ、その『ノリ』って何よ?」ってこと(の一部)が、その次からのパラグラフで言われていると思うのですが、「うーん、でもこれじゃ外延が広すぎて、それこそ『学問』一般が当てはまっちゃうんじゃないかな」とも思えど、科学がscienceで、scienceがscientia、すなわち『学問』の謂いであるという語源的必然の然らしむるところかなあ、とも思い、やっぱり「〜とは何か」式の疑問ってのは難しいなあ、と改めて思ったことでした。まあ、「科学」というもののぎりぎりの内包が何であれ、「科学」と呼び習わされている実践はそのこととは何の関係もなく続いていくのであり、それを考えると「何と無為な」とも思うのですが、やっぱり気になるますね、私は。
それで、makiさんの「はやし氏の実験は物質的な実験のみを指している」という部分ですが、もちろん「実験」という場合には物質的・思弁的両方を含みます。ただやはり、今日的意味で狭く「科学」と言われているような諸実践は、物質的・思弁的実験どっちかだけではダメで、お互いに相補わなきゃいかん、と思うんですよ。それこそ、「実践なき理論は空虚であり、理論なき実践は盲目である」って感じで。で、ソクラテス以前の思索者たちのことを考えると、お前ら思弁してばっかだろ、ということになるわけです。
抽象化していくでも、内包を尖鋭化させていくでもいいと思うんですが、ことを「学的知」に限った場合、どうしてもそういう気はあると思うんですよ。公理的って言い方でもいいかな。で、そういう公理化された理論を現実にあてはめていくと、どうしたって齟齬が出てくる。そういう齟齬が出る部分ってのが、「公理化された部分よりも重要」とまでは言いませんけど、後世代にとっては推進力となる部分ですよね。
翻ってテクネー的なるもののことを考えると、どうしたって個別的というか、アドホックなものになりますからね。そうすると、その適応範囲ってのはどうしたって狭くもなるし、そういうものに公理化もくそもないわけです。だから、エピステーメー気質が強い理論系の人のテクネー系の人に対して下す「お前らそんな場当たり的なことばっかやってて、もっと根源を見なきゃダメだよ、根源を」っていう評価が出てきたりもするのでしょう。
ただ、やっぱり、それこそ「根源的」なところで、どうしてエピステーメー的なものがテクネー的なものよりエライのか、言い換えると、どうして説明力のほうが実践力よりもエライのか、ってのは、よく分からんところが多いです。ので、ちょっとソクラテス・プラトンの手前あたりから遡って考えてみたい、と思います。
それにしても、iwatamさん、もう来ないんですかねえ。
ひとことで言うと、学問→系統だっている、科学→客観性、かな?
狭義の科学は、物質的な自然環境を説明する手段、でしょうか。だとしたら物質的なものは必然ですね。
齟齬と根源、うまくつかめませんが、そうなんだと思います。
建築で言うと、木造建築とコンクリート建築では、建築家からすると、住むという機能は同じで、建材が違うだけ、大工というのは建材を見て住むを見ずだ、と。しかるに大工に言わせると全然違う、建築家はわかってない、おまえらが木のことをどれだけ知ってんのか小一時間問い詰めたい、と。
で都市計画者からすると、建築家は家を見て都市を見ずだ、という感じ。スケールが変わると違う現実があって、それぞれに根源がある。
これはエピステーメー対テクネーとは違うんだと思いますが、削ぎ落とさないとモデル化できないがモデル化すると齟齬が出るという。
とまあ上記のようなこともアドホックな話なわけで、そもそも日常はすべからくアドホックであり、ノイズであるわけです。対するに真理というものは一見混沌とも見える現実を、混沌ではないと明らかにする、つまり世界を救う神の手である。エピステーメーの偉さというか神々しさはそういうことではないのかなと思います。
iwatamさんが来ないのは私の不徳の致すところかもしれませんが、がしかしブログはカラミケーションだそうで、私が何を書こうがからんでほしいというか、逆にカラミが足りなかったのか。エンターテイメントとして考えると、つまらないことが最大の敗北である、とかないとか。精進したいと思います。
で、齟齬のことですが、その齟齬の生じ様、翻っては、齟齬が生じる源たる定式化、モデル化には、makiさんが建築の例で言われたような視点の違いに起因する差というのがありますね。ただ、私があの文脈で言っていた「齟齬」というのは、同じ視点を共有しつつも、その定式化に齟齬を感じる、という場合、たとえば、ある理論が定式化されていて、それが予想する値と実験から得られた値が違う、という場合などを想定していました。そうすると理論に(アドホックな)修正が施され、そうしたアドホックな修正が効かなくなるぐらいに事態が進むと、クーンが言う「科学革命」の到来、となるわけです。
それで、エピステーメー的なものがえばっている(ように思える)のは何ゆえ?ですが、ごく素朴に考えても、より小さな理論でより広い範囲の事象が説明できるとすれば、そりゃあ偉いに決まってるわけですが、あくまでそれがするのは「説明」なんですよね。別に現実に対して実際に何かをするわけではないし、「説明」が「実践」よりも勝っているというのも判然ではない。それなのに、ある意味「役に立つ」ほうのテクネーを差し置いて、「役立たずな」エピステーメーを称揚し、統一的視点やら、絶対的真理やらを希求するってのは、やっぱり不思議っちゃあ不思議です(もっとも、バランスある考えからすれば、エピステーメーとテクネーは両輪の輪だから、どっちも欠くべからざるもの、ってことにはなると思いますが)。混沌とした現実を眼前にすると、理念的なものであれ何か一本筋の通った支えがあると、安心するんですかね。
や、iwatamさんが来ないのは別段makiさんは関係ないと思いますが……メンドクサクなっちゃったんですかね。カラミケーションという観点から言っても、それなりにmakiさんも私も絡んでたとは思うし。
そういうわけで、私も日々、刺戟的なエンターテインメントブログを目指して、絡み絡まれで精進したいと思います。けど、みんなあんま絡んでくんないんだよなあ。わざわざ議論に穴を残して突っ込んでくるのを待ってたりするのに。
定式化の齟齬については、その文脈自体は理解していたのですが、それが当てはまるのは数学、物理、化学くらいで(この場合、正しいかどうかが判定しやすい)、多少なりとも人の手が入るものは、「視点の違い」の齟齬の方が大きいなあ、と思ったので、文脈は違うのですが書いてみました。「視点の違い」においては、モデル化の理論の間違いと、モデル化すること自体の間違いを混同する傾向があるような気がしています。
# 例えば経済なんかは、本当にモデル化できるのか?とか。
しかし今後も「科学革命」が起きる余地はあるんでしょうか。例えば相対性理論が発表されてもニュートンの時代の諸理論の実用性はなくなっていないわけで(相対性という言葉が一人歩きして想定外の効果はあったようですが)。開発され尽くしてしまったのか、そう思うのは現状に囚われているだけなのか、わかりませんが。
「偉そう」、実業と銀行業とでもそうですかね。銀行は虚業とも言われますから、見えないもの、すなわちエピステーメーであると。お金を崇拝するのはとても自然なことなのかもしれません。
makiさんが「西洋から輸入された学問」ということを言ったとき、「あ、国学とか、そこいら辺のことが頭にあるのかな」とチラッとだけ思いましたが、ぼくの受け取り方では、「科学」というものは専ら西洋のものとしてある、という感じなので、その可能性は抑えてレスを付けました。
ただ、どうでしょう、こと東洋医学に話を限って言えば、「案外体系化されてるなあ」、つまり「それなりに科学だなあ」との印象を持つのですが。まあ、黄帝内経のややウサンクサめの概説書しかぼくは読んだことないんだけど。
「人の手」が介在する時点で、それはエピステーメーというよりテクネーなので、「定式化」というよりも「視点の違い」が問題になってくるんだと思います。だから、テクネー的なものでもパッケージ化可能な叡智(エピステーメー)はそりゃあるでしょうが、全体としてモデル化しようとするとムリが出ちゃうでしょうね。
科学革命はどうですかねえ。大体、「科学革命」と呼ばれているものって、案外そんなにないんですよね。で、相対性理論に関しては、業界内では「科学革命」という言い方は多分しないと思います。ただ、それこそGUTとかがもし出来ちゃったとしたら、「革命」になる可能性もないではないかな、とは思いますが。個人的にはファインマンのように、「4つの力に4つの理論。それで何が悪い?」とも思います。
その本質が定かではないというか、抽象度の高いものって、あんまり根拠のない印象論ですが、ほんと「敬して遠ざける」って感じはありますよね。何やらよう分からんけど、有難いものらしい、っていう。
関係あるよなないよなことですが、今日戸田山和久さんの『科学哲学の冒険』を買ってきて読み始めたのですが、のっけから「科学哲学をはじめよう―理系と文系をつなぐ視点」という部立てで、「わーお」な感じです。読み終えて、気が向いたら、感想でも投げようと思います。
それでは。
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