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銀幕の中に一人の男が映し出されている。その男はタイプライターに向かい、時折書架から本を取り出してはそれを拡げ、本を見ながら何かごにょごにょ言って、またタイプライターに向かう。そのタイプライターは旧い型の電動タイプらしく、タッタカタタッタカタタッタカタと、リズミカルな音を立てて印字を繰り返す。その男は印字されたものを見返し、そしてまた何ごとかをごにょごにょつぶやく……。
ここまではいい。こうしたシーンが映し出される持続時間が長すぎる、というのもまあ目をつむろう。問題なのは、その男の格好なのだ。その男は上述の行為を、上半身裸&サンバイザーという、明らかに室内でするには異様ないでたちで行っているのだ。これを見て笑わずにいられるだろうか? それが驚くべきことに、ある種の人たちはニコリともせずにこうした光景を見続けることができるらしいのだ……。
言うまでもなく上述のシーンはゴダールの『映画史』(の第何章か)における一場面である。こういう極端にヘンな格好はしていないまでも、『映画史』には「タイプライターに向かうゴダール」を映したシーンが頻出する。タイトルやら著者名やらをつぶやきながらおもむろに書架から本を取り出す。任意の(じゃないかもしれないが、いい加減に開いているようにしか見えない)1ページを開き、そこに見出された1文を読み上げ、何ごとかをタイプライターに向かって打ち込む。そして、これが延々繰り返される……。
好意的な見方をすれば、ゴダールは『映画史』それ自身の中で、まさにその『映画史」のプランを立てている、もっと言えば、『映画史』が作られつつあるそのことが『映画史』になっているという自己記述的な振る舞い、作ることと作られてあること、見ることと見られることの奇妙なよじれや共犯関係をスクリーン上に映し出そうとしたと言ってもいいだろう。
こういうのはぼくも嫌いじゃない。むしろ好きと言ってもいい。だが、それにしたって、上半身裸でサンバイザーをかぶり、ぶつぶつ言いながらタイプライターに向う男、というのは明らかにおかしくないだろうか?
正直ぼくは笑いをこらえるにたいそう難儀した。笑っちまえばいいじゃん、と思うだろうけど、だって笑えるような雰囲気ではなかったんですもの。周りを見回しても見たけど、笑いをこらえて肩を震わせている、というような人もいなかったし。それがまたおかしさを助長させてさ。みんな、何を想いながらこれ見てんだろ?って。
念のために言っておくと、この「笑い」はある種の「符牒」としての「笑い」、つまりあからさまなおかしさに笑うというのではなく、隠された何ごとかを感受したということを示すために笑われる「笑い」、大声を立てて笑うのは憚られるけど「おれ、分かってんだぜ」ということはみんなに分かってもらいたいのでそれとなく笑われる「笑い」、そんな「笑い」とは無縁のものだ。
単純に、おかしいのだ。
ゴダールは初期の頃からこうした単純なおかしさ、バカバカしさを、全編にわたって、というのは言い過ぎにしても、そういう要素を作品に織り込み続けてきた。ゴダールの映画に対して冠せられる「難解」という2文字は、こうしたスラップスティックなおかしさ、バカバカしさを不幸にも捉え違ってしまったが故なのではないだろうか? 『ショック残酷大百科』(秋田書店刊)でも紹介されている、スラップスティック映画の傑作『ウィークエンド』を「難解」と評する気が知れない。ちなみにぼくは、ゴダールと一番近いテイストを持つのはモンティ・パイソンだと思ってる(見てる最中は抱腹絶倒で楽しんで観てるんだけど、観終わったあと、何とも言えない暗い気持ちというか虚脱感に襲われるとことか)。
とはいえ、近年のゴダールは、ヘンに深刻ぶっているというか、あやうい感じであるなあ、ともおもう(何の映画のときにだったか、浅田彰と鵜飼哲の対談があって、「ここんとこのゴダールは、カトリシズムへの露骨な接近や、「政治の美学化」というような、ちょっと危ういところがあると思うんですけど、いかがお考えですか?」なんていう、「いかにも」な質問もしたっけなあ)。元々その気はあったにせよ、「映画」は自分とともに終わるんだ、という不遜さもどうかとおもうし。
てなわけで、新作"Notre musique"は未見なのですが、ゴダールには最後の最後に、唖然としちゃうぐらい壮大でバカバカしいやつを一発願いたい、と思う次第でございます。
ゴダールを語ることの厄介さってのは、ゴダールについて語ってると当の対象が持つ「もったいぶった感じ」が語るその語り方そのものに伝染しがちであるとか、ゴダールについて語り「合う」という場合には何か「宗教論争」じみたものに論が流れがちであるとか、まあいろいろあるとは思いますが、そういうあれやこれやを度外視して「言いたいことを無責任に言っちゃえ!」ってスタンスの方がおもろいかなあ、と思うです。「何言ってんだ、このジジイ」みたいな感じで。
何にせよ、繰り返しになりますが、コメントありがとうございました。
あとゴダールだと、車の渋滞のシーンが延々と続くような映画を見たことがあります。タイトルは失念してしまいました。ダダイズム?の影響でもあるんでしょうか、凄く自由な発想で映画を作ってるなあという気がしました。これは別の作品だったのかもしれないですけど、突然アパートの前で弓矢を持った女性に襲われたりだとか、突然脈絡も無くダチョウが現れたりだとか。真面目な顔してアホなことやってるみたいな、高田順二みたいな人なんでしょうか。よく知らないですけど。
というわけでトラックバックありがとうございました。
『映画史』はねえ、このエントリでは何か否定的な感じで書いちゃってるけど、「クる」映画であることは間違いないですよ。観終わったあとに、また始めから観直したくなってくるような……そんな感じ。
車の渋滞のシーンがある映画、それ『ウィークエンド』ですよ! ラズロ・サボがパン食ってるとこを延々と映してたりとか……いいんだよなあ、あのシーン。
で、弓矢とダチョウ? 何だろ、それ? 思い浮かばないな……。すげー気になる。
うーん……。
はやしさんがサンバイザーにタイプライターをおかしいと感じ、何で他の人はニコリともしないの?と思うことには僕も共感します。「右側に気をつけろ」を(翌日が朝早くから仕事だとういうのに)レイトショーで観て、あまりのわからなさに悲しくなったのですが、あの時”周りの観客は何を思って観ているのだろう?”と思いました。ゴダール自身は好きなのことを好きにやっているだけで、それを周りが”うんちく”つけまくっているようにしか思えないこともあります。そんなに理屈こねたいならゴダールの引用元ネタ辞典でも作ってくれっ!と思う私でございます。それでは。
映画なんてのは第一義的には娯楽なんだから、まずは楽しむべきだし、分からんもんは分からんでOKだし、おかしかったら笑うべきだ、と思うのです。それを何かご神託でも受けてるかのような態度で観ている、というのは、正直滑稽を通り越してうそ寒くすらあります。
とはいえ、ゴダールに限らないですが、何かを「難解」と評し通り過ぎてしまう、というのも、もったいないなあ、とも思うのです。もっと無責任に楽しめばいいのに。
ゴダールの引用ネタ元事典、ですが、フィルムアート社から出ている『ゴダールに気をつけろ!』はそういう側面を持った本だったと思います。ただ、網羅的ではないし、間違いも多かったような記憶があるので、そんな「おすすめ!」ってほどではないです。
昔は気にしなかったのですが、いつの間にかに
ゴダールに毒されている事に気付く今日この頃。
ものの見方について、とても真摯なまなざしを
持っているひとですよね。
こちらからもTBさせていただきますね。
「軽蔑」で、本人として出ているフリッツ・ラングが撮る全く彼らしくないギリシャの時代物の試写を、アメリカ人プロデューサーが観て、わけが分からんと部屋にあったフィルムの入った缶を、円盤投げよろしくがんがん投げて怒るシークエンスに大笑いしました。
領域が違うと思っていた物語の進行の意味とその表現が突然つながる唐突さに、というか。
そうそう! メプリのそんなシーンもありましたねえ! こういう風に具体的に挙げてくと、ゴダールの映画で抱腹絶倒なところって、相当ありますよね。
で、ゴダールの場合、けっこうちっちゃい小屋で上映されることが多いと思うんですけど、そういうところって何だか馬鹿笑いしにくい雰囲気がありますよね。みんな爆笑したんだけど、ちょっと周りとの距離が近すぎるかなあ、って自制させちゃうというか。だって、明らかに可笑しいのに「クスリ」ともしないなんて、それこそおかしいですよ!
「勝手に逃げろ/人生」で、主人公の娼婦達と偉そうなビジネスマンの客とその部下が永遠快楽機械のごとく、客の合図と共にペロ、シュポ、アーとやれ、とかっていうところも、たまらなくよかったですね。
あれはでも、おそらくはやしさんの言う、「馬鹿笑いしにくい」シチュエーションをあえて笑わそう、もしくはこんなことろでも笑うことはできるんだっていうゴダールの意図を感じますけど。
笑いは好きだってよくゴダールは言ってましたけど、でもそれは論理の飛躍と連続性の組み合わせのアイデアを壊れないようにフィルムにうまく定着させている感じがして、普通言われる「笑い」ということばが連想させるイメージとはなんだか違う、集中力やらソリッドさを感じます。知的なんだろうけど静的じゃなく運動しているというか即興的な感じがするところは、密度の高い漫才のアドリブを思い出します。
それで、そう、「勝手に逃げろ/人生」も、「笑える」という意味においても好きな映画です(なぜだかおれ、この映画を劇場で10回ぐらい観てるんだよな……)。
このエントリ本文でも書いたことですが、sさんが仰っているような、そういうゴダールの笑いと同質なものをモンティ・パイソンに感じます。
そこで気になるのが、本国フランスの劇場では、みんなどんな感じでゴダールを観ているのか、ということなんですが……やっぱり日本の単館上映の雰囲気とかは、かなり独特なものであるような印象があるけど……どうなんだろ?
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