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めちゃめちゃ納得できない本である。納得できなさのあまり、第二章の最初の方で読むのが止まってしまっているので、最終的な評価としていーのわるいのといったことは言えないが、とにかくこれまでのところ納得できない。
まず、ブッダがインプリシットなかたちで説き、龍樹がそれをエクスプリシットなかたちで述べたとされる「ブッダ論理学」は、「現代論理学」がぶち当たっているアポリアを解決する、と言うんだけど、最後までぱらぱらと見た限り、「現代論理学」の名で呼ばれているものは命題論理に過ぎない、という点。
命題論理なんてさー、はっきり言って「現代論理学」じゃないよ。大体、ギョーカイでは一階述語論理ですら「古典論理」って呼ばれてるんだよ? じゃあ、語の真正なる意味において「現代論理学」たる資格があるのは何か? それは、「現代論理学」という名でこそ呼ばれはしていないけど、「非古典論理」と呼ばれてるものがそれに当たると思う。
ただ、それだけのことなら単なる言葉の問題で、あんまり小うるさくやいのやいの言い立てるほどのことではない。問題なのは、意図的なのか何なのか、「現代論理学」というものを命題論理に限定し、その上で、命題論理にはフォーマライズできない事柄を取り上げ、「ほら! 現代論理学にはこんなこともできない!」と「現代論理学」に讒謗を浴びせるところなんだな。
で、何が「現代論理学」にはフォーマライズできないと言って責め立てているのか?
この本の著者の石飛さんは「時制を含む命題は現代論理学では扱えない」って言うんだな。でも、ちょっとでも「現代論理学」を勉強したことがあれば、「非古典論理」の中でもそれなりに研究が進んでいる様相論理の応用編で「時相論理」ってやつがあって、まさにこの時相論理は「時制を含む命題」を扱うためのものなんだ、って知識ぐらい得ると思うんだけどなあ。別に、テクニカルな細かい点に習熟する必要はないわけでさ。
確かに「時制を含む命題」は命題論理では扱えない。これは「当たり前」とでも言うべきこと。だから、命題論理を「時制が扱えない!」と言って責めるのは、八百屋を「何で肉を売ってないんだ!」と責めるようなもの。しかも、そういう命題論理に「現代論理学」を代表させ、「現代の最新鋭の知識でも解決できない問題が、古代のブッダの論理学によって解決できるだなんて、すごい!」という感じを演出している節があるのも愉快でない。
というわけで、これ読むんだったら『論理の構造』か『古典インドの言語哲学』かIndian Logic を気合を入れて読んだ方がいいかも、と思わないでもないんだけど、著者の石飛さんのHPを見てみると、チャーミングで話が分かりそうな方のようなので、ここは一つ、「現代論理学」云々は措いておいて、純粋に「ブッダ(そして、龍樹?)は何を言ったのか」を知るために最後まで読もうと思います。
「時制を語れない」のは命題論理ではあたりまえなのに、それを強調するのはとても傷つくので止めてほしいというご意見ですね。
ゴメンね。いじわるを言うつもりで書いたのではなくて、「時間を語れない、時間を語れない」と言うわりには、西洋論理学(「現代論理学」あらため)は時間を語っているように思うので、こう書きました。
気を悪くしないでほしいんですが、あのぉ、「現代論理学」って言うのは間違いで、「古典論理学」って言いなさい、というこの文の内容にも「時間」入ってますよね。論理は普遍的なら「古典」と「非古典」に分けなくてもいいのでは…。昔使った論理は今は古くて使えない、というわけではないですもの。何か詭弁ぽいですか?
わたしが命題論理学を用いたのは、一つの意図があります。公理論を展開できるものを意識したので、ちょっとこれをお借りしました。
ぜひ最後まで読んでね。そして、また「いちゃもん」をよろしくお願いします。
昨夜は、またまた新橋で旧友と飲んでいたら、議論白熱で殴り合い寸前(…哲学ではなくビジネスのやり方で…)となったけど<ふっと…超越論的立場になり大人の解決をしちゃった>藤崎でごわす。このブログって、筆者が自ら…それも実名で…オイラなんか顔写真入りで出撃するムチャクチャすごいブログですね。
それにしても…オイラの著作がテーマとなった「胡散臭い」シリーズの独走体勢の歯止めとして…はやしさんは様々な対抗手段を打ってこられる。今朝起きたら分析哲学の経営戦略基本方針だったので…<コメント>しようと考えていたら…、仏教の方が熱い!
この辺りになると、まったく素養がないので、コメントすらできない!と言いつつコメントしちゃいますが…オイラの乏しい知識量から記憶をたどると…またまたポパーの高弟であったバートリーが、ナガールジュナとポパーの親近性を研究していたとゆ〜事実を相互交流の起点とすることもできるか?と勝手の夢想したりもします。
さて…ここでビジネスマンであるオイラには似つかわしくなく、抽象的な表現をすると…ここで議論の対象となるのは<時間の実在性>であり、言語あるいは相互理解を可能にする標準プラットフォームである<論理>が、果たして、時間の実在性を取り扱えるのか?とゆ〜問題だと考えています。
はやしさんは、賢明にも、時間の実在性とゆ〜厄介な哲学問題を、時制とゆ〜技術的問題に還元して…分析哲学の可能性と限界を議論・問題提起しようと意図している!と推測してます…なんてゆ〜と、そんな高邁な理想なんてありわけないでしょ!って返答されそうな藤崎でしたあ!
…で通常、哲学系だと
で、そうですよ〜、傷つきましたよ! もう、おれ、「現代論理学」の代弁者ですからね……って、オフザケはともかく、ぼくが傷ついた傷つかないってことより、石飛さんのやり方には単純にごまかしがある、と思ったのです。だって、確かに命題論理が公理論的に形式化され、完全性やら何やらが証明されたのは「現代」での話ですけど、だからといってそれで「現代論理学」を代表させるのはズルっしょ〜、と思います。
それで、命題論理を「現代論理学」というのは間違いで、正しく「古典論理」と言え!と、いしとびさんはぼくの発言をパラフレーズしてくれてますが、まずそこが、微妙だけど違うんですよ。あくまでぼくが言ってるのは、命題論理で「現代論理学」というものを代表させるのは間違い、少なくとも誤解のもと、ということで、命題論理は分けると「古典論理」に入る、というのはエピソード的なものです。
また、論理が普遍的であれば「現代」も「古典」もないだろう、とのことですが、ええ、そういう「全領域にわたって普遍的な」論理が本当に存在すれば「古典」も「現代」も修飾辞として必要ないでしょうね。しかし、現実はそうではない。実際、「古典論理」という名のもとに包摂される命題論理および一階述語論理がカヴァーできる範囲というのは、「全領域」というものに比べればごく控えめなものです。それでも、「ごく控えめな範囲」ではあれ、その領域ではものすごくパワフルだったりする。そうした事情は、物理学においてニュートン力学が「古典力学」と呼ばれるということとのアナロジーで考えてもいいでしょう。そして、論理学においても物理学においても、「古典」という語が使われるのはただただ「対比」のためであって、きわめて便宜的なものであるから、その呼び名に拘るのは得策ではない、と考えます。でも、「お前だって呼び名に拘っているではないか」と言われるかもしれませんが、拘っているわけではなく、石飛さんの語の用例が通常の用例からかけ離れているがゆえ、指摘したまでのことです。それに、よしんばぼくの主張していることが石飛さんの解釈通りだとして、呼び名に「現代」とか「古典」とかの「時間」を表す語が入っていると、何かまずいですか? 議論のオブジェクトレベルとメタレベルを混同していませんでしょうか?
あと、公理的取扱いということに関して言えば、時制論理の下敷きになるべき様相論理も公理化されてますよ。ただ、相当面妖な事態になってますけどねえ。
というわけで、『ブッダ論理学』、読むのが辛い、ということではなく、単に時間が取れないがゆえに読み進められていませんが、ちゃーんと最後まで読みますよ!
そんな「ぬるい」おれですが、こと「分析哲学」に関しては、その「可能性と限界」追い求めちゃうぐらいを熱いですよお……って、そんなことも全然なくって、大体「分析哲学」って一枚岩的に呼ばれるもの自体の「実在」もそれほどどうでもいい、というか、そんもんねーだろ、と思っていたりするので、「そんな高邁な理想なんてあるわけないでしょ!って返答されそう」というのはご明察なわけです。
それで、「時間の実在性」、どうなんでしょ? というのは、石飛さんにしてもぼくにしても、「時間の実在性」ということ自体は、とりあえず仮定的にでは認めている、と思うからです。そして、その上で、「過去・現在・未来」という三時制の形式化可能性を問うている、とぼくは思っています。もっとも、この議論も突き進めれば「時間の実在性」ということにぶち当たるかもしれませんが……おれ、全然ここいらの議論に詳しくないので、そういう自体になったとしても何とも言いようがないですねえ。だって、マクタガートの時間の非実在性に関する議論も、それこそ様相論理の本の中の時制論理に関する議論の中で、アブストラクトのアブストラクトみたいなもんを読んだことがあるだけですし。
……で、「通常、哲学系だと」?
それで、石飛さんのHPの「マニカナ」は、宮本さんに教えなきゃ、と思っていたページだから、こういう「通りすがり」的な教え方になっちゃったけど、おれとしては当初の目的が達せられたようでうれしい。
つっても、そんな大したことでもないんですけど、バートリーの書き物って、おれ『ウィトゲンシュタインと同性愛』の存在を知っているに過ぎないんですけど、それ以外に何かアクセッシブルなものはありますでしょうか? アマゾンで検索したのですが、どれも品切れでプレミアつきの値段吹っかけていたりとか、そんなんばっかです。英語・日本語・単著・アンソロジー等の1節など、形式には拘りません。
バートリーの主著はおそらく1960年代初頭の「コミットメントへの退却」ではないでしょうか?頭の悪いポパー主義者にからすれば、かなり異端的な人ではありますが、個人的には正統派だと考えています。なんてたって…1950年代後半のハーバードからわざわざLSEに留学した変わりのものですから…。クワインのプラグマティズム哲学をヨイショしてればパトナム並みに有名になれた素質があったと思います。
日本語文献では未来社からポペリアン・ハーベスト(ポパー哲学の収穫物)とゆ〜論文集があったと記憶してます。
またまたうろ覚えですが…「ポパー哲学の挑戦」なんてゆ〜題名だったか…。
よろしくおねがいします。飛んで火にいる夏の虫、いしとびです。
宮本龍樹!かっこいい〜。ただの龍樹よりだんぜん格調高いですねぇ。それに、カレーな日記誉めていただいてありがとうございます(内心赤面)。インドは3週間の滞在記録があるだけなので、日本でお会いした可能性の方が高いかも、です。これからも、どうぞよろしくお願いします。
それじゃ、火に飛び込みます。えいっ!
はやしさん、あ、熱いですっ!
おっしゃりたいことは、ほんとは、かなりわかってると思うんですけど、あえてポイントずらして(きたないぞ!)お答えしてるところがあります。やっぱ、最後の質問に集約されちゃうでしょうか。
議論のオブジェクトレベルとメタレベルを混同する、という点。これを解決すれば、すべてのなぞは解ける、じっちゃんの名にかけて(これ、遊ばない)。
いま、「命題論理学」を考えます。はやしさんにとっては、現代論理学全のごく一部にすぎないのですが、誰でもわかる基本の論理学ということで、これを使いたいです。様相の中で語られる「時制」は専門家のものです。ここには西洋思想が煮つまっていて、わたしたちブッダ論理学では、まったく使えないのです。西洋も東洋も両方が使えるところで話しをしましょう。
昨日一日いろいろ考えて、両者のちがいをもっともよく表す表現をおしゃれに(?)まとめようと、悪戦苦闘してました。こんなんでどうかな?さっきのメタレベル・オブジェクトレベルにもかかわるようなこんな表現です。
西洋では、命題論理学の中では「時間」を語りません。でも、命題論理学について語るときに歴史的に(=時間を入れて)語ります。
インドでは、命題論理学の中で「時間」を語ります。でも、命題論理学について語るときつねに現在形で(=時間を入れずに)語ります。
大きなちがいがあります。西洋では「時間」を語らない、だからこそ論理学はメタ的に発展していかなければならないのですが、わたしたちは、「縁起(因果関係)」によって時間を直接語るので、論理学そのものは普遍的になります。メタと対象を分けないで語れてしまうので、とても詭弁的に聞こえます。龍樹が詭弁家といわれるゆえんです。
つまり「時間の実在性」は語らないのです。「世界は恒常か無常か」についてはブッダは語りえない。
熱くて、釜ゆでだぁ!それでは、厳しく「いちゃもん」つけてくだはい!
実は、実在論も観念論も論理的には一貫性(Logical Consistency)がある、だから論理的には依然として(互いに)論駁できない。ポパーなんかが、ここで持ち出す基準は、議論の<実り豊かさ>なんですが、これも基準といえないような…脇の甘い基準です。
経験的に決着できない問題の、もう一つの解決策は、相手を<自己論駁的な命題>に追い込む戦略です。観念論は一貫してますが、結局自己論駁的なイデオロギーの疑いが濃厚です。
だ・か・ら…観念論者は、実践を理論と合致させようとすれば自殺するしかないかもしれん。
ここは本来はやしさんを待つべきかとも考えましたが、待ちきれません。
今日一日ほとんどあなたのサイトに入り浸っていました。
今年小二の長男は「宮本龍樹」です。
そう、龍樹は僕のヒーローだったのです。
カレーな日記、最高です。
インド在住は通算で2年ほどです。どこかでお会いしたかも、です。
はじめまして、はっきり言って…オイラは東洋哲学分野はまったく素養がないのですが…石飛さんとの共通点があるとすれば、お互いにすでに著作を公共の面前に晒してしまっているとゆ〜点ですね。だから、ネット上の見えない人々からの
コメントはいい意味でも悪い意味でも<刺激>になりますよね。オイラの場合は、けっこう舌足らずの点や誤植が多く赤面してますが、まあそれも愉しからずや!と自分で自分を慰めています。
さて、はやしさんやオイラは、現代英米哲学あるいは論理学の代弁者として、18世紀以来、明晰性の哲学/数学の拠点でだったにもかかわらず、戦後急速に哲学後進国となり、そんな事情も理解できずに、それを嬉々として輸入するアホな日本のおフランス文学研究者を批判していますが…オイラなんか民間ポパー研究者ですから…基本的には、分析哲学否定派なんですね。
…で、ポパーなんかも悪い癖があり、「歴史主義の貧困」なんかで批判の対象を勝手にステロタイプ化し、それをガンガン攻撃するわけです。ここでマルクス研究家は、ポパーの批判するマルクスはマルクス主義であって、<真の>マルクスではない!と反論します。おそらく正しい反論です。でも、一般に流布された<イマ〜ジュ>を粉砕する作業も必要かと考えます。
おそらく、石飛さんは<西洋論理学のイマ〜ジュ>と仏教論理学を対置させたのであって、それはそれで必要な作業ではなかろうか?とまだ読んでもないのに発言している藤崎でしたぁ!
はじめまして。素数の歌(ほんとは加藤和也先生の登録商標かも)と申します。
ついつい「無い男気」を見せてしまい、石飛さん擁護の論陣を張る羽目に(笑)。本来ここに書くべきですが、演算「*」などを定義するところからやる時間がなく(院試前なのです…)石飛さんの「マニカナ」のほうにやや詳しく述べている関係で、「マニカナ」にお返事させていただきました。反論への再反論に関しては、もしかすると8月19日以降になるかも分かりませんが、逃げ出すつもりはありませんので(自説撤回してもハラキリせずに済むようですし…)、気長にお付き合いくださいますように。
いろいろありがとうございます。今現在、現代思想を体験学習、必死で吸収しているいしとびです。御本のタイトルを拝見しました。法眼で内容知ろうと精神集中してみましたが、そんなんで、わかるわけないですね…(笑)。
…はやしさん、わたしは古代人ってことにしといてください。
<西洋論理学のイマ〜ジュ>と仏教論理学の対比、う〜ん、いや、それは、ちょぉっと、古代人の意地ってもんがありまして。
古代の目で見ると、分析哲学の議論の中に、今までの実在論と観念論を超えようとする、どことなく仏教的なにおいを感じることがあります。語用論だったかな、ちょっと忘れてしまいましたが。
西洋哲学の根っこにあるものは、基本的には変わらない。プラトンの註釈とホワイト・ヘッドが言ったのは本当だと思います。ただ、それを乗りこえようとしてもがいているのをいつも感じます。
<イマ〜ジュ>ではなく、西洋の哲学が忘れたがっている、あるいは、超えたがっている存在論的な根源を出してみたかったんですけども。ダメだったかな〜。
ちなみに、インド哲学は、もう、一言で言える、ブッダの註釈です。最近、悟りました。
ネットにさらすと、ほんとに<刺激>的な体験ができることをただいま実感中です。わるくないです。
はじめまして。オイラは胡散臭い本の中で「論理的」とゆ〜意味をオイラが使用する場合は、<時間を考慮しない>とゆ〜意味であると宣言しています。
たとえば、数式「A=B」は「AならばBである」あるいは「BならばAである」と解釈できますが…経験科学の立場からいえば、定義(恒真関係)としての「A=B」と、時間的順序あるいは因果関係を含んだ「A→B」あるいは「B→A」を、数式とゆ〜外見上では区別できないからです。
じっさい、経済学なんかではそんな思考のチョンボを犯している輩も多く…もっといい表現ができんものかと夢想しております。
これまで古代人の立場に立って考えるという、思いつき・視点・発想・気合・勇気がなかったのですが、今回は一つのきっかけとなるかもしれんせん。いまフーコーの英語版を取り寄せたばっかりなので、それも読んでますが…とりあえず御本を拝読させていただきます。オイラの場合、もう中年ビジネスマンですから、昼飯代を削ってなんていう境遇ではないで…明日オアゾのマルゼンあたりに出撃します。
で、いしとびさんが扱う範囲を命題論理に限定する意図だとか、その批判の射程だとかはぼくも分かってるつもりです。時制論理ではそのフォーマライズの仕方が大層込み入っており、一般向けの選書としてそうしたテクニカルなものを持ち出すのは得策ではない、というのはその通りです(ただ、いしとびさんのように「ここ(時制論理)には西洋思想が煮つまっていて、わたしたちブッダ論理学では、まったく使えない」とは思いません。それを言ったら命題論理にだって「西洋思想が煮つまっている」でしょう)。また、命題論理に向けられるいしとびさんの批判は、それ自体として頷けるものであり、この点にも意義はありません。問題とすべきはただ一点、石飛さんのやり方にはフェアでないところがある、ということのみです。挑発的なのは大いに結構なのですが、八百屋に向かって「肉がねえ!」とけしかけるのは「難癖」であって挑発ではないですよ。
さて、上でぼくは「命題論理に向けられるいしとびさんの批判」と申しましたが、その批判は「命題」だの「現代」だのといった限定辞抜きの「(西洋)論理学」というもの全体に向かって為してもいい、あるいは、暗に為されている、と思います。というのも、ぼくが見るところ、時間の問題やら因果の問題やらも含めて、最終的に問題にされているのは「その論理学はどのような存在論にコミットしているのか?」ということだと思うからです。
オブジェクトレベルとメタレベルに関して、ぼくはそもそも「西洋では…(中略)…命題論理学について語るときに歴史的に(=時間を入れて)語」る、とは思わないので、いしとびさんが言ってることがピンと来ません。もし、「古典論理」だの「非古典論理」だのといった「呼び名」に付いている「古典/非古典」というものを以って「時間を入れて語る」こととして捉えているのであれば、「そりゃ拡大解釈だぜ」と思うのですが、いかがでしょう?
それはそうと、いしとびさんが分析哲学に嗅ぎつける「どことなく仏教的なにおい」、それ具体的にどういう部分だか知りたいですねえ。忘れないでくださいよ! というか、思い出してください!
で、西洋哲学が「プラトンへの長大な注釈」だとすると、インド哲学はブッダへの注釈だ、って、それ「なるほど〜」と思いました。いや、何というか、斯界ではすっげー当たり前なことなのかもしれませんが、今のところインド哲学に関してなぁーんも知りはしないような状態なので、膝を打ちました。でも、鵜呑みにはせず自分なりに検証したいとも思います(ホワイトヘッドの言自体が、何だかものすごくもっともらしいけど、よくよく考えると「どうなのよ?」的なところがないではないですから)。
あ、あと、ぼくを含めた数人のネット仲間で「オンライン読書会」なるものをやっているのですが、そこでいしとびさん訳の『方便心論』を使って読書会をやらせてもらおうと思っています。オンライン読書会には、このブログの上部右列にある「自分がらみのリンク」というところからいけますので、ご覧ください。というか、議論に突込みとか入れてくれるとなお有り難し、です(って、まだ議論は始まってないですが)。
「形而上学的問題」って、そう、確かに切り込んでいきたくなっちゃうんですよ。ただ、その場合にも、能う限り問題はフォーマルな形で扱わないと、水掛け論に終始しちゃってしゃーないだろうなあ、と思いますけど。そういう意味でポパーの持ち出す「議論の実り豊かさ」というのは、最終的な判断基準としてはちょっとあれですけど、公共の場での議題として「健全か健全でないか」ということを判断するクリテリアとしてはすげー有効なものだと思います。
そして、そういう「問題をある程度フォーマルな形に落とし込む」ということには、問題の簡略化やステロタイプ化が伴うことだと思いますが、これはそんなに大したことではないでしょう。何となれば、「いや、そんな簡略化・ステロタイプ化は困るぜ」と、新たなモデリングを提出すればいいだけの話ですし、さらには、そのように簡略化・ステロタイプ化によって、つまりは問題の形式化によって、「形式化されざるもの」という「大問題」が陰画的に析出されるかもしれませんし……もっともそれが学的なものとしての「哲学」の対象になるかどうかはまた別問題ですが。
で、いしとびさんの言っている内容に関しては、はっきり言って「反論」も何もないんですよ。というのも、そもそもブッダやら龍樹の発言やら、もっと総体的にインド哲学やらについて全く無知なわけですから、ここはひたすら「ふーん」と言って聞いとくしかない。だからこそ、ぼくは「反論」という言葉を使わず「いちゃもん」という言葉を使ったわけです。
ただ、ぼくが為したのは、ごく瑣末な点に関する、論の本筋とはちょっとずれたところへの「いちゃもん」だったのですが、それでも、いしとびさんの書き方には誤解を招く点がある、それも確信犯的にそういう書き方をしている、とぼくには思われました。だから、これは「学的」な突っ込みというよりも、「倫理的」な突っ込みなのです。
くぅ〜(泣)
で、読書会のSintaのページ、再生します。みんなのコメントごと消しちゃってゴメンネ。
それはともかく、「もしかして俺、はやしさんと同じこと言ってないか?」という疑惑が生じてきました。詳しくは「マニカナ」をご覧下さい。違いとしては、俺は「まあ色々困った所もある気がするんだけど、内容すごく良かったし、美点をこそみようよ」という態度であり、はやしさんは「内容がだめとかいう以前に、ちょっとどうかと思うところがあるからなー」という態度である、といったところでしょうか。二人とも内容を批判してるのでは無いんですね。ただそこを石飛さんにうまく伝えられなくて、石飛さんは「内容への批判に受けて立とう」とされていて、俺はとてももったいない気がするんですが…。それとも「瑣末」であるという認識が根底的に間違ってるんだろうか…。
はやしさん
もうわかっていただけているような気がします。
その論理学はどのような存在論にコミットしているのか?
まさしくこれです。互いに存在論的に相容れないのです。はやしさんの目には、わたしは全くのアンフェアなヤツに見えることはすごくよくわかっています。なぜわかるかというと、わたしがずっとその気持ちをインド論理学の中で感じてきたからです。
けっこうつらいでもんです。上に推薦図書としてガネーリさんのIndian Logicをあげておられますが、その書評を頼まれたことがありました。19世紀以降の西洋のインド論理学研究史に名を残す10の主要な論文をあげたものです。華麗な研究史ですが、ある意味、これは、西洋論理学による横暴な知の蹂躙という部分をもっています。植民地だったインドは、論理学の世界でも植民地だったのです。すぐれたインドの論理学が、因果律の使えない西洋論理学者によって、「対偶も知らない未熟な論理思想」と評されているのを、黙って見ていなければならないのですから。
ここを研究していたのは、たぶん、わたしくらいだったんだろうと思います。今でも、あまり知られていません。
その涙の思いを(グッとこらえて)綴ったのが「インド論理学研究あれこれ」として、アップしてあります。
存在論的に相容れないと、互いにアンフェアな様相にならざるを得ないです。
あ、「仏教的なにおい」、言語分析のなんかだったんですけど、図書館で借りた本だったもんで、わかったらお教えしますね。
なんだかグチっぽくなって申しわけありません。マニカナにも書いていただいて、ありがとうございます。そっちにもいかなくちゃ。
『方便心論』は、あの、けっしてムキになって読まないで軽くながしてください。経典のたぐいはけっこうやばいんです。
宇井伯壽『印度哲学研究』第二巻「方便心論の註釈的研究」(岩波書店)(古本かなぁ)
梶山雄一「仏教知識論の形成」『講座大乗仏教』9(春秋社)
をプロテクター代わりにするといいかもです。二人は世界に誇る大学者ですが、それでも苦闘して苦吟して苦悶しております。
で、オンライン読書会のシンタさんのページ、バックアップから復活させます?
で、そうなんですよ! おれも「あ、素数の歌さん、おれと同じこと言ってる!」って思った! それは、素数の歌さんが「アラ」と言ってる部分もそうだし、「美点」として挙げている諸々の部分に関してもそう思った。だから、ほんっと、全然対立軸がないんですよねえ。
ただ、やっぱり、いしとびさんの書き方は、読者に論理学を必要以上に低く見積もらせるようなものだし、「挑発して読ませる」という戦略としてもうまくいっていない、と思う。そして、後者の点に関しては、挑発の仕方がまずくて読者を失ったとしても、これはいしとびさんの自業自得だからしゃーないとしても、前者に関しては「ちょっと『倫理的』に問題があるな。瑣末な、内容にはほとんど関わらない突っ込みとはいえ、これは絶対言っておかねば」と思ったのです。
とはいえ、大括りにいって、いしとびさんが批判している「西洋論理学」のエッセンスというのは、繰り返しになりますけど、それが依拠している「変化を扱えない存在論」であるから、それはもはや論理学だけの問題ではなく、端的に「哲学」の問題になるわけで、まあおれは西洋哲学を擁護するような義理も何もないんだけど(あ、ちょっとは「義理」があるかな……)、話の行きがかり上、擬態的にでも西洋的存在論の擁護者の役回りを演じようかなあ、と思ってます。
これ以上、特に言うこともなし。
突然ですが、わたし、けっこういい本書いたかもしれないです。というより、自分で書いてて自分の言ってることわかってなかったと言った方がいいのかも!(二つの文は同じ意味なの?)なさけないなぁ。
反省するサル
「現代には現代のやり方がある」って、自分でかいてんだから、そのようにやらなければいけなかった!
と反省し終わって、「どっちが良いの悪いの」と言うつもりではなく、ブッダの論理学は西洋論理学で語れないものも語れますと言っただけ…あ、「こっちがよい」って言ってますね…けっきょく。
最終的には、子どものけんか別れになる可能性もありますねぇ。しかし、そうなるにしても、互いにそのような異なる存在論があると知ること、それが、重要だと思います。
前に名前の出たベルグソンも含めた実存主義の流れや現代フランスの哲学(?)の潮流は、分析哲学などと大きくちがいますが、そこには存在論的な対立があるように思います。ただ実存主義の人々はそれを示すことができず、「気分の哲学」にしちゃっているので、同じ土俵で勝負できないのだと思います。その「気分」や「現象」を論理づけた人がブッダだと思っています。わたしの意見だから、全然一般的でありません。(ちなみに、今まで話してきたインド哲学系の意見みたいなもの全部、おらのいるギョーカイの一般的な意見ではねぇだ!言語が変わっちゃった、おらの意見だからあてにならないだ)
一人横綱は強くなれない、横綱は二人いなきゃ。存在論の出せる二つの分野でがんばりたいとわたしは望んで、「挑戦状」を書いたんですが、もう、さっそく書き方悪いと言われちゃったです。
西洋と東洋はどっちもお互い必要な存在だと思うんです。
ムキになって読むなら(そう来ると思った)、ぜったいプロテクターつけてね。それから、油断しないでください。突然存在論の穴からマグマが吹きだすから、食らうと致命的です。食らっちゃったわたしです。
宮本さん、ありがとうございます。やさしいなぁ。
で、いきなり核心に飛び込んでいきますけど、どうして「存在論的に相容れないと、お互いにアンフェアな様相にならざるを得ない」のか、よく分かりません。確かに、変化を許容する存在論と許容しない存在論とでは、互いに相容れないアスペクトが出てくることは間違いありません。でも、ことここでぼくが言っている側面、「必要以上に西洋論理学を矮小化し、西洋論理学に不案内な読者をして『なぁんだ、西洋論理学って大したことないのね』と思わさしむる」というアンフェアネスに関しては、存在論もへったくれもないことだと思います。
如上のようなアンフェアネスは、これまでインド論理学に対して西洋論理学陣営が行ってきたことを考えればそれなりに必要なことなのかも知れず、藤崎さんの言い方を借りれば、仮説的なかたちではあれ「<西洋論理学のイマ〜ジュ>と仏教論理学を対置させた」ということなのでしょう(いしとびさん本人はこのことを全面的に認めてはいませんが、一読者の目からはそう読みうります)。しかし、そのような挙措というのは図式的に言えば、単に西洋論理学陣営がインド論理学に対して行ってきたことの陰画に過ぎず、結局「子供の喧嘩」のような様相を呈してしまうでしょう(「こっちのほうがいいんだい!」「いや、こっちのほうだよ!」)。
西洋論理学、延いては西洋哲学は変化を扱うには適さない存在論を下敷きにしていること、それに対してインド論理学、延いてはインド哲学は変化を内に含みこんだ存在論を下敷きにしていること、それはそうに違いありません(ホントのこと言うと、この点も『そうか?』と思わないではないのですが……にしても、とりあえず、大きな潮流を観ずるとそのように捉えられてもしゃーない側面が西洋哲学にはあるにはる、とまでは認めえます)。だからといって、そこから、一足飛びにどっちがいーの悪いのと言うには、何ステップかすっ飛ばしちゃってる、と思います。
で、『方便心論』、ご教示いただいた参考文献を杖に、「軽く流して」というアドヴァイスの方は無視して、「ムキになって読」もうと思います!
>必要以上に西洋論理学を矮小化し
はやしさん、じゃあ「必要十分なだけ」
>西洋論理学を矮小化し
てみてくれないか?
それに
「東洋哲学(ブッダ論理学)」に無知であると公言しながら
>『なぁんだ、西洋論理学って大したことないのね』と思わさしむる」
可能性があるというだけで、相手を公の場で『アンフェアネス』と告発するならそれなりの覚悟がおありなのだろう。
「アンフェアネス」っていうのは強い非難の言葉だ。
確かそうだよな、うん。
東洋vs西洋でやるならどこか邪魔の入らない所で仕切り直されてはいかがか?
で、ほんと、「どっちが良いの悪いの」では全然ないんですよ。確かに、いしとびさんは立場上、というか、アカデミックなバックグラウンドが然らしむることとして、どうしたってインド論理学の肩を持つだろうし、その逆もおれに関して言えるわけです。それは仕方ない。ただ、やっぱり、どちらにも得手不得手ってのがあって、それは互いに認めなきゃなあ、と思います(たとえば、「ブッダ論理学は一切を語る」とは、西洋論理学的な言葉遣いでいけば「完全性」のことだと思うんですが、ここらへんの提示/説得/説明の仕方が弱いかなあ、と思います)。
そういう場合、「最悪の事態」として「子供の喧嘩別れ」があると思うんですが、これはいかにももったいないことです。確かに、そういった事態に立ち至っても、「異なる存在論」を知ることができた、という風にも言えるかもしれませんが……やはりその場合、否定的なものとしてしかそういった存在論を見ないわけで、ある意味、全く知らないのと大差ない、と言えなくもないかも、と思ったり(いや、それでも、その存在自体を知らぬままよりは、喧嘩別れという事態に相成っても、そういうものがあるということを知っただけいい、とは基本的には思います)。
それで、これは単純に質問になるんですが、ベルクソンやら実存主義やらいわゆる現代フランス哲学やらについて、「そこには存在論的な対立がある」といしとびさんは言っていますが、これは「そういった潮流内部で存在論的対立がある」ということでしょうか? それとも、「そういった潮流は、オーソドックスと考えられる哲学・思想の潮流と、存在論的対立がある」ということでしょうか? 多分、後者の解釈でいいと思うので、そういうことで話を進めますが、確かに、実存主義はともかく(これは西洋の伝統的存在論の正嫡子であり、そこには当然対立はありません。また、ベルクソンは実存主義には括れない、と思います)、ベルクソンや、そして現代フランス思想の人たちは、固定的な「ある」を礎においた存在論に替えて、流動的な「生成変化」というものを礎においた存在論のもと、その考えを進め、あるいは、そのような流動的存在論を自らの思索の根本におかずとも、旧来の固定的存在論に疑義を唱えました。ただ、しかし、いみじくもいしとびさんの言うように、そのプレゼンの仕方が秘教的というか何というか、少なくとも分かりやすいものではなかった。もちろん、扱っている問題自体が難しいわけですから、勢いそれについて語る語り口もある程度分かりにくいものになってしまうことも仕方ないのですが……とはいえ、です。
「一人横綱は強くなれない」といういしとびさんの言、全くその通りです。ただ、今現在の西洋(アメリカを含む)の状況は、「一人横綱」どころか、小結がうじゃうじゃいるだけのような感じで……まあ、それもある意味「健全」な状況かな、とも思うんですけどね(<a href="http
で、『方便心論』、油断せずに、いしとびさんのマニカナの記事もプロテクターとして装着し、がっつり読みますよ!
何せ発展途上なもので、ご迷惑をおかけします。
後者でよいです。ベルグソンはたしかにむりやりでした。「フランスは神秘主義に弱い」と、昔YMO(ふるっ!)メンバーだった高橋幸宏氏が言ってて、それでフランスを知りました。じっさい、東洋は、それをえさにして西洋と接触していたと思います。植民地時代、インドも合理主義を捨て、ひたすらアートマン哲学の神秘を説いて、何とか西洋に対抗しようと涙ぐましい努力をしました。ヨーガも、じつは合理主義のかたまりですが、神秘主義のベールをまとって西洋人を引きつけました。インド人自身が自分たちの合理主義的な側面を否定してきたんだからなぁ…ふっ…芸風うつるんですか。
固定的な「ある」は、わたしの理解したところでは、パルメニデスをはじめとするのかなと思います。<ある>はある。<あらぬ>はあらぬ。その弟子、ゼノンのど根性がいまだに生きててパラドックスを生みだし続け、はやしさんに「またこれか」と言われるカメの本が出ているのではないでしょうか。
今は小結わんさか時代なんですね。中から横綱生まれるかな?
『方便心論』は、わたしには「一生もん」の作品なので、まだまだ訳は進化してきています。でも、今のところ、出せるのはこれが精一杯かなと思います。後ろの「相応」というところはこれからの課題なのでさっぱりしちゃってます。あと、一番最後の論証で発狂しそうだったのでとくに気をつけてください。
「フランスは神秘主義に弱い」、少なくともそれ、ベルクソンに関してはとりあえず当てはまると思いますね。心霊研究協会のメンバーだったりとか……(とはいえ、この心霊研究協会、名前から連想されるそれとは裏腹に、その活動は「いわゆる『心霊現象』のトリック暴き」だったりするんですが)。
まあ、特にフランスが神秘主義に弱い、ということの真偽に関してはさておき、東洋側からの自覚的なマーケティングヴァリューとしての「神秘主義」、確かにそういう側面もあるかもしれませんね。今まで、もっぱら西洋側の「自分が見たいものだけを東洋に見る」という捉え方しかしていなかったので、東洋側の意識的戦略の一部、という捉え方は新鮮です。
「アキレスの亀」やら「飛ぶ矢」やらの「パラドクス」、ほんと「またか……」なんですけど、それはさておき、固定的な存在論の根は、公式的には確かにパルメニデス、ですね。ただ、(えっらい昔の記憶なんであやふやなんですけど)パルメニデス本人の断片を読んでみると、そりゃあ「有る」一元論を強硬に主張しているのは読めるんだけど、それ以外の話の組成ってのはなかなかよー分からん!と思った覚えがあります。まあ、ここいらの「ソクラテス以前」をじっくり読み直す、ってのは、「老後の楽しみ」、ですかねえ。
『方便心論』の最後のとこ、気をつけます。
オチ。サゲっていうのかな関東じゃ。
を説明しなきゃあ笑ってもらえない芸人みたいでやなんだけど。
俺の「フッ」のあとの三点リーダには
「お前を愛してる。けど、こんなこと言わせんな。」が省略されてるんだ。
これはほんとなんだ。
大阪商人の心得みたいだけど…
経済/金融の専門家にとってはどうなのかな?
俺ってやっぱ哲学者としての自負からなんだろうけど「金勘定アレルギー」みたいなのがあって、去年コンビニでバイトしてた時もおつり間違えてばかりで首になったって経緯があんのね。
「6足す5は12」ってのがずっと頭を巡ってた時期もあったりして…じゃあ、6足す6は?
これが14なんだな、うん。
数学、苦手なんだ
ほんとは
「ブッダ論理学五つの難問」読み終えました。
迷宮に挑まんとするあまたのテーセウスに手渡されるべきアリアドネの糸。
君の勇気に敬礼し、乾杯する。
ディオニソスである私が、ここで立ち止まっていてはいけないと、・・・
みちこがいて、はやしもいる。ゲリラ教授だって健在だ。
恐れることはなにもない。
私がどこかで行き倒れてたら、そこに立て看板をたててくれればいい。「この先行き止まり」 … 。
ま、それもともかく、石飛さんは無駄に東洋・西洋という対立図式を煽りすぎている、とおれはやっぱり思うなあ。
と、それもともかく、ゲリラ教授、どっかに書き込みとかしてんの? おれ、実際に言葉を交わしたことないんだよね。というか、あの「哲学教室」も実は未だ全部読んでない……。
で、それもともかく、うん、安心して良い。もし宮本さんがどこかで行き倒れていたら、おれがその亡骸を跨いでその先まで歩みを進めるよ……。
がカキコしてるホームグラウンドは下記だけど
<a href="http
けいこディレクターが俺のインタビュー作品「匿名ゲリラ編」を鋭意編集中、予告編は今月中に公開予定!
本編は年内にも販売する!つもりだから、乞うご期待。
次回作は「アヤシイはやし編」か「印哲みちこ編」
ええやろ!
で、予告編はいつから、どこで公開? そして、完成版が販売された暁には……ください!
次回作は……おれとしては、O-40の人を実際に一同に会させて、その様子を撮影、というのが見たいな。
その1.投稿に何らかの形式があること
たとえば文字数(同数で揃えた構成もあれば、増加・減少するパターンもある。番外地3ではタイトル100行でウェーブが描かれた)、同語・同文の反復、「新定義集」の造語シリーズ等々、多様な形式が掲示板上に形成されていく。
また投稿は、誰かに読んでもらうために行うのだろうから、スレッドにせよレスにせよ、通常、頁上部へ投稿されるが、番外地3で教授は「死蔵」概念を引用し、地下に向かって成長する「樹型巨大頁」(ゲリラ語)を形成した。
(番外地3 <a href="http
番外地4は開設されたばかりでサンプル数が少ないが、それでも「ニコちゃん」が教授である確率は非常に高いと思われる。
その理由は、タイトルの一部を本文に反復するという一定のパターンが認められること、さらに重要なのは、それが「新しい形式」として出現したことである。
その2.…もうええか(笑)
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