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ここのところ、主にはてなダイアリー上において浅田彰本人と思しき書込みがいくつか確認されている(そのまとめとしてはここを参照)。そしてその副次的効果なのか、浅田彰の狙っていた通りの効果なのか、講演会などのイベントレポを自らのサイトにアップすることを辞める、という人まで出た。
それら一連の浅田彰の書込み、およびこの記事の末尾にある注を参照するに、その発言をがっつりまとめてしまえば「おれの言ってることを勝手に解釈、あるいはそれら風聞と言ってもいい解釈に基づいたことをウェブに載せないでくれよ」というものだ。
確かに、講演会やシンポジウムなどのライブな場での発言を、そこそこの悪意を持った第三者が聞きかじり、それを自分の論旨に合うように加工した断片を勝手に公表されるというのは、講演会やシンポジウムの当の発言者にとっては迷惑この上ないものであるだろう。そして、そのようなイベントレポをウェブ上にパブリッシュするにしても、それらイベントの参加者の校閲を経た上で、というのも、まあ「それが出来ればサイコー」ではあろう。だが、そんなメンドイことを、そこから何の利害も発生しないような市井のウェブロガーがやっていられるだろうか?
そもそも、イベントレポを自らのサイトにパブリッシュするということが、「これを元に某を叩いてやろう」という悪意を持って行われるにせよ、「当日イベント会場に来られなかった人に、このことを伝えたい」という純粋な善意から行われるにせよ、「まったき真正なる情報」などというものは存在しない。
どれほど細心の注意を払って校訂された情報であっても、それは常に「誤読」や「誤解」の可能性に開かれている。
だとすると問題は、「正しき情報」というものがあってそれを「ルース」に取扱うことではなく、そもそも情報というものはルースなものなのだということを、その情報の受け手もよくよく認識するべきだ、ということだろう。
イベントでの発言であれ何であれ、その「真意」を「十全に」受取ることなど、特別な例外を除いてありそうもない。であるからこそ、情報の受け手たるわれわれが、「その情報はそもそもどういうコンテクスト上に位置していたのか?」、「この情報はAというサイトではBと、CというサイトではDという解釈がなされていたが、その一貫性をどう担保するのか?」などということを、各情報にたいして自ら行い、能う限り「精確に」情報を解読しようとするべきだろう。
そして、さらに言えば、「まったき真正なる情報(の解釈)」など目指す必要も、これっぽちもありはしない。浅田彰の如上の発言が、ウェブ上でのイベントレポの公表ということについて戦略的に「抑圧」として(結果的に?)作用したように、われわれとしても「情報の断片」から、そのありもしない「全体」を再構築し、それをさらにばら撒く(散種 dissémination……)ということを戦略的に行っていけない、ということがどうしてあろう? もっともそれに際しても、従前の「情報の『精確な』読取り」ということが前提作業とはなろうが。
という訳で、イベントレポをパブリッシュすることを自粛する、などという物分りのいいことをせず、徹底抗戦の構えを見せるべきだとおもうのだが、いかがなものだろうか。まあ、暢気な外野の囃し立て、ではあるけれども。
>おれの言ってることを勝手に解釈、あるいはそれら風聞と言ってもいい解釈に基づいたことをウェブに載せないでくれよ
「おれ」を「ドゥルーズ」と、「ウェブ」を「本」と置き替えて、そのまま、浅田某さんにささげたいと思います。
浅田某さんの「構造となんとか」という「本」を含め
>そもそも情報というものはルースなものなのだ
ということを私はもっともっと早く理解すべきでしたね。「大学生のときに、浅田某さんが書いた「構造となんとか」という本さえ読んでいなかったら、俺の人生は絶対に楽しく良いように変わっていた」と家内にぼやく度に、このはやしさんの言葉と同じ意をもって、「騙された、あなたが馬鹿なだけなのよ」と笑われます。(ちなみに家内は小学生のころからすでに非弁証法系唯物論者だった模様です。)
だから、浅田某さんに対しては、絶対に「自粛」などせず、「徹底抗戦」してほしいものです。
でも、この人、「闘争」でなくて「逃走」するのが好きだから「徹底抗戦」しても無駄でしょうね。
男なら死ぬまでにせめて一度くらいは本当に「闘争」を受けた時、「闘争」を受けてたってほしいものです。(・・・この人 一応オスですが、本当にメスに興味がないっていいますからこんなこと言っても意味なしか・・・ああああ。 女性の方々へ、大変不当な発言申し訳ありません。平にご容赦を。)
さもなくば「構造となんとか」の「総括」を。
なんか、全共闘世代みたいなことを私も言ってますね。(笑)
ミッシェル・フーコに敬意を表して私は、思考においてホモセクシャルには本当に寛容だと思いますが、この浅田某さんだけには、思わず「この、オカ●野郎」って言いたくもなりますなあ。はあああああ。
ところで、もうカビが生えていると思うのですが、「構造となんとか」という本、はやしさんは読まれたことがありますか。?
あれを読んだ連中は、浅田某さんには、一言も二言も三言も言いたくなりますよ。
昔々あの、「とんでも」「ドゥルーズ本」が20万冊以上売れました。
理由は、ドゥルーズという当時日本で名前だけは有名になっていた哲学者の本の翻訳が、当時ほとんど皆無に近かったことです。だから、検証のしようもなく、鵜呑みにした「馬鹿」は私を含め19万人はいると思います。
ぼやいてばかりですいませんでした。
ただ、浅田さんが、構造と力という本で一躍有名になったのは事実ですし、その本を読んで真に受けてしまった馬鹿が私を含め、多数いたのは事実だと思います。
高名なドゥールズが、こんなニヒリズムを説いているのかと当時暗澹たる気持ちになり、一生受動的ニヒリズムをあと50年仕方ないから続けて送るために、あきらめて選んだ会社が今の会社でした。
後、ドゥールズの本当の愛弟子さんたちが日本人にも出てきて、また、翻訳書もどんどん出てきて、ドゥールズの思想の全貌が見えてくるにつれて、田中さんと柄谷さん以外は浅田さんのことをどんどん誰も相手にしなくなりましたね。
暗に「こういうドゥールズの読み方もありなのかな?」というソフト路線から、「名指しでデタラメ」というハード路線まで、私としは愛弟子さんや、翻訳者からの浅田評価というのはもう固まっていると思っています。
ただ、浅田さんというのは、マスコミ受けするのですね。要は日本で最も頭の良い「タレント」なのだと思います。だから、学者としての著作数は、対談集を省くと極めて少ない。
大学の先生で、これだけ知名度が高くて、これだけ本を書いていない人は本当にめずらしいでしょう。
若い世代のドゥルーズファン、ドゥルージアンの皆様へ。
「構造と力」という本を浅田さんが書いて、「私はドゥルージアン」だと言い張り、そして、浅田さんの上の世代の哲学関係者も「彼こそはドゥルージアン」だと持ち上げたそんな時代もかつては日本にはあったのですよ。
「ニューアカデミズム」というのは、それほど内容の無いバブリーなもので、それが綺麗に消滅したのは「ニューサイエンス」が死語になったのとほとんど同じ次元のことだと理解しております。
ぼくはニューアカの嵐が吹き荒れる(というほどではないのかかな?)渦中ではなく、事後的に、一定の距離を持って浅田彰に接した口なので、留保付きではありますが彼に対しては概ね好意的です。
何より彼は、並み居る凡百の(ある程度のメディア露出のある)人文知識人の中で見ると、極めて聡明です。それは、戦略的に言ってもそうで、浅田彰は、原作たそがれ清兵衛さんが指摘されたような面も含めて、自分がやっていることを自覚している。自分のやっていることにオリジナルな点など何もないこと、先達の仕事を縮小再生産し、そこには曲解と言ってもいいような解釈が紛れ込んでいること、などなど。
そしてそうであればぼくは、そういう浅田彰の書き物も、ルースである情報の一つとして読んできたのでした。そこに書かれていることを真に受け、感嘆したり、もしくは憤慨したり、というのも一つの楽しみ方ですが、ぼくの場合は「なーに、言ってやがんでえ!」と、「法螺話」を読むように楽しんだものです。そして、その「法螺話」は、法螺話としての質を考えると、極めて良質なもののように思います。
とはいえ、訝しい、というか、原作たそがれ清兵衛さんも言っておられるように、あの『構造と力』を「ドゥルージアンの書」として読むことは危険であり、間違えた読み方ではあるでしょうね。というのも、あの本には『アンチ・オイディプス』、『ミル・プラトー』といったガタリとの共著しか取り上げられていない。そして、読みようによってはそれだけで「ドゥルーズの思想」というものを代表させてしまっているようにも見える。しかしそれも、ある局限された視点からの「構造主義/ポスト構造主義」というものの「チャート式まとめ」であり、まあ「マーケッター浅田」の意図的な取捨選択のしからしむるところでしょう。そもそも、浅田彰にとって何であれ「書物」とは、「『ツール』として使うもの」なのですから。
それにしても、ほんと浅田彰は著作が少ないですね。彼の「オリジナル」な思想が開陳された書物と言うものは未だ皆無と言ってもいい(専門であるゲーム理論の書き物は、何か書いているんでしょうか?)。ここまで何も書いていない、というのは、日本の言論界においてもちょっと稀有な例だと思います。
原作たそがれ清兵衛さんが仰る「日本で最も頭の良い『タレント』」、これ浅田彰を評する言葉としては至言だと思います。さりとて、ぼくは「タレント」だから批難する、というより、そういうものとして楽しんでる口です。とはいえ、『インターコミュニケーション』の編集委員に名前を貸すだけで年間300万とか聞くと、やっぱり「何だよそれー」とは思いますが。
何だかんだ、ものすごく浅田彰を擁護しちゃいましたが、原作たそがれ清兵衛さんの浅田に対する評価は「それ自体」としてはいちいち至極もっともなものだと思います。ただまあ、繰り返しになりますが、問題はそれを「そういうもの」として見抜けずに変に祀り上げちゃう受け手にあるんじゃないかなあ、と。
そんなわけで、コメントありがとうございました!
本当に哲学を理解しておられる方に、20年来の積年の恨みを吐露できて、本当にスッとしました。(笑)
(家内は、発想や思考が明らかに非弁証法系唯物論者なのですが、それは、家内にとって、ごくごく当たり前のようなものらしく、そのため哲学書はあまり読みません。従って体系だった知識もありません。)
そもそも「積年の恨みを抱く」なんて、ドゥルージアンにあるまじき行為ですが。(笑)
ところでここ5年は、浅田さんの活動を全くフォローできていませんが、以前は批評空間を結構パラパラとは見ていました。定番の、サイードと福田と柄谷のあれです。
「そんなに上手く立ち回るより、自分の意見をもっとがんがん言えよ」とか、「あんたは、単なる司会かよ」とかいつも思い、結局やっぱり「毒にも薬にもならないな」ってのが、彼にもった最後の感想でした。
ですから、私も彼のことを最近は批判的には思っていませんし、また、はやしさんのおっしゃるように?、彼は自分の分をわきまえていると思います。
ただ、もし
>おれの言ってることを勝手に解釈、あるいはそれら風聞と言ってもいい解釈に基づいたことをウェブに載せないでくれよ
って内容のことを浅田さんが言ったのなら、「浅田さんにはそんなことを絶対にいえない20年前の過去があるでしょ」って言いたかっただけなのですが、書いていると色々と昔のことをフツフツと思い出して、不必要なことを沢山書いてしまって申し訳ありませんでした。
それで浅田さんの話しから脱線して、恐縮です。
この続きは、「ドゥルーズ」のエントリーに書かせていただきます。そちらに書かせていただいたほうがふさわしい内容だと思いますので・・・・・。
上記の言い訳の元にいい加減な情報が行き交い、かつそれを正当化していくならば、いずれ強制力のある規制がかかってしまう。それが望ましくないからこそ自律的にもう少し正確であろうと個々の発信者が考えるべきだ、というのが浅田さんの意図するところなのではないでしょうか。
原作たそがれ清兵衛さんの個人的怨念に満ちたコメントは八十年代をリアルタイムで知らないせいなのか、理解できませんでした。
いや、「『情報一般に伴う条件』といいますが、誤解や誤配は『情報一般に伴う条件』だから不可避だし、それでいいのだ、と言い切ってしまうとすれば、それは安易な居直りでしかないでしょう」と言う部分は全くもってもっともなんですよ。でも、それを書き手だけの問題として今回のような仕儀に至らせてしまうのは、何か違うよなあ、とも思うのです。
扇情的に書いたので分かりにくいでしょうが、浅田さんが如上のように発していた警告を、ぼくは主に読み手の方に投影して言いなおしたつもりです。基本的には書き手は精確を期すべきだし、読み手としても書かれたものをナイーヴに受け取るだけではなく批判的に読む、というのは大前提でしょう。あくまで、「基本的には」ですけど。
ただ、ぼくは貴兄のように(あ、女性かもしれませんね。その場合はご寛恕を)、戦略的であれ何であれ、悪意を持ってある人の意見を捻じ曲げるということが、「いずれ強制力のある規制がかかってしまう」ことを誘発するとまでは思っていません。特にこの事例に関して言えば、狭いサークル内での痴話喧嘩みたいなものですから。それに、いい加減な情報が行き交ってしまうようなリテラシーの低い人たちから構成されているような場は、「強制力のある規制」によってついえさっても致し方ない、とも思わないでもないですし。
ま、そんなことも、二重の意味で(そこまでリテラシーの低いやつらばかりではないだろう、ということと、強制力のある規制がかかるまでの事態にはならないだろう、ということ)ないでしょうが。
またayakaさんがここを見ていただけるかどうか覚束ないのですが、自分の旗幟を鮮明にするためにも、ちょっとコメントします。
確かにぼくは努めて「楽観的」に振舞おうとしています。でも、それはある意味擬態的なそれで、底の方ではやもすればayakaさんよりも悲観的な想いを持っている、とも言えるのです。
何となれば、弾圧や言論統制というのは、その気になれば何ら根拠がなく行われうるものだからです。というよりも、「真実」を前に怖気を振るった既得権益者が行使するものとしてそのような規制力はあるのではないでしょうか。
だからといって「誤解を振りまく」ことを擁護することにはこれっぽっちもならないことは百も承知なのですが、少なくとも大小各種の嘘や規制に対処するためにも、個々のリテラシーを磨いておくべき、とだけは、繰り返しになりますが、思っています。
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