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デリダ(『弔鐘』)→ヘーゲルという道筋から、フランス系の『ヘーゲルと現代思想』という本に至り、そこに所収されているアルチュセールの「ヘーゲルに対するマルクスの関係について」という論文をきっかけに「ヘーゲル=マルクス問題」とでも言うべきやっかいなところに頭を突っ込みかけてるわけですが、アルチュセール論文に見られる「ヘーゲル(の方法=弁証法)をリカード(の経済学)に適用する、のではなく、それ(=ヘーゲル弁証法)をリカードのうちで作動travaillerさせる」という「マルクスの方法」(≒唯物弁証法)の特徴づけやら、同じくアルチュセールの『マルクスのために』(翻訳)における名高い(?)「(ヘーゲル弁証法において)神秘の殻mystischen Hülleのうちにある合理的な核rationellen Kernを見つけ出すこと」解釈やら、昔(学部生のころ、ですな)は「ふんふん」とそれなりに感心しながら読んだ(あるいは読んだであろう)箇所が、「何や、よう分からん」というか、「アルチュセール、ほんとうにちゃんとヘーゲル読んでたんか?」という感想を持ちましたです。
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ヘーゲル、重要ですよね…。フランスではコジェーヴの文脈もあるし。ドゥルーズの妙に楽天的なヘーゲル拒否が日本で受けてしまって、現代思想を読む人の中でも、ヘーゲルを読まず嫌いに済ましているような気がします。
といっても私もご多分に漏れずそうだったので、最近じっくりと向かい合うようになりましたが。
といっても私もご多分に漏れずそうだったので、最近じっくりと向かい合うようになりましたが。
ぼくのいた学部は、相当「ポストモダン」的雰囲気の残存程度が高く、あまつさえ知人にドゥルーズで卒論を書いた人間が何人もいたような環境なので、「アンタイ・ヘーゲル」的な雰囲気は濃厚、でしたね。ぼくは、と言えば、生来のへそまがりに加えて、先日ちょろっと言ったとおり、何を思ったのか高校のときにヘーゲル全集を定期購読していたこともあって、それなりにちゃんとヘーゲルを読んだうえでヘーゲル擁護の論陣を張ったりしていました。そのなかで思ったことは、ヘーゲルを批判するフランス系の人たちの言を真に受けて、要するに「受け売り」でヘーゲルを批判する知人たちにしたって、ぜんぜん元を読まずに批判していたりと、まったくもってお話になりませんでした。
近年、長谷川さんの新訳が出たこともあり、そして「ポストモダン」という名の「亡霊」も影を潜めたこともあって、よりプレインにヘーゲルを読める、そんな感じになってきたように思います。
近年、長谷川さんの新訳が出たこともあり、そして「ポストモダン」という名の「亡霊」も影を潜めたこともあって、よりプレインにヘーゲルを読める、そんな感じになってきたように思います。
ありますね、そういう雰囲気。かくいう私もドゥルージアンからこの領域に入ったからよくわかるんですが。あと、カントやヘーゲルらの系譜上でベンヤミンが読まれず何となくベンヤミンに逃げ込むという現象も相関的だったと思います。そういう受容を一旦措くと、いろんな系譜が混ざり合ってるように見えるんですけどねベンヤミンも。
>ヘーゲルを批判するフランス系の人たち
「反ヘーゲル」として見られた人というのはフーコー、アルチュセール、ドゥルーズなんでしょうけど、よく見ると微妙なんですよね。アルチュはヘーゲルで博士書いたような人ですし、シモンドン経由で生成論をやるドゥルーズは見ようによってはヘーゲルとシェリングの交錯から見返せそうだし。なんとなく、同一性と和解のヘーゲル、みたいな通念が支配してましたよね日本じゃ。アドルノはそれに抵抗して奮戦してましたけど、なぜかこの側面が全然読まれなかったし。
あと、はやしさんもそうですが、デリダが濃厚にヘーゲルを重視してるってことですね(ハイデガーも留保つきであれ、講義録ではヘーゲルを評価してるし)。デリダとか自然哲学とかを経由すると、マルクス-ヘーゲルのラインが、ソ連の公式的弁証法的唯物論とはまた違う射程から見えてくるっていうのがありますね。ナンシーなんか最近ヘーゲルに近づいてきてるみたいですし。
あとは、コジェーヴ~ラカンの軸かなぁ。市田良彦なんて、「いまやほとんどヘーゲルの時代と言ってよいでしょう」とか10年ぐらい前に言ってて、なかなか示唆的だと思いました。ただし、自覚なきヘーゲルの時代なんですが。
>ヘーゲルを批判するフランス系の人たち
「反ヘーゲル」として見られた人というのはフーコー、アルチュセール、ドゥルーズなんでしょうけど、よく見ると微妙なんですよね。アルチュはヘーゲルで博士書いたような人ですし、シモンドン経由で生成論をやるドゥルーズは見ようによってはヘーゲルとシェリングの交錯から見返せそうだし。なんとなく、同一性と和解のヘーゲル、みたいな通念が支配してましたよね日本じゃ。アドルノはそれに抵抗して奮戦してましたけど、なぜかこの側面が全然読まれなかったし。
あと、はやしさんもそうですが、デリダが濃厚にヘーゲルを重視してるってことですね(ハイデガーも留保つきであれ、講義録ではヘーゲルを評価してるし)。デリダとか自然哲学とかを経由すると、マルクス-ヘーゲルのラインが、ソ連の公式的弁証法的唯物論とはまた違う射程から見えてくるっていうのがありますね。ナンシーなんか最近ヘーゲルに近づいてきてるみたいですし。
あとは、コジェーヴ~ラカンの軸かなぁ。市田良彦なんて、「いまやほとんどヘーゲルの時代と言ってよいでしょう」とか10年ぐらい前に言ってて、なかなか示唆的だと思いました。ただし、自覚なきヘーゲルの時代なんですが。
ベンヤミンというのも、日本だけにかぎらず、あまりドイツ哲学(という言い方はあまりしっくりこないのですが、便宜的にこう呼びます)の文脈で読まれないですね。そうした文脈で読まれるにしても、いったんマルクス的なフィルターを通したうえでのことで、です。
もちろん、「マルクス的なフィルター」というのはベンヤミンじしん(そして、ここで話題になっているフランス知識人たち)にかくじつにあり、そうした側面も捨象できないのですが、それでも、われわれがそれら著作家を読むとき、あまりにそうした「フィルター」の存在を無批判に前提としすぎている。つまり、それら著作家は、われわれが思うよりよほど「フィルター」を通るまえの原テキストを読みこんでいるように思います。
だから、フランス知識人たちが「ヘーゲルを批判した」にしても、それはある一定程度ヘーゲルを読んだうえでの、つまり、その功績をそれなりに認めたうえでの批判であって、「箸にも棒にもかからない」という掃き捨てではないのです。それなのに、われわれはそれら「ヘーゲルを批判するテキスト」を読むとき、「じゃあヘーゲルはもういいか」というふうになりがちである。しかし、それは当のフランス知識人のヘーゲル批判文そのものもちゃんと読めていないのです。
……と、何やら関係のない方向に話が流れそうなので、tttさんのコメントに沿った方向に引き戻しますが、アルチュセールはたしかにヘーゲルを相当読んでいますが、やはり上で言ったような「マルクスのフィルター」がつよすぎるように思うんですね。だから、文中で言った「アルチュセール、ほんとうにちゃんとヘーゲル読んでたんか?」というのは言いすぎにしても、最終的な表出としてはマルクス的な部分がメインになってしまい、「直のヘーゲル」の影がどうしても薄くなってしまっている。
ドゥルーズにしたって、たとえば『差異と反復』なんかでも、それなりにヘーゲルを読んだうえで批判してますもん。しかも、その批判の仕方も、「ヘーゲル、ぜんっぜんだめ!」というものではなく、「いや、惜しいんだけど、最終的な部分でだめなんだよねえ」という感じで(手元に原本しかないので該当箇所が見つからないのですが、ヘーゲルをシェリングと対比させつつ批判していた箇所とかありましたよね)。シモンドンは、恥ずかしながら「本を持っているだけ」で、ビュイダンのドゥルーズ論でそのアウトラインを知っているだけなんですが、「個体化って、下手すりゃヘーゲルじゃん」みたいに思った覚えもあるので(これはけっこういい加減な述懐なので、ぜんぜんちがっていたらご寛恕を)、ヘーゲル=ドゥルーズラインの「近さ」というものを考えてみてもいいのかもしれません。もちろん、「終着点」だけ見れば「いかにも反りが合わない」んですが、そこだけを見て「油と水」みたいに言うのは、言いすぎのように思います。
で、tttさんも仰るように、フランスにはコジェーヴやらイポリットやらがいて、けっしてヘーゲル色は薄くないんですね。実存主義が席巻するまえは"Trois H"なんて言ってたぐらいで。そして、実存主義以降も、デリダはもちろんですが、それこそコジェーヴの授業に出ていた人たちが「ヘーゲル」の名を守っている感じで、むしろ本国ドイツよりも、ヘーゲルは手厚く扱われているように思えます。もっとも、これはぼくがドイツの思想哲学状況に疎いからそう思うだけかもしれませんが。
というわけで、何だか取り留めのない返答になってしまいましたが、近いうちに真正面からの「ヘーゲル擁護」でもぶちあげられればな、と思っております。
もちろん、「マルクス的なフィルター」というのはベンヤミンじしん(そして、ここで話題になっているフランス知識人たち)にかくじつにあり、そうした側面も捨象できないのですが、それでも、われわれがそれら著作家を読むとき、あまりにそうした「フィルター」の存在を無批判に前提としすぎている。つまり、それら著作家は、われわれが思うよりよほど「フィルター」を通るまえの原テキストを読みこんでいるように思います。
だから、フランス知識人たちが「ヘーゲルを批判した」にしても、それはある一定程度ヘーゲルを読んだうえでの、つまり、その功績をそれなりに認めたうえでの批判であって、「箸にも棒にもかからない」という掃き捨てではないのです。それなのに、われわれはそれら「ヘーゲルを批判するテキスト」を読むとき、「じゃあヘーゲルはもういいか」というふうになりがちである。しかし、それは当のフランス知識人のヘーゲル批判文そのものもちゃんと読めていないのです。
……と、何やら関係のない方向に話が流れそうなので、tttさんのコメントに沿った方向に引き戻しますが、アルチュセールはたしかにヘーゲルを相当読んでいますが、やはり上で言ったような「マルクスのフィルター」がつよすぎるように思うんですね。だから、文中で言った「アルチュセール、ほんとうにちゃんとヘーゲル読んでたんか?」というのは言いすぎにしても、最終的な表出としてはマルクス的な部分がメインになってしまい、「直のヘーゲル」の影がどうしても薄くなってしまっている。
ドゥルーズにしたって、たとえば『差異と反復』なんかでも、それなりにヘーゲルを読んだうえで批判してますもん。しかも、その批判の仕方も、「ヘーゲル、ぜんっぜんだめ!」というものではなく、「いや、惜しいんだけど、最終的な部分でだめなんだよねえ」という感じで(手元に原本しかないので該当箇所が見つからないのですが、ヘーゲルをシェリングと対比させつつ批判していた箇所とかありましたよね)。シモンドンは、恥ずかしながら「本を持っているだけ」で、ビュイダンのドゥルーズ論でそのアウトラインを知っているだけなんですが、「個体化って、下手すりゃヘーゲルじゃん」みたいに思った覚えもあるので(これはけっこういい加減な述懐なので、ぜんぜんちがっていたらご寛恕を)、ヘーゲル=ドゥルーズラインの「近さ」というものを考えてみてもいいのかもしれません。もちろん、「終着点」だけ見れば「いかにも反りが合わない」んですが、そこだけを見て「油と水」みたいに言うのは、言いすぎのように思います。
で、tttさんも仰るように、フランスにはコジェーヴやらイポリットやらがいて、けっしてヘーゲル色は薄くないんですね。実存主義が席巻するまえは"Trois H"なんて言ってたぐらいで。そして、実存主義以降も、デリダはもちろんですが、それこそコジェーヴの授業に出ていた人たちが「ヘーゲル」の名を守っている感じで、むしろ本国ドイツよりも、ヘーゲルは手厚く扱われているように思えます。もっとも、これはぼくがドイツの思想哲学状況に疎いからそう思うだけかもしれませんが。
というわけで、何だか取り留めのない返答になってしまいましたが、近いうちに真正面からの「ヘーゲル擁護」でもぶちあげられればな、と思っております。
はやしさんの主旨に付け加える内容もなく、私自身「そこんとこじっくり読んでみたいんですよね」と返すようなことになるだけなのでレスつけられないでいたんですが、返答しないのも大いに失礼なので簡単に(自分の分に見合った程度に)。
>「マルクス的なフィルター」
ルカーチのヘーゲリアン振りもあるし、サルトルのマルクス主義とヒューマニズムの両立もあるし、同時にソ連の公式主義も当時は盛んだし、アドルノはサルトル流ヘーゲルとソ連に効してヘーゲルを強調するし、60年代には経済哲学草稿が発見されるし、ものすごく交錯してるんですよね…。このあまりの交錯ゆえか、なぜか「じゃあヘーゲルはもういいか」みたいに簡単になりすぎたみたいなところもありますね。
>アルチュセールはたしかにヘーゲルを相当読んでいますが、やはり上で言ったような「マルクスのフィルター」がつよすぎるように思う
ああ、たしかにそういう側面はありますね。
>シモンドンは、恥ずかしながら「本を持っているだけ」で、ビュイダンのドゥルーズ論でそのアウトラインを知っているだけなんですが、「個体化って、下手すりゃヘーゲルじゃん」みたいに思った覚えもある
私はシモンドン理解に関しては大きなことはいえず、日本語のシモンドンを扱った論文ぐらいしか読んでおらずまだ漠然とした理解および印象なので「少なくともドイツ観念論時代のシステム論(的な源流)との差異と類似をある程度きっちり抽出できないかなあ」などと思ってる程度なんです。せっかく仏で復刊されてきたんだしシモンドン読まないと…。ビュイダンに関しては最終章の音楽論の箇所しか読んでなかったので、シモンドンに関する論述があるとはすっかり未確認でした。読んでみよう。
>それこそコジェーヴの授業に出ていた人たちが「ヘーゲル」の名を守っている感じで、
これはバタイユやラカン、メルロポンティなどのことを指して言ってるのかな。実際にはやしさんが言うとおりだと思うんですが、往々にして「ヘーゲルに対抗した弟子筋たち」というふうに括られがちだったりするんですよね。抵抗でもあるのでこの扱いがが実に微妙で。
ちょうど、はやしさんが8/4にいわゆる不条理劇について書いていらっしゃいますけど、そういえばヘーゲルと「悲劇」というのもかなり根深い問題系だよなあ、などと思いをめぐらしていました。不条理(absurd)というタームで括ったのはMartin Elissnの本が嚆矢ですが、この時点でサルトルの文脈で、いわゆる実存主義――本質より実存が先立ち、超越性ではなく個物や主体的決断がある、といった――の軸なんですよね。
で、はやしさんはrational/irrationalのように読めてしまう条理/不条理(という訳語)をそのまま踏襲するのではなく、むしろ不条理をrealやpresenceの方に引き寄せるわけですが、こう線を引くと、あたかもヘーゲルに対する後期シェリングの「理性的ではない事実存在、現実存在」みたいな系譜が亡霊のように回帰してくるというふうに読めてしまうわけですよね。
ロブグリエ~ドゥルーズのベケット論だと、身振りや舞台装置の系列の「可能性」の消尽という軸が強まるのですが、これと対比すると、はやしさんの方はむしろ会話の接続/非接続の関係がリアルになっているのだと。リアリズムを自称しない作家は普通いないとかつてロブグリエは言ったものですが、こうして考えてみると問題は、realなものの境位こそが問題になっているというふうに感じます。possibleの使い尽くしによってrealが際立つと考えるか、非接合的な空間をもってrealと考えるか、といったような。
と、かなりいい加減な読解にすり寄せて書きましたが、はやしさんはまさに無意識にヘーゲル以降の問題系に直面している、というふうに見えて、興味深かったです。
まとまりのない返答ですがこんな感じで
>「マルクス的なフィルター」
ルカーチのヘーゲリアン振りもあるし、サルトルのマルクス主義とヒューマニズムの両立もあるし、同時にソ連の公式主義も当時は盛んだし、アドルノはサルトル流ヘーゲルとソ連に効してヘーゲルを強調するし、60年代には経済哲学草稿が発見されるし、ものすごく交錯してるんですよね…。このあまりの交錯ゆえか、なぜか「じゃあヘーゲルはもういいか」みたいに簡単になりすぎたみたいなところもありますね。
>アルチュセールはたしかにヘーゲルを相当読んでいますが、やはり上で言ったような「マルクスのフィルター」がつよすぎるように思う
ああ、たしかにそういう側面はありますね。
>シモンドンは、恥ずかしながら「本を持っているだけ」で、ビュイダンのドゥルーズ論でそのアウトラインを知っているだけなんですが、「個体化って、下手すりゃヘーゲルじゃん」みたいに思った覚えもある
私はシモンドン理解に関しては大きなことはいえず、日本語のシモンドンを扱った論文ぐらいしか読んでおらずまだ漠然とした理解および印象なので「少なくともドイツ観念論時代のシステム論(的な源流)との差異と類似をある程度きっちり抽出できないかなあ」などと思ってる程度なんです。せっかく仏で復刊されてきたんだしシモンドン読まないと…。ビュイダンに関しては最終章の音楽論の箇所しか読んでなかったので、シモンドンに関する論述があるとはすっかり未確認でした。読んでみよう。
>それこそコジェーヴの授業に出ていた人たちが「ヘーゲル」の名を守っている感じで、
これはバタイユやラカン、メルロポンティなどのことを指して言ってるのかな。実際にはやしさんが言うとおりだと思うんですが、往々にして「ヘーゲルに対抗した弟子筋たち」というふうに括られがちだったりするんですよね。抵抗でもあるのでこの扱いがが実に微妙で。
ちょうど、はやしさんが8/4にいわゆる不条理劇について書いていらっしゃいますけど、そういえばヘーゲルと「悲劇」というのもかなり根深い問題系だよなあ、などと思いをめぐらしていました。不条理(absurd)というタームで括ったのはMartin Elissnの本が嚆矢ですが、この時点でサルトルの文脈で、いわゆる実存主義――本質より実存が先立ち、超越性ではなく個物や主体的決断がある、といった――の軸なんですよね。
で、はやしさんはrational/irrationalのように読めてしまう条理/不条理(という訳語)をそのまま踏襲するのではなく、むしろ不条理をrealやpresenceの方に引き寄せるわけですが、こう線を引くと、あたかもヘーゲルに対する後期シェリングの「理性的ではない事実存在、現実存在」みたいな系譜が亡霊のように回帰してくるというふうに読めてしまうわけですよね。
ロブグリエ~ドゥルーズのベケット論だと、身振りや舞台装置の系列の「可能性」の消尽という軸が強まるのですが、これと対比すると、はやしさんの方はむしろ会話の接続/非接続の関係がリアルになっているのだと。リアリズムを自称しない作家は普通いないとかつてロブグリエは言ったものですが、こうして考えてみると問題は、realなものの境位こそが問題になっているというふうに感じます。possibleの使い尽くしによってrealが際立つと考えるか、非接合的な空間をもってrealと考えるか、といったような。
と、かなりいい加減な読解にすり寄せて書きましたが、はやしさんはまさに無意識にヘーゲル以降の問題系に直面している、というふうに見えて、興味深かったです。
まとまりのない返答ですがこんな感じで
tttさんの指摘するとおり、ひとくちに「マルクス的フィルター」と言っても、それだけでほんとうに百花繚乱な状態で、そうした「百花」がまさに咲き乱れている当時としては、そういう諸「フィルター」群に対峙するのが精一杯で、ヘーゲルの書きものまでちょくせつに遡及してマルクスの言うところを吟味するというのは、いろんな意味でむずかしかったでしょうね。そう考えると、「マルクス」という固有名にとくだんの思い入れや意味づけがともなわないいまこそ、フラットにマルクスとヘーゲルの「含蓄的絡み合い implications」を見るのに適しているのかもしれません。
ビュイダンのドゥルーズ論に関しては、たしか日本から携行してきたはずと書架をあさってみたところ見つからず、ゆえにたしかなことは言えませんが、さいしょのほうでけっこうな分量を割いてシモンドンの所論が解説されていたように思えています。あと、ぼくのまえのコメントでの「(シモンドン謂うところの)個体化って、下手すりゃヘーゲルじゃん」というのはさすがにちょっと言いすぎたかな、と思わないでもないのですが、それでも、「シモンドン万歳! ヘーゲル全否定!」というのは、やはりややむりがあるのではないかな、とはいまだに思っています。
tttさんご賢察のとおり、「コジェーヴの授業に出ていた人たち」はまさにラカン、バタイユたちのことなのですが、これまたtttさん言うとおり、彼らの言説を「反ヘーゲル」的なものとして受容するというのは、たんじゅんにそれら書きものをちゃんと読んでいないからとしか思えません。もちろん、そこには多分にヘーゲル的なものか大いに逸脱するあれやこれやがありますが、そうした「逸脱」にしても、ヘーゲルからおおくを引き継いだうえでの逸脱(継承し、乗りこえる……Aufhebung!)であると思います。
ベケットに関してtttさんが提起された問題系はなかなかむずかしい、と言うか、拙速に応答できるような準備がないのですが、とりあえずリニアに応接すると、ぼくのベケット解釈(というか、『ゴドー』解釈)は、じつは多分に実存主義的であるんですね。つまり、多かれ少なかれ実存主義的バイアスのかかった「現存在の投企性」のようなものを前提としている。そういう意味で、たとえばエスリンなんかの「標準的解釈」と軌を一にしはするんですが、やはりどこかで自分の解釈を「実存主義的」と呼ぶのはそぐわない気もする。
まず第一に、実存主義的な「現存在の投企性」、ひるがえってはそれの齎す「意味聯関からの脱線」という自体は、実存主義にあってはある種の特権性を帯びた現れをしていますが(たとえば、ロカンタンはあきらかに「とくべつな人物」として書かれています)、ぼくはそうした「意味聯関からの脱線」は、われわれの「常態」と言ってもいいようなものだと思っています。つまり、われわれの会話や、ひいては「生き様」というのは、自分たちが思うほどには条理にかなったものではないのです。
また、上で言ったことの補題、あるいはほとんど同じことですが、「現存在の投企性」、そして「意味聯関からの脱線」という事態を感知するというのは、実存主義的文脈にあってはきわめてヒロイックなものとして書かれがちであり、そうしたヒロイシスムのある種の「効果」として「私」が再定立されたりするのですが、ベケットにあってはそうしたヒロイックさはもちろん、「私」なぞというものがそれほど重きをおかれているようにはどうしたって見えない。ゆえに、ぼくの見立ては、実存主義とその前提をある程度共有しつつ、最終的にはそれと袂を分かつ格好になるかと思います。
ここで話を「リアル」という側面にむりくりに引きよせると、たしかにロブ=グリエがハイデガーの名を出しながら言うように、ベケットの戯曲にあってはおのおののペルソナージュたちは「舞台に投げ出され、ただそこにいる」ように見え、ゆえに実存主義的な(あるいは、それが前提とするハイデガー的な)スキームとの親和性はきわめて高いように思えるのですが、だからといって、それがゆえにぼくはベケットの戯曲をリアルに感じるわけではない。また、ドゥルーズが言うような「可能性の汲み尽くし」(ロブ=グリエは、たしか同様のことをmoins que rienというような言い方で言っていたと記憶しています)ゆえに「リアルさ」を感じているわけでもなさそうに思える。では、この「リアルさ」は何に起因するのか?
まずひとつ言えるのは、本文でも言ったとおり、『ゴドー』においてエストラゴンやヴラジミールがする会話は、われわれがふだんしているような、行きつ戻りつする、筋が通っているような通っていないような、そんなものなわけで、ゆえに、下手に仕組まれた「物語」にふれるより、何ぼかリアルに思うわけです。さらに、ベケット、もっとひろくは「(いわゆる)不条理劇」にふれて感じる「リアルさ」は、「二重の投企性(あるいは、ほとんど同じことですが、二重の意味聯関からの脱線)」のゆえではないか、ということです。つまり、ロブ=グリエが指摘するような「舞台上への投企」に、さらにわれわれ観客(読み手)が投企される(ぼくの感慨としては、その投企性の度合いがよりつよいのは、むしろこの「観客の投企」であるように思います)。それは、ちょうどわれわれが仲間内の会話にとちゅうから参加するとか、電車のなかの会話に耳をそばだてる、そうした瞬間によく似ています。
また、再度ロブ=グリエを参照しながら言えば、「リアリズムはかならずしもリアルならず」ということの対偶としてベケット(あるいは「不条理劇作家」として括られる人たち)の「リアルさ」を捉えることもできるかもしれません。つまり、たんじゅんに「リアルさ」を目指したリアリズムが、きわめて人工臭漂うものになりがちなのに比して、リアリズムが皮相的に「リアル」と捉えるような要素を度外視したようなもののほうがよほど「リアル」に立ち現れたりということが、ままあるわけです(当のロブ=グリエは、そうした「リアリズムの齎す非リアルさ」ということを逆援用して、「ファンタジー」とでも呼びたくなる小説空間を書いたことは、周知のとおりです)。もっとも、これだけではほとんど何も言ったことにならず(しかも、上段で言ったことといっけん矛盾するようにすら見える)、さらに「それはなぜ?」と問わなければならないのですが。
そしてここで、tttさん謂うところの「ヘーゲル以降の問題系」についてなのですが、それらについてぼくは「無意識」どころか、かなり自覚的なんですね。つまり、ぼくはヘーゲルに、「西洋的理性を極限まで押し進めた」とか、そういうところより、むしろ「非理性の思索者」という面を見てしまう。これは、相当程度バタイユ=デリダラインに感化された読み方であることは疑いなく、そしてそれを否定しようとも思いませんが、そうしたバタイユ=デリダラインのヘーゲル読みをかっこに括っても、ヘーゲルじしんからして自らの「体系的著作」とそれ以外に一線を引いているように思えます。言いかえれば、体系は体系として、その「理性的側面」を前面に出して構築しているが、しかし、じっさいの「人間」を見るヘーゲルは、それを徹頭徹尾「理性的存在」として考えているようには思えない。そう考えると、ここいらの系列というのは、ぼくにとってはそれほど一列に並べがたいものでもないわけです。
ビュイダンのドゥルーズ論に関しては、たしか日本から携行してきたはずと書架をあさってみたところ見つからず、ゆえにたしかなことは言えませんが、さいしょのほうでけっこうな分量を割いてシモンドンの所論が解説されていたように思えています。あと、ぼくのまえのコメントでの「(シモンドン謂うところの)個体化って、下手すりゃヘーゲルじゃん」というのはさすがにちょっと言いすぎたかな、と思わないでもないのですが、それでも、「シモンドン万歳! ヘーゲル全否定!」というのは、やはりややむりがあるのではないかな、とはいまだに思っています。
tttさんご賢察のとおり、「コジェーヴの授業に出ていた人たち」はまさにラカン、バタイユたちのことなのですが、これまたtttさん言うとおり、彼らの言説を「反ヘーゲル」的なものとして受容するというのは、たんじゅんにそれら書きものをちゃんと読んでいないからとしか思えません。もちろん、そこには多分にヘーゲル的なものか大いに逸脱するあれやこれやがありますが、そうした「逸脱」にしても、ヘーゲルからおおくを引き継いだうえでの逸脱(継承し、乗りこえる……Aufhebung!)であると思います。
ベケットに関してtttさんが提起された問題系はなかなかむずかしい、と言うか、拙速に応答できるような準備がないのですが、とりあえずリニアに応接すると、ぼくのベケット解釈(というか、『ゴドー』解釈)は、じつは多分に実存主義的であるんですね。つまり、多かれ少なかれ実存主義的バイアスのかかった「現存在の投企性」のようなものを前提としている。そういう意味で、たとえばエスリンなんかの「標準的解釈」と軌を一にしはするんですが、やはりどこかで自分の解釈を「実存主義的」と呼ぶのはそぐわない気もする。
まず第一に、実存主義的な「現存在の投企性」、ひるがえってはそれの齎す「意味聯関からの脱線」という自体は、実存主義にあってはある種の特権性を帯びた現れをしていますが(たとえば、ロカンタンはあきらかに「とくべつな人物」として書かれています)、ぼくはそうした「意味聯関からの脱線」は、われわれの「常態」と言ってもいいようなものだと思っています。つまり、われわれの会話や、ひいては「生き様」というのは、自分たちが思うほどには条理にかなったものではないのです。
また、上で言ったことの補題、あるいはほとんど同じことですが、「現存在の投企性」、そして「意味聯関からの脱線」という事態を感知するというのは、実存主義的文脈にあってはきわめてヒロイックなものとして書かれがちであり、そうしたヒロイシスムのある種の「効果」として「私」が再定立されたりするのですが、ベケットにあってはそうしたヒロイックさはもちろん、「私」なぞというものがそれほど重きをおかれているようにはどうしたって見えない。ゆえに、ぼくの見立ては、実存主義とその前提をある程度共有しつつ、最終的にはそれと袂を分かつ格好になるかと思います。
ここで話を「リアル」という側面にむりくりに引きよせると、たしかにロブ=グリエがハイデガーの名を出しながら言うように、ベケットの戯曲にあってはおのおののペルソナージュたちは「舞台に投げ出され、ただそこにいる」ように見え、ゆえに実存主義的な(あるいは、それが前提とするハイデガー的な)スキームとの親和性はきわめて高いように思えるのですが、だからといって、それがゆえにぼくはベケットの戯曲をリアルに感じるわけではない。また、ドゥルーズが言うような「可能性の汲み尽くし」(ロブ=グリエは、たしか同様のことをmoins que rienというような言い方で言っていたと記憶しています)ゆえに「リアルさ」を感じているわけでもなさそうに思える。では、この「リアルさ」は何に起因するのか?
まずひとつ言えるのは、本文でも言ったとおり、『ゴドー』においてエストラゴンやヴラジミールがする会話は、われわれがふだんしているような、行きつ戻りつする、筋が通っているような通っていないような、そんなものなわけで、ゆえに、下手に仕組まれた「物語」にふれるより、何ぼかリアルに思うわけです。さらに、ベケット、もっとひろくは「(いわゆる)不条理劇」にふれて感じる「リアルさ」は、「二重の投企性(あるいは、ほとんど同じことですが、二重の意味聯関からの脱線)」のゆえではないか、ということです。つまり、ロブ=グリエが指摘するような「舞台上への投企」に、さらにわれわれ観客(読み手)が投企される(ぼくの感慨としては、その投企性の度合いがよりつよいのは、むしろこの「観客の投企」であるように思います)。それは、ちょうどわれわれが仲間内の会話にとちゅうから参加するとか、電車のなかの会話に耳をそばだてる、そうした瞬間によく似ています。
また、再度ロブ=グリエを参照しながら言えば、「リアリズムはかならずしもリアルならず」ということの対偶としてベケット(あるいは「不条理劇作家」として括られる人たち)の「リアルさ」を捉えることもできるかもしれません。つまり、たんじゅんに「リアルさ」を目指したリアリズムが、きわめて人工臭漂うものになりがちなのに比して、リアリズムが皮相的に「リアル」と捉えるような要素を度外視したようなもののほうがよほど「リアル」に立ち現れたりということが、ままあるわけです(当のロブ=グリエは、そうした「リアリズムの齎す非リアルさ」ということを逆援用して、「ファンタジー」とでも呼びたくなる小説空間を書いたことは、周知のとおりです)。もっとも、これだけではほとんど何も言ったことにならず(しかも、上段で言ったことといっけん矛盾するようにすら見える)、さらに「それはなぜ?」と問わなければならないのですが。
そしてここで、tttさん謂うところの「ヘーゲル以降の問題系」についてなのですが、それらについてぼくは「無意識」どころか、かなり自覚的なんですね。つまり、ぼくはヘーゲルに、「西洋的理性を極限まで押し進めた」とか、そういうところより、むしろ「非理性の思索者」という面を見てしまう。これは、相当程度バタイユ=デリダラインに感化された読み方であることは疑いなく、そしてそれを否定しようとも思いませんが、そうしたバタイユ=デリダラインのヘーゲル読みをかっこに括っても、ヘーゲルじしんからして自らの「体系的著作」とそれ以外に一線を引いているように思えます。言いかえれば、体系は体系として、その「理性的側面」を前面に出して構築しているが、しかし、じっさいの「人間」を見るヘーゲルは、それを徹頭徹尾「理性的存在」として考えているようには思えない。そう考えると、ここいらの系列というのは、ぼくにとってはそれほど一列に並べがたいものでもないわけです。
ウオオン どんどん議論が大変なものになっていくよぅ
>マルクスとヘーゲルの「含蓄的絡み合いimplications」
熟読したいんですよね、資本論と大論理学…。積み重なる購書と新たにDLしてしまう論文の山が山が 時間が時間が
>ラカン、バタイユたちのことなのですが、これまたtttさん言うとおり、彼らの言説を「反ヘーゲル」的なものとして受容するというのは、たんじゅんにそれら書きものをちゃんと読んでいないから
これは、コジェーヴによるヘーゲルに対して、また別の仕方でヘーゲルを遺産相続することで抵抗していた、という意味合いで読めばいいのかな。つまり、反ヘーゲルではなく、ヘーゲルとヘーゲルだと。
たまたま中島真紀子のクノーに関する論文を読んでいたんですが、出あい損ねのモチーフがある云々、歴史と日常の界面、境界に立つというモチーフがある云々といった指摘があり――中島の論旨自体は「コジェーヴのヘーゲルにおける絶対性・全体性への懐疑」というふうに処理されているんですが――、かねがねヘーゲリアンとしてのゴダール、という観点に関心をもつ私には、クノーのいくつかのモチーフが妙にゴダールと重なるように読めて面白かったですね(余談的逃げ)。
>「意味聯関からの脱線」は、われわれの「常態」と言ってもいい
>ベケットにあってはそうしたヒロイックさはもちろん、「私」なぞというものがそれほど重きをおかれているようにはどうしたって見えない。
これは、逆に言えば、ヒロイックな主体、人物を立てずにやりさえすれば、大筋において同じことだ、ということですよね。たまたま私はいまBarton Bygのストローブ&ユイレ論の一部を勝手に訳してるんですが、Byg自身はまったくハイデガーを言及しないにもかかわらず、その翻訳論、テクストの上演論で言ってることは、意味連関(道具連関)の異化による切断、中間休止ということであって、いまなお乗り越え不能なんじゃないかっていう感すらあります。
そこで問題なのは、
>ヒロイシスムのある種の「効果」として「私」が再定立されたりする
ここでして、後期ドゥルーズならば主体化と呼ぶような契機をどう扱うかってことになるんだと思います。ヒロイズムの効果、としてではない、ある種の、意味連関の切断とその読解者-翻訳者による再構成をモメントとして成立する主体というのはどういうかたちで議論できるのか。この線を一旦洗いなおすためにカントに対するヘーゲルを一度じっくり読まないとやばいな、と思いはじめているんですが、時間が時間が本の山が山g
>ロブ=グリエを参照しながら言えば、「リアリズムはかならずしもリアルならず」ということの
あ、蛇足的などうでもいい指摘をしておくと、この文脈を言ったときに念頭にあったのはロブ=グリエ「レアリスムからレアリテへ」(『新しい小説のために』所収)なんですが、ロブ=グリエが敵視しているのはむしろverismで、むしろレアリスムは「つねに作家たちは各々自分こそはレアリテに接近していると自認しながらレアリスムを口にして、既成の動きに対して抵抗したのだ、古典主義に対するロマン主義しかり、ロマン主義に対する自然主義しかり」という主旨なんですよ。まあ、言葉を置き換えればまったく問題ないのでどうでもいい指摘になりますが。で、ロブ=グリエは、ヴェリスムにとってはおかしなものに見られえうだろうがある種のレアリテを達成している、としてカフカを評価したりしていたわけです。問題は「さらに「それはなぜ?」と問わなければならないのですが」というところなんですけども。
>ドゥルーズが言うような「可能性の汲み尽くし」
はやしさんはこれ自体は直接関わらないでリアルさの基盤を問いたい、というのはよくわかるんですが、最近ふと、ドゥルーズがなぜこの論旨を持ち出したのかがわかるような気がしましてね。
思いつきなんですが、たとえばペレックやクノーが「ウリポ」ってのをやっていたのでしょう。そこでなされていた「実験」は、制約やルールの設定によってアクロバティックに作品を作るという幹事のものでしたが、同時にそれらの手法は、潜在性(potention)への回路を出すためというふうにも見える。しかし、それは想像力による全体性としての潜在性とでも言うべきもので、「ただそこにいる」の現前する場が単に触媒になっていき、しかもその全体性は辞書やルールとして容易に可視化できるものになっていくように思うんですね。ここはレイモン・ルーセルとの対比と検討が本来必要なのでしょうが、ドゥルーズはこうしたかたちでの作品細部、光景からの飛躍が気に入らなかったのではないかと。そこで、対極的に「ただそこにいる」の場、現前し不動のものとして硬直していくような身体がそこにあること、への求心性に向かったのかな、と。
『消尽したもの』では言語I、言語II、言語IIIが論じられますが、言語Iは離接的で切断された言葉であり、名詞の言語だとされ、これとともに系列の一全体を想像することができる。それに対してメタ言語となる言語IIとともに、物語を考え出し、思い出の目録を作ることができる。そして、言語活動を列挙可能で組み合わせ可能なものにも(言語I)、それを発する声にも結びつけること(言語II)のない言語IIIは「純粋なイメージの言語」「イメージと空間の言語」だとされる。このようにかなりよくわからない議論の果てに出てくる言語、小説と演劇を通過したテレビ作品としてついに出てくる言語、というのを手繰り寄せてきたのは、いわば言語Iと言語IIで事足りてしまうような作品のあり方として、ウリポやルーセルなどが想起されていたのではないかと。ただ、よくわかんないんですけどね…。
思うに、この奇妙な「言語」への関心が、映画論の後で音楽論を書こうとしていたらしい、ブーレーズに関して奇妙な言語論を書いているドゥルーズにあったものであり、長生きしたドゥルーズならば、ドゥルーズなりの特異な「翻訳-演奏論」となって結実するはずだったのでは、と思うんですけどね。ビュイダンの本は最終章だけ読んで放置しちゃったんですが、こうした私の関心からするとあまりに平板な音楽論になってしまっていたように感じられたのです。
どんどん関係ない論点にずれてしまったようですが、リアルなものの境位と現前性の関係、意味連関からの脱落とその回復、主体化と翻訳、そこにおける「言語」なるもの、とはどう論じることができるのか、というふうに最近しきりと考えます。
>マルクスとヘーゲルの「含蓄的絡み合いimplications」
熟読したいんですよね、資本論と大論理学…。積み重なる購書と新たにDLしてしまう論文の山が山が 時間が時間が
>ラカン、バタイユたちのことなのですが、これまたtttさん言うとおり、彼らの言説を「反ヘーゲル」的なものとして受容するというのは、たんじゅんにそれら書きものをちゃんと読んでいないから
これは、コジェーヴによるヘーゲルに対して、また別の仕方でヘーゲルを遺産相続することで抵抗していた、という意味合いで読めばいいのかな。つまり、反ヘーゲルではなく、ヘーゲルとヘーゲルだと。
たまたま中島真紀子のクノーに関する論文を読んでいたんですが、出あい損ねのモチーフがある云々、歴史と日常の界面、境界に立つというモチーフがある云々といった指摘があり――中島の論旨自体は「コジェーヴのヘーゲルにおける絶対性・全体性への懐疑」というふうに処理されているんですが――、かねがねヘーゲリアンとしてのゴダール、という観点に関心をもつ私には、クノーのいくつかのモチーフが妙にゴダールと重なるように読めて面白かったですね(余談的逃げ)。
>「意味聯関からの脱線」は、われわれの「常態」と言ってもいい
>ベケットにあってはそうしたヒロイックさはもちろん、「私」なぞというものがそれほど重きをおかれているようにはどうしたって見えない。
これは、逆に言えば、ヒロイックな主体、人物を立てずにやりさえすれば、大筋において同じことだ、ということですよね。たまたま私はいまBarton Bygのストローブ&ユイレ論の一部を勝手に訳してるんですが、Byg自身はまったくハイデガーを言及しないにもかかわらず、その翻訳論、テクストの上演論で言ってることは、意味連関(道具連関)の異化による切断、中間休止ということであって、いまなお乗り越え不能なんじゃないかっていう感すらあります。
そこで問題なのは、
>ヒロイシスムのある種の「効果」として「私」が再定立されたりする
ここでして、後期ドゥルーズならば主体化と呼ぶような契機をどう扱うかってことになるんだと思います。ヒロイズムの効果、としてではない、ある種の、意味連関の切断とその読解者-翻訳者による再構成をモメントとして成立する主体というのはどういうかたちで議論できるのか。この線を一旦洗いなおすためにカントに対するヘーゲルを一度じっくり読まないとやばいな、と思いはじめているんですが、時間が時間が本の山が山g
>ロブ=グリエを参照しながら言えば、「リアリズムはかならずしもリアルならず」ということの
あ、蛇足的などうでもいい指摘をしておくと、この文脈を言ったときに念頭にあったのはロブ=グリエ「レアリスムからレアリテへ」(『新しい小説のために』所収)なんですが、ロブ=グリエが敵視しているのはむしろverismで、むしろレアリスムは「つねに作家たちは各々自分こそはレアリテに接近していると自認しながらレアリスムを口にして、既成の動きに対して抵抗したのだ、古典主義に対するロマン主義しかり、ロマン主義に対する自然主義しかり」という主旨なんですよ。まあ、言葉を置き換えればまったく問題ないのでどうでもいい指摘になりますが。で、ロブ=グリエは、ヴェリスムにとってはおかしなものに見られえうだろうがある種のレアリテを達成している、としてカフカを評価したりしていたわけです。問題は「さらに「それはなぜ?」と問わなければならないのですが」というところなんですけども。
>ドゥルーズが言うような「可能性の汲み尽くし」
はやしさんはこれ自体は直接関わらないでリアルさの基盤を問いたい、というのはよくわかるんですが、最近ふと、ドゥルーズがなぜこの論旨を持ち出したのかがわかるような気がしましてね。
思いつきなんですが、たとえばペレックやクノーが「ウリポ」ってのをやっていたのでしょう。そこでなされていた「実験」は、制約やルールの設定によってアクロバティックに作品を作るという幹事のものでしたが、同時にそれらの手法は、潜在性(potention)への回路を出すためというふうにも見える。しかし、それは想像力による全体性としての潜在性とでも言うべきもので、「ただそこにいる」の現前する場が単に触媒になっていき、しかもその全体性は辞書やルールとして容易に可視化できるものになっていくように思うんですね。ここはレイモン・ルーセルとの対比と検討が本来必要なのでしょうが、ドゥルーズはこうしたかたちでの作品細部、光景からの飛躍が気に入らなかったのではないかと。そこで、対極的に「ただそこにいる」の場、現前し不動のものとして硬直していくような身体がそこにあること、への求心性に向かったのかな、と。
『消尽したもの』では言語I、言語II、言語IIIが論じられますが、言語Iは離接的で切断された言葉であり、名詞の言語だとされ、これとともに系列の一全体を想像することができる。それに対してメタ言語となる言語IIとともに、物語を考え出し、思い出の目録を作ることができる。そして、言語活動を列挙可能で組み合わせ可能なものにも(言語I)、それを発する声にも結びつけること(言語II)のない言語IIIは「純粋なイメージの言語」「イメージと空間の言語」だとされる。このようにかなりよくわからない議論の果てに出てくる言語、小説と演劇を通過したテレビ作品としてついに出てくる言語、というのを手繰り寄せてきたのは、いわば言語Iと言語IIで事足りてしまうような作品のあり方として、ウリポやルーセルなどが想起されていたのではないかと。ただ、よくわかんないんですけどね…。
思うに、この奇妙な「言語」への関心が、映画論の後で音楽論を書こうとしていたらしい、ブーレーズに関して奇妙な言語論を書いているドゥルーズにあったものであり、長生きしたドゥルーズならば、ドゥルーズなりの特異な「翻訳-演奏論」となって結実するはずだったのでは、と思うんですけどね。ビュイダンの本は最終章だけ読んで放置しちゃったんですが、こうした私の関心からするとあまりに平板な音楽論になってしまっていたように感じられたのです。
どんどん関係ない論点にずれてしまったようですが、リアルなものの境位と現前性の関係、意味連関からの脱落とその回復、主体化と翻訳、そこにおける「言語」なるもの、とはどう論じることができるのか、というふうに最近しきりと考えます。
これはべつだんフランスにおけるヘーゲル受容にかぎったことではないんですが、ある思索者が自身とはべつの思索者を読むとき、その言説をそのまま受けとり、そして受容するということはあまりありません(もしそうであれば、何もその言説を縷々論じたてる必要なぞなく、ただ「読め」で済む話でしょう)。だから、フランスにおけるヘーゲル受容にしても、ヘーゲルの言ったことを金科玉条として受けとったわけではなく、大なり小なりの異論をはさみつつのものだったわけです。だから、ある意味「反ヘーゲル」と言いたければそう言える部分もあるのでしょうが、巷間で受けとられている「フランスにおける反ヘーゲル」は、まるでヘーゲルの全否定だったかのような印象を与えるものであり、いきおい、「じゃあヘーゲルはもういいのか」というあやまった(とぼくには思える)印象をも流布してしまったきらいがあると思います。また、「じゃあヘーゲルはもういいや」とまではいかずとも、「誰かが語るヘーゲル」で満足してしまい、ヘーゲルじしんの書きものを読まずに済ますということの「免罪符」として作用してしまっている側面もあり(もっとも、これは本人たちの責任ではまったくありませんが)、そういうことは、ぼくにはとても不誠実に思えるのです。
ゴダールはその『映画史』にやたらとハイデガー的タームを散りばめていたことは周知のとおりですが、ぼくはあれ、けっこう違和感あったんですよね。それに比べれば、「ゴダール=ヘーゲル」のつながりのほうが、まだ分かりやすい(ゴダールは何だかんだ、「古典的」なものが好きですからね)。ただ、話を詰めていくと、ゴダールとヘーゲルのあいだにそれほど緊密なつながりはあるのかな、という気もしますが、まあここいらはanother storyということで。
「不条理劇と実存主義」という問題系にあっては、「私」という「主体」の発現度合いというのはけっこう重要だと思うので、tttさんのように「ヒロイックか否かという点を不問にすれば、(はやしが受けとるところの)不条理劇と実存主義は大筋において同じ」(という発現趣旨と解釈しましたが、これ自体まちがっているかもしれません)とは思いません。すると、「意味聯関(不条理劇を語るうえでは、むしろたんじゅんに「話の筋」とでもすべきでしょうか)からの脱線」という事態そのものが(実存主義的コンテクストとはべつに)問われなければなりませんが、ぼくのこれまでのコメントでも言ったとおり、「意味聯関からの脱線」とはそれほどめずらかな事態ではない、とぼくは考えています。さりとて、そうした「意味聯関」は完全に崩壊しているわけではない(実存主義が描くのは、一時的なものではあれ、こうした意味聯関の端的な崩壊という相です)。われわれの生きているこの世界、、「意味=筋=方向 sens」があるんだかないんだか模糊としたものであり、そしてそこに住まうわれわれ(In-der-Welt-Sein!)は、そうしたなかに、「全体の布置」なぞ覚束ぬまま投げ入れられる。ベケットはこうした「寄る辺なさ」がひじょうにうまく書けており、ゆえに、ぼくなんかは「リアルだなあ」と思ったりするわけです。
「ヒロイズムの効果、としてではない、ある種の、意味連関の切断とその読解者-翻訳者による再構成をモメントとして成立する主体」というのは、それこそ「主体」をどう捉えるかによる面も大きいのですが、日本語の語幹として受けとられるところの「主体」は、成立し得ない、と考えています。もちろん、「主語」に立ちうる「それ」としてのagentは措定しえますが、そうしたagentを「主体」と呼んでしまってよいものか。ぼくとしては、むしろ、それは「基体」などと呼ばれるほうが適当なのではないか、などと考えています(この「基体」というのも「基」の字が気に入らないですが)。
ぼくが思いえがいていたロブ=グリエの趣旨は、まさにtttさんが挙げられた『新しい小説のために』のもので、それを読んだのがもう10年以上前のことですから(ただ、ベケットを評した"moins que rien"という言い回しは、「雰囲気はすごく活写してるけど、これ、レトリック以上のもんではないよね」と感心しつつも思ったので、よく覚えています。もっとも、このままの言い回しだったかどうか、自信はありません)、ちょっと細かい論旨は覚えてませんが、「veritableではないがreelなもの」というようなものがあるみたいなことを言っていて、「ああ、あるよね」と思った覚えがあるので、ロブ=グリエのフレージングとはじゃっかん異なりますが(そして、個人的に「ほんとうにrealだったらrealismなどということを標榜するもんか」とも思いますので)、「リアリズムはかならずしもリアルならず」ということを言いました。
ドゥルーズの言う「可能性の汲み尽くし」は、しょうじきよく分かんないんですよね。これも、エピュイゼを読んだのが相当前ということで、かなりいい加減なことを言っている可能性が大きいですが、「可能性」をどう定義するにせよ、そんなもん汲み尽くせるもんかよ、とも思いますし、より大きくは、そうした特徴づけではぼくの感得するベケットに嵌らないという感じがでかい(ここでの文脈で言うと、「リアルさ」と「可能性」は、とりあえず関係がない、ということです)。まあ、「雰囲気」としてはドゥルーズのいうところは分かるところもあるんですが、キーワードとしてはやっぱりぼくには「寄る辺なさ」とかのほうがしっくりきます(そして、ドゥルーズもまた、ぼくは「寄る辺なさ」の思索者として読んでいるふしが大です)。
最後に、関係ないですが、ストローブ=ユイレは、フレームから人物が消えても、その足音が消え去るまでキャメラを回しつづけるところに、やっぱりしびれてしまいます。あと、個人的に好きなのが、『エンペドクレスの死』だったかな、小太りのおっさんが地団駄を踏みながらセリフを言うところです。
ゴダールはその『映画史』にやたらとハイデガー的タームを散りばめていたことは周知のとおりですが、ぼくはあれ、けっこう違和感あったんですよね。それに比べれば、「ゴダール=ヘーゲル」のつながりのほうが、まだ分かりやすい(ゴダールは何だかんだ、「古典的」なものが好きですからね)。ただ、話を詰めていくと、ゴダールとヘーゲルのあいだにそれほど緊密なつながりはあるのかな、という気もしますが、まあここいらはanother storyということで。
「不条理劇と実存主義」という問題系にあっては、「私」という「主体」の発現度合いというのはけっこう重要だと思うので、tttさんのように「ヒロイックか否かという点を不問にすれば、(はやしが受けとるところの)不条理劇と実存主義は大筋において同じ」(という発現趣旨と解釈しましたが、これ自体まちがっているかもしれません)とは思いません。すると、「意味聯関(不条理劇を語るうえでは、むしろたんじゅんに「話の筋」とでもすべきでしょうか)からの脱線」という事態そのものが(実存主義的コンテクストとはべつに)問われなければなりませんが、ぼくのこれまでのコメントでも言ったとおり、「意味聯関からの脱線」とはそれほどめずらかな事態ではない、とぼくは考えています。さりとて、そうした「意味聯関」は完全に崩壊しているわけではない(実存主義が描くのは、一時的なものではあれ、こうした意味聯関の端的な崩壊という相です)。われわれの生きているこの世界、、「意味=筋=方向 sens」があるんだかないんだか模糊としたものであり、そしてそこに住まうわれわれ(In-der-Welt-Sein!)は、そうしたなかに、「全体の布置」なぞ覚束ぬまま投げ入れられる。ベケットはこうした「寄る辺なさ」がひじょうにうまく書けており、ゆえに、ぼくなんかは「リアルだなあ」と思ったりするわけです。
「ヒロイズムの効果、としてではない、ある種の、意味連関の切断とその読解者-翻訳者による再構成をモメントとして成立する主体」というのは、それこそ「主体」をどう捉えるかによる面も大きいのですが、日本語の語幹として受けとられるところの「主体」は、成立し得ない、と考えています。もちろん、「主語」に立ちうる「それ」としてのagentは措定しえますが、そうしたagentを「主体」と呼んでしまってよいものか。ぼくとしては、むしろ、それは「基体」などと呼ばれるほうが適当なのではないか、などと考えています(この「基体」というのも「基」の字が気に入らないですが)。
ぼくが思いえがいていたロブ=グリエの趣旨は、まさにtttさんが挙げられた『新しい小説のために』のもので、それを読んだのがもう10年以上前のことですから(ただ、ベケットを評した"moins que rien"という言い回しは、「雰囲気はすごく活写してるけど、これ、レトリック以上のもんではないよね」と感心しつつも思ったので、よく覚えています。もっとも、このままの言い回しだったかどうか、自信はありません)、ちょっと細かい論旨は覚えてませんが、「veritableではないがreelなもの」というようなものがあるみたいなことを言っていて、「ああ、あるよね」と思った覚えがあるので、ロブ=グリエのフレージングとはじゃっかん異なりますが(そして、個人的に「ほんとうにrealだったらrealismなどということを標榜するもんか」とも思いますので)、「リアリズムはかならずしもリアルならず」ということを言いました。
ドゥルーズの言う「可能性の汲み尽くし」は、しょうじきよく分かんないんですよね。これも、エピュイゼを読んだのが相当前ということで、かなりいい加減なことを言っている可能性が大きいですが、「可能性」をどう定義するにせよ、そんなもん汲み尽くせるもんかよ、とも思いますし、より大きくは、そうした特徴づけではぼくの感得するベケットに嵌らないという感じがでかい(ここでの文脈で言うと、「リアルさ」と「可能性」は、とりあえず関係がない、ということです)。まあ、「雰囲気」としてはドゥルーズのいうところは分かるところもあるんですが、キーワードとしてはやっぱりぼくには「寄る辺なさ」とかのほうがしっくりきます(そして、ドゥルーズもまた、ぼくは「寄る辺なさ」の思索者として読んでいるふしが大です)。
最後に、関係ないですが、ストローブ=ユイレは、フレームから人物が消えても、その足音が消え去るまでキャメラを回しつづけるところに、やっぱりしびれてしまいます。あと、個人的に好きなのが、『エンペドクレスの死』だったかな、小太りのおっさんが地団駄を踏みながらセリフを言うところです。
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