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よく知られるように、ウェブドキュメント記述言語のひとつであるHTMLは、ドキュメントの「見た目」と「内容」の分離を、その重要な理念のひとつとして掲げている。しかしこれは、その「理念」としての「志」はともかく、じっさいには「画餅」とでも言うべき、「エンジニア」と「ユーザ」の悪しき「分離」を示してしまってはいないだろうか?
HTMLを設計するおり、ティム・バーナーズ=リーの頭には、syntax/semanticsの区別があったことはまちがいない。それは、たしかに重要な区別であり、論理学的なそれであれ、言語学的なそれであれ、その区別を念頭におかなければとんでもないまちがいをしでかすことになる。しかし、この区別はあくまで、メタ的な観点から要されるものであって、数学や言語の「ユーザ」がつねに意識していなければならないようなものではない。
もちろん、たとえば言語ユーザを例にとれば、「言いたいこと=内容」と「その現れ=言い方」というのは一対一対応ではないがゆえに、ある「言いたいこと」の「現れ=言い方」をめぐってあれこれ腐心することになる。つまり、そうした腐心は、「内容」とその「表現」という区別を前提になされる。しかし、この区別はあくまで「仮想的」なものであって、じっさいには「内容」とその「表現形式」というのは不即不離なものとして立ち現れる(その「内容」を参照点としなければ、何を以て「分かりやすさ」を判断すればよいか?)。
さらに、もっと踏み込んで言えば、ある言語形式はその言説内容を規定する面を持つ。このことはたとえば、形式的規定のつよい言語藝術を想起してもらえればいいかもしれない(短歌は、それが57577という音節形式を持つがゆえに、「短歌的」としか言いようのない「内容」を持つにいたるのであり、そして、そうした「規定性」ゆえに「革新的」足りうる。しかしこれは、completely another storyである)。
こうした「形式による内容の規定」はもちろん、「表現の足枷」として表現者のまえに立ちはだかることもあろう。しかし、よきにつけあしきにつけ、「形式による内容の規定」はどうしようもない事実としてそこに存在する。それは、ごく素朴に「内容とその表現形式を切り離しましょう」ですむような話ではないのだ。
とはいえ、HTMLがその「理念」として固執する「見た目と内容の分離」は、ある観点からはじゅうぶんに理解しうるものではある。つまり、そうしたほうが「機械」にはやさしい。そして、さらに言えば、HTMLの「理念」は、われわれにmachine-friendlyになることを要請する。だが、基本的には(というのは、おおくの人にとっては、ということだ)、「機械のためのわたしたち、ではなく、わたしたちのための機械」が望ましいであろう。
完全な蛇足として言えば、おれ個人としてはつとめてmachine-friendlyになろうとするクチであり、たとえば、URLを打ちこむときも、"http://hblo.blog.shinobi.jp/"というふうに、ちゃんと"/"で閉じないと、パーサにわるいような気がしてしまう。しかし、おれにとってmachine-friendlyであることがどうかということと、おおくの人にとってどうかということは、まったくべつのことである。
だから、繰りかえせば、HTMLが「理念」として掲げる、あるいは、われわれに要請する「見た目と内容の分離」は、その目指すところとしては理解しうるのだが、その分離をユーザに要求するのは、「そんなことをユーザに求めても、実現可能性はきわめて低い」という意味で、まちがっているし、さらに、「形式は内容に潜み、内容は形式に潜む」という実情を無視している点でも、まちがっている。
human-friendlyでありつつ、じゅうぶんにmachine-tractableである、そんな有り様=アプローチこそ目指されるべきだ。
>human-friendlyでありつつ、じゅうぶんにmachine-tractableである、
>そんな有り様=アプローチこそ目指されるべきだ。
この記事はHTMLそのものの設計に関しての話なのだろうけれど、一応HTMLを職業にしている人間なので反応させてもらうことにしますよ。
HTMLを職業にしている側から言うと、webサイトを持とうとする人間のほとんどがhuman-friendlyに偏りすぎるという現実があって、そうであるからこそ“分離”の理念は正当性を持っていると僕は思うんだな。
大体の“webサイトを持とうとする人間”は目の見える人だ。
でも、webから情報を得ようという人間の中には少なからず視覚に障碍を持っている人もいるわけだ。
目の見える人にとってはそういう人々の存在が見えにくい。
僕が言いたいのは“分離”の意義の中で一番大きいのが、未だ十全に機能できない音声ブラウザの存在に対する配慮だということ。
この次元(音声ブラウザが云々っていう次元)で言えばmachine-tractableであることが即human-friendlyであると言えると思うんだよね。
個人サイトであれば、そう執拗に配慮しなくたって許されるだろうけれど、少なくとHTMLを職業として扱う、または法人がサイトを持つという時、マイノリティ(と呼んでいいのかどうか個人的には疑問だけど)への配慮というものが社会への責任と呼べるものになるだろうと思う。
例えばブラウザは機械的にHTMLタグの意味を拾って解釈するというのにもかかわらずレイアウトにテーブルタグを使うような企業やデザイナーが未だにいる。
テーブルを使ったレイアウトだと、ブラウザからすればどのセルから読んでいいかわからない、つまり視覚に障碍のある人が音声ブラウザを使った時、意味不明な文脈になる可能性が高い。責任が果たせないんだ。
だったら外部のCSSに分離して余計なタグやプロパティを排除して音声ブラウザ等の機械に対して優しくしましょうよと。そういうところが実際大きいと思うよ。(結果的にSEOにつながるんだけどね)
「形式は内容に潜み、内容は形式に潜む」とかそういうところには同意なんだけど、実際配慮しなければならないものがあるし、それには“分離”が一番手っ取り早いってのが現実だと思うな。
==以下、人様のコメント欄にて鬱憤を晴らす==
おい、そこの(多分紙媒体出身の)お前!
テーブルで組むんじゃねぇ!組むとしてもidふって読み上げの順番を示しやがれ!
フォントをピクセルで指定すんな!ちっさくて読めなかったらどうすんだ。
あとフォントカラーを薄いグレー(#DDDDDDとか)にするんじゃねぇ!コノヤロウ。コントラストに弱い人が難儀するじゃねぇか!痔になれお前ら。
==終了==
取り乱しましてすみませんでした。
「理念」それ自体としてはすばらしいにしても(そして、おれはそのような「視覚障碍者のためになる」というレトリックを度外視しても、「HTMLの理念」は根底的に「画餅」だと思っていることは、当エントリに記した通り)、そうした「理念」が、たとえばここでは目の見えない人たちの「現実」をどうにかできなければ、「だからどーした」という話になる。もちろん、「理念」をそれ自体として語ることは大いにけっこうだし、むしろ奨励されていもいいと思うけど、でも、「現実を見据えない理念語り一辺倒」、およびそこから派生する「理念に現実を追従させようとすること」は、「百害あって」のたぐいだと思う。
また、俊平太はそうした「理念」の実現可能性を「一番手っ取り早い」として、それほど低くは見積もっていないようだけど、おれはその実現可能性は、ほとんど絶望的であると思っている(少なくとも、「HTMLの理念」の地道な啓蒙を通じてよりも、ユーザエージェントレヴェルでの工夫をしたほうが、それこそ「手っ取り早い」ように思われる)。だから、そう思うおれからすれば、HTML(の理念)を語るのに「障碍者の利益」なんぞというものを持ち出されると、「障碍者を手前勝手な『理念』の正当化に使うな。障碍者のことを言うなら本気で考えたうえでものを言え」としょうじき思ってしまう。
それはそうと、俊平太、レイアウトにTABLE要素を派手に使うクチじゃなかったか?
>それはそうと、俊平太、レイアウトにTABLE要素を派手に使うクチじゃなかったか?
うんにゃ。それは仕事にしていなかった時の事だよ。
現状、趣味にせよ仕事にせよよほどでない限りレイアウトにテーブルを使う事はないよ。寧ろdiv使いすぎの傾向がある。
少なくとも現場においては「HTML(の理念)を語るのに『障碍者の利益』なんぞというものを持ち出す」のではなく、「障碍者の“不利益”になりゃしないか」という事を意識するとどうしても「理念」を思い起こし「出来るだけそれに沿う努力」をせざるを得なくなる、というのが実情だね。
「ユーザエージェントレヴェルでの工夫」に任せっきりでいいのであれば、もっと量的に仕事をこなせるだろうし、ブラウザのチェック以外にわざわざコントラストの検証などをしなくてもよくなる。
>「ここに『理念』がある。そして、それに則れば、目の見えない人たちのためになる」>なんていう悠長なことは言っていられるわけはない。
だからといってそれが即「別に気を使わなくて良い」という事にはならない。
「障碍者のことを本気で考えたうえ」であろうがなかろうが、webデザイナーと呼ばれる職種の人々にできる唯一の事は『最大限配慮すること』だろう。
もっと言えば配慮すべき障碍者だけじゃなくて、その辺のお父さんお母さん(つまり老眼の人とか)も含まれる。HTMLを書く主体の想像力が及ぶ範囲で“想定できるだけ想定する”というのが、僕ら「HTMLを職業とする人」の(かっこよくいうと)職業的な倫理であって、例えば床屋であれば“できるだけ主観を排して客の意思と一般的な格好良し悪しのバランス沿ったヘアスタイルにすること”と言うのと同じだ。髪を切っちゃってから「整髪料や何かで毎日の工夫をすればいいじゃん」とか「これを変だというダサい世間をなんとかすればいいんだ」とは言えないの。
webの(仮想)世界全体のHTMLの書き方は(良し悪しは別として)民主的であるから全てが「理念」に従うことはないだろうと僕も思う。「画餅」というのは言い過ぎだろうと思うけれどそれに近いとは思う。
けれど少なくとも現場においては「理念」を「正当化する」ために「障碍者」を持ち出しているのではないとはいっておこうと思う。
むしろ「想定できるだけ想定してありったけの技術を使う」という職人気取りな行為を正当化するのに丁度いいところに「理念」が転がっている、というのが正確なところだろう。
ついでに言うと規格外の「裏ワザ」的なものでアクセシビリティが図れるのであれば、分離主義者と言う職人気取りヤロウの多くがそうするだろうと断言できるよ。
そうでなかったら「CSSハックなんかやらずにMSに圧力かけよう」と言う話にすでになっているだろう(或いはみんなでIEを無視するとか)。でもみんなMSに対する恨み言を言いながらわざわざやるのよ。
「現実を見据えない理念語り一辺倒」という“分離主義者”の姿は偽の姿だろうと思うよ。「何かを鼻にかけているつもり」か、「職人気取り」かいずれかだろうと思う。
「本当は理念なんかどうでもいい」が実像だと思うな。
確かに障害者に対する発言に対し、十分に責任を自覚してのことかというとまったくそんなことはないでしょうし、本気でこのことを第一の大儀として主張する人は信用できないところはあると思います(それでも、本来みながそうしていれば可能であったはずの何らかの手続きがとれなくなったことを、まったく反省しないでいいとは思いませんが)
それより、まったく詳しくないので責任はまったくもてないのですが、IEなどのごく一部のブラウザだけでしか通用しないはずの規定外の挙動が、多数派になったというだけで他のブラウザも採用せざるえないといった状況とも関係はないのでしょうか。少なくともそういったことにならないように、まずルールありきだったのではないかと思うのです。そして違反者にあわせて成長してメリットがあるとは思えないというのがあります。
ただ僕はどっちかというと、HTMLという制約がある限りでできる、レイアウトの面白さこそ擁護したいと思います。自由でないからこそ面白いものが多いということははやしさんも何度か述べてましたが、僕はHTMLにその制約ゆえの美しさを感じます。もちろんそれを強制することは出来ないと思います。でも画像をベタベタはっつけて、どこをクリックすればどこにいけるのかまったくわからないサイトよりは、1時間でつくりましたという簡素なサイトの方が洗練を感じる。
その意味で、やはりHTMLの基礎的な理念を、生半可でもなんでもいいからもう少しみんなが意識すること、そしてそれを主張する人たちがいることには賛同したいと思います。
「理念」は「理念」としておおいに論じられるべきにしても、つまりおおいに気にかけられるべきにしても、じっさいにある限定的な目的があって、それを(少なくとも原理的には)達成しうる方途がいくつかあった場合、「次善の策」であってもより実現可能性が高いほうを選ぶべきというふうに、おれは考えている。その意味で、おれはリアリストであって、さらにはリヴィジョニストと批判されさえするかもしれないけど(いや、さすがに今日びそんな批判はされないか)、理念を追っかけていったすえ藻屑になるよりは、何ぼかましだ、と思う。
というわけで、とくに付け足すべきことはないのだけど、俊平太のレスで一点気になったのは、「少なくとも現場においては『理念』を『正当化する』ために『障碍者』を持ち出しているのではないとはいっておこうと思う。 /むしろ『想定できるだけ想定してありったけの技術を使う』という職人気取りな行為を正当化するのに丁度いいところに『理念』が転がっている、というのが正確なところだろう」という部分。ここで言われていることはまさに「手前勝手な『理念』(ここの例で言えば、「職人気取りな行為」という、より適当な言い方で言えば「理想」に近いもの)」を正当化するために障碍者(であれ、何であれ、当の「理念」以外のもの)をダシに使っている以外の何ものでもないようにしか読めない(が、もっとも、これは俊平太の書き方がちとまずいだけで、アダム・スミス的な図式を言いたいのかな、とも思うけど)。
職業としてそれに関わるのであれ、一個人としてそれに関わるのであれ、たとえば「職人気質」の現れとして「HTMLの理念」を言いたいのであれば、すなおにそれを言えばよい(まあ、「職業として」ってことでは、「そんなこと、営業的に言えないよ」かもしれんが)。
そのうえで、意外かもしれないけど、「HTMLの理念」、というか、「HTMLという形式を意識してウェブページをつくること」というのは(それをそれ以外の大義名分に、つまりは、「障碍者の利益」やら何やらにたよらないかたちでであれば)もっとおおいに主張されるべきだ、というのは、同意見なんだ。というのも、いみじくもべーやんが言うとおり、限定があるからこそおもしろいというのもあるし、HTMLのそもそもの「理念」たる「再利用可能性」を促進させることにもなるし、さらには、本エントリにも書いたとおり、ぎりぎりの本音で言えば「人間は機械にもっとやさしくなるべきだ!」という倒錯した意見をおれは持っているのだから。
ただ、これもべーやんも言っているとおり、ブラウザの現状を鑑みるに、じっさいはそういう「理念」とは、「正反対」とまでは言わないものの、ずれた「発展」の仕方をしているように見える。そういう「発展」はたしかに、「理念」のレヴェルから言えば何らの「メリット」はないのだけど、でも、もっと大きな流れのなかでは、「多数者」にあわせることこそが「メリット」なんだ(これは、そのよしあしを言っているのではなく、現実としてそう、ということ)。
で、そういう「現実」をまえに、いったい何がエンジニアにできるのかと言うと、「分離」の力点をずらすこと、だと思うんだよね。つまり、「分離」を「言語」のレヴェルにではなく、その手前の「機構」に持ってくること。さらに言いかえれば、HTML-consciousな書法と、そうではないものを、まったくの同一平面上に齟齬なく(というのは、HTML-consciousであることのご利益を損なわずに、ということ)両立させること。さらには、まったくHTMLを気にかけない書法から、その「理念」をうまく取りだすこと。
これは、たしかにchallengingなことだけど、それだけやりがい(これは、俊平太の言い方を引きつげば、「職人気質の発揮のしがい」と言ってもいい)もあるわけで、だからむしろ、HTMLのevengelistたるよりもいいんじゃないかな、と思う(じじつ、たとえばGoogleなんかはこういう趨勢を見据えて、けっこうな数のNLPの専門家をさいきん雇ったはず)。まあ、そのレヴェルの話になると、われわれ「市井の民」にはちょっと手が出なくて、ぎゃくにつまんない、ってのはあるけど。
だから、じゅんすいな「ユーザ」としてわれわれに何ができるか、あるいは、そのもっと手前で、どういうことを「ユーザレヴェル」のこととして考えなきゃならないのかということは、しょうじきおれにもとくだんの考えがあるわけではないのだけど、でも、それすらも含めておもしろい、とおれは思ってる。
>「次善の策」であってもより実現可能性が高いほうを選ぶべきというふうに、おれは考えている。
自分にブラウザを開発できる能力があるなら僕もその通りだと思うよ。
>「手前勝手な『理念』(ここの例で言えば、「職人気取りな行為」という、より適当な言い方で言えば「理想」に近いもの)」を正当化するために障碍者(であれ、何であれ、当の「理念」以外のもの)をダシに使っている以外の何ものでもないようにしか読めない
「アダムスミス的」が何を指しているのか僕にはわからないけど、言い直せば次のような事だ。
“まず「とにかく気を使いたい」からその辺にある「理念」をつかって正当化してるだけ”
障碍者(僕が言う“障碍者”は「何かがとても苦手な人」と言う意味だよ。これまでに何度もネタにした記憶があるけどソースはめんどくさいので省略。この場合、「数学が死ぬほど苦手な僕」も障害者に含んでもいい。そのぐらい広い意味)に気を使うのはとてもめんどくさい。けどそうしたいのだと言う人は現場に結構いるよ。クライアントに求められていないのにやっちゃう人。僕もその一人。
つまり上から投げ込まれた理念の使い勝手がいいから使っているだけなんだと言う事が言いたいわけなのさ。「こんなHTMLの書きかたしたら困る人がいるだろうな」と思って、それを乗り越えようとする情念だけだよ。まともに理念を振りかざしているヤツなんか見たことがないよ(いるかもしれないけどね)。多くの現場人から見れば、理念は後から現れたものだと思うよ。
「気使いたいから使ってるだけ」。高いところのモノを取れないでウーウー言ってる家族にかわってとってあげるのと一緒。たまたま出来るからやる。そんだけ。
>「そんなこと、営業的に言えないよ」
言えないね(笑)
で、「職」の求めるところでHTMLと接し、そして、その与えられた状況下でベストを尽くそうというその姿勢は、べつだん何の問題もないので、いいんじゃないかな。おれが問題に思うのは、言うなれば「教条的なHTML主義者」とでも形容できるような人たち、つまり、より「一網打尽」的で、そしてless-demandingな方途があり得るにもかかわらず、そうした選択肢を(なかば意図的にか)ネグって、「自分たちのやり方」を押し売りするような人たち、だから。そういうのって、ごくわるい意味で「デカダン」だもん。
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