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中坊俊平太(以下、慣れない呼び方ではあるが、「中坊」と呼び捨てにする)がふたたび「自分の頭で考える」に関連したエントリを書いてくれた。今回の主題は、「はたして(はやしの言うように)『自分の頭で考える人』は『根絶やし』にされるべきか」ということに関わる。
中坊の議論は、あらっぽく言えばつぎのような理路をたどる。
- 「自分の頭で考える人」は、その挙措の根底に、「知識」へのルサンチマンがある。
- そして、そういう「自分の頭で考える人」は、そうしたルサンチマンをばねに、「“「知識」のヒエラルキー”を変質させて『宗教』化」させようとする。
- ところで、こうした「自分の頭で考える人」の挙措(「“「知識」のヒエラルキー”を変質させて『宗教』化」させようとすること)は、ある種の階級闘争(的なもの)、つまり、「(知識を)持たざるもの」の「(知識を)持つもの」に対する「闘い」として捉えることもできる。
- こうした階級闘争(的なもの)は、「地球人文明の発展の遠因になっている」。
- ゆえに、「自分の頭で考える人」も「遠因」とはいえ「地球人文明の発展」にたずさわっているのだから、それは「あり」である。
(このとりまとめは、あくまで「あらっぽく」なしたそれであり、中坊の元の議論は、これにいくつかの補強論点が加わった、陰翳のあるものとなっている。だが、議論の大略は、このとりまとめで外してはいない、と思う。なお、中坊の他の補強論点のいくつかについては、稿を改めて論ずることとする)
まず論点1についてだが、なるほど、たしかに「自分の頭で考える人」には、「知識」へのルサンチマンがあるように思われる。この点は、同意できる。だが、論点2への「理由づけ」として、こうした「自分の頭で考える人のルサンチマン」ははたして有効であるか、疑問が残る。というのも、「知識のヒエラルキー」というのはむしろ、それに対するルサンチマンによってこそ、温存されるものであって、「変質させ」るどころの話ではないように思われるから(「あるものに対するルサンチマンは、むしろそのあるものを温存する」というこの論点は、本来であれば主題的に論ずべきものではあるが、ここではそれを論ずることは控えたい。もし、要望があれば別稿で論ずる)。
もちろん、「知識のヒエラルキー」というものが、「人としての価値」に直結してしまうかたちで顕現してしまっていることは事実であり、そして、おれはそういう顕現に対して人一倍危機感をいだくものであるが、しかし、おれの批判する「自分の頭で考える人」とは、「知識がなければ本来考えることすら及ばぬはずのことについて、自分勝手な考えをしてしまう人」のことであり、「知識のヒエラルキー」の「越権」、つまり、本来そうした「知識の多寡」によって判断されるべきではない領域への進出を阻むものとしての「自分の頭で考える人」ではない。
そうであるなら、つぎなる問いは「はたして『自分の頭で考える人』は、そうした『知識のヒエラルキー』を『変質』させることができるか」という点になるが、この問いに対しても、その答えは否定的なものとなる。なんとなれば、「考える」というのは本源的に「知識」を必要とするものだから(この論点に関しては、別稿でややくわしく論じる予定)。また、かりに「考える」という営みが「知識」を前提としないにしても、「知識のヒエラルキー」に対する邀撃手段として「自分の頭で考える」ことが有効なものかどうか、きわめて疑問である(この、「自分の頭で考える」ことが「知識のヒエラルキー」への対抗手段として有効かどうかという論点も、本来であればより詳細な検分にかけられるべきものである。だが、この点についても、「ルサンチマンの対象温存」という論点と同様、この稿では疑義を呈するにとどめる)。
このように、それが「宗教化」と呼ばれようと呼ばれまいと、「自分の頭で考える」ことは「知識のヒエラルキーの変質」に与るとするには無理があるとおれには思える(そもそも、繰りかえしになるが、そうした「宗教化」が「知識に対するルサンチマン」に基づいているのであれば、そのような「宗教化」はむしろ「知識」を温存する方向に進むはずである)。では、「宗教化」云々とは別個に論じられうる論点3、つまりは、「自分の頭で考える、ということは、ある種の階級闘争として捉えられうる」という点はどうか? この点についても如上の点と同様、ある意味では正しく、そして、そのような「闘争」はなされなければならない、と言いうるが、しかし、またしても如上の点におけるのと同様、「自分の頭で考える」ことは、そうした「闘争」の有効な手段になるとは思えない。
まず、「そもそも」という点で言えば、「階級闘争(的)」を「『自分たちに無いものは、誰かが占有しているもの』という錯覚から起こる敵視が“階級”を作り出して対立を起こし、それが自らの原因からくる欠点を隠蔽する役割を担っていて、自己肯定という甘美な飴玉を齎すというメカニズムのこと」とする中坊の定義は、二重の意味で問題なしとは言えない。第一に、「(的)」という「緩衝剤」を付加して、「本来の語義からの逸脱」が示されているにしても、「逸脱」の程度がややきつすぎる。つまり、論点4を引き出すために、「階級闘争が歴史を動かす」というスキームに「自分の頭で考える人」をむりやり乗っけるために、「階級闘争」という言葉が持ち出されているように思えてしまう。だが、言うまでもないが、本来的な意味で「階級闘争が歴史を動かす」と言えるためには、まずもってそうした「階級」の内包が、「歴史を動かす」と言われる場合のそれに則っていなければならない。
第二に、それが「階級闘争」と呼ばれようが呼ばれまいが、「自らの原因からくる欠点を隠蔽する役割を担っていて、自己肯定という甘美な飴玉を齎すというメカニズム」というのは、ほんとうに言祝がれるべきものであろうか? しょうじき言って、もし「自分の頭で考える人」が「加担」するとされる「階級闘争」がそのようなものであるなら、「自分の頭で考える人」は、そうした「闘争」もろとも歴史の表舞台からご退場ねがいたいものである。だいたい、「自分たちに無いものを、誰かが占有している」のであれば、そうした「占有」を突き崩し、以て「欠点」をも補うべきである。(ただし、ここで中坊の言う如上のような「階級闘争」の特徴づけは、ある意味「正鵠を射ている」とも言える。何となれば、じっさいの階級闘争の歴史とはじじつ、「自らの原因からくる欠点を隠蔽する役割を担っていて、自己肯定という甘美な飴玉を齎す」という道筋をたどったうえで、「闘争相手=資本家」の「一人勝ち」をもたらしたのだから。もっとも、であればなおさら、そのような「闘争」は却下されねばなるまいが)
とはいえ、中坊の言う「階級闘争(的)」なるものが、その本義にどれだけ忠実か否か、また、そうした「闘争」がどれだけの成功を収める/収めたかということとはまったく(と言うのが言いすぎであれば、ほとんど)関係なしに、そうした「闘争」が「一面では地球人文明の発展の遠因になっている」であれば、何にせよそれは「あり」なのではないか? これが第四の論点である。この論点も、二重の意味で問題なしとは言えない。まず、比較的「軽微」と言える問題点から検分する。ここでの中坊の論じ方は、繰りかえせば、「自分の頭で考える、ということも、地球人文明の発展に与っているから『あり』だ」というものである。だが、そのように「地球人文明への寄与」という視点を持ち出すのであれば、「知識に基づいて考える」という在り方のほうがよほど「地球人文明の発展」に寄与してきたわけで、となると、「自分の頭で考える」より「知識に基づいて考える」ほうが断然「よい」ことになる(ここで、評価軸はあくまで「地球人文明の発展への寄与」に設定されていることに注意。そして、このような評価軸を持ち出したのは、おれではなく中坊である)。
また、より「致命的」と言える問題点であるが、これは、もし「自らの原因からくる欠点を隠蔽する役割を担っていて、自己肯定という甘美な飴玉を齎すというメカニズム」であるところの「自分の頭で考える」というものすら、「地球人文明の発展の遠因」として肯定されるのであれば、はっきり言って「何でもあり」ではないか、と思える点である(中坊はあくまで「地球人文明の発展」について語っているのであって、たんなるその「変化」について語っているのではないことに注意。ただ、「発展」ということで中坊は、いっぱんに言うそれとはかなりことなることを思い描いているのかもしれない)。つまり、現にそうであるものは「そうである」というそのことのみを以て「地球人文明への寄与」が認定され、そして「肯定」されるべきものとして立ち現れる。もちろん、これは粗雑な一般化ではある。しかし、「自分の頭で考える」という、それ自体としてだめだと思われるものですら、このように「地球人文明への寄与」を言祝がれてしまうのだから、その「応用編」として、「変化」をもたらすものであれば何であれ、それについて「地球人文明への寄与」が主張できるように思えてしまう。
ゆえに、ざんねんながら、やはり「自分の頭で考える」ことは、「あり」だとはとうてい思えない。
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