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昔から「動物の権利」に興味がある。そして、このあいだこのエントリでべーやんから肉食に関するコメントをもらい、あらためてまたここら辺のことについて(暇ができたら)考えをすすめようかな、と思っている。
ひろい意味での「肉食」をしないようにしよう、という、いわゆる「ヴェジテリアニズム」は、その根拠をせまく「人間」にとるか、ひろく「動物」にとるかで二分できる。つまり、肉を食わないほうが健康にいいだとか、あるいはべーやんがくだんのコメントで引いたように、肉を食わない分、そこに投入される資源を(分配機構が整備されていると仮定して)食べ物が足りていない人に分配できれば、現状よりもよりおおくの人が食いはぐれないで済む、だとか、あくまで「人間の利益」のために肉食を避けるというのが、「人間」を根拠にとったヴェジテリアニズム、ということになる。
このような「人間」を根拠にとったヴェジテリアニズムに対して、よりひろく「動物」を根拠にとったそれ、つまり、「食肉」として生産消費されている牛だって豚だって鶏だって、そして必ずしも「生産」というスキームに乗ってこないような魚だって(もちろん、魚も養殖魚の場合は「生産」されているわけだが)、「人間」と同じ「動物」として「生きる権利」、あるいは、もうすこし柔軟性を高めれば、「妥当に扱われる権利」を有しているのではないか、こういう考えを大元におくのが、「動物」を根拠にとったヴェジテリアニズム、である。
さらに、こうした「動物の権利」というものを念頭におくと、話は「肉食」にとどまらない。人が生きていくなかで、知らず知らずのうち、「人間」以外の「動物の権利」は侵害されている。「動物の権利」を重く見る人たちは(そして、おれもまた、相対的にはこの「動物の権利」を「重く見る人たち」のうちであると思うのだが)そう考える。すると、各種動物実験、動物博覧施設(動物園や水族館、など)なども、問題の射程に入ってくる。
上記のことはいずれも、もちろん問題にし、考えるべき事柄である。しかし、そのような人たちが「動物の権利」と言うとき、そこで言われる「動物」はおうおうにして「脊椎動物」のことである。無脊椎動物、つまり節足動物環形動物棘皮動物刺胞動物海綿動物軟体動物などなどなどのほとんどの動物(「脊椎動物」は、現行の動物分類38門上のうちの1門である脊索動物の亜門にすぎない)は、そうした「動物の権利」の享受者からは除外されている(じじつ、「動物の権利」をつよく主張するピーター・シンガーのような人も、「脊椎動物」と「それ以外」のあいだに線を引き、タコやイカなどの軟体動物を食っている)。おれには、これはどうにもおかしなことに思われる。
だから、ほんとうにひろい意味での「動物の権利」は、ちゃんと考えられているとはまだまだ言えない。そこを、一度考えてみたい、と思う。
(動物園や水族館は基本的には不要。だだ、これは程度の問題で、実際、そんなに沢山あるとも思えないし、まあ、いいかなあとも。
動物実験は、これも程度の問題で、最低限は「勿論」致し方無いのだろうけど、現在どれだけの無用な実験がなされているか、私は無知で知らないので、語る資格はないです。)
まさか、シマウマを食うライオンは残酷だから、すべてのライオンは檻に入れろとか、あるいは、雑食動物で、自然に存在する動物を食っている奴は、全部牢獄に入れろ なんて言う人は流石にいないと思います。
しかし、養殖や飼育して食うのと、自然界に普通に存在しているものを捕獲して食うのとどれほどの違いがあるのか私にはよく分かりません。
野菜や穀物だって、農耕して食うのと、自然界に普通に存在しているのを食うので、大差ないでしょう。
そして、どっちも、皮肉なことに規模が拡大すればするほど、沢山CO2が出ています。
この手の議論があるのは、宗教的な教条から禁止しているところはともかく、実際に先進国以外で存在するのでしょうか。
養殖飼育とその殺戮と肉食 が 3点セットが生活に密着しているところでは、当たり前のことを当たり前にしている程度のことにしか、ほとんど感じられないはずです。しかも、その場合、ほとんど実際 人が生活する上でやむを得ないことをしているにすぎないだけのことだと思います。
とはいうものの、確かに先進国にいるからこそ、この2点目と3点目が分断されており、結果して超越論的審級でも設定できて ゆえに、その残酷さが分かるという議論も成立するのかもしれません。しかし、先進国にのみ、石油を燃やしまくりCO2を出しまくってこそはじめて成立する、物通なる経済機構が存在します。そしてその先進国特有の恵まれた生活環境におかれた人が、自分がしっかりCO2を出しまくっているのに加担しているのを忘れて、それ以外のCO2を出していない国の人を勝手に断罪しているような身勝手さも感じます。
(直接、そう言っている人は流石にいないとは思いますが、はからずも、(養殖や飼育による)肉食を全部否定してしまった時点で、結果して自分より、地球環境に優しい、つつましやかな生き方をしている先進国以外の人を断罪していることに全く気が付いていないんじゃないかと思います。)
すくなくとも、肉食を野蛮だ野蛮だ野蛮だ と 他人にまで、ぎゃあぎゃあ言いまくる人(たとえば、歌手のモリッシー)は、昔からそのあたりが全く念頭にないのじゃないでしょうか。
勿論、ベジタリアンはベジタリアンで尊重されるべきであり、他人がそれをどうのこうのと文句を言う資格はないでしょう。
ただ、少しだけぷっつん大吉のコメントのうち、手短に反応できる部分に反応しておくと、たとえば、同じ肉食でも、その食われるものが飼育養殖のものなのか、それとも自然状態なのかで、「食われるまで」に動物たちによって経験される「苦痛」がだいぶちがう、と動物の権利の擁護者たちは言います。だから、肉食それ自体はしようがないにしても、その「食われるまで」という手前の段階も問題になりうるのです(やや「勇み足」として言うと、「どうせ食われちゃうんだから、どういうふうに飼育養殖しようが関係ないだろ」という考えは、「どうせ死んじゃうんだからすべてはどうだっていい」というような受動的ニヒリズムと同相であり、そして、ぼくはこのような受動的ニヒリズムは好みません)。
また、人が肉食する(あるいは、動物実験を許容する)というのは「人が生活する上でやむを得ないことをしているにすぎない」という観点ですが、これはたぶん、動物の権利の擁護者たちからすれば、「やむを得ない」というレヴェルを超えて動物の権利は剥奪されている、という認識があると思います。じじつ、「生きるためにやむを得ない」という「ぎりぎりのレヴェル」を設定すれば、むしろ肉を積極的に食う必要はなくなるはずです。
そして、上のこととある意味相即的に、「このような動物の権利を主張するのは先進国だけ」という論点ですが、これはたぶん、じじつとしては正しいです。しかし、それは端的に、先進国以外ではそれこそ「生きるためにやむを得ない」というレヴェル、もしくはそれ以下に生活状態がとどまっており、そもそも肉なんぞ食えない、というところも多からんと思われますので、あまり「先進国でしか議論されていないからその有効性に疑義がある」という話の持っていき方はできないと思います。つまり、ぷっつん大吉さんが挙げておられるCO2問題のように、先進国だからこそ議論しなければならない問題とも考えられるのです(ちなみに、CO2問題に関しては、そりゃあ問題は問題ですが、世間で言われている程のことではないと個人的に思っています)。
たまに、肉食と地球環境問題を同時に問題視する人がいます。(いや、たま、じゃなくて、セットの人も多いかな?) そしてそういう人は、実際確かに肉は食わないし、ペットボトルの皮をちゃんと剥いだ上でキャップもカットした上でリサイクルに出しておられる。しかしですよ。彼らの毎日口にしている野菜や穀物自体が、実は、大量の自然界の動物の殺戮の上に成立しているのを 意図的なのか、あるいは、知らずにかは知りませんが、見落としており、ちゃんちゃらおかしいとのではないかと思うのです。つまり、大きな問題を無視して、枝葉末節のことにしか目が行っていないと思うのです。
鳥インフルエンザが、はじめて、鳥から人へ感染を起こしたベトナムですが、実際感染した人って、「食うには困らない状態」からは、ほど遠い人だと思います。仕方なしに、魚(や、タコやイカ)の代わりに動物性蛋白を確保するために鶏くらいしか食くすべがなく、鶏と一緒に生活していたら、感染してしまったというのが事実ではないかと思います。少なくとも、日本でも、昭和20年代や30年代前半は、「食うには困らない状態」からはほど遠く、実際東京大阪といった大都市でも、家庭で鶏を飼って食っているのはほどんど当たり前のような状態で、その名残で、私が子供のころは田舎にいかずとも都会でも、まだ、自分の家で鶏を飼って食っていたところなんて結構ありましたよ。
いずれにせよ、「Meat is murder」なんてことを「他人に対して ぎゃあぎゃあぎゃあ」といい他人を「野蛮人扱い」してくださる方は、一層、無人島か人里離れた山奥にでも行っていただいて、何から何まで自給自足の生活をした上で、「野蛮人扱い」していただきたいものだと思います。そして、そういう方に限って、無人島か人里離れた山奥にでも行っていただいて、何から何まで自給自足の生活を始めた途端、1年もしないうちに体力がつきて死んじゃうか、音を上げて都会に帰ってこられると思いますよ。
そして、仮に仮に肉食を先進国から追放したとします。それでも、先に指摘した野菜や穀物に関する経済機構はなくなりは決してしないし、さらに巨大化するでしょう。結局、CO2の排出は、ほとんど減らないし、結果して大量の自然界の動物の殺戮をやってしまっているのには、何ら変わりないと思うのです。
実際、私もCO2の議論については、胡散臭い議論も沢山混じっていると思います。いや、ほとんどが胡散臭いとも思える。しかし、CO2の問題を無視して、肉食を問題視する、あるいは、自分がCO2の問題に十二分すぎるほど加担しているのを無視して、肉食を問題視するのは、問題視していることの大小があまりにもずれ過ぎている点で、変だなあと思う次第なのです。
ちなみに、私は、地球環境問題は結構深刻だとは思うのですが、それ以上に、地球環境問題を、純粋に科学の立場で論ぜずに、ある種のイデオロギーとして論じておられる人があまりにも多いのに、非常な危険性を感じています。これは、ある種のファシズムとまでいかなくとも、行きすぎると言論に対するヒステリックな圧政を生む可能性があるのではないかと非常に危惧しています。
それから、ほんと、お忙しそうなので、無理してレスつけてくださることもないとは思いますし、またの機会ってことでもいいのではないかと思っています。
そう思うなら、2次コメントなんて書くなよ と 思われるかもしれませんが、これは、1次コメントの自分の表現が悪すぎたので、つけざるを得なくなったわけでして、その点は、深くお詫びいたします。
思うに、先進国で、ベジタリズムができるのは、食糧事情や、衛生事情に極めて恵まれているからじゃないかと思うのです。
人は、雑食動物ですから、食糧事情や衛生事情が悪いところで、一切動物性蛋白を摂取しないと、かなり命を落とす危険性があるんじゃないかと思っています。
(人間をも含む)動物の権利全般を守るための「手段」としてのヴェジテリアニズムとCO2削減の比較ですが、たしかに、もしCO2削減と言うものが、納得できる範囲で実現可能であれば、ぷっつん大吉さんのように、「ほんとうに動物の権利を云々したいのなら、ヴェジテリアニズムとかまだるっこしいこと言ってないで、CO2を減らす方向で考えろや」と言うことが有効な批判となりうるのでしょうが、現行のCO2削減対策のあまりの悲惨な結果を見てしまうと(たとえば、京都議定書での「1990年の排出量より6%削減」という数値目標は、どれだけ達成されたのかを考えてみてください。批准国のほとんどでは、むしろ排出量は10%から20%の割合で増えています)、ぷっつん大吉さんの批判はまったく有効ではないように思える(とはいえ、引きつづきCO2対策に関しては、各種方面から考えるべき、と思いますが)。だから、今では「絵に描いた餅」でしかないCO2削減よりも、ヴェジテリアニズムを実行するほうがよほど実現可能な方向だと思われます。ただ、このふたつの方向は、まったく排反的なものではないので、どちらの方向でもやれることをやればいいのではないかと。あと、「彼らの毎日口にしている野菜や穀物自体が、実は、大量の自然界の動物の殺戮の上に成立しているのを 意図的なのか、あるいは、知らずにかは知りませんが、見落としており」という部分に関しては、ぷっつん大吉さんの前のコメントの「生きるためにやむを得ない」というレヴェル内に収まりうるので(肉も野菜もダメということであれば、「生きる」ということが危うくなるでしょう。それを超えた要件をヴェジテリアニストに求めるのは、少々酷、という気がします)、ぷっつん大吉さん自身の言説内では擁護しうる、あるいは認めなければならないと思うのですが、如何?
ちなみに、ぼくはそもそもヴェジテリアニズムにコミットしているわけではないので、そこのところをお間違えなきよう。
百歩ゆずって、虫やら魚には痛点がないので傷つけても苦痛を与えることにはならないのだとしましょう。それでも、やはり死ぬか生きるかという状況を、どうでもいいとは言いがたいと思うのです。人間にしたって、苦痛がないなら殺していいことにはならないのですから、ましてや人間と動物を不平等に扱っていい道理はないとまがりなりにも主張するなら、逃れうる話題とは思えないです。
そして一つきになるのが、段階的に、保護する動物の重要度に差をつけようという考え方に対する批判なのですが。全面的に批判してるのではないかもしれませんが、脊椎動物にとりあえず論及を限定してる時点で、自分たちも同じじゃないかと、普通に考えれば思ってしまいます。そして何より、ひょっとするとそちらのほうが、保護対称の射程が広いんじゃないの?という気すらするのです。
ただ、そうはいっても僕も基本的には動物の権利を考えるというのは面白いし重要だと思っているので、別に「こんなもん駄目だ!」とはまるで思ってないです。むしろ、そういう批判はあるだろうとわかってるはずなので、今現在、どういう議論が起こってるのか興味深いです
はたして、そんなにヴェジタリアンって正義を他人に押し付けてるんでしょうか?僕がそういった人たちの意見を見る機会があまりないからなのかもしれないのですが、むしろ「ヴェジタリアンは自分たちを善意の人間であると信じ、他人の習慣を軽率だと糾弾し、己の無知を棚にあげている」という激しいバッシングの方が、なぜか見る機会が多いんです。
正直、こういった反動的なリアクションのほうが、よほど「イデオロギー」じゃないかと感じます。別に菜食主義こそが倫理的に第一の義務となんて、菜食主義者は言っていないのではないか。確かに、安易な感情移入ゆえに声の大きくなった人たちは一部にはいるのかもしれません。でも、それが菜食主義者特有の問題でしょうか。○○主義なんて広まった考え方を持つ集団がいれば、一部は過激なことも言う人もいるよねというのは、割と当然のようにも思います(だから問題じゃないとも思いませんし、菜食主義にそういう傾向が強いと言われればそうかもしれませんが、しかし全面的な特徴ではないはずです)。
僕自身もなんだかんだで肉をえらい食ってるので欺瞞的といえば欺瞞的なんですが、心境的には、若干菜食主義にコミットしてる気がします。
時間的な余裕がないので、ごく手みじかに、ゆえに補強論点をすっとばして言えば、「動物の権利」はまずその基盤を「存在の権利」(「生存の」ではない!)におくべきであり、そこでは、「苦痛」の有無はおろか、「生命現象」の有無も問題にならず、ゆえに、「生物/無生物」という区別も(とりあえずではあれ)揚棄されている、そんな方向性をおれはうすぼんやりと考えている。まあ、それは、過去におれが書いたいくつかの書きものから、窺い知れるところだと思うけど。
で、べーやんの言うことで、「内容的な疑義」と言うより、そもそも何を言っているかよく分からない点があるので、以下はそれについての借問をば。まず、べーやんはひとつめの投稿の第2段落目で「苦痛」と「死ぬこと」を峻別すべき、と言った。これ自体は、その理由の如何を不問に付すと、そうだと思う。ただ、当該段落の、その「理由付け」と思しき箇所が、よく分からない。つまり、件の文章からは「人間と動物を不平等に扱っていい道理はないとまがりなりにも主張する」ことが、何らかの意味で「苦痛」と「死ぬこと」の峻別を要求するモメントになっている、と読めるけど、ここの筋道が明瞭ではないと思う。
また、同じくひとつめのコメントにおける第3段落目が、全体としては、「権利が担保されるべき動物にランク付けすること」に賛成しようがしまいが、両者とも「脊椎動物の特権視」とでも言える構えを持っている時点で「同じ穴の狢」なのではないか、という疑義の提出と読める。そこでベーやんは「権利が担保されるべき動物にランク付けすること」に反対する人たちにしたってその議論を脊椎動物に限定していると言っているけど、これはほんとうにそう言えるか、あやしい。また、ベーやんは、「権利が担保されるべき動物にランク付けすること」を認めたほうがぎゃくに「権利が担保されるべき動物」の幅が広がるのではないか(という気がする)と言っているけど、これも無批判には認められない。全体として、どうも、「権利が担保されるべき動物(ただし、これは脊椎動物に限定されない)をランク付けしよう」という主張と、「権利が担保されるべき動物(ただし、この場合脊椎動物限定)のあいだにランク付けがあってはならない」という主張のあいだの対立という、ありもしない「にせの対立構造」を考えているように読めてしまい、ゆえに、議論(もしくは問題提起)がよく分からないものになってしまっている。
あと、「ヴェジテリアンによる正義の押し付け」について、だけど、そうした「押し付け」の存在を主張しているのはおもにぷっつん大吉さんなので、彼がそれに応えればいいのだけど、もしかりにべーやんがおれをもそうした「ヴェジテリアンによる正義の押し付け、に対する批判者」に参入させている場合のことも考えて、いちおうこの話題についてもレスをしておく。
まず第一に、それがヴェジテリアンによるものであれ何であれ、そして、その押し付けられるものが「正義」であれ何であれ、「押し付け」というものはまずもって即自的にうっとうしい。そして、話をヴェジテリアンに限れば、その「うっとうしさ」は、それが唱える「正義」の内容を吟味させることを頓挫させてしまう程度にはうっとうしいものであることはたしか、だと思う(ヴェジテリアンの人が、非ヴェジテリアンの人を「人として、もっと言えば生物として、下等」というのに類する、きわめて差別的な発言をすることは、ざんねんながら少なくない)。だから(とここからがおれとぷっつん大吉さんを分ける点であると思うのだけど)、彼ら彼女ら、つまり、今現在その「正義の主張」が多くの人々にとって「押し付け」として映ってしまっている人たちは、そうした「強硬策」を一時ペンディングし、(ある側面から見れば「姑息」とも受け取られかねないかもしれない)「懐柔策」を取ってもいいのではないか、と思う。ついでに言えば、ベーやんの言説には「目的のためには(いかなる、とまでは言わないものの、たいていの)手段は正当化される」という考えが読み取れ、もしそのことに無自覚であれば、それはそれで問題だと思う。
苦痛と死ぬことの峻別の筋道が明瞭ではないとのところです。動物の権利論者が、本来動物と人間の権利を同等と考えるのであれば、「人間を、苦痛さえなければ殺してもいいとはならない」ということを認める以上、動物も「苦痛がなければ殺していいことにはならない」と普通は考えられると思いました。そういう単純な考えがまちがってるというのなら、それはどういう要因からだろうか?と考えています。
ランク付けに関して。なるほど、つまり結局は「脊椎動物に限定してるじゃん」という主張を、変なところに絡ませてしまってるだけじゃない?ということですね。
はやしさんを「押し付け批判」の一人とは思っていないです。やはり、ぷっつん大吉さんに対してです。
あまり、菜食主義者がそうでない人に対して攻撃的な、あるいは威圧的な、あるいは優越的な態度をとっている場面を僕は見聞きしたことがないのですが、しかし普通に考えればありうることだとは思うんです。そういう意味で、残念ながら存在すると言われるとそうなのでしょうが、事実として、思ってもいないことを思ってると決め付けている場合も少なくないのではないか、そしてそのことだってもう少し考えられたっていいのではないか、と思わざるえないです。
僕は基本的に、懐柔策がベターだというのは同意です。ただ、言われているように
>「目的のためには(いかなる、とまでは言わないものの、たいていの)手段は正当化される」
という考えを持ってる可能性は結構あるかもしれません。(なんだかんだで先進国の多くの人の肉食を擁護するには、経済と快楽と利便性って理由しかないんじゃないの?という気はしますが、もちろん他にもありうるかもしれないということもずっと考えてはいます)
>ベジタリアンはベジタリアンで尊重されるべきであり、他人がそれをどうのこうのと文句を言う資格はないでしょう。
これが僕の基本です。
そして、ラットの実験すら長谷部さんにとってはおぞましいことでしょうが、その科学的な研究で精神疾患をもつものがどれだけ救われたかを知る/実感できる 私とではいくら話しても、話がかみ合うことは永遠にないでしょう。
何よりも、「僕がこの問題に入って」これ以上話を突き詰めだすと、「ヒトはなぜヒトを殺してはいけないのか」という問題(死刑廃止とか戦争反対とか言ったその手のレベルでなく、なぜある人が通り魔殺人をやってはいけないのかといったレベル)を容易に惹起してしまうし、その場合、必ず人格障害や一部の精神疾患に関する未解決な問題に深く立ち入らざるを得なくなりますので、余り持論の深層部分は開陳したくありません(つまりこれ以上話に入りたくない)とだけ申し上げておきます。
ひとつめ。べーやんはおもに、ぷっつん大吉さんの発言における「ヴェジテリアンによる正義の押し付け、に対する批判」に関して、疑義を呈している。それに対してぷっつん大吉さんは、「(ぷっつん大吉さんによって、ベーやんが妥当だと思っている、と措定されている)ヴェジテリアンが唱える正義」ということに関してリプライをしている。だから、ここでは「聞かれたこと」と「その答え」が、一致していない。もちろん、この話をつづければ、いつかは「ヴェジテリアンの唱える正義」そのものに関する議論になり、その意味でぷっつん大吉さんのリプライは(やや前のめりだとはいえ)有効、なのかもしれない。ただ、ごくかんたんに考えれば、べーやんの疑義に対する回答は「きみはヴェジテリアニズムないしは動物愛護運動(ほんとうは「ヴェジテリアニズム」と「動物の権利擁護運動」を「ないしは」という接続詞でつなぐことは問題なしとはできない。この点については、つぎの段落でやや詳しく述べる)の実情をあまりにも知らなさ過ぎるのでそんなことが言えるのだよ。たとえば、PETAなどの活動を調べてごらん。おれの言っていることがけっして事実無根の思い込みに由来するものではないことが分かるから」で済む。
ふたつめ。べーやんもぷっつん大吉さんも、そしておれも、ヴェジテリアニズムというものと動物の権利擁護運動というものを、とくに区別せずに使ってしまっているけど、これは粗雑な物言いである、と言わざるを得ないし、また、ここに議論の噛み合わなさの原因の一端もあるように思われる。というのも、ここで(というのは、このエントリに付された一連のコメントにおいて)、われわれはおもに「ヴェジテリアニズム」(ないしはそのヴァリエーション)をリファーしているのだけど、じっさい語られていることを見ると、それは、「動物の権利擁護運動」についてだったりする。だけれど、ヴェジテリアニズムは動物の権利擁護運動をけっして含意しない。つまり、ヴェジテリアンでありつつ、べつだん動物の権利を気にかけないような人は、それなりに存在する。だから、もし、べーやんの言う「ヴェジテリアニズム」が広義に捉えられたそれであるとするならば、なるほど、彼ら彼女らの「正義の押し付け度」は薄まり、われわれ(というのは、ぷっつん大吉さんとおれ)は彼ら彼女らの言うことに過剰反応しているだけ、と言えるのかもしれない。しかし、べーやんの言うことを見るに、その話の中心はそうした「広義のヴェジテリアニズム」だけではなく、動物の権利擁護運動に付随するそれのように思える。もちろん、そもそものおれのエントリからして、「ヴェジテリアニズム」と「動物の権利擁護運動」の別に関してごくファジーな書き方をしているので、そうした混濁の非の大半はおれにあるのだけど、でも、このふたつは、それ(ら)について議論をしようという場合はなおのこと、分けて使うべきだと思う。
というわけで、とりあえずはべーやんとぷっつん大吉さんの「すれちがい」にふれるにこのコメントはとどめ、べーやんの直近のコメントに見られるやや不明瞭な点に関する問いただしは、また明日。
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