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「現実世界で自分の身に降りかかってきたとしたらけっしてありがたくはないような出来事を、なぜそれらが〈うそ〉であれば『娯楽』として受けとることができるのか」ということについて前回までに、アリストテレスの魂魄浄化論、ヒュームの技巧感嘆論、フィーギンの道徳起源論、ウォールトンの感情否定論、そしてモリアルの虚実同等論という、都合5つの説明を見てきた。今回から4回にわたって、これまで急ぎ足でしか見ることのできなかった説明4つを、一つひとつそれなりに丹念に見ていきたい、と思う。第1回の今日は、一般的にもそれなりになじみがあると思われる、アリストテレスの魂魄浄化論、つまり、そのカタルシス論を見る。
「カタルシス」という言葉は、日本語においてもふつうの文脈で、「カタルシスを得る」というような言い回しで、「すっとする/した」ぐらいの意味を言うために使われている。だが、そういう「日本語」としての「カタルシス」の意味を、アリストテレスの『詩学』にも投影してしまうと、どうしても「当たらずとも遠からず」という読みになってしまう。ゆえに、まずは古代ギリシア語の文脈でこの「カタルシス」という語がどのように使われていたかを見たのち、その用法に則ったかたちで『詩学』を読みなおす、という行路をとる。
というわけで、Liddell-Scottで"κάθαρσις"の項を見てみると、大項目の1つ目に「(罪や汚れを)きれいにすることcleasing 、浄化purification 」とある。つぎに、2つ目の大項目を見ると「医学用語」としたうえで「わるい体液をとりのぞくことclearing off of morbid humours 」とある。つまり、大きく分けて、何らかの好ましくないものを除去(とくに"clearing off"の意を取った場合)、あるいは沈静化させる(とくに"purification"の意を取った場合)、という主だった意味を"κάθαρσις"は持つ。そして、"κάθαρσις"のこれら2つの主要な意味に対応して、アリストテレスのカタルシス論も、2つの捉え方をされてきた。つまり、医学的な意味での「わるいものを除去する」という面で解釈したpurgation theoryと、主に道徳的宗教的な意味で言われる「浄化」の面で解釈したpurification theoryがそれである(ここで"purgation"も"purification"も、日本語にすると両方とも「浄化」となってしまい、それらのちがいが明確化できないので、これらの語はあえて訳さない。ここで、purificationはかならずしも、purgationのような「除去」というアスペクトを持つわけではない、ということに注意)。
Purgation theoryの見方でゆくとアリストテレスのカタルシス論は、「悲しみや恐怖」という「よくないもの」を取り除くのが悲劇である、といっていることになる。ここですぐさま、「悲劇というのは、自ら恐怖や悲しみを提示representするわけで、『取り除く』どころか、むしろ、そういう『よくない』感情を増幅させるのではないか?」という疑義が思いうかぶ。しかし、ここでも「よくないものの除去」というものを、アリストテレスが生きた時代の文脈で考える必要がある。つまり、ここではホメオパシー的な、たとえば「熱が出たときにはあったかくしろ」という、言うなれば「毒を以て毒を制す」的な古代ギリシアの療法観が投影されているとされる。だから、悲劇にrepresentされる「恐怖や悲しみ」という「毒」が、ひるがえってそれを見る観客の「毒」を取り除く、ということになる。
一方のpurification theoryは、purgation theoryのように「恐怖や悲しみ」を端的な「毒=わるいもの」と見なさず、「恐怖や悲しみ」といったものも、そのバランスさえ取れていれば「よいもの」とする。これは、アリストテレスが他所で言っていたこととも合致する(たとえば、プラトンが「悲劇なんてのは、観客をしょんぼりさせちゃうからだめだし、それに、恐怖とか悲しみってのは、端的にわるいもん、だよ」と言ったのに対して、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』1106b8-23などで「いやいやお師匠さん、そんなこたぁありやせんぜ」と反論したのだった)。ゆえに、この見方に立てば、悲劇の「恐怖や悲しみ」は、それを見るもののうちにある「恐怖や悲しみ」を、取り除くのではなく、適度なものとし、それらを「よいバランス」のうちにおく。
大略、アリストテレスのカタルシス論は、上のように語られてきた。しかし、これらのいずれももっともらしい説は、その根拠をアリストテレスの他の著作に求めているのもさることながら、そうした説明はそもそも『詩学』の文脈にほんとうに合致しているのか?という疑義が残る。そうした疑義に応えたのが、Else、およびそのElseを建設的に批判したGoldenである。たとえばGoldenによると、悲劇にかぎらず『詩学』で扱われている「詩ποίησις」というものの本懐は、「個別のなかに普遍を見ること」にある、とされる(Poetica 1951b5-7)。してみると、この"κάθαρσις"の先ほどは素通りしてしまった第3の意味(troisième sens!)「明確化clarification 」が浮上してくる。つまり、悲劇であれ何であれποίησιςは、そこにrepresentされた「個ἕκαστοϛ」としての「恐怖や悲しみ」を通じて、「普遍ὅλος」としての「恐怖や悲しみ」が描かれていることに感嘆する、そういう「技」のことを「カタルシス」と言うのだ(であるから、この「技τέχνη」としてのκάθαρσις説を採ると、通常"such emotions"や"these emotions"と訳されている"τοιούτων παθημάτων"の部分は、より広く"such incidents"というふうになる。Golden and Hardison, p. 133を参照)。
このように、「分かったつもり」になっていたアリストテレスのカタルシス論も、なかなか広がりを持った議論である可能性が見えてきた。しかし、話を本筋に戻せば、はたして"clarification"の意で解釈されたカタルシス論であっても、「現実世界で自分の身に降りかかってきたとしたらけっしてありがたくはないような出来事を、なぜそれらが〈うそ〉であれば『娯楽』として受けとることができるのか」ということのよい近似解になっているだろうか? もちろん、clarification theoryとしてのカタルシス論が主張するように、「個」をrepresentしながらも「普遍」が描けているということにわれわれは感動することもあるだろう。だが、そういう理由ではあまり「現実世界で自分の身に降りかかってきたとしたらけっしてありがたくはないような」虚構世界での出来事を、われわれはたのしんではいないような気もする。では、ヒュームの技巧感嘆論はどうか? それを次回は見てみよう。
参考文献
Aristotle. 1932. Politics. Loeb Classical Library.
---------. 1934. Nicomachean Ethics. Loeb Classical Library.
---------. 1996. Poetics. Loeb Classical Library.
Bywater, Ingram. 1909. Aristotle on the Art of Poetry. Oxford Univ. Press.
Else, G.F. 1957. Aristotle's Poetics: The Argument. Harvard Univ. Press.
Golden, Leon. 1962. "Catharsis." Transactions and Proceedings of the American Philological Association 93: 51-60.
Golden, Leon and O. B. Hardison. 1968. Aristotle's Poetics: A Translation and Commentary for Students of Literature. Prentice-Hall.
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(1) 悲劇のパラドクス
(2) 恐怖・怒り・悲しみという快
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