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ふと気づけば、今年に入ってから毎日ブログを更新しているので、できるだけ頻繁に更新したいな、と思いました。

そもそも、毎日毎時毎分毎秒、「何かしら」は感じたり思ったり考えたりしているわけで、でも、そうした感じられたこと思われたこと考えられたことはいともかんたんに忘れ去られてしまい、さりとて「忘れ去られるようなことはその程度のこと」と達観を決めこむほどの境位にいたっていない身としては、「何かを感じたり思ったり考えていたりした、あれは何だったんだっけ」と忘れようにも思い出せないむず痒さに煩悶することが多々あるので、感じたこと思ったこと考えたことは極力記録しておいたほうがよい、とも思うので。

それなら、Twitter といううってつけの場があるではないかと言われるであろうことは想像にかたくなく、じじつ、ぼく自身もそのように思いもするのだけど、Twitter のリプライやリツイートやフェイバリットやらの機構で張りめぐらされる「可視化された関係性の網の目」のようなところに、ごく些細な、犬も食わない、平平凡凡な、誰に向けられたわけでも、そして誰かに読まれることを前提にしたわけでもない感じられたこと思われたこと考えられたことを投げこむのは「何かちがうなあ」と感じられる。だから、トラックバックというものはすでに過去の遺物となって久しく、コメント欄はあれどほとんど誰も書きこむことはない、誰かが見ているのかも茫として知れぬブログという形式が打ってつけと思われるのです。
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本に書きこみができるようになること。

べつに、「本がもったいなくって書きこめない」というわけではなく(本を重ねて踏み台にしたり椅子にしたりしちゃうぐらいだから、「本がもったいない」なんて思うわけない)、「書きこむと、その書きこみに読解が引っぱられる」、あるいは「『なんでおれこんな書きこみしたんだろう?』と過去の自分の心中の詮索に時間を取られる」という事態がこわい、んですね。だから、書きこみをしながら読みたい本はいったん電子化してから読んでるんですが、この電子化というのがなかなかめんどくさい。しかるに、そうしためんどくささをいくばくなりとも軽減するため、本にじかに書きこみできるようになりたいわけです。

あと目標と言えば、まあ言わずもがなですが、博論の完成、ですね。がんばります。
傾向によって人びとのよろこびやくるしみを語るのはよそう。

よろこびやくるしみというのは、それぞれに絶対的に固有なものであるから。
食べもののおいしそうなにおいをかいでふと笑顔がこぼれるとか、そんな。
書きたいことはいろいろある。でも、書きたいことをちゃんと書こうとするとそれなりに時間がとられてしまう。ざんねんながら、いまのぼくにはそういういとまがない。さりとて、ふと思いついたこと感じたことを書くには、ブログという媒体はおおげさすぎて、結果、ブログの更新が滞る。どうしたものか。
「いっちょルーマニア語をちゃんとやってみようかな」という言を実行に移し、ちょこちょこルーマニア語を勉強しているのだけど、その勉強の一環としてシオランをルーマニア語で読んでいる。それで、シオランのルーマニア語原文を読んでは「答え合わせ」のような感じでそのフランス語訳を読むと、ルーマニア語原文とフランス語訳で異なる部分がけっこう目につく。例として、シオランの最初の本である『絶望のきわみで』の劈頭におさめられている「リリカルであること」のルーマニア語原書1ページ目と、その部分に該当するフランス語訳を、以下に訳してみる(訳にさいして、ルーマニア語原文とフランス語訳のちがいを埋没させないため、あえて直訳をこころがけた)。
世界がどうあるかということが神秘なのではない。
世界があるということ、それ自体がそもそも神秘なのだ。
(ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.44 節)

「うそのようなほんとうのこと」──いくら考えても思いうかばない。これはたぶん、「世界」というものをそもそも「ほんとうのようなうそ」と受けとってしまう「くせ」のようなものが、「うそ」と「まこと」のあわいをにじませ、結果、「うそのようなほんとうのこと」を思いうかばなくさせているのだと思う。

正確にはいつのころかは忘れてしまったけど、小学校に上るまえには「言葉が通じない」という可能性に怯えていた。「言葉が通じない可能性に怯えていた」と言っても、「ある言明が誤解されて受けとられる」という個々具体的な言明に依存するような「通じなさ」に怯えていたのではない。そうではなく、「そもそも言葉で何かを伝えるというのは不可能なのではないか」という普遍的な「通じなさ」の可能性、ちょっと賢しらな言い方で言うと「コミュニケーションの根源的不可能性」、そんなものに怯えていたのだ。

そういう「言葉の通じなさ」から、つぎのような「世界の受けとりの不定性」まで、道のりはそう遠くない。たとえば、ある人が A というもの/事象を見て B という感覚印象を受けとり、それを C として表すとする。そのとき、ぼくがその A について B'(ここで B≠B' とする)という感覚印象を受けとり、それを C と表すとするならば、そのある人とぼくのあいだでは、世界の感受および表出について食いちがっているにもかかわらず、話は食いちがうことはなく、さらには、「じつは世界の感受とその表出がきみとぼくとではちがっている」ということの立証も、ほぼ不可能に近い。

「うたがいの道」はさらにつづく。上の例では、「世界」や「きみ」の存在はうたがわれてはいなかった。でも、「きみ」や、さらには「きみ」やぼくが住まうとされている「世界」はぼくのたんなる妄想で、ほんとうは「世界」や「きみ」なんてものは存在しないのかもしれない。こういう「うたがい」は、ぼくぐらいの世代だと「ドラえもんは植物人間になったのび太の夢の産物だった」という都市伝説や、あるいはそれなりに最近だと映画『マトリックス』の設定などによっていっぱんにもよく知られるところになったとは思うけど、それをどれくらい真正面から受けとるかは、人によって差があるだろう。

ぼくは、そういう「うたがい」を、真正面から、もろに受けとってしまった。もちろん、日々を暮らすなかで、そうした「うたがい」が前景化されることはあまりない。それでも、日々の後景で、それら「うたがい」がうごめくのを感じる。いや、もし「世界」が存在しないとすれば、「後景」なんてものも存在しないだろうから、目に映る(とぼくには感じられている)「世界」のすきまから「漆黒の無」がちらちら顔をのぞかせているのが感じられる、と言ったほうがいいかもしれない。とにかく、そんなわけで、「生きる」ということはぼくにとってはどこかよるべないこととしてある。

だから、もし「世界」がほんとうに存在し、そして「きみ」とぼくがほんとうに分かりあえているということが証だてられるのだとしたら、それこそ「うそのようなほんとうのこと」なのだけど、そんな日はいつまでたっても訪れそうにない。
おれは、哲学はそれほど好きではなかったんだな、ということ。

そして、ほんとうに好きなのは数学だったんだな、ということ。
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