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つまりは、ぼく、インチキくさいってことですか?
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ぼくは、自分のことを偏頗であると思っているけど、だからといって自分がきわだって特殊であるとは思わない。誰もがそれぞれの仕方で偏頗であり、ゆえに、誰もが特殊であるのであってみれば、偏頗であること、そして特殊であることはふつうのことだ。
ぼくは、文章を読むことのみならず、文章を書くこともそうとうに不得意なので、文章を書くときには修飾辞の位置や助詞をとっかえひっかえしているのだけど、そういうことをしていささかなりとも文章が分かりやすくなったという感じはしないので、文章を書くときに修飾辞の位置や助詞をとっかえひっかえするのはむだな努力であるようにも思われる。(ただ、ひるがえって思うに、ぼくが(論文以外の)文章で重きをおいているのは、「分かりやすさ」というよりも「読んで(あるいは、見て)感じる響き(あるいは、印象)の心地よさ」であるような気もするので、そういう意味では、自己満足ではあるかもしれないけれども、修飾辞の位置や助詞をとっかえひっかえすることもむだではない、とも思う)
それが、世界をよくするためには重要なんじゃないかと思っている。(もちろん、具体的な実践も大事なのは言うまでもありませんが)
そういうものも存在するとぼくは思うのだけど、そう思うこと自体フェミニズム的観点から批判の対象になるのかな。(もちろん、そういう(おそらくは男性側から一方的に判断された)「よさ」がかりに存在するとして、そして、その「よさ」が女性が女性であることによって受ける不当な不平等(「不平等」というのはいつだって不当なものなのだから、ここで「不当」という修飾辞はほんとうは不要なのだけど、女性が女性であることによって受ける不平等の不当さを強調するために、あえて)とかちあってしまう場合、(おそらくは男性側から一方的に判断された、そんな)「よさ」なぞ捨てるべきとは思う)
ぼくは、自分の偏頗さを鮮明にせんがために、あえて棘のある言い方をすることがままあるのだけど、そういう「棘のある言い方」というのは、ぼくの偏頗さなどいっさい伝えはせず、「いやな感じ」だけをそれを読む人に与えているのではないかという可能性に思いいたったので、以後はなるべくそういう棘のある言い方はひかえようと思う。(あるいは、自分の偏頗さを鮮明にせんがために棘のある言い方をしたあとには、「ぼくの偏頗さを表すためのレトリック」という注釈をいちいち付けるのも手かとも思うけど、それはそれで別種の「いやな感じ」を読む人に与えそうではある)
ぼくは、みっつのボールペンをつかっている。ひとつは、いかにも「ボールペン」といったやや粗い書き味のもので、これは帳面用。ひとつは、やや太めの、水っぽい書き味のもので、これは計算用紙用。もうひとつは、やや細めの、水っぽい書き味のもので、これはノート用。いずれも見た目がとても似ていて、「計算しよう」というときにたとえば帳面用のボールペンを手にしてしまうこともしばしばで、ゆえに、つかうボールペンを一本にまとめられたらな、と思う。でも、そのためには、帳面と計算用紙と、そしてノートの紙質をそろえる必要があるのだけど、帳面と計算用紙と、そしてノートをそれなりの量まとめ買いしてしまっているので、それもなかなかむずかしい。人生うまくいかないものだ。
ぼくはナショナリズムについてとりたてて思うところはないけれど、それでも、たとえば日本人が日本人であるというだけでスポーツなどで日本人を応援するという心性はまったく理解できないし、さらに、国家単位で争われる「代理戦争」としてのスポーツの大会などはそれがテレビに映っているだけで苦痛を覚えてしまう。その一方、反ナショナリズムを標榜する人たち(あるいは、標榜まではせずとも、反ナショナリズムに親和性を示すような人たち)が代理戦争としてのスポーツ大会をよろこんで観戦し、あまつさえ自国のチームを応援したりしている。その、理論的なけじめはどうなっているのか、ちょっと気になるところだ。

【追記】誤解をあたえるおそれがあるかもしれないので絮言しておきますが、誰かが理念として国家主義(あるいは反国家主義)を掲げようが、国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしもうが、さらには、理念として反国家主義を掲げつつ国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしもうが、そんなことは個人の勝手だと思っています。つまり、それらの理念や趣味にかんする一般的な価値判断、言い換えれば、「どちらかの立場こそが正しく、他の立場はまちがっている」という判断はここではなされていないし(そもそも、いっぱんに、趣味判断を「正しい/まちがっている」という価値判断の俎上に上せるには、かなりの前提が必要です)、ゆえに、理念として国家主義(あるいは反国家主義)、国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと、さらには理念として反国家主義を掲げつつ趣味として国家単位で争われるスポーツの大会をたのしむことがここで批判されているわけではないのです(いや、「理念として反国家主義を掲げつつ国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと」にかんしては、じゃっかん批判的なまなざしが向けられているかも、ですが)。ただ、「理念として反国家主義」と「国家単位で争われるスポーツの大会を趣味としてたのしむこと」はひじょうに食い合わせがわるいように思われるので、もしそれらひじょうに食い合わせがわるいと思われるふたつの立場を統合する立場が存在するとすれば、それはどのようなものかが理論的な興味としてちょっと気になった(そして、やや少しそれらの立場を統合する立場を考えてみて、「これはなかなかの難問だぞ」と思った)だけの話です。

【さらに追記】そもそもぼくがこのようなエントリを書こうと思ったのは、ある人が「趣味的には好きだけど理念としては認められない」というものをすべて処分したということを知り、「それはりっぱなもんだ。でも、おれにはとてもできないな」と思ったからで、つまり、理念と趣味とのあいだでの相克に面したときの身の振り方ということが主題としてあり、そして、そういう相克があった場合、「理念を捨てて趣味を取る」というのも、それはそれでひとつの判断だと思ういっぽう、理念と趣味が軋みをあげてもそのことにはほうかむりして両方を保持するというのは「なんかずるくない?」と思ったからなのだった。
バルト=ピカール論争が思い出されるんですが、その経緯や顛末をまとめた本ってないんですかね? バルトとピカールのそれぞれのラシーヌ論と、ピカールの『新たな批評か新たな詐欺か』およびバルトの『批評と真実』を読めばそれで事足りるとは思えど、第三者的な視点から書かれたものも読んでみたいのです。(ぼくが読んだことのある範囲では、ブルデューの『ホモ・アカデミクス』にバルト=ピカール論争についての記述がそれなりにあった覚えがあるけど、もうちょっとジャーナリスティックに書かれたものがいい)

あと、ぜんぜん関係ないですけど(いや、「ぜんぜん関係ない」こともないかな)、バルト=ピカール論争というと、ぼくは反射的に花田=吉本論争を想起してしまいます。
風景はすべてブラックメタルのジャケットとなる。
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